日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

旅 トルコ(15)今は昔、でも好奇心が触発される旅だった

2007-05-16 17:06:44 | 旅 トルコ

イスタンブールには、1933年からのおおよそ2年間日本に滞在した後トルコに移住し、1938年12月24日客死したドイツの建築家、ブルーノ・タウトの住んだ旧自邸がある。
僕はタウトが日本で建てる機会を得た2軒の建築のうち、唯一現存する「旧日向別邸」の建つ熱海市の日向邸に関する委員会などに関わっているので、非公開とはいえ表からだけでも見たいものだと思っていた。DOCOMOMOの大会の前に事務局からDOCOMOMO Turkeyへ見学の打診をしたが、まったく返事が来なかった。

大会会場で手に入れたトルコのモダン・ムーブメントの建築ガイドには、建築名は書いてあったもののプライバシィに関わる建築案内は注意深く削除されていて、残念ながら見る機会を得られなかった。
この大会はDOCOMOMO Turkeyの主催によるものだが、お別れパーティがオランダ大使公館で行われるなど、トルコの影が薄いのがちょっと気になった。国際関係は難しい。

ところで旅に出るといつも買わずに帰ってからしまったと思うことがある。なぜかふと`けち`になってしまうのだ。そして、帰ってきてからあーあ!と溜息をつく。
今度の旅でも地下宮殿を出るところにあった売店で、トルコ音楽のCDを買わなかったのが悔やまれる。

トルコの旅。トルコへ行くのだ、と思ったときに描いたベーリーダンスも見なかったし、篠田夫妻が思い出してはうっとりした顔をして夢のようだったと語る、旋回する舞踏も見なかった。でもそれはいいのだ。一人で観るってなもんじゃないような気もするし・・・
トルコは、ことにイスタンブールは、その音楽なしには空気を味わえない。トルコを語れないのだ。と思うからだ。

バスに乗っても、タクシーの中でも、ホテルのテレビからも流れてくる音楽、屋台の叔父さんが街行く人に呼びかける声もリズム感があり音楽のようだ。全てが街の喧騒と一体になるが、のどかな景色の中ではゆったりと永久の響きのようにも聞こえる不思議な旋律。新しくても時を感じる音楽、声。
今は昔、おなかを壊し、2,5キロ体重が減った旅、心もとない一人旅、だけど好奇心が触発された旅、僕にとってのトルコはそういう国だった。

<この紀行を書き終えるのに半年もたってしまった。DOCOMOMOの大会の様子を書いた文章も組み込んで、後日構成を整えたいと思う>




旅 トルコ(14) 垣間見たトルコの抱える問題

2007-05-10 17:06:20 | 旅 トルコ

トルコへ行く直前、イスタンブールで爆破テロが起こった。一瞬出立をどうしたものかと戸惑った。そのほぼ一月前の8月27日にもイスタンブールと、エーゲ海に面した観光地マルマリスで計4件の爆発があり27人が負傷している。その翌日の28日トルコ南部のアンタルヤでも爆発が起こり、3名が死亡、数十人が負傷したという。アンタルヤは地中海に面したリゾート地で、観光客でにぎわう都市だ。

「クルディスタン開放のタカ」を名乗る組織がインターネット上で27日の事件について「トルコは安全な国ではない。観光客は来るべきではない」とする声明を出したと朝日新聞が伝えている。
観光はトルコのドル箱産業である。真偽は不明だが、反政府武装組織PKKがクルド人による独立を求めて武装闘争を続けており、トルコ軍が掃討作戦を行っているが、観光地の爆破は政府に打撃を与えるためだろうと報道された。

トルコは共和国建国以来80年以上にわたって国是としている政教分離の世俗主義と、国民の大半が信仰しているイスラム教との亀裂が起きている。EU(欧州連合)加盟を目指しているが政治の場でのイスラム化が難しい問題を引き起しているのだ。

