日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

岩崎淑というピアニスト・カロローザの演奏会

2013-10-27 17:47:45 | 日々・音楽・BOOK
「雨降って地固まる」とは言い難い昨今、今日は晴天、ひんやりとした秋日和である。この見事な羊雲を撮ったAKは昨朝、山形(寒河江)経由で仙台行き、晴れ女だったのに雨女といわれるかなあ!と気にしていたが、今日は仙台でも深い秋日和だろう。

雨の昨日、浜離宮朝日ホールへ出かけた。
岩崎淑さんから案内を戴いた「カロローザ第50回記念特別演奏会」を楽しむのだ。
小田急と都営大江戸線を乗り継いでの、ディック・フランシスと子息フェリックス・フランシス共作の第2段「祝宴」を読みながらの車中、無論イギリスの競馬との関係物語だが、主人公のモアトンはオーナーシェフ。でも奇妙に縁があると思ったのは相方・魅力的なキャロラインがビオラ奏者だったことだ。彼女はヴィオリストになったことについてこう言う。
「ヴィオラの甘美な音色に比べると、ヴァイオリンの音色は金属的なの!」。

プログラムの冒頭は、民谷加奈子のヒンデミット「ヴィオラとピアノのためのソナタ」。弦が切れるアクシデントがあったが勢いのある見事な演奏、民谷は何故ヴィオリストになったのだろうとキャロラインの一言を思い浮かべながら聴いていた。

初めて聞く名を聞いたロシア生まれの音楽家アレンスキーのピアノ三重奏第1番の第三楽章「非歌」にはグッと来てちょっぴり涙ぐんでしまった。後でプログラムを読むと、亡くなった教え子の名チェロ奏者への追悼の思いこめられていると書かれているが、そのしみじみとした想いの深い演奏だった。

魅力的な演奏が続いたが、圧巻は、尾西秀勝がラベルのバレエ音楽「ダフニスとクロエ」の後半部分を編曲(作曲といってもいいのかもしれない)した、4台のピアノを8人で弾いた(連弾:80本の指でとプログラムに書かれていて言い得て妙と思った)演奏だった。男性4人女性4人が入れ替わる演出もあり、岩崎淑さんからのメッセージは「尾西君はこれを機に作曲に演奏に邁進して欲しい・今日の公演は尾西君にとってのはじまりの音楽だ」という心のこもったものだった。尾西は、仙石ニューホールの館長も勤める俊英である。演奏の終わった後、演奏者が尾西に向いて大きな拍手を送っている様に心が打たれた。

そして淑さんがピアノを弾くドボルザークの「ピアノ五重奏曲イ長調op.81」は正しく大人の演奏、円熟・豊饒だった。緩急自在に、それを意識させることなく牽きこんでいく師岩崎淑を凌駕するでもなくついていくでもない4人の変幻自在の演奏に堪能する。そこに身をゆだねながら、僕は何を考えていたのだろうか!

カロローザの会は、岩崎淑に縁のある(岩崎淑門下とも言える)音楽家220人ほどのメンバーのいる音楽家集団、発足後32年になるという。淑さんとの出会いは「カザルスホール」の保存を目指すシンポをコーディネートしたことに始まった。数多くの音楽会にお誘い戴いたし、レーモンドの設計した高崎の音楽堂存続をテーマとしたシンポジウムにも、鈴木博之教授などと共にパネリストとしてお話いただいて、レーモンドがデザインしたというピアノで子犬のワルツなど弾いて頂いたりした。

公演のあとロビーで挨拶をする。2回の休憩をはさんで3時間半の饗宴、笑顔の淑さんの一言は「疲れたでしょう!」。

<文中敬称略>

長崎市公会堂」を残したい・『さるく&トーク』へ

2013-10-23 12:17:13 | 建築・風景
僕の父方の実家のある長崎市の中心地に建つ、長崎市出身の建築家、早稲田大学教授だった武基雄の設計による「長崎市公会堂」の存続が、危ぶまれています。
この公会堂は、原爆復興を願った市民の思いを込めて1962年(昭和37年)に建てられた武基雄の代表作でもあり、DOCOMOMOでも選定した長崎を象徴する建築です。公会堂の前にある大きな広場は、「おくんち」に欠かせない市民の広場でもあります。多くの方々と一緒に館内を見学し、この公会堂が長崎市にあることを、会場の方々と共に語り合いたいと思います。是非お出かけくださいますように!

ナビゲーター
渡辺 満(早稲田大学武基雄研究室・長崎市公会堂設計担当)
兼松紘一郎(DOCOMOMO Japan名誉会員)
林 一馬(長崎都市遺産研究会代表・長崎総合科学大学教授)

<参加費無料・でも、なるべく事前申し込みをお願いします。e-mail:kokaido.nagasaki@gmail.com>

槇文彦を囲んだ「新国立競技場案」についてのシンポジウム(2) 仮設付加案提言は!

