日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

熱海市での委員会に臨んで

2019-03-21 17:15:41 | 文化考

此の3月18日(月)、熱海市の`日向別邸′で行われた委員会(平成30年度 旧日向別邸等研究委員会)に、委員の一人として参加した。

久し振りに訪れた熱海、駅前の風情は指して変わらず、何となくホッとする。参加した委員連、代表を担っている名古屋大学大学院教授の西澤教授を初め、熱海市文化財保護審議会委員の建部氏、嘗て清水建設技術研究所に所属していた松波秀子委員、そして資金サポートされ、オブザーバーとしての高川さん等々、旧交を温めることになった。

上記メンバーと共に参画されたのは、文化庁の参事官、静岡県教育委員会の主査、公益財団法人・文化財建造物保存技術強化の方々、事務局サイドとして、熱海市教育委員課からの方々などによる構成。今後ほぼ1年半ほど掛けて改修工事を行う予定。その間、本館は閉鎖される。

 この日向別邸は、1936年(昭和11年)にアジヤ貿易で活動した日向利衛の別荘の別邸として、ブルーノ・タウト(ドイツの建築家)の設計によって建てられたもの。久し振りに拝見したが管理体制が見事に成されていて、此の建築の魅力を充分に味わえる事が出来、嬉しくなった。

委員会の後、参加した委員連数名と熱海駅に隣接している店で、珈琲を味わいながら四方山話に花が咲き(桜もまだだしどんな花!)旧交を温めることにもなった。初春の一齣だが、僕の何処かに人と建築との出会いの妙に、春の一時を感じている。


夏の始まりの一時:洛陽中国書法水墨画院 軸装展 を観る

2018-06-20 15:23:21 | 文化考

今日(6月20日)で閉じる展覧会の様相を記載して置くことにした。実は我が娘が出展し、`審査員奨励賞`(色紙作品)を受賞したからでもある。絵のタイトルは「古寺晩秋」。会場は大崎O美術館。娘の恩師は、全日本水墨画美術協会の評議員でもある矢形嵐酔氏。この世界(と言っていいのか ! )を率いるお一人でもある。訪れたのは17日の日曜日だった。

我が娘は会場に入ったところに設置されている受付に腰かけて、来客者に挨拶したり会場の様子やレイアウトなどを説明したりしている。何故か一人で!

着物を着ていて結構様になっているので思わずニコリ!としてしまう。親しい同僚が訪ねてきたりしたが、僕とは細やかながら面識があり挨拶を取り交わす。数名の方々を案内していた嵐酔氏が、僕と出会ってお互い笑顔で何となく挨拶を取り交わした。

 初夏の一時だった。


俳人・金子兜太氏を偲びながら

2018-06-03 14:27:15 | 文化考

 朝日新聞の俳壇(歌壇・俳壇欄の・・・)に選者として登場され、心を打つ講評をされていた金子兜太氏が亡くなってから三ヶ月を経てしまった。この公募による俳壇欄の選者は、金子氏のほか(この後文中敬称略とさせていただく)、長谷川櫂、大串章、稲畑汀子の三氏である。

 僕は、高校時代は文学部の部長として様々な活動をし、文化祭の実行委員長を担ったりしたものだが、トンと我が作品らしきものが残っていない。わずかに`日が昇り日が沈んでいく`様を書いた詩らしきものを起稿したりした部誌に、夜間部(母校・千葉県立東葛飾高校の、2部・夜間部はなくなった)の教師をしていた作家川上宗薫との連名で部活の報告を記した事などの、ささやかな記憶しか残っていない。

 其れでさえも数十年前のことになり、卒業してから時を経て同級生たちと4年毎に行ってきた学年の同窓会の開催を提案して初回の代表を担ったが、一昨年の6月に行った第7回の同窓会では2度目の発起人代表を担った。本会も来年には傘寿の会をやることになっているものの、楽しみな会合ではあるとは言え、昨今親しく付き合ってきた朋友が亡くなるなど辛いことも起きてきて、金子兜太氏の訃報と重なってくる。

 手元にある`角川文化振興財団`の発行による「俳句」5月号は、`追悼 金子兜太` と題した特集号となり、その付録「金子兜太読本」は僕の愛読書となった。僕が読み砕いている朝日新聞の朝日俳壇は、兜太氏が体調を崩されてから上記3氏だけとなり、併設している4人の`歌壇`紙面構成が組み合わせの短歌(歌壇)との整合性が気になっていたものの、それだけ金子兜太氏の存在が身に浸みてきてしまう。その本年(2018年)2月22日の項、「革新の俳句 反戦貫く。反骨心と優しさと」。そして2月26日の項・俳句時評のタイトルは「土の人 金子兜太」(俳人・黒田侑布子)である。その記述、取り上げた金子兜太の一句は〝よく眠る夢の枯野が青無まで″である。

