日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

DOCOMOMOの京都(2) 京都国際会館で建築技術を語る

2008-05-28 19:24:11 | 建築・風景

今回のDOCOMOMO京都大会の嚆矢(こうし)は総会の翌日行われた、32編(32人)による技術専門委員会(DOCOMOMO Japan NSC Technology)での研究論文発表だった。

発表会の前日、京都会館(前川國男1960)での総会の前に行った『モダンムーブメントの技術~素材と空間』と題するシンポジムに先立ち「技術によって建築が変わるとはいえないのではないか?」と鈴木博之DOCOMOMO Japan代表の大会開催挨拶の時投げかけた問いに皆戸惑った。
続いて行ったシンポジウムでは、「そうとも云えるし、そうでもないとも云える」と困惑的なメッセージを述べた方がいたりして、パネリストたちはこの問いにこだわった。
建築とは何か、時代や社会とはなにかという命題を突きつけられたとも云えるからだ。応えなくてはいけない。

このテーマは面白いと思った。鈴木博之教授(東大)のほか、石田潤一郎(京都工繊大教授)、松村秀一(東大教授)、西澤英和(関西大学准教授)という歴史研究者、工法の研究者、構造研究者という興味深いパネリスト構成。少々野次馬根性的だがさてどんな答えが出てくるか。僕はといえば鈴木教授の論考に実態感を覚えていた。

鈴木教授が述べた視点や論旨とは違うかもしれないが、僕はふと二つのことを考えた。
一つは、建築を変えたのはつくらせるサイド、つまり経済。云い方を変えれば「利潤の追求」が建築を変えるのだ。ファッショナブル建築を望む依頼者がいれば建築家はそれを諾と受け止め、利益を得るための超高層化が求められたので建築家は技術を追求した。
建築家の夢と新しい技術に対する想いは同じ建築家としてイヤと言うほど解るし、まあそういう皮相な視点でのみ建築や社会を考えてはいけないと思うものの、一言云ってみたいのが今の僕だ。

もう一つは、技術を信頼していいのかという問題である。
僕の学生時代、コンクリートは最強不変で、黙っていても100年は持つと教わった。そして僕は素直にそれを信奉した。文化庁の方から、でもね、「コンクリートは木より弱いのですよ」と言われて愕然とし、目が覚めた。この世界ではそれは当たり前だったのだ。それがなんとも情けないことにほんの数年前(まだ10年にもならない)のことだ。

考えてみたら高度成長期(1950年代後半から70年代の初め)に建てた建築存続の大きな課題が構造なのだ。如何に少ない構造体で機能を果たせるか。経済と美学が一致した時代だった。
しかし絶対100年はもつと思った建築が地震で倒壊した。僕達建築家は技術を信頼して建築をつくる。しかし!
モダニズム建築大好き人間の僕は考え込む。
人間はオールマイティではない、ということを肝に銘じるだけでいいのか!

なんとなく釈然としないまま、研究論文発表聴講に望んだ。ところが思いがけず面白くて刺激を受けた。
一度も質問しなかったが,古寺の(モダニズムではないなあ!)耐震改修報告で、鉄骨による補強実施例にこれでは木造でなくなってしまうという違和感。今の時代の技術ってそういうものかと疑念が湧くが、変にオーセンティシティ(原初性)にこだわって、改修したところがわかるようなおかしなデザインを付加するよりましか!などと思ったりした。
でも発表者からは、取り付けた鉄骨が見えないからいいのだというあっさりした説明があると、そういう言い方はないだろといいたくなる。これは若い世代に技術を伝える指導者に考えてほしい。

オランダのプレキャストコンクリート版による共同住宅の改修で、この工法で建てられた建築は修繕ができなくてパネル交換しかなかったという報告があった。なるほどと納得する。パネル交換が出来るように工夫する。
建築が生き続けていくことと、つくることの課題を改めて考えさせられた。奇しくもこの発表者は、日本に留学している女性で、DOCOMOMOらしい国際会議になった事も嬉しい。概要通訳をしてサポートした指導している橋寺和子関西大学准教授の明快な解説に、知的好奇心(かっこ良い言い方だ)が掻き立てられる。DOCOMOMOってやはりいいではないかと嬉しくなった。

来年度、国際Technology会議を開催したいと技術専門委員会は言う。やろうと先週の会議で、多少門外漢の僕だが、勢いよく、いやぼそぼそと述べた。やることが沢山あるのでちょっぴり逡巡した。

総会で議長をやった僕は、来春にはソウルを中心とした韓国建築ツアーをやりたいと投げかけた。僕の心が震える韓国のモダンムーブメント、つまり近現代建築が沢山あるのだ。かつて日本租界のあった仁川には、DOCOMOMO Koreaの代表に就任した尹(ユン)教授のかかわった近代建築博物館がある。Book Cityもある。何より僕の心がうたれる「金寿根」さんの建築群を見せたい。そして白井晟一の心を捉えた宗廟がある。

今年は難しいかもしれないオランダへの巡回展も、もしかしたら来年の日本オランダ友好年にちなんで実施することになるかもしれない。
やりたいことと、やることが山済みだ。ちょっとやけっぱちだが、やることはやろう。
問題は、いささか心もとなくなってきた体力と気力の持続だけど!

