日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

都市・つくば

2006-02-26 00:21:59 | 建築・風景

つくばエキスプレス(TXと言うそうだ)に乗ってつくば(筑波)を訪ねた。
東京の出発点秋葉原が,市場を取り壊して今風の建築によって駅前再開発がなされ、それに関連して慶応の三宅理一教授たちが様々なイベント・インスタレーシヨンの企画などに取り組んでいることは知っている。話題の新鉄道の駅はこの建築群の中にできたと思い込んでいた。しかし線路がないなあと思っていたら地下に潜るのだった。
そうだ、地下鉄ってのがあった。うーん、当たり前といえば当たり前。

シンポジウムで当時の住宅公団を率いて筑波計画に関わった都市再生機構の田中理事は、この開通は長年の悲願で当初から筑波計画の中で駅設置場所を確保し、ルートに埋設物を置かないよう配慮していたと披露された。同行の建築家は、丸の内も同じようなものだよという。都市計画とはそういうものか。小さな建築にしか関わらない僕は変に感心する。

<筑波研究学園都市>
1963年(s38)研究学園都市の建設を閣議決定したが、国を挙げてということにはならず、機構整備が出来ないまま時がたち、あの列島改造論を掲げた田中角栄内閣の肝いりによって69年起工式が行われた。それから37年を経た。

「筑波30年の検証 美しい街を未来へ」というのが、今回のJIA(日本建築家協会)2005年度保存問題茨城大会のテーマである。
この一泊二日で行う保存問題委員会と地域会(主として各県単位)共催の大会は15回目(15年前からということになる)を迎えたが、建築家が建築の保存問題を考え、市民や学生とともに事例に基づいて検証していく良い機会となっている。今年は参加者が160名を越えた。

初日は重文になった茅葺屋根の坂野家住宅や登録文化財登録(現時点でなんと104棟)によって街づくりをした真壁の街を見学をし、夜は市長も参加した大懇親会。その後元気者が僕の部屋に集まって深夜まで建築談義。翌朝は都心部のモダニズム建築見学。午後からシンポジウムと言う濃密なスケジュール。
委員会フアンでもあり建築の好きな大勢の市民も一緒だ。言ってみれば何より馬鹿を言いあえる仲のいい友人たちなのだ。思わぬ視点にどきりとさせられることも多い。僕たちにとってこの大会は鋭い市民の受け止め方を身近に感じる良い機会でもあるのだ。

筑波の抱える課題は興味深い。
歴史を経た民家が点在する関東大平野の中に新都市をつくる。
モダニズム全盛の60年代。モダンムーブメントのなかで優れた作品を創ってきた建築家による建築群、まさにモダニズムの手法によって構想された都市の計画はどうだったのか。30年を経てモダニズムはどうなったのか。

都市の中心部に建てられた磯崎さんのポストモダンによる「つくばセンタービル」を、僕は磯崎さんのこの都市へのアンチテーゼと受け止める。僕には好きになれないヒストリズム(ヒストリズムと言い切れるか?)。しかし極めてモダニズム的な機能的・合理的な綿密な計画によって受け入れられている現象、これは正しく磯崎さんの言いたいアイロニーそのものではないか。
パネリストの保存問題委員会副委員長のNさんはこの建築を絶賛したのだが!

テーマの「美しい街」は本当か。創られた都市ブラジリアが世界遺産になったが筑波では到底考えられない。なぜか?

研究機関職員のために公務員宿舎を造ったが、いまや廃墟っぽくなってしまった。研究者は公務員なのだ。そこにこの都市の生い立ちが垣間見える。並木地区では建蔽率、容積率を緩和してこの公務員宿舎(宿舎でなく土地だ)を競売にかけ始めた。高層マンションが建ち並ぶことになり、当然のことながら近隣住民との対立が始まった。

意に反して東京に住む公務員が多くなり、一方ではマンションが乱立しはじめ東京の衛星都市にもなりかねない様相も伺える。EXが拍車をかけるだろう。とはいえ見学した白い壁と、妙な装飾っぽいしぐさが微塵もないモダニズム典型のような公務員宿舎は魅力的だ。メンテがなされていないのでつらいが、僕たち建築家は魅せられるのだ。其れなのに!