EU加盟のもう一つの課題はキプロス問題だという。地中海にある島国キプロスは、ギリシャ系キプロス共和国と北キプロストルコ共和国に分裂して対立し、トルコは北キプロスを承認したが他国は拒否し、北キプロス共和国は2004年5月に単独でEUに加盟してしまった。それを受け入れたEUへの反発から過激な民族主義が台頭し始めている。
僕が国策だと感じたイスラムの都市風景にはこういう難しい問題が内在しているのだ。

イスタンブールにある日本領事館はテロを恐れて中心街から離れた高層ビルに移転した。
この領事館は大使館が首都アンカラに移った後もイスタンブールに残ってつかわれていた。オスマン朝末期の様式を伝える木造建築で文化財にも指定されている。
その建築が売りに出されたという。親日家として知られる研究者たちがその価値と保存を訴えるために、2006年末日本を訪れた。
「建築学的に重要なだけでなく、日本との友好、知的交流の証、それを売るなんて日本はそんなに貧しくなったの?」とは日本近代史の研究者ボアジチ大学のセルチュク・エセンベル教授の言葉だ。

こういうシビアな事態を垣間見た二つの事例を書いておきたい。
早朝に着いたイスタンブール、アタチュルク空港の出国の列がなかなか動かない。数人の検査官が現れ二人の男を連行した。「良くあるのよ・・偽のパスポートが露見して密入国者が捕まった」のだと、僕の後ろにいた日本人の団体客を案内しているガイドがいう。
僕は彼女のコトバを聞き、異国に来たことを実感し、さりげなくこのガイドが引き連れる観光客の後ろにくっついて薄暗く閑散としている両替所に向かった。

アンカラ空港で爆破があった。
イスタンブールの空港で篠田夫妻と待ち合わせ、アンカラで行われるDOCOMOMOの総会にむかう。そのアンカラ空港で篠田夫人がトイレに行った。なかなか戻らない。空港の出口が閉鎖された。篠田さんが心配して探し回ったがいない。十数人が取り残されたが突然出口の外で爆破音が起きた。

しばらくして正面のガラスの扉が開いた。篠田夫人が駆けてきた。ちょっと表を覗こうと思って裏口を出たら扉が開かなくなって戻れなくなり、離れて待機するように言われたという。不審物(もしかしたら不発弾)を爆破したようだ。
なぜか空港の係員も待機していた旅客も平然としている。

実はこうやって僕のイスタンブールとアンカラの旅が始まったのだ。

<写真 今振り返ってみると、ことのほか面白かった新市街の裏通り>

旅 トルコ(13)イスタンブール歴史地区を歩く③ アナソフィア踏み石の光

2007-05-02 20:14:44 | 旅 トルコ

すぐ隣のキリエ博物館で絨毯に見ほれた後、西暦360年、つまり気の遠くなるような今から1750年ほど前に建てられたギリシャ正教の大本山だったビザンツ建築の最高傑作といわれるアヤソフィア博物館に足を運ぶ。

この建築は漆喰で塗りつぶしてイスラム寺院として使われていたが、元に復しアタチュルクによって博物館として公開されるようになったのだ。
ガイドブックには「時代に翻弄されて幾たびも姿を変えた」と記されている。この17文字でトルコの苦難の、或いは豊かな文化を汲み取れるような気がした。
2階が回廊のようになっていて、上がっていくスロープの石がまったりと光っている。どれくらいの人々がこの石を踏んだのだろうか。

トプカプ宮殿にも足を伸ばした。様々な部屋のタイルに眼を奪われながら歩き回ったが疲れた。川の様に見えるポスポラス海峡を行き来する船を見ながら、階段を少し下りる野外レストランに目をやる。
日差しが強く、腹の調子もよくなく、ここでゆっくり昼食でも食べると楽しいのだがと思ったものの、混雑している中での相席はちょっと辛い。テンションが下降してきた。