<写真 DOCOMOMO技術委員会研究発表会を行った国立京都国際会館(大谷幸夫1966)>

DOCOMOMOの京都(1)デルフト工科大学建築学科校舎の火災

2008-05-23 18:10:52 | 建築・風景

オランダのデルフォト工科大学建築学科の校舎が、5月13日に全焼した。
DOCOMOMOを提唱したヘンケット教授が在籍していた大学で、9月にロッテルダムで行われるDOCOMOMO世界大会の事務局がある。大会にあわせてこの校舎で2000年に行ったDOCOMOMO Japan20選(+105選)巡回展をやりたいという要請を受けていて、日本のモダニズム建築の姿を伝えるいい機会だと開催の検討をしていた。

日本サイドの窓口になった京都女子大の北尾准教授に来た、生々しい火の出ているリアルタイムの写真に衝撃を受けた。大会事務局の資料やデータは持ち出せたので大会は開催すると伝えられたが、大学が所蔵していた膨大な書籍や、コルビュジエやミースの原図が失われたと連絡が入った。
原因はスプリンクラーが故障して流れた水による漏電とのことだが、倒壊の危険があり踏み込めない状況だとも伝わってきた。あっという間に全館に火が回ってしまったのは怖い。Japanからお見舞い状を送ったが、建築学科の再興など大変なことだろうと胸が痛くなる。

中国四川の地震災害にも心が痛む。苦しむのは庶民だと、報道される映像を見るたびに心が騒ぐ。
昨日のテレビで、防衛装備品調達汚職事件の証人喚問で、情報公開を否定した与党が審議出席を拒否したと伝えられた。公開され、質問されては困るのだ。裏に何があるのかと肌寒くなる。ところが新聞には与党欠席が書かれていない。これも気になることだ。

物をつくる喜びを萎えさせる国交省の建築界性悪説にも暗澹たる思いがある。同じように、建材などのそれも大企業の偽装報道もされており、そのどれもが日常化されて、いつの間にかそんなものだろうというような冷めた空気に包まれていく有様に、どうしようかと落ち着かなくなる。
こういう事態の中で、ブログとは言え、得々と文化論を書いていていいのかと思うことがある。だから書かなくてはいけないとも思わないではない。とりあえず前を向こう。

DOCOMOMO Japanの京都大会は、聴竹居の見学から始まった。
前川國男の京都会館、大谷幸夫の京都国際会議場の見学も行い、無論改めて観たどの建築にも建築家として感じるものがあるが、伊藤忠太のつくった小さな奇態な彫刻が玄関先で僕たちを迎えてくれる聴竹居見学には、ちょっとした好奇心があった。さて彼がどう見るか?

藤井厚二が1928年(昭和3年)大山崎の自分の土地1万坪に、実験住宅として建てたこの住宅を見たくて、DOCOMOMOに入会した方がいる。
見たいと相談があったときに、この人が!と思ったが見たかったら入会してくださいよと冗談交じり言ったところ即座に入会してくれた。たとえば京都国際会議場の、コンペなのに詳細な描き込みをした驚くべき矩計図を描いてしまう建築家だ。その建築家がこの住宅をどう視たか?
「どうしようもない。凄い」

そうなのだ。僕はこの住宅を訪ねるのは3回目。
8年前、神戸の芸工大教授連と京都工繊大教授連が見学するというので、新幹線に飛び乗った記憶がある。そして見るたびに不思議感に捉われる。その当時銀色のオペルに乗って京大に通った(教授として)藤井厚二という建築家のダンディズムが凝縮されている。

有機的建築と定義されるF・Lライトの持つ空間構成と、マッキントッシュに影響を受けた、いや実験住宅だから試みた、そうではなくて「自分の作品としてつくった」と言ったほうがいいのかもしれないディテールとその肌触り。自然環境を考えた設備構成を実験したとも言われるが、無論それだけではない。
理屈はともかくいい建築なのだ。