幾つかの公務員宿舎住区を見学したがつくられ方は様々だ。
学生がスチレンペーパーで造った模型をそのまま建てたようなRC(鉄筋コンクリート)造による住宅群がある。どうやら街区構成計画時にスケッチされた提案によって予算作成がされ、年度が替わり変更要請が受け入れらないまま建てられたとしか思えない。ディテールがないまま建てられていて思わず吐息が出るが、それでも即物的で心惹かれる。でも住むほうはたまったものではないか!

時間をかけて練られた同じくモダニズムボキャブラリーによる住戸群もある。樹木も育ち手を入れたらどんなに魅力的な住まいになることか。建築家たちは口々にここには住んでみたいという。
何故メンテナンスをしないのか。ここでも存続に対する仕組みの欠陥が露呈している。
そして省みず壊してしまうのだ。

つくば学園都市は、著名建築家による建築コンクール都市だ。
大高正人さんによる1976年に建てられた木材を組み込んだ見事な「体育館・屋内プール」がある。空間構成は代表作千葉県立図書館や日大の図書館に通じるものがあり、壁や天井を構成する木材の肌触りにしびれる。

筑波大学建築群も魅力的だ。槇文彦さんのガラスブロックが変哲もないカーテンウォールに変わってしまうなど課題も多いのだが。
シンポジウムをやった巨大な坂倉建築研究所のガラス建築国際会議場(1999年)もなかなかだ。大きな建築は坂倉だと言うぼやきが聞こえる。
1996年の谷口吉生さんの「つくばカピオ」もいい。周囲の建築への配慮などなにもなされていないが建築自体には眼を細めて見入ってしまう。こうなると周辺など気にならなくなる。つまり無秩序の秩序だ。なんとしたことか。
NYマンハッタンが好きな僕は考え込む。

この都市は建築を考える格好の教材だが、田中理事がついつい洩らした「思想の共有化とルール化は難しい」という慨嘆、単一の事業主体のないままつくられてきた `つくば` 「ポテンシャルの高いことが起こると活性化はするが街が壊れる」と氏が悟った都市、そして経済変化により規制をはずしてバラバラになっていく都市。
TXが開通した `つくば` から眼が離せない。
 






白い大地の建築

2006-02-17 13:06:10 | 建築・風景

新千歳空港のロビーを出て駐車場に向かう。思いがけず柔らかな陽が射している。でも零下6℃。踏みしめる地面は氷状の上に雪が被っているが、新しく買った雪対応靴の威力はなかなかで滑らない。僕を招いてくれたMOROさんは心配して簡易スパイクを用意してくれたが付けなくても大丈夫だ。北海道の人は付けるの?と聴いたら、いや付けませんよと苦笑する。そうだね、面倒だしちょっと格好悪いか、と相槌を打つ。でも付けた感触も味わっておきたかったと帰ってきてから雪の道を思い起こしたりしている。

雪に埋まった余市の運上屋の周りのキュキュと踏みしめる雪の音がよみがえり、はらはらと降り始めた雪、北海道では傘を差さないのだと気がついた。
ともあれ2泊3日の今度の旅は、今僕は北海道の雪の大地を踏みしめているのだと実感する靴底から始まった。

僕は雪の中の建築を視たくて来た。
とりわけDOCOMOMOでも選定し、JIA25年賞大賞を得た上遠野邸が雪に埋もれている様を観たいと思った。そのために北海道に来たのだ。
DOCOMOMO選定プレートをお渡しするのも大切な役目だ。
それと各自がHPなどで調べて「DOCOMOMO Japan」についてのレポート提出を課題にしたMOROさんが指導している建築専門学校の学生の論考を読み取り、優れたものを選び出せという嬉しくも厳しい役割もある。更にPP(パワーポイント)によるプレゼンテーション表現実習発表にも立会い講評せよという、体育会系MOROさんのハードな要求にも応えることになっている。

小樽を抜け余市へ向かう車中で受け取ったずっしりと重いレポートを綴じたファイルを、ホテルの部屋で開いた。来月卒業する2年生と3年生だけでなく、建築大好き学生の同好会「建築野郎」所属の1年生のレポートもある。`建築野郎`だってさ!