誰も座っていない日陰になっている建物の基壇に腰を下ろした。ぼんやりと行き交う人を見る。グループを組んでいる一団も沢山いるが、年輩の夫婦も多い。中年の男性と若い女性のカップルもいる。親子ではなさそうだし果たして、なんてトルコまで来ておかしなことを考えている。此処にはなぜか日本人がいない。ふと気がついたらいつの間にか僕の周りは、休む人で一杯になった。俺は一休みの先駆者だ、と変な自慢をする。

大貯水池だった地下宮殿で、滴り落ちる水滴を楽しんだ。目にすると石になるという伝説のある有名なメドゥーサ像に見入る。
ここが造られたのが4世紀から6世紀といわれているが、コリント様式の柱で組まれたこの空間は魅力的で、この貯水池が宮殿といわれるようになったのもうなずける。貯水池の柱にまで装飾を刻むのだ。ロウソクの灯された喫茶コーナーでコーヒーを頼んだ。なぜかチャイでなくコーヒーを飲みたくなったのだ。

昼飯は抜きだ。そしてその後ガラタ橋のそばにある広場の夕暮れのなかで行き交う人々を見ながら、屋台の「HISTORICAL FISH&BREAD」を食うことになる。(本稿4を参照ください)
これで僕のトルコの旅は終わった。


旅 トルコ(12)イスタンブール歴史地区を歩く② トラムヴァイでブルーモスクへ

2007-04-28 22:29:15 | 旅 トルコ

最終日は初日に歩いていないイスタンブールの歴史地区の建築群を見ることにした。帰りの飛行機も夜行便なので時間はたっぷりある。
ペラ・パレスをチェックアウトをし、バッゲージをホテルに預かってもらって、世界最短といわれる地下鉄テュネルに向かう。初日は間違って反対方向に歩き出してしまったが今度は大丈夫。ベラ・パレスとガラタ橋の間の急な坂道を息を切らしながら登り下りしたものだが、登山電車のようなこの地下鉄は一駅しかなく3分で着いてしまう。賃料はたったの1YTL。

ガラタ橋の手前にあるカラキョイでトラムヴァイに乗り、ブルーモスク(スルタンアフメット・ジャーミイ)の近くスルタンアフメット駅へ行く。みやげ物店の連なる中を軒を接して走るモダンな路面電車が、千数百年の時代を繋いでいるようでいい風景だ。この辺りが旧市街の中心地で、朝の10時なのに大勢の人で一杯だ。

歩き始めてすぐ気がつくのは、歩道が石敷きで、ピンコロといわれる小ぶりの白い花崗岩でも様々な組み方がしてあり、道が模様で溢れていることだ。模様つまり装飾を廃して工業化製品を使いながら新しい美意識のもとで、時代を切り開いていったモダニズム、その魅力を伝えたいと思っている僕ではあっても、徐々に道から始まる多彩な装飾の虜になっていく。どちらも素晴らしいのだと実感できる。しかしこの模様を培うのは時間なのだということも、それもどうあれ人の業なのだということも同時に見えてくる。

ブルーモスクでは子供たちに囲まれて口々にホワットイズユアネームと聞かれてにぎやかに楽しんだが、引率の先生に呼ばれて子供たちは「じゃーねー」(とは言わないか)と手を振って駆けていった。
この壮大なイスラム寺院は、青を主体とした2万枚のイズミックタイルで内壁が飾られていて、ブルーモスクと愛称されて観光客に喜ばれているが、様々なドームで組み立てられていて260箇所もあるという小窓のステンドガラスからは、柔らかな光が注ぎ込まれている。

礼拝している人々がイエニ・ジャーミーと同じようにひとところに集まって一人の男性の歌うようなコーランに聴き入っている。聞き入っているのではなく一緒に祈っているのだろうか。微かに反響するがいい声だ。壁と向かい合って一人で祈りを繰り返している人もいる。宗徒と観光客が、違和感なく院内に満ちている。