<写真 木々に埋もれた聴竹居>・<デルフォト公開大学建築学科校舎の火災は当初15日と記載しましたが13日でした。原因についても様々な情報が飛び交っているようです>


京都の隠れ家`うたかた`で春の夢を語る

2008-05-18 14:44:12 | 添景・点々

先週末京都に旅した。
二日間にわたって行ったDOCOMOMO Japanの、総会へ参加し技術専門委員会(DOCOMOMO Japan NSC Technology)の研究発表を聞くために出かけたので、旅とはいえないかもしれない。

でも一日早く行き京都を散策した。やはり旅をしたのだ。
同行したのは、親しい建築家澤一郎さんと藤本幸充さんだ。スキンヘッドの藤本さんは、彼が(僕もだけど)神格化している建築家白井晟一の面影を求めて高山寺へ足を伸ばした。僕と澤さんは彼と銀閣寺で会うことにした。僕たちにとって欠かすことのできない4畳半草庵茶室の原点「同仁斎」が公開されているのだ。
丸太町十二段屋で、飾ってある河合寛次郎の壷の姿を楽しみながら、お昼の茶漬けを食べた後、娘が見てこいという細見美術館で若冲と北斎を堪能した。大江匡の設計による建築で、僕たち建築家にとっては馴染みなのだ。この建築にも、その展示作品にも訪れるたびに感じるものがある。

終点銀閣寺でバスを降りた。
目の前の「橋本関雪記念館・白沙村荘」に誘われるようにふらふらと迷い込んだ。関雪はこの庭を「石も木も呼吸している」と述べている。そして水が密やかに流れ苔も生きている。この庭を発見したと思った。アーア!と溜息が出るのだが、この発見に時間を忘れ、「同仁斎」を見損なった。特別拝観は、3時半で締め切ってしまうのだ。まあそんなものだろう。旅は!僕の人生も。
銀閣寺の後は、哲学の道をぶらぶらと歩いて緑に囲まれたCafeで、コーヒーとガトーショコラを味わい、法念院に向かった。京都の社寺で僕が一番好きなのがこの山門なのだ。スキンヘッドが言う。「参道が直線ではない。あえて途中で角度をつけている。結界を意識させる」。石を敷いたその角度がシャープでモダンだ。これだ、僕の京都の旅は。

「人生は旅だ」と言って引退したサッカー選手がいる。多くの人の共感を得たが僕は違和感を覚えた。多分僕は、30歳を過ぎたばかりの男に「人生は!」といって欲しくないのだ。その男は30年で、僕の60数年を生きたのか。いや時間は誰にとっても同じはずだ。得たものがあれば、その分だけの得られなかったものがあるはずだ。
旅は自分のものだけど、夜を徹して多くの人と旅を語り合ってみたい。語るにそれにふさわしい場所、それを`隠れ家`というのかもしれない。

法然院のあと、寺町の平安画廊で行われていた新潟の版画家小林春規さんの個展を覗いた。小林さんは、若き日の20年間、京都で表具師の元で修行して仕事をし、木版画に没頭した。故郷に戻って家を建て表具屋「竹穂堂」をつくった。長男に表具の技術を教え、一緒に仕事をしている。
平安画廊には、会期中、毎日沢山のかつての仕事仲間が集まるようだ。話が弾んでいる。飛び入りのような僕たちを、小林さんが大徳寺に近い「うたかた」に案内してくれた。北区紫竹西桃ノ本町のひっそりとした一角に、ほんのりと灯りがともっていた。

低くて幅広いカウンターがあってお客さんが談笑している。僕たちは奥の畳の部屋のちゃぶ台の前に座った。その奥が中庭だ。京都だと思った。人肌の酒で乾杯した。酒は秋田の高清水。うまいのなんのって!

小林さんの仕事仲間が来た。先ほどの画廊で挨拶を交わした表具師だ。散歩してはったんですってと女将が言う。この夜に散歩?と思ったら、はしご酒だった。格好良い言い方をするんだ、とそんなことがなんともうれしくなる。はにかむ表具師と盃を交わす。
鯖を糠漬にした臭みのある「へしこ」が酒にいい。昔保存食として工夫されたそうだ。ソーメンを暖めた「煮うめん」も味わいが深い。何より女将のはんなりした言葉と、笑顔に惚れた。それにリーズナブルだ。ああ、ここは僕の「隠れ家」だ。

ぞっこんになって、翌日のDOCOMOMO総会の懇親会の2次会にまた`うたかた`を訪れた。ちょっと声を掛けたら13人になってしまった。菊竹清訓さんの番頭・遠藤勝勧さん、篠田義男夫妻、松隈洋さん、若手歴史研究者の倉方さん、それに早稲田の女子学生Wさんもいる。ぎゅう詰めになったがそれはそれで楽しい。帰りのタクシーに乗るときに、女将の手がそっと僕の肩に置かれた。春の夢だ。

