日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

写真家飯田鉄の「螺旋のぬいとり」

2012-06-24 22:53:00 | 写真
神田小川町の`オリンパスギャラリー東京`で始まった飯田鉄「螺旋のぬいとり」展のオープニングパーティに出かけた。メモを添えた案内葉書をもらい、電話もあって「凄いね!」と積極的な写真発表についての率直なやり取りをしたものだ。
ところでまず驚いたのは四十数点展示の会場が、百人を越す来場者で溢れたことだが、写真の仲間だけでなく、多分武蔵美で教えている女子学生やワークショップでの教え子たちなのだろう。これも多彩な活動の成果だと思う。

日本カメラ誌7月号に、`螺旋のぬいとり`の写真が掲載されている。発売されたばかりのオリンパスOM-Dなどのデジタルで撮った6点の写真のセレクトが見事で、さらに色の濃度が濃いが素直な発色で心が打たれる。編集者がセレクトしたとしても、飯田さんの意図したものなのだと確信する。
日本カメラの「口絵ノート」で飯田鉄はこう書く。「街を歩きながら目に留まるものを撮影する。これはずっと変わらない撮影スタイルだが、その目に留まる対象は時間とともに少しずつ変わっていくようで面白い」。

会場での挨拶でも、このところなんだか渦のようにぐるぐると回っているものが面白いんですよね!なんてあっさりとした一言だけだった。オリンパスの担当者からは、「ぬいとり」がよく分からないので、これからじっくりと考えると述べて会場を沸かせたが、「口絵」では、『螺旋』には触れず「・・・自分の変わりぶりにも興味がわいてくる」と書き、飯田さんの率直な表明に共感を覚える。

このところいくつかの写真展で、会場に展示した小さな文字で書かれた飯田さんのメッセージ(エッセイだ!)は究めて詩的で、読み解く面白さに満ちている。
螺旋のぬいとりの「ぬいとり」は螺旋を写真としてぬいとったのだと書く。僕が感じ獲ったのは、写真誌ではタイトルの下に英文で『A scenery』(風景の連なり)とあるが、会場のエッセイではさりげなく『Screw』と書かれていて、飯田さんの問題意識が面白く、一言述べてみたくなったのだ。

こういうことである。螺旋を「スパイラル」ではなく「カーブ」でもなく、『スクリュー』としたことで、飯田鉄の惹かれる対象と写真としての捉えかた、つまり感性が感じ取れるのだ。そして撮りながら光を感じて対象の浮遊感に覚醒すると書くのは、光の矢(複雑な直線だ)によってスクリューを、つまり芯のある螺旋が浮かび上がり(自然界と人のつくった対称物にも)、スクリューを感じ取るその視点に僕の心が共振するのである。

<東京展、6月27日(水)まで、オリンパスギャラリー大阪展、7月5日~18日>

釣り人おらず 台風一過の相模川

2012-06-23 23:00:01 | 添景・点々

オフィスのある新宿に向かう朝、厚木駅から相模川を渡って一駅戻り、本厚木からロマンスカーに乗る。窓から眺める幅広い相模川には中洲もあって、両岸に数名、酔狂なと言いたくなる中洲に一人、6月1日に解禁になった鮎の釣り人が腰まで水に浸って竿を投げかけている。初夏の風物詩、写真になる光景だ。6月20日の朝、その川の流れが濁流になって中洲が隠れ釣り人の姿がない。青空が広がり始めた。台風一過、梅雨の谷間でもある。

その前日の19日。写真家村井修さんのスタジオを訪ね、12月に行うDOCOMOMOセミナーの打ち合わせを行った夜の出来事である。降りる厚木駅の一つ手前、海老名駅で電車が止まってしまった。相模川の風速が規定値の25メートルを越えたので、海老名-本厚木間の運行をストップするというのだ。へー!25メートルが安全指針なのだ。

さてさて、規定値が下がるまで今しばらくお待ち下さいとの車内放送、台風がすぐそこまで来ていることに気が付かなかった。接近するのは翌朝のはずなのに見事に早い。歩けば我が家まで20分。傘は暴風でさせない。でも暴雨でもある。
30分ほどして規定値を下回ったので動かすとの車内放送あり。ぎゅう詰めになる。海老名駅は横浜から帰宅する相鉄線乗客がいるからだ。しめた!と思ったのもまあ一瞬、5分ほどして規定値を上回ったので発車中止、以降規定値を上回っているとの繰り返しなり。