初日に見学したガラタ橋の前に建つイエニ・ジャーミーの内部空間の素晴らしさの虜になってしまったので、ブルーモスクとはいえ特に興奮することもない。大きな空間の中心に、ワイヤーでつるされた照明器具が大きな円形に配置されているのは、どのジャーミーに行ってもほぼ同じだ。そして時間が来ると塔に取り付けられたスピーカーからコーランが鳴り響く。
聴いていると、これはイスラム教国トルコの国策なのだとつくづく思う。それがごくごく当たり前のようスーと僕たち観光客の心にも入ってきて、数多くの寺院やバザール、路地で行き交う人々の衣装や交わす言葉、つまりトルコをなんとも好ましく思ってしまうのだ。

でも朝の5時半からの鳴り響くコーランに「冗談じゃない、これではとても寝ていられない」とブルーモスクの近くの宿を引き払った建築家がいる。大会に参加した理科大学の山名准教授だ。朝びっくりして飛び起きてしまったらしい。身振り手振りの言い方がユーモアに溢れ、その有様を思い描き、僕たちは思わず笑ってしまった。DOCOMOMOの総会の初日、Japan会長鈴木博之東大教授のプレゼンテーションの後、アンカラの飲み屋で皆で一杯やったときのことだ。

(写真 ペラ・パラス最上階EVホールとトラムヴァイ)

旅 トルコ(11) イスタンブール歴史地区を歩く①イエニ・ジャーミィから

2007-04-26 14:49:37 | 旅 トルコ

イスタンブールの旧市街、つまり世界遺産になっている歴史地区にも触れよう。
このトルコの旅は、DOCOMOMO世界大会に参加するために出かけることにしたのだが、イスタンブールという名前を聞いただけで心が動いた。

ヨーロッパとアジアの入り混じった街。かつてスパイが暗躍し、アガサクリスティの愛した都市。街の喧騒とともにベリーダンサーの妙なる肢体が目の前に浮かんできたりする。冒険・スパイ小説に少々毒されていると我ながら思うが、帰国して半年も過ぎるとさすがに印象が少し薄れてきたものの、それでも書き記したメモや撮った写真を見ると、一つ一つが鮮やかに蘇ってくる。

帰ってきて感じたのは、僕たちが行こうが行くまいが、トルコはトルコだということだ。イスタンブールもアンカラもカッパドギアも。
そこに行けば変わらない姿でいつもそこにある。時が紡ぎだしてきたそれが歴史なのだろうか。
その感慨は日本の街、つい最近訪れた沖縄や金沢や札幌、そして京都、1300年を経た法隆寺の建つ奈良などとも少し違う。異国からの旅人の僕をすぐに同化させてしまうエネルギーと無頓着な深い懐とでも言いたくなる街。ニューヨークでもない街。コーランに満ち満ちているが、それさえも僕のもののような気がしてくるから不思議だ。

ところでイスタンブールを歩いたのは初日と最終日の2日間である。
初日は、ホテル ぺラ・パラスを出た後新市街に迷い出てしまったが、今となってはそれも楽しいことだった。
現代美術館のレストランで食事をした後、トプハーネ駅から路面電車トラムヴァイに乗ってガラタ橋を渡り、エミノユで降りる。
乗り方がわからないので、駅の前の広場の石垣に腰掛けてぼんやりと様子を窺っていたら、後ろの椅子に腰掛けていた叔父さんが近寄ってきた。何を言っているのかわからないが、そのうち写真を撮ってくれという。立ち上がって2枚撮ったもののそれだけだ。不思議が始まる。

アナソフィアもブルーモスクも素晴らしいが、僕が最も感銘を受けたのは、ガラタ橋の前に建つ1663年に完成したという「イエニ・ジャーミィ」だ。両サイドに塔が建ち大きなドームと小さいドームのバランスもいいが、内部のドームに張られたタイルは繊細でえもいわれぬ美しさだ。
壁を背にした片隅に大勢の人が座っていて、中心にいる人が見事なバリトンでコーランをうたっている。それがドームの中に累々と響き渡る。
一廓の天井のタイルを筆を持って4人の女性が修復していた。昔見せてもらった日光東照宮陽明門の修復工事を思い出す。ここもこうやって歴史を伝えてきたのだ。

隣にあるエジプシャンバザールに入りその賑やかさ、その店員のノー天気な明るさに思わずにやりとしてしまう。そうだここでお土産を買ってしまおうと思った途端、つい店員に乗せられた。お菓子をつまみ口に入れる。美味いじゃないか。数箱に分けて様々な種類を詰めてもらうことになった。まあいいか!