<女将の許可を得たので写真を掲載します>


神奈川県立近代美術館100年の会 活動再開にむけてHPの更新

2008-05-06 16:19:17 | 建築・風景

神奈川県立近代美術館100年の会(略称 近美100年の会)を設立してから8年目を迎えた。
過ぎてみるとあっという間だが、やはり7年という年月は長い。7歳年を取るというだけでなく、いろいろなことがおこる。

大勢のメンバーと様々な活動をしてきたが、この会の活動の中で、とりわけHPの果たしてきた役割は大きい。
WEBマスターを担ってくれた本間義章さんが、所属していた神奈川大学を退任し、彼を支えていた大学院生も卒業した。社会に出ると、なかなか活動する時間がつくれなくなった。本間さんは、日大の大川三雄研究室の院生と共に、会報の編集も担当してくれたが、日大の学生も卒業した。こういう組織の継続的な活動は難しい。でも何もやっていないということでもない。
本間さんが退任してから数年を経た昨日、やっとHPを更新できた。本間さんの構築した見事なポリシイを引き継いで、新しい構成を目指した吾が娘の努力をぜひご覧頂きたい。

   <近美100年の会HP>ここをクリックしてください

坂倉準三の設計した「神奈川県立近代美術館」が建てられたのは、終戦直後の1951年、まだ日本には近現代美術を収録し紹介する美術館はなく、世界でも三番目の近代美術館になった。戦災によって荒廃した、建設物資もない時代だった。
この建築は、坂倉準三の師、コルビジュエが西洋美術館の設計のために来日したときにここを訪れ、中庭に立ち尽くし、弟子のつくったこの建築に魅せられたという逸話が残された。世界に知られる日本を代表する建築になったのだ。

竣工してから50年を経たころより、敷地を貸与している鶴岡八幡宮から返還についての打診がなされるようになった。危機感を持った僕たちは、2001年11月、「近美100年の会」を設立し、この美術館の存続を願って様々な活動を始めた。
「100年の会」と名付けたのは、設立のための会合時の懇親会で、乾杯の音頭を取った駒田知彦さんが、「この美術館を100年使い続けたい」と述べたことによる。駒田さんは北村脩一さんと共に、坂倉準三の下でこの建築の設計を担当したのだ。

設立に際して行ったシンポジウムでは、この美術館の、モダニズム建築としての歴史的な位置付けや価値、美術館としての美術史の上からの果たしてきた役割などを学ぶことになった。
活動を通して美術館を訪れる機会も多くなり、季節や時間によって変化する八幡宮の杜の様子や、平家池(源平池のなかの平家池の方)の波紋が映し出される池に面したピロティの天井の、ゆらゆらと揺れる光の影に魅了されることにもなった。
建築の、明快な形と自然との交流を実感することによって、建築のあり方を改めて考えることにもなった。つまり僕はこの建築に惚れたのだ。

停滞気味になってしまった活動を、これを期に再開したい。
1966年に増設された鎌倉館新館が、県の耐震診断の結果、昨年9月15日に開催された「レーモンドとノエミ展」から使用が中断されている。僕たちは県に対してこの建築の価値を認識して対応して欲しいと申し入れた。鶴岡八幡宮宮司吉田氏とも面談した。信頼関係を築くことができた、と確信している。
やりたいことは沢山ある。この建築の存在と魅力を鎌倉市民に改めて伝えたい。みんなと一緒に近美に行き、鎌倉を歩きたい。

鎌倉にいる建築家に電話した。待っていたとばかり「やりましょう」と言ってくれた。まずは火災を乗り越えて、長谷の地に古い民家を現在(イマ)に合わせて再開店した「0467」に集まって、一杯やりながら相談しよう。いいアイディアを生み出し、楽しい活動をしていくためには、一杯が欠かせないのだ。

大型連休に、仕事に出かける功徳

2008-05-03 23:26:45 | 日々・音楽・BOOK

超大型連休だとテレビのニュースでは言うけれど、実感がない。電車はいつもと同じような込み具合だし、都心の「まち」中も車で一杯だ。僕が決めたのではないが、暦どおりに事務所に出る羽目になった。