 さて敢えて記す僕の心に残る一句は、『水尾の果て炎天の墓碑を置きて去る』。

 招集されたトラック島引き揚げのときの句だとのことだが、こんな一言を記している。「珊瑚礁をでて、午後の水平線に向かって失踪する駆逐艦上に寝て、この句を作った」。

この句を愛でながら、僕はフィリピンで戦死した僕の父の無念の想いを汲み取って、兜太が天寿を全うしたことにホッとしていることを、敢て書き・記しておく。


ブルーノ・ムナーリ展を味わう・葉山の近美で!

2018-04-08 20:58:43 | 文化考

昨4月7日の土曜日、神奈川県立近代美術館葉山にて、「ブルーノ・ムナーリ」の作品展を拝見。ムナーリの存在を僕は知らなかったが、近美から招待券を送って戴き、都内に住む娘を誘ってそのオープニング・レセプションに赴いた。

ムナーリは、1907年(明治40年)にミラノ(イタリア)で生まれ、1997年(平成9年)その生誕地ミラノで没した画家、デザイナー、教育者でもあったという。そして何よりも心惹かれたのは、現在(いま)の僕達を触発する`時を越えたと言いたくなる`作品群、その全てに魅了された。

 鎌倉の「近美」がなくなったことを何年経っても痛ましく思っているが、久し振りに訪れた葉山のこの近美は、海(太平洋だと敢えて書き添えたくなる)に面していて、此の日の海は波高く、その遥か先には富士山の姿が微かに臨むことが出来、久し振りに訪れる此の美術館の存在にも心惹かれることになった。

 我が娘とは美術館で落ち合うことにしたが、娘は逗子駅から海岸の砂浜を歩いて近美に赴こうととしたが、風が強くて砂も飛んでくるし、海の飛沫(しぶき)がひどくて無理をせず、狭いバス通り周辺の家屋などの風情を味わいながら、1時間半ほど歩いて近美に辿り着いたという。

 僕は当然のことながら逗子からのバスに乗ったが、狭い道路、時折り留まって先方から来る自動車をやり過ごす風情、それは其れで興味深いバスツアーになった。そして作品群を拝見した後のレセプションを楽しんだ後、娘と海辺に赴き、遠くに微かに観える富士山の姿を愛でたことを記載して起く。

 そして何よりも、そのムナーリの作品群に魅せられた事を留めておきたい。絵画を主として`軽やかな機械、`役に立たない機械`と題した作品群、更に「役に立たない機械とは何かと、その理由」と題した不思議なイラストっぽい作品群。「眼の見えない少女のための触角のメッセージ」と題したぶら下がっている逸品、などなど。思わずしゃがみこんだり見上げたりしながらの様々な視点でみやる。

此の美術展は、`近美葉山`をスタートとして、北九州市立美術館、岩手県立美術館、世田谷美術館(東京)に巡回される。折りあれば沢山の人に見て戴きたい。我が娘とは葉山からバスに乗って逗子に行き、駅の近くにある従兄の自宅・医院をちらりと見て帰宅した。

 そして、ムナーリ展のオープニング・レセプションで、久し振りにお会いした館長水沢勉さんとにこやかに語り合い、旧交を温めたことをも記しておきたい。

 <写真、近美葉山館の裏地から見る海、その向うの微かに見える富士山>

 

 


拝観した`棟方志功と柳宗悦`展(於:日本民藝館)での想いを!

2018-03-25 14:03:54 | 文化考

昨3月24日の土曜日、日本民藝館(駒場)での「棟方志功と柳宗悦」展を拝観、その想いを留めて置きたいと起稿したものの、なかなか書き進められない。 

この1月11日から開催されていて、今日3月25日が最終日、晴天に恵まれた今日もまたは拝観者で一杯だろうと、展示された作品に想いを馳せながら、とにもかくにも記しておきたい。 

既に四十数年前になるが、僕と妻は、棟方志功御夫妻にお仲人になって頂いて一緒になった。そして心に留まっているのは、鎌倉山に建てた住宅・アトリエ(ふさわしいネーミングではないと何度思ったことか!)の設計と監理に関わったこと・小学生になった我が娘を連れてお正月の挨拶に伺ったときのことを、チヤ夫人はいつも、大きくなったネ、小さいときは彼方此方走り回ってやヤンチャだったのに!と眼を細めて見遣っていただいたものの、帰り道二人でそんなことなかったのにねえ!とのぼやき?そのことを、おそらく僕も娘も終生忘れないだろう。 