妻君に携帯電話をかける。のんびりとやや笑いを含み、でも心配げに「台風は静岡あたりに居るみたい」。小田急の奴め!しばらくはないだろうと腹の中で悪態を付く。これから接近するので風はもっと強くなるのではないか?
「歩くか」。風速は25メートル、いや30メートルなのかもしれない。初体験、面白いかもしれない。こういう時だ、男の決断である。しかし決断するまでに2時間、我ながら情けなくなった。「そして誰も居なくなった」ではないが、車内の立ち人ほとんど居なくなった。

さて、エイ!と車外に出て驚いた。ホームに立つ人多し。さらに、階段に座る人ぎっしりなり。なんとあの広い改札ホールが歩けないくらい人で一杯だ。トイレに駆け込んだ後、今度は逡巡せずに改札を出た。戻っても座る場がないからだ。歩道橋で吹っ飛ばされそうになる。雨は小降り、といったところで我が家にたどり着き、シャワーを浴びて飲んだビールのうまいこと、TVでは台風情報が流れている。あれ!台風はどうやらこの近くに居るようだぜ。一杯飲んだら電車が動き出したとの報が映し出された。初夏の情けなきボヤキの一齣である。

<写真 中洲も現れ、釣り人来るの相模川、3日後6月23日の一齣>

「川内倫子写真展」のイルミナンス

2012-06-16 17:06:59 | 写真

気になる写真家がいる。
川内倫子。
2002年写真集「うたたね」と「花火」で、第27回木村伊兵衛写真賞を受賞した時には30歳だった。写真誌アサヒカメラ6月号に発表された「あめつち」が気になるのだ。都の写真美術館で写真展が開催されているが、視る時間が組めない。
 
6月9日(土)JIAのイベント、アーキテクツ・ガーデンでの保存問題委員会の主催する「普連土学園(設計大江宏)」と十数年前に拝見し写真も撮った「慶応義塾幼稚舎(設計谷口吉郎)」の見学会に参加した。
生憎の雨になったが、モダニズム建築の代表作に感じ・考えることが多々あった。もう一件区立の`望楼も外観も残った`と新聞で報道された「広尾小学校」も予定されているが、情けないことに疲労困憊して見学落後、幼稚舎の先生に広尾の駅を教えていただく。一駅乗ると恵比寿だ。そうだ、東京都写真美術館がある。

川内倫子展のタイトルは、「照度 あめつち 影を見る」である。
光を意味する「照度(イルミナンス)」は、川内倫子の代名詞なのだという。`あめつち`をみても、‘影を見る`を見ても、光つまり照度がテーマだ、といえば言える。写真は光と影の舞台だから理屈を言えばそうなってみもふたもないが、それをいとも簡単に飛び越えているのが余人にはない表現力と感性なのだろう。
白い天井と白い床通路状の白い両壁に四角い(ローライフレックスによる6×6フォーマットの)大きな写真の一つ一つがドキュメントではなく、ルポではなく、アートと言い切りたくないものでもある。写真なのだが生々しくはなく、写真でしか得られない類例のない感性表現がなされたと言ってみたくなった。走る車の窓から沿道に立ち並ぶ樹木を流し撮りしたり、阿蘇の野焼きをただ延々と写し撮った映像にも繋がる表現に惹かれるのは何故だと自問する。会場には大勢の若者が座り込んで映像に浸たっている。

ただひとつ、気になるのは会場構成された白い天井と白い床白い壁があっての写真なのかということだ。

体調万全とは言えず、くたくたになったが、視るものは見たと一寸ホッとしたものでもある。同時に写真を撮りたい!とも思ったものだ。

初夏の候 方丈記を読む

2012-06-10 23:22:41 | 建築・風景

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」。

言うまでもなく、鴨長明のエッセイ「方丈記」の書き出しである。「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」とつなぎ、さらに「世中にある人と栖(すみか)と、かくのごとし」と連ね続ける。つまりこの世の中での人の生き様を、長明自身の期し越し方に託して書き連ねたエッセイだ。

ここまでは何故かそらんじている。よく憶えていないが高校生時代の古文の授業でその存在を知ったとしか思えない。とすると五十数年前、そして´人と栖のかくのごとし´には必ずしも納得し得ないものの、冒頭の歴史観に触発されたという記憶がある。
まだハードボイルドには目を向けなかったが、図書室にあったヴァン・ダインの探偵小説などを読みあさり、文学部長だった僕にそんな時間があったのかと思うと、どうもその記憶が怪しくなる。でも建築の保存に関わるときに時に感じるのは、「方丈記」の冒頭にある一節なのだ。

沖縄の「復帰」とは何かと思い、特集された岩波の月刊誌「世界」6月号を買った。
読み砕き、沖縄だけでなく原発問題にも触れたこの号の各所論は必読だと思ったが、新刊案内の2012年岩波文庫フェアが目に留まった。フェア種目3冊以上買うと、岩波文庫特製ブックカバー進呈とある。75点80冊というリストだ。大半を読んでいないが、読みたいものと読んだけれど読みつくしていないものが沢山ある。ブックカバーもほしい。カッコいいかもしれないじゃない?