のんびり休みたいなあ!と言ったら、何言ってんの、ウイークデェイでしょ、と愛妻に言われてしまった。何だか追い出されるように事務所に行ってスケジュールを確認したら、今日だと思っていたJIAで行われるJIA・KIT(金沢工大)アーカイブス運営委員会は翌日だった。4月30日のことだ。でも事務所で、前回議事録を取りまとめ、中央郵便局を重要文化財にする会のHPにUPする記事を書いたり、返信を怠っていたメールをいじったりしていたら、7時を過ぎてしまった。

電話をした友人も、かけてきた友人も皆仕事をしている。だって大工さんは休めないわよね、明日は現場なのよという女流建築家がいる。天気も良いし・・休んでたら職人さんは食べていけないのよね!と言うのだ。
飛び石連休の狭間、僕だって仕事をしている。28日は調査した報告書を持ってクライアントを訪ねた。クライアントだって仕事をしている。久しぶりに仕事をした気分になった。

29日は東京女子大の園遊会。娘と西荻の骨董通りを散策してキャンパスを訪ね、出張していた屋台の「こけしや」スパゲッティを、暑い日差しの中で食べた。その後、教室で三沢浩さんのレーモンド考察を聞く。僕と顔を合わせた三沢さんが喜んでくれた。これは仕事ではないなあ!でも僕にとっては仕事みたいなもんだ。

2日は衆議院議員会館に行き、平沢勝栄議員や河村たかし議員の秘書、法制局の担当官と東京中央郵便局にかかわる法整備などの下相談をした。河村さんは本委員会で時間調整ができない。仕事だ。
同行した鈴木博之教授と昼飯を食いながら、10日、11日と京都で行うDOCOMOMO総会や研究発表会、それに鈴木さんの来春の東大退任を惜しむ建築家・難波和彦教授の企画した、著作を紐解く鈴木博之連続公開講座に話が咲いた。

会場は、15番階段教室。安藤忠雄さんの設計した情報学環・福武ホールは使わないのかと聞くと、最後はそこでといっているけど・・
僕はまだ見ていないけど写真で見るとよさそうですね・・安藤さんは本気でやったみたい。庇の先端がシャープで、潜っていく地階のバランスもいいと鈴木論評だ。
でも気になるのは庇の先端が下りていく階段の中間ぐらいで、バシャバシャと雨が落ちるのではないかなあ!そうかなあ気がつかなかったけど。
図面だと雨樋がないんですよ、と僕。まあたわいない話だ。
余計なことだが、鈴木さんも暦どおり、食事が終わるとちゃんと大学の研究室に戻る。授業があるのだ。もう今日は家へ帰ろうかなと思ったが、ふと気になって事務所に行った。電話がやたらと掛かってくる。

大阪に行った毎日新聞の記者Tさんからは「遅くなったけど7日の夕刊に載ることになった」という電話。ナンだっけと聞くと、例の大学キャンパスの問題。そうだった。取材を受けたんだ。そして彼女との話が弾んだ。

作家堀江敏幸さんの記事が面白いというのだ。5月1日の朝日新聞文化欄だ。
ああ!あのエッセイ。記者は他紙の記事も読むのだと思いながら、村野藤吾のつくった早稲田大学文学部高層棟解体に触れた一文を思い起こした。
僕が印象深かったのは「軽やかなウエハースのような校舎」という堀江さんの書き方だ。うまい言い方をするなあと思ったのだ。でも村野藤吾の文字も、文学部校舎との記載もなく「あの文じゃあ普通の人は、あの校舎のことを書いているのだとは思わないのではないかなあ?」そうかしら、あの人はそういう書き方をするんですよ、という。二十数年前に母校を卒業し、文学部教授になった芥川賞作家なのだ。堀江さんは。

このブログ掲載の一文を書きながら、スクラップしていた堀江さんのエッセイ・論考を、改めて繰り返し読んで思わず考え込んだ。
よかった、帰ろうと思ったのに気になって事務所に行ったのは。この文に気づかせた記者Tさんの電話を受けるためだったのだ。このエッセイは、建築の存在と『私』と『他者』、それも時間の介在によって起きてくる命題、かつての(若き日の)空間体験を紐解く鍵を示唆している。
タイトルは「時間の先にいる他者」だ。

さて明日からは本物の4連休,と一瞬考えたら今日からだった。29日の夜にはガソリンを満タンにした。1日からリッター30円も違うとなると人並みに入れておきたくなった。不可思議な特定道路財源問題と、役目を果たさない、村を埋めてつくられているダムにも思いを馳せる。
夕方娘が来た。明日は世田谷美術館の横尾忠則展へ行くことにした。日本民芸館の琉球織物展にも足を伸ばそう。さあ休みだ。

<写真 早大文学部・ウエハース校舎、村野藤吾面目躍如の階段手すり>