ところで拝見した棟方作品、懐かしくもあり、どうしてこういう作品が生まれるのか!と、時を経て改めて見入った。と同時に今回の案内ポスターやチラシもそうだが、志功の名が宗悦氏の前にあることに恐縮している棟方の姿がつと頭を過(よ)ぎる。 

会場で出会った石井頼子さん、棟方志功のお孫さん。久し振りに会えるかもしれないと思いながら、全館を見る途中で売店に立ち寄ってみたら「棟方志功の目」と題したその頼子さんの著作が目に留まりまずは購入。頑張っているのだと何処かでホッとする僕に気がついたりもする。そして参観者を案内している頼子さんに会う。お互いにっこり! 

<余話>ふと思い立って娘の携帯に電話をした。休日でも多忙な娘はまだ観ていないので、時間のやりくりをして、これから行ってくるとの一言、ホッとし、それでは売店で、志功の作品を取り入れた数編の手ぬぐいの中の一本を買ってきて!と依頼、実はその一つを手に入れたが、一昨日、都庁での会議に出席した後、近くにある僕の事務所に来てくださった札幌市大の羽深教授にプレゼントしたいと思ったからだ。

教授は再来年までの在校との事、例年招かれて院生への講義、昨年は思い立って学部生への特別講義を組み込んでいただいたが、後2回、訪札頼むよ!とのこと、いや院生はともかく昨年は学部生への講義はうけなかったからナア!とぼやく僕に、教授もニヤリ。でも僕にとっては嬉しい一言だった。 

そしてツト思う。僕の`志功`との出会い、若き日の志功のアトリエ構築の余話を学生たちに伝えてみるのもいいかもしれないと瞬時一考。でもいまの若き学生共は、「棟方志功」を知らないだろうか!と、しばし瞑目する。


初冬の一時:西大寺、春日大社、そして東大寺へ

2017-12-10 13:00:57 | 文化考

晴天に恵まれた「奈良」行き、拝顔した奈良の仏を思い起こしながら瞑目し一文を記す。

 帰郷したのは一昨昨日(さきおととい)、嘗て奈良を訪れたのは何時のことだったのか!正確な年月が思い浮かばない。最後に訪れてから、なんと数十年を経ているようだ。奈良の好きな妻君は、僕と一緒になってからも数回訪れているようで、泊まったホテルも何度か一緒との事。ふと、ロビーにあった`鹿追`と関連した社寺「春日大社」巡りイベントの案内チラシに見入った。フロントの男性に奈良の社寺の様相を聞き、ルートなどの相談に乗ってもらう。ふと思い立って聴くと、妻君の何度か泊まったデータが保管されているようで、へー!と驚いてしまう。

此の初冬の奈良行き。6年目に入った建築誌に連載しているシリーズ「建築家模様」に登場戴く二人の奈良の建築家に建てた建築を案内してもらい、拝見してヒヤリング。その初日、長いお付き合いになる年配の建築家に立ち寄ってもらった「西大寺」。拝受した御朱印を観ながらその折の風情を思い起こしている。

さて取材は滞りなく終わった最終日、一日の余裕が生まれての社寺巡りである。何はともあれ好奇心が刺激されて上記社寺イベントに参加して訪れた「春日大社」。解散した後社務所に立ち寄って御朱印を戴く。そして「東大寺へ」。その威容に改めて、古都「奈良」へ来たのだと何かがストンと落ちたような気がする。日本という国の懐の深さ、と書き添えたくなった。

 ―東大寺の大仏の威容に心打たれたが、本稿に連記している安藤忠雄の魅力的な大仏殿に敬意を表し、東大寺大仏の写真掲載は安藤大仏殿の大仏掲載後とする: 写真・東大寺―


夜の新宿から、秋の日を味わう我が家での一時へ

2017-11-05 18:29:25 | 文化考

 建築ジャーナル誌に連載している「建築家模様」で、僕の盟友を捉えた第60稿をつい昨日脱稿した。一息つき晴天になった秋の日差しに目をやっている。雨天の多かった先月(10月)、11月に入り、残り少なくなってきた秋の日を、我が家の窓から丹沢連峰あたりの夕焼けを味わいながら此の一文を起稿する。 

この週末からは北海道行き。札幌市大での学部生と院生に、建築家の存在をテーマとした講義をする。学部生(2年生、テーマは「北国の建築家」)には、上記北海道の建築家を捉えた「建築家模様」を一つの資料として、北国の風土を形にしていく建築家の存在を、院生には沖縄から札幌までの日本全国の建築家から数名セレクトして紹介し、「人の生きていくこと」を視野に入れながら、風土と建築、そして建築家の存在することの意義を、院生と共に考えてみたい。 