リストを見てこう思った。読み込むためには鉛筆などでの書き込みが必要、図書館からの借本では駄目だ。3冊を買おう。薄くて安いものだ。つれづれなるままに・・の徒然草も気になるが分厚いのでやめた。選んだ3冊の一つが、新訂「方丈記」なのだ。初版(第1刷)が1989年、2012年3月5日になんと39刷、大福寺所蔵の「方丈記」巻子本一軸を底本として翻刻したものだ。校注者市古貞次である。

脚注を参照しながら読み進め、第二段になってだんだん嫌になってきた。
予(われ)者の心を知れりしより、四十余りの春秋を送れる間に、予の不思議を見る事、やや度々になりぬ、と始まる。脚注によると「不思議」とは「思いもよらぬこと、大火、大風、遷都、飢餓、地震」のことである。ことに遷都の後の庶民の悲惨な様は臨場感があって心が打ち震えるが、どうもマイナスイメージに媚びる所があってうんざりしたのだ。
しかし三段、終章と読み進めるうちに奇妙な感銘を受けることになる。

今から大よそ860年前に生を受け、58歳で亡くなった鴨長明は幼くして父を亡くし(母とも早く死別したのではないかといわれる)、音楽、和歌の道に優れていたが終生昇進がかなわず、妻を娶ったが捨てたらしく、50歳を過ぎて出家、そのすみかは折々に狭し、広さはわずかに方丈(約3メートル四方、つまり四畳半程度か!)と書き、鬱々とする様が伺われるが、阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢をかき、琴、琵琶を置くとあり、読み連ねていくうちにどこかに人の生きていく様の本髄に触れていくような気がしてくるのだ。

さて我がこと、「「ゆく河の流れは絶えずして・・・」ほか数行は口に出してもいえるのに、長くはない全文を読んだ記憶がないのは何故だろう。
ともうひとつ言いたくなった。「時を経た古典は面白い」。改めていうまでもないが、社会のなかでの人としての生き方に示唆を与えてくれるのだ。

さて他の二冊のことは読みこなしてから書いてみるにしよう。

水無月のJIA建築家写真倶楽部「建築談義」

2012-06-05 19:24:53 | 建築・風景

水無月、6月である。
JIA(日本建築家協会)関東甲信越支部では、この一か月を「アーキテクツ・ガーデン」の月と位置づけ、「建築家はともだち」というテーマを掲げて様々なイベントを行う。

「建築家写真倶楽部」では、6月27日(水)pm6:30よりJIA建築家会館1階の建築家倶楽部で『時代をリードした建築』と題した建築談義を行うことにした。
昨年は震災の余波を受けて東北地方建築文化財調査に関わるメンバーがいて倶楽部活動ができなかったが、一昨年青山通りを一緒に歩いて写真を撮り、それをベースにして行った写真展作品群を展示して開催することになった。
詳細は後日UPするが、是非大勢の方々にご参加いただきたい。

水無月、田に水を引く「水の月」。
田植えが始まり豊かな天・自然の恵みを願う月、しかし東北を想い、原発問題を考えると安閑としてはいられない月でもある。
「建築家写真倶楽部」とは何ぞや!
JIAの機関誌Bulletinに記載した部会活動に書いた、部会長を担う僕の一文を下記に記載する。


■建築家写真倶楽部:写真を撮り都市と建築家を考えること

体調を考え小田急線ロマンスカー通勤を試みている。車窓を横切る建築群を見る。丘陵地におもちゃ箱住宅の連なりがあり、これは「建築家」の作品だと感じ取れる建築が一瞬現れ設計したのは誰だ!と思う。同時に朽ち果てそうなバラックに奇妙な魅力を感じ、それは何故だ?と思うのだ。
建築家写真倶楽部の面々と青山通り界隈を歩いて建築を撮り写真展を行ったが、各自の視点と好奇心の発露の異なることが面白かった。車窓からの光景への好奇心と重なる。朽ちるバラックは時の持つ魅力かもしれない。
それを語り合い、写真として定着させるこの部会の存在がそこにある。小田急線下北沢が変わる。その変遷を撮り続ける試みをしてもいい。都市と写真のアーカイヴスである。