読みはじめたら止まらなくなった。幸いトリノオリンピックでの日本人アストリートの不甲斐なさにTVが気にならなくなった。朝5時半に目が覚め残りを鉛筆で書き込みをしながら読み飛ばす。

まとまっていないものもあるが鋭い指摘もあり考えさせられる。
僕だけでなく、Japanだけでなく、例えばDOCOMOMO Koreaという組織でさえ悩んでいるという「保存・再生と創造・開発」つまり建築を創る事についての厳しい指摘。創らなくてはいけないという若者の指摘。「選ばれた建築と選ばれなかった建築」への疑念。100選の「100という数値」、多いのか少ないのかという課題。「何を残すのか」「建築を擬人化」する問題。これは僕がレポート講評時にその危険を指摘しようと思ったりする。
文章は稚拙だったり論旨がふらふらするものもあるが、若者の感性は素晴らしい。
MOROさんはなんと朝の7時半に迎えに来た。寝不足でふらふらしながら教室に向かった。

実験しているのだと上遠野さんの言う鉄骨とレンガで造くられたフラットルーフ。
上遠野さんは僕たち建築家には技術に徹して話を進めるが、同行したMOROさんやYさんが教えている学生たちには、技術にはさらりと触れるだけで、10センチの下がり壁や天井の高さを確認させ、障子やカーテンを閉めたときの光の変化を彼らに味わせる。
敷地の三方は常緑の高い樹木で隣地をさえぎり南面の唐松は冬になると葉を落とし道に雪が盛られて歩く人の頭がレンガの塀越しに見えるようになる。その変化も楽しむのだと言う。

建築談義を聞く、しっくりと身体に馴染む椅子に座った若者たちの密かな感動が僕にも伝わってきて心が震えてくる。建築家上遠野さんの若者への想いと、建築に関われる喜びを感じ取れる学生がなんとも可愛くなってくる。レポートを読んでいるからなおさらだ。

上遠野さんの実験は実は技術だけではないのだと確信する。技術に支えられた建築そのもののあり方へのトライなのだと。
札幌の大地に建つこの住宅は、音もなく降る雪の中で僕たちに向かって微笑んでいるような気がしてきた。

この建築があるから、或いはこういう技術実験や建築そのものへのトライの積み重ねがあるから、北海道の中に四角い箱建築やガラス建築が生み出され、それがしっかりと支えてられているのに違いない。
専門学校の学生の卒業設計発表の会場、札幌コンベンションセンターのガラスによって囲まれた雪のある中庭をみる。雪に寄りかかられても耐えられる計算と雪の処理対策がなされているのだろう。

雪は美しい。厳しいが美しい。
レストランでパスタを食べながら、大きく開かれたガラスの外に拡がる白い大地を眺めぼんやりと建築を考える。
しかしとも思う。そうだとすると北海道の風土に根付く建築をどう考えれば良いのだろうか。小樽には雪が被っているとはいえ辰野金吾の日銀の支店が大阪と同じような様相で建っている。
1時間半にも満たない飛行時間で白い大地に舞い降りた僕の建築感がなにやらふらふらしている。

はばかり文庫

2006-02-10 11:29:08 | 日々・音楽・BOOK

事務所のトイレの壁にカルメンとホセを描いたエッチングがあり、腰掛けると目の前に日経アーキテクチュアから送られたカレンダーが掛かっている。今月の写真は羽田の東京国際空港第二旅客ターミナルビルだ。
左下の床に紙のBOXが置いてあり、そこに建築ジャーナルの数冊のバックナンバーとか建築士会の機関紙やカード会社のTHE GOLDというなかなか面白い月刊誌が収まっている。
これを僕は密かに、「はばかり文庫」と言っている。若者には、はばかりと言ってもわからないだろう。そこがエヘヘヘ、おしゃれだと思うのだけど。

僕のバックボーンになっているJIAや建築学会の機関紙はちょっとここには置きにくいのだが、溢れる本の中でさっと流し読みした冊子を置いておくと、思いがけない発見もあって結構刺激を受けるのだ。