そして、今年の試み、嘗てモダンムーブネントをテーマに、(故)鈴木博之東大教授と鎌倉の近代美術館での対談を収録したDVDを学生や院生に観てもらい、建築家という人種の存在を伝えようと思う。と起稿してきて、ふとこのDVD、一度(数年前に)院生への講議のときに、公開したような気がしてきた。それでもまあいいだろうと、学部生や院生が、此の画像をどう捉えてくれるだろうかと、好奇心が湧いてきた。 

ところで此のブログの画像、秋も深まってきた夜の新宿。日々、こういう都庁の光景の中を通り抜けて我が家へ帰る。此の一文を記しながら夕刻になり、TVでは、トランプ大統領の訪日、総理と共にしたゴルフの様を伝えている。

―追記ー 掲載した写真のこの庁舎の公式名称は`東京都庁第一本庁舎`である。嘗て、日本の建築界を率いた建築家「丹下健三」の晩年の作。日本の(いや世界の)モダンムーブネントを構築、率いてきた丹下健三は、当時著名建築家のよりどころとなっていた日本の建築家組織を、市民対応にも視野を向けて組織改正をおこない、JIA(日本建築家協会:現在の名称)を再構築した。建築の設計に関わる人間ならだれでも入会できる組織に改変、僕でも参加できるのだと恐るおそる設立のイベント(総会)に臨んだことを思い起こす。

 


秋の一時を・9月17日(日)の新聞から

2017-09-17 22:05:23 | 文化考

此の秋の3連休、明日18日は敬老の日。不本意ながら我の日。新聞(朝日新聞)9月17日の全面を紐解きながら、この一文を記して置くことにした。

 第一面冒頭の文字、太文字で「首相、年内解散を検討」とあり、ほんの少し小さい文字で`臨時国会冒頭も視野`とある。現首相、まだやる気なのか!とちょっとなあ!!その一文の左手には、拉致解決「いま動かないと」と題した北朝鮮拉致被害者の一人`蓮池薫`氏(現在は新潟産業大准教授)にインタビューした一文が記載されている。1970~80年代に日本人の失踪が相次ぎ、若き日の僕達を震撼とさせた事件を想い起こした。

一文を読み解きながら僕の心が騒ぐのは、被害者や家族の高齢化が進み、`拉致は国家の問題であると同時に家族の問題、家族が再会して一緒に暮らすにはいまだ切羽詰ったぎりぎりの時期にある」と語ったことだ。歴史を踏まえた此の一文を捉えたこの記者、何歳なのだろう!とふと思う。

 「天声人語」。沖縄の『ガマ』を荒らした若者に言及し、`闇の向うから沖縄戦で倒れた約20万人が私たちを見ている`との一節に瞑目した。何度か訪れて、ガマの前で頭を下げたことを想い起こす。

 2面。日朝首脳会談15年、核の脅威 拉致解決阻む、とのタイトル記事。日本、交渉手詰まり 圧力路線、とのタイトル記事。北朝鮮 体制維持優先 対話阻む。平壌宣言の骨格 事実上の「空文化」の文言も。3面には、編集委員・大野博人氏の`無関心と呼ばれる政治不信`と名打ち`文中には`民意を政治に届ける民主主義の動脈が彼方此方で詰まっている`との一節のある一文に、溜息が・・・4面、アベノミクスの「3本の矢」でまともに機能したのは金融政策ぐらいだ、との若田部早稲田大学教授一文。5面には「北朝鮮車両から発射」との記事。6面の社説2編。人づくり革命 言葉だけが踊っている、との一説と、五輪開催地難 運営の抜本的見直しを、の一文。

 9面は「読書」。時折り参照するページ。ひもとく「壁」を考えると題した文化人類学者今福龍太氏の書籍紹介に目を凝らす。繰り返し読み込み、紹介された書籍を本屋で検索してみようかとふと思った。今号では読書ランが4面に渡って掲載されており、その紹介文に目を凝らした。

 14面の広告欄は日曜日の.NHKで放映中の「オクニョ」の宣伝広告。愛聴していて今夜が楽しみ。広告ページを挟んで、15面、21面までスポーツ欄。未来ノートと題した稿にテニスの「錦織圭」が登場した。でも我が若き日テニスにのめりこんだ僕は、己がミスをするとラケットを地面にたたきつける錦織のその姿に許せないと思ったことに目が行く。ラケットガットを貼る職人・それに命を懸けている人への思いはないのか!お前はそんなに偉いのか! 