<写真 『時代をリードした建築展』に出展した東京女子大学>

書く人 宇賀田達雄さんを悼む

2012-06-02 20:48:39 | 文化考

板画家棟方志功は世界に知られているが、娘婿宇賀田達雄さんの名は「民藝」などその分野の人々にとっては格別の存在であったとしても、広く世に伝えられているとは言えないかもしれない。
だが東大生(当時は帝国大学)時代に国文学者久松潜一教授に師事し、息女石井頼子さんが「文字と文章の人」と述べるように、さまざまな事象を学術的に検証してその分野の嚆矢として頼りにされるが、書かれた明快な記述には深い味わいがあり、それは書く人の人柄そのものなのだと感銘を受けるのだ。
久松潜一は新潮国語辞典ー現代語・古語ーを監修されたが、僕はその昭和44年発行の第3刷版を手元に置いてこの一文を書いている。達雄さんは在学中に学徒出陣をされたとはいえ、師の教えに薫陶されたのではないかと思えてくる。
その達雄さんが逝った。

好きだったモーツアルトのレクエムの流れる中、本葬では日本民藝館の学芸部長杉山享司氏が弔辞を述べ、お通夜では東京民藝協会志賀直邦会長に続いて、僕は友人として哀悼の意を述べさせていただいた。喪主となった石井頼子さんの諾を得たのでその意を記させて頂く。
体調を崩されて入院された達雄さんは、数時間にわたって夢想の世界に漂い、旅している上海の様や、展覧会の展示作業に細かい指示を口に出し、ふと口調が改まるのは目上の方がいらしたのではないかとそのあまりにもリアルな様に頼子さんはある種の感銘を受けたとメールを頂いた。そしてその翌日から穏やかに眠り続けて旅立ったと頼子さん述べる。

ご遺族の直会までご一緒させていただいての帰り道、杉山さんとこんなことを語り合った。気骨のある達雄さんは管理社会のシステムに自己を貫いて必ずしも大組織に馴染まなかったことを考えると、大学に残って研究者になる人だったような気がする、でもねえ、そうだと「けよう子」さんに惚れる機会もなく棟方志功との出会いがなっかたもしれない!
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宇賀田達雄さんを悼む  <追悼の辞>

御遺体を前にして言葉がないのですが、一言哀悼の意をささげたいと存じます。
御息女石井頼子さんから達雄さんが体調を崩されて入院されたとの連絡をいただいた後、お亡くなりになりますまでのご様子などお聞きしておりますと、まさしく天寿を全うされたとの思いでいっぱいになりました。
達雄さんの生涯を考えますと、奥様けよう子さんとの出会いに尽きる様な気もしてまいりますが、それはとりもなおさず棟方志功とその奥様ちや夫人との出会いでもあったことになり、それは筑摩書房から刊行された「祈りの人 棟方志功」に込められております。
しかし`あとがき`を拝読すると、もう20年も前になるのかと考え込んでしまいますが、奥様けよう子さんを癌で亡くされ、呆然としていた時に何かしなくてはと思い直してこの本を生み出したとのことでした。

私はご縁があって棟方志功ご夫妻にお仲人をしていただいたのですが、私の弟は(残念ながら2年ほど前に亡くなりましたけれど)、達雄さん、けよう子さんご夫妻にお仲人をしていただくというご縁になりました。
達雄さんは東大生時代に学徒出陣をなさいましたが、卒業後編集者として朝日新聞に在籍されました。よくご夫妻にお誘いを受け、朝日新聞社の前にあった築地市場のテント小屋で、朝日の仲のいい同僚などと一緒にお酒を酌み交わし、文化論を楽しんだものです。その時のやり取りなどが今の私の支えになっているような気がします。

達雄さんは民藝協会や日本民藝館に関わられましたが、私が天寿を全うされたとおもいますのは、86歳の時に書かれたご自分の出自に関わる祖父「宇賀田次助のこと」を文芸社から出版され、さらには私家版による「私は見たーある学徒兵の記録」によって、戦争の裏面史のある一面を描ききって社会と時代を見据えたのが2年前でした。70歳どころか、80歳をこえても書けるということに私は力を得ます。達雄さんはやることをやって「けよう子さん」の元へ向かうのだと思います。
其のふっきりのいい文体と、事例検証を綿密になさった上での明快な趣旨による描き方は、ご息女石井頼子さんにきちんと受け継がれていると拝察し、これからの私たちの、人の生きて行くあり方に示唆を与えてくださったのだと、肝に銘記したいと思います。この私の思いを、奥様けよう子さんにお伝えくださいますように。
2012年5月31日