人をかき分けながらこのバザールを抜けて、坂を上ってスュレイマニエ・ジャーミイに行く。ガラタ橋からイエニ・ジャーミィとその背後の丘の上に見える姿がとても美しかったからだ。ここは人が閑散としていてそれはそれで居心地がよい。
庭に出ると付属屋のドーム屋根の修復をのんびりやっていて見とれてしまった。

イスタンブールは喧騒に包まれて活気に充ちているが、時間が止まっているなあ。
はてドームはこんな土(?)を固めてできているのか?

旅 トルコ(10) アンカラ城と子供たち

2007-04-07 09:58:05 | 旅 トルコ

トルコの首都アンカラの歴史は興味深い。
620年余りも続いたオスマン朝が衰退し、後に「トルコの父・アタチュルク」と呼ばれるムスファタ・ケマルは革命を起こし、分割して植民地化を図る列強から国を守ってトルコ共和国を成立させ、アンカラを首都と定めたのは1932年である。

当時の人口は6万人程度の小都市だったが今では33万人、都市計画を着々と行って首都としての機能を整備してきた。でも空港はそこらのローカル空港並みだし、豪雨に見舞われると水が街路に溢れてしまう。しかし述べてきたように新国際空港は建設中だし、再開発が猛烈な勢いでは郊外に広がっていることが窺える。勢いがある。

でも僕の関心事は、アンカラ城とその周辺に残る村落(街並み)だ。
小高い丘の上に建つアンカラ城は、7世紀のローマ時代に築かれたというから気の遠くなるような時を経てきたのだ。朝食の後チェックアウトをし、バッグをホテルに預けて歩き始めた。まだ店も開いていないがアタチュルク像のある広場には人がいる。ベンチに座ってなんとなく路行く人を眺めている。

僕はまず石段を登ってアンカラ城に入った。城壁の上には既に人がいて、僕がぶらぶら歩いていくと手をふる。招いているようだ。眼下に広がる赤瓦の連なる町の風景は絶景だ。凄いと思いながら近寄っていくと2人の若者が僕のカメラで写真を撮ってくれという。撮ってもあげる事ができないのにと思いながらシャッターを押すと、ありがとう(サーオル?)と深々と頭を下げられた。Why!

かごを手に持った女の子が僕を見つけた。来るなあ、と思ったらやはり来た。階段を上って城壁の天辺まで。
ビーズなどで作ったネックレスやブレスレット、トルコではやっているらしい一眼のブルーの玉がトルコらしくてなかなかいい。どれでも一つ1YTL。可愛い子だし10個購入。それでも1000円に満たない。写真撮って良いか?と聞くとうなずいたがニコリと笑ってはくれなかった。
どうしようかと考えたが、地図を見てわからなかった「アナトリア文明博物館」の場所を聞いた。
「ミュゼイ」というと通じた。困ったような顔をして城壁の上からから大体の方向を指差すので、ああ、あのあたりかと思い塔を指してオーバーザモスクというとうなずいた。密かな交流だ。

僕が魅かれたのは土や漆喰で作られた民家の連なる街並み。木の扉が開いているので覗くと、庭があったりする。日本ではなく中国の四合院でもないヨーロッパ風の、やはり村落ではなく都会の中の街だ。
スカーフ(ターバンといっていいのかなあ)を巻き、ロングスカートをはいたおばさんたちが路端会議をやっていて廻りを子供たちがはしりまわっている。思わず立ち止まって眺めていたら、「ホワットイズユアネーム」と声を掛けられた。そして「マイネームイズ・・・」と口々に自分の名前を言う。にこやかに単語のやり取りをした。小学生だ!そうか今日は日