例えば「建築東京」と言う東京建築士会の機関紙には、写真家増田彰久さんの「近代化遺産 カタチ」、下村純一さんの「建築虫眼鏡」と言う見事な写真となんとも魅力的なエッセイが収録されている。
お二人とも面識があり、特に下村さんは高崎にあるレーモンドの「音楽センター」のDOCOMOMOシンポジウムでパネリストになっていただき、コーディネータをやった僕と意気投合したことがあるのでなんとも楽しい。その記述を`はばかり`で読んでいるとは、申し訳ないような、充実した一時を共有しているような不思議な気持ちがする。

今朝BOXから今年の一月号を取り出して開いてみた。増田さんは「フォース橋」というスコットランドにある巨大な橋だ。「初めてこの橋を眼にしたときの感動は今でも忘れられない」とその魅力を余すところなく捉えた写真と共に書き、近づいて橋を見上げて「おお、これぞ産業革命」と訳のわからないことばを発してしまった、とある。思わず丸顔で柔和な増田さんのにやりとした顔を思い浮かべる。

下村さんの論考は更に興味深い。
ライトの帝国ホテルを捉えて<ライトは背が低い?>
大谷石のレリーフが床にまで達しいるのに対する反応。思わずトイレ,いや `はばかり` でうなずく。さらに<写真は、身体を刻印する>とある。二川幸夫、村井修、増田彰久、多くの写真家は概して背が低く、「低い目線は、その分空間の堂々とした拡がりを感知しやすく、結果、建築に魅せられやすい」のだという。

そうか僕の写真が素晴らしいのは背が低いからだ。建築に魅せられやすい?僕のことを言っているのではないか!密度の濃い一時。僕は村井さんとも親しく、二川さんとも縁がないでもないのだが、お三人より僕のほうが背が低いのだ。でも残念なのは、そういう不遜なことは`はばかり`を出るとすぐに忘れてしまうことだ。

昨秋のTHE GOLD10月号をパラパラとめくっていてオヤッと思った。この冊子には建築雑誌とは違う視点で住宅が紹介されていて刺激を受けるのだが、気がついたのは、読者のアンケートを取った「子どもの頃の思い出の本、子どもに読ませたい本」という特集である。

思い出の本の10位にランクされた「フランダースの犬」の、ねじめ正一さんのコメントが秀逸だ。
<おじいさんが死に、放火と盗みの濡れ衣を着せられ、困窮の中、ネロが犬のパトラッシュと共に死んでいく最後のシーンは悲しくてたまらなかった。うちのオクサンは子どもができて子どもたちに読み聞かせていたが、いつも必ずおじいさんが死ぬ場面から後半でオクサンが泣き声になり、そのうち子どもたちは、オクサンの泣き声の読み聞かせが面白くて「フランダースの犬」だけを何度もせがむようになった。
おじいさんの死ぬ場面になると、オクサンの泣き顔を見るのを楽しみにしている子どもたちのワクワク顔を,今でもはっきり覚えている>とある。
ねじめさんはなんと素敵なオクサンを貰い、こどもたちはなんとも素敵なお母さんを持ったものだ。

ちなみに一位は「ちびくろ・さんぼ」だ。これには僕も思い出がある。
この絵本は人種差別だとして一時姿を消したが昨年岩波から復刻された。僕は愛妻と共に何度娘に読み聞かせたことか。幼稚園に入る前の娘はついに覚えてしまい、僕たちは、ぐるぐるぐるぐるまわってバターになってしまうトラの有様を娘が舌足らずで言うのが面白くて繰り返し言わせ、とうとう録音までした。探せばテープが出てくるだろう。

ねじめさんの子どもはオクサンが面白く、僕と愛妻は娘が面白い。その娘も大きくなってお正月になると僕たちにお年玉をくれるようになった。僕は密かに涙しているのだ、よ!
ところで同じ欄に作家柴田ふみの「龍の子太郎」の思い出が書かれている。お乳の代わりに自分の目玉をくりぬいて赤ん坊の太郎にしゃぶらせた龍。龍の目玉ってどんな味なのだろう!だって。
いやあ、こわいなあ!
狭い`はばかり`で僕は思考する。