2013-10-19 16:14:42 | 建築・風景

この地域の大半が風致地区に指定されていて、場所にもよるが高さの制限は15メートル。槇文彦は今回の計画案が提示された新国立競技場の隣接地千駄ヶ谷の駅の前に、東京都体育館を建てた(1984年)が、提示された高さ制限は28メートルだったとのことだ。
テニスや全日本卓球、バレーボールの試合に馳せ参じるなどこの体育館には数え切れないくらい通った。またJIAに出かけるときは、槇が考察したこの地域性と既存町並みに配慮し、地階に施設の半分を設置したと言う人工地盤の上を通り抜けて通っている。

神宮球場と秩父宮ラグビー場の間に、TEPIA(機械産業記念館)を建て、都の体育館の向かいに津田ホールをつくるなどしてきた槇の、一老建築家がこのようなエッセイを書かなくてはならなかった背後にあるこの地域の歴史的文脈・風土を少し皆で考えたいと慈しむように語るその姿に、心が打たれる。
それを受けとめたパネリストの諸氏の論考は、その槇の思いを様々な視点から実証することになった。

槇が情報コントロールがなされたのではないかとの懸念の一つに、この地の歴史的文脈にあえて触れず、都市計画審議会が高さ制限を15メートルの5倍、75メートルにした不自然さにもある。オフィスビルに換算するとほぼ20階建ての巨大な塊が周辺を威圧することになるのだろうか。 
東京都体育館の裏面に覆いかぶさるように建つことになるこの新国立競技場の様がどうも現実とは思えない。

総合司会の元倉真琴が会場に質問を受けると挙手を求めた。僕は一言聞いておきたいことがあったが満席の後ろだったので手を上げ得なかった。
槇のエッセイに、「9月20日以降」と小見出しのある提言について、槇をはじめとして誰一人触れなかったからだ。

槇はこう書いた。「50年後の東京のこの地域にふさわしいスケールと内容を持ったスケール」にし、17日間の祭典のためにはそこに仮設のスタンドを添えればいいのではないかとの提言である。ロンドンの場合は、当初から本設2,5万人、仮設5,5万人のスタンドとされていたという。

現在の国立競技場を僕は嫌いではない。今はちょっぴり人気が衰えているが、勝ち上がってぶつかる早明戦、いうまでもなくラグビーである。
僕たち明大OBは明早戦と呼称するが、後輩がチケットを取ってくれたり、数年前に亡くなった早稲田に学んだ弟と一緒に一種に観戦し、やられた明大をくそみそに言うものだから喧嘩別れをしたことがつい最近のように、妙に懐かしく思い出されるのだ。
このまだ建っている競技場は、高さも程よく抑えられていて違和感なくこの地に馴染んでいる。

槇文彦は最後に詰め掛けた報道陣に対して、ぜひ大勢の人たちに今日の私たちの思いを伝えて欲しいとお願いをした。
仮設スタンド併設案を進行役の古市から槇に投げかけるとか、会場からの発言者が触れたら、プレスも報告しやすかったのではないかと残念である。何せ僕のとっている朝日新聞では、JIAマガジンの槇の論考については槇にヒヤリングしてその趣旨を掲載したが、この日のシンポについては槇の名も記載せず、数行の報告記事に終わっていてどうしたことかと思ったものだから。
(後日談:朝日のデジタル版では少し長い報告がなされていたと知人から連絡をもらった。なにせ僕はアナログニンゲンだからね!と談笑したものだ)

もう一言だけ付け加えておきたい。この僕のブログの7月15日の項に、『歌舞伎座:「襲名」という概念と、新オリンピック競技場』と題してJIAで講演を戴いた鈴木博之教授の報告を記した。
このコンペの審査を担った鈴木博之は、会場からの質問に対して、ザハの案が他の案に対して圧倒的によかったのだ、と述べられたことを僕は重く受け留めたのだ。(文中敬称略)

槇文彦を囲んだ「新国立競技場案」についてのシンポジウム(1)

2013-10-13 14:51:05 | 建築・風景

10月11日の夕刻、日本青年会館中ホールで行われた「新国立競技場案を 神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」と題したシンポジウムに出かけた。

7年後に行われる東京オリンピックのために(コンペ時点では、東京開催が決まっていなかったので、オリンピック開催を目指してと言い換えたほうがいいかもしれない)、国際コンペを行い選出された巨大なザハ・ハディトの「新国立競技場案」に対して、槇文彦がコンペ要綱自体とこの提案について疑念を持ち、JIAの機関誌「JIA MAGAZINE」8月号に寄稿されたエッセイ(論考)が建築界に大きな波紋を投げかけて急遽開催されたものだ。