ところで22面の広告欄、絵師アラン・ウエスト。仕事力、と題した一文、こんなことが書かれている。「私は幼い頃、地面から水を吸い上げ静かに生き抜いていく植物が美しく・・・その生命力は人間と同じだと感じ、描かずにはいられなかった」。26面文化の扉は将棋、多様化する戦法。 科学の扉は「土星探査 カッシーニ有終」、土星の大気圏に突入して役目を終えたとある。カッシーニは20年前に打ち上げられたことを想い起こし、20歳若かった僕自身が設計をした家など瞬時想い起こす。27面は「さがみ野」。そうか我が家はさがみ野にあるのかとつい首をかしげた。

 30面、31面は「社会」。北朝鮮による拉致被害者と失踪場所を記載した紙面、「高齢化 成果なく15年」と「拉致家族は叫ぶ」と言うタイトルに瞑目したくなった。そして「集団自決」のガマ損壊容疑、と題した`4少年「肝試し」困惑広がる沖縄`と題した一文に、じっとしていられなくなる。 

 

 


フリードリヒ・ニーチェの愉しい学問

2017-01-30 14:23:27 | 文化考

東北大学の森 一郎教授(哲学)が送って下さった「愉しい学問」と題したニーチェの著作を読み始めた。
まず何よりも森先生の送り状に魅せられる。こう終わる。・・・私としては、ぼそぼそと夢に描いてきた「世界への愛 amor mundi」の成就を目指そうと、懲りずに自分に言い聞かせています。まだ私は生きている。まだ私は考える。とぶつぶつ繰り返しながら。・・・

まだ私は生きている。まだ私は考える、と言うフレーズは、ニーチェの一言を汲み取ったものだが、ニーチェはこのあとこう続ける。「すなわち、私はまだ生きていかなねばならない。なぜなら私はまだ考えなければならないから。」そしてそうだった、とどこかで聞いたか読んだのかさやかではないが「我在り、故に我思う、すなわち、我思う、故に我在り」は心に留まっている。

朝のロマンスカーに揺られながら55ページまで細々と読み砕いてきたが、こんな僕のコトバをアトランダムにメモした。

深淵 諧謔、洞察、僭越、多様、微笑、失笑、悦楽、トドノツマリ、懐疑、目配せ、羞恥 示唆

それはともかく、この著作の第一部、第二部は1883年に起稿、第3部が翌年と続けた。なんと130数年前のことになる。それが現在(いま)に生きる森教授や、門外漢の僕にさえも身近な課題として問題提起されて、己の來し越し方に瞑目することになるのだ。

それにしても分厚い507ページ。さてどうなることか!と思いながらも実は、この著作を胸に抱いて、岩波新書の湯浅学著「ボブ・ディラン ロック精霊」をあっという間に読み飛ばしてしまった。

<愉しい学問のカバー写真は、仙台の写真家、盟友でもある`小岩 勉`さんの写真です>。

国立演芸場で「講談」をあじわう 

2016-12-04 22:25:07 | 文化考
11月29日(火)、久し振りに「講談」を味わった。第62回「講談かぶらや会」である。
「講談を聴いた」と書き出そうと思ったが、国立演芸場でのこの「かぶらや会」は、当然のことながら大きな舞台に釈台を置き、左手に`めくり`を設置した高座。釈場とは言えない大空間で、嘗ての畳を敷いた「本牧亭」のようないわゆる釈場が何となく恋しく・愛おしくなった。
上野広小路亭があるではないかといわれそうだが・・・それは其れとして、宝井家一族といってもいいメンバー構成でのこの高座は、独特の味わいを醸し出している。

講談にのめりこんだ若き日を、久し振りに思い起こした。
メンバーのお一人一龍斉貞山さんは、宝井家の一族(一門!)とはいえないものの、故六代目宝井馬琴師が学生時代、子供だった(中学生だったか・・)貞山師の家庭教師をしたとのエピソードを聞いたときの様を、懐かしく思い出す。
馬琴師は吾が母校明大の先輩、母校の100人ほどのOB連を対象とし、上野の料亭の大広間をぶち抜いて行った定期高座、同時に上野本牧亭でのこじんまりとした高座の会(修羅場の会)などを、後輩として明大OBの友人達とともにやってきたこと等を、一瞬思い起こした。
更に、高座の写真を撮って写真展をやり、数か所に巡回したことなども。
写真界がデジタルになる前の、モノクロフィルムを使い、自宅でプリントをしたものだった。