ちゃんと読もうとはばかりから持ち出すこともあるのだが、僕の文化論考の源は,はばかりにあるのだ。

勝ち・負けるヒンギスのプレイ

2006-02-06 11:56:46 | 日々・音楽・BOOK
準決勝。
密かに感動しながらTVを見ていた。そしてヒンギスが勝った。
スタート時、18歳のシャラポアのただならぬ集中力に眼が釘付けになった。そしてあの見事なスタイルやウエアなどが気にならなくなった。

ヒンギスのプレイには、そういうギラギラしたものがない。
しかしただひたすらテニスをやっているその姿に次第に惹き付けられて行く。僕が驚いたのは解説の伊達公子や松岡修造も言っているように、16歳でウインヴルドンを制したときよりも打っていることだ。といっても叩いているというのではなく、といって返ってくる球に合わせているのでもなく打つ。足が速くて必死に球を追うのでもなく、返球のあるそこにいるのだ。そしてライジィングで制す。返球には心がこもり「その一球が」が続く。
ランキング117位が4位を破っても誰も不思議に思わない。会場の観衆の二人を称える笑顔にそれを見る。
3年のブランクがある25歳のヒンギスに何が起こっているのか。

会場は槇文彦の設計した千駄ヶ谷駅前の東京都体育館。会場の前がなんとなくざわついていて、東レパンパシフィック大会の案内看板にライトが当っている。そうか、やっているのだと気がついた。
僕はテニスが好きだ。テニスをやってもいた。それもかなり。市のシニアのタイトルを取り都市対抗に出たくらいは。脚を痛めプレイから遠ざかると共にこういう大会を観ることも少なくなった。

入り口のガラスを通してライトに浮かび上がる会場の様子が感じられる。
打ち合う球の響きと、プレイヤーの吐く息と、観客のどよめきが聞こえてきそうだ。ここで繰り広げられているドラマ、緊迫はしているものの何処か華やかな女の戦いを想いながら、ふと立ち止まる。一瞬覗いてみようかと思う。そしてそうもいかないと首を振り、その前を通ってJIAの保存問題委員会に向かった。昨夕のこと。準々決勝が行われている。<060204>

決勝
ヒンギスは勝たなかった。
身体の切れがなく、肩も上がらずサーブのタイミングも早い。始まった途端負けるのではないかと思った。
デメンチェワは信じられないくらい素晴らしく、それはヒンギスが引き出したものだ。ヒンギスは打つのではなく打たされていたが、どうあれマルチナ・ヒンギスは勝たなかった。負けたのではなく。
相手を称えるとは言い難い、と言って苦笑とも言い難い、終わってからのヒンギスの微笑がそこにあった。<060205>

Iビルよ。永遠なれ!

2006-02-02 16:27:42 | 建築・風景

1月26日は僕にとってもIさんにとっても特別の日だ。
1985年1月26日、新横浜に建てたIビルの竣工式が行われた。Iさんの誕生日で大安だった。
以来僕たちは21年間1月26日前後の土曜日の午後6時、Iビルの8階につくったIさんの別邸に集う。

僕たちというのは、設計をした僕。工事を担当したM建設のOさん。彼は北大建築学科のOBで余市の生まれ。剣道4段の体育会系好男子。当時はぺいぺいの現場員だったが,今では大きな現場を仕切る大所長になった。それに新横浜の不動産を担うMさん。彼は僕をIさんに引き合わせてくれたHOさんの2代目だが、当初からのメンバーだ。僕のクライアントでもあり、グルメでもあり、飲み友達でもある。
それに清掃などの管理を委ねるUMEさん。彼は新横浜で僕の設計した全てのビルの清掃を担い、彼抜きにして僕の新横浜はない。
このところ常連になったAさん,Mさんのサポーターだ。彼女は僕の大学の先輩かと思ったら後輩らしい。年を明かさない彼女の若々しさ?(? いや失礼)に敬意を表して、飲むと僕は先輩風を吹かしてえらそうなことを言うことにしている。

集うメンバーは、定年になって退職して故郷へ帰った人がいたりして多少変わったが、皆このビルの建設や管理やテナント対応などで縁のある人々だ。

21年前僕はこのビルを、グレーのタイルで覆いたいと思った。日本の街が白や茶で満ち満ちていたからだ。
えーっ!グレー、灰色?と難色が示され、それでは事例をと、INAXをはじめメーカのデータリストを見せてもらったりしたが、京都の電電のビルなどといわれてサンプルを見ると、グレーとはなっているもののアイボリーグレー調で納得できる色ではなかった。数年後、日本のオフィスビルがグレーに染まっていくことを考えると、僕の感性を自画自賛(誰も褒めてくれないので)したくなる。

まあ仕方がない、それではちょっと建築を観て歩こうとIさん一家と車に乗って東京を回遊し、山下和正氏のペガサスビルと同じ色にすることになった。艶のないベージュ。
ところが数日して敷地の前で工事をやっていたビルのシートがはずれ、なんと同色のベージュが現れた。その瞬間Iビルがグレーになった。サンプルを焼き、黒に近いダークグレーにした。

Iさんの子息Tさんから弾んだ電話が入った。横浜線を跨ぐ路を走らせたら黒いおしゃれなビルが表れた。おお!新横浜にもこういうビルが建つようになったかと親父と話していたら、なんと足場の外れたうちのビルではないか!僕はこの電話の一瞬を、多分死ぬまで忘れない。
今では数多くの建物が建ち、こじんまりとしたその姿は近寄らないと観えなくなってしまったが、当時はまだ野っ原の、新横の街に黒が屹立(格好良すぎるかな)したのだ。

実は集うといっても、I一家総出でつくって下さる手料理をご馳走になるのだ。
定番がある。
まずごまめ黒豆や数の子が出てくる。そこで乾杯。市場まで出向いて手に入た中トロやいかの刺身。うーん!思い出すと唾がたまる。サラダ。今回は細いソーメンサラダだ。奥さんの煮物。今年は里芋。絶品としかいいようがない。そのほか2,3品あってなんと言っても鳥ももの照り焼き。油が乗っていてこれも思わず溜め息が出てしまう。これだけは我が家では食えない。我が愛妻が鶏だめなので。おつゆと最後に小さく握ったおにぎりが!なにせTさんの嫁さんが米所、味所の秋田の出。
馴れ初めを聞かされたものだ。いや好奇心旺盛な僕達が、根掘り葉掘り聞き出したのかもしれない。新年を迎えるとメニューを考えはじめ、一週間掛けてお料理を作る。幸せな僕たちだ。

お酒!実はこれが目当てでもあるのだ。
Mさんの、井波の親戚の造り酒屋が、毎年新酒を桶から汲み取って送ってくれる。焼きを入れない原酒。まあちょっとやそっとでは飲めない酒だなあ!と自慢してるみたい。自慢してるのだけど。
今年はこの寒さのためか出来がよい。毎年同じことを言っているような気がするなあ・・・

今年は1月28日だった。UMEさんが体調を崩して今年は居ない。チョット心配だ。当主のIさんも足の調子はよくないが、飲み食いは極めて快調だと奥さんに向かって煙幕を張る。
昔は明るい時間に集合し、屋上から一階まで検査をした。しかし時を経ていつの間にか歓談の為だけに集まるようになった。見なくてもメンテは皆が自分の役割を心得て素早く対応してくれるからだ。それになんといってもIさん一家は土曜日になると本家から此処へ集まり掃除をする。外壁のタイルまで雑巾がけをしてくれるのだ。
僕はいつのころから集合写真を撮るようになった。モノクロだったが今ではデジタル。アーカイヴだ。

二人のお孫さんはヨチヨチ歩きだったのに上は大学生になった。竿縁天井に組み込まれた白熱球に光る頭がなんと4人。それもまた格好の話題だ。変わらないのは僕とUMEさんだけ。髭が白くなったのを僕は自慢する。奥さんは白髪になり格好良い。
八畳のお座敷から見るバルコニーの小さな和風の庭に咲いた一輪の赤い椿がきれいだ。僕の友人の庭師の会心の作庭。雪を被った年もあったけ。
Oさんよ、余市の町長になれ!などとたわいのない馬鹿を言いながら楽しい一夜は過ぎてゆく。

Iビルよ、永遠なれ。

<写真 迎えてくれるIビル>