僕は開催時間のほぼ1時間前に会場に出向いたが、既に入り口の階段にずらりと人が並んでいて渡された整理券のナンバーは199番。会場に入ると350席とされた座席の大半が埋まっていて、後ろのほうの通路側に腰掛けた。前の座席に植田実夫妻など数名の知人がいる。
座れなかった大勢の人が会場の三方の壁に2列に立ち並び、近くのJIA会館のホールで配信された映像を公開する会場も満席になって入れなくなったと開催の前に伝えられて、会場がざわついた。TVカメラが数多く羅列し、報道陣も多数会場につめかけてくれたようだ。

パネリストは、建築家槇文彦、建築史・都市史の陣内秀信法政大学教授、社会学者宮台真司首都大学教授、建築家・大学東京教授大野秀敏、進行役(コーディネーター)を担う.JIA MAGAZINEの編集長・建築家古市徹雄千葉工大教授で、総合司会は槇総合計画事務所OBで、槇の設計したヒルサイド・テラスに事務所を持つ東京藝大教授の元倉真琴である。

槇文彦の論旨は、JIA(日本建築家協会)のHPで上記「JIA MAGAZINE」8月号を検索すると検証できるが、このシンポジウムで槇がさりげなく述べた下記一言が気になった。
国際コンペであるにもかかわらずこの地域の持つ歴史的文脈の説明がなく、模型提出も求めず、人の目線で見るパース(透視図)の要請もないコンペ要綱、また得た建築賞を列記するなど新人建築家への道を開き難い応募資格などをみると、要綱を策定した組織に対して、意図的に「情報をコントロールする操作がなされたのではないか」との懸念である。~文中敬称略~ (以後次項)


愛知芸大音楽部新校舎竣工記念式典で

2013-10-06 14:33:29 | 建築・風景

妻君を車に乗せてひたすら東名高速を走った。
ほぼ一月前になる9月3日の早朝、すこし時間が掛かるかもしれないと思ったが、山中を通り抜ける新東名には入らず、時折海岸添いを走る旧道!を選ぶ。路面は荒れているが海を見たい。愛知県立芸術大学音楽部の新校舎完成の式典に出席するのだ。
車を使ったのは、行く機会がつくれなかったさほど遠くない、坂倉準三が故郷に建てた岐阜羽島市庁舎に行ってみたかったからでもある。そして名古屋に足を留める。

新校舎は日建設計の設計によるもので、担当したのは故林昌二肝いりの掛川市庁舎や、名古屋駅の前に建つスパイラルタワー(モード学園)などの話題作を担当した俊英・若林亮である。
急傾斜地に建てることになったためにつくられた高さを抑えた渡り廊下などに、吉村順三の理念を引き継ごうとする若林の思いを感じ取れる。
このキャンパスの耐震改修を軸としたキャンパスのあり方を検討する委員会が設置されたが、設計をした東京藝術大学の吉村順三や担当した奥村昭雄の構築したキャンパス構成が損なわれると、愛知芸大の卒業生の一部や、東京藝大のOBから反発がなされ、一時騒然となった。
音楽部校舎の新設についてはその余波を受けてその計画対して反論がおき、さらにこのキャンパスを取り巻く生態系が壊されるとの反発が起きたりしたものである。

僕は2年ほど前から、西沢泰彦名古屋大学(名大)准教授を引き継いで、このキャンパスの建築群のあり方を検証する委員として会議に出席している。そういう中で新築された新校舎である。
室内楽ホールで行われた式典には、大村秀章愛知県知事などが参加され、僕は委員会で一緒の谷口元名大名誉教授の隣に案内された。しばし小声で談笑する。
式典の後、学生による記念演奏を聴く。モーツアルトのピアノ、クラリネットとビオラによる三重奏曲(k498)とシューマンのピアノ五重奏曲(作品44)である。この小ホールでの初演奏だ。

式典のあと、委員会の委員長を務めるデザイン学科の水津准教授と新校舎を歩きながら語り合った。
「ちょっと音がねえ!」こんなものでしょうか?と問われて僕は、音が若いですよね!と訳知りのように述べた。実感なのだが、御茶ノ水の「カザルスホール」の保存問題に関わってシンポジウムをコーディネートしたときに、日本の音響工学を率いた永田穂氏から音の真髄をお聞きしたことが念頭にあった。

使い続けないと音が駄目になる、そして使い続けていくとホールの音が練られて豊饒に鳴るようになるという一言である。このホールの壁は傾斜されていて、角材が隙間を空けて大胆に立ち並んでいるのだ。

ところでこの新校舎のこのキャンパスにおける位置づけをどう捉えればいいのかと言う考察は、これから時折委員会の開催時にこのキャンパスを訪れることになるので、繰り返し歩き、また使われている状況を視てから述べることにしたい。<文中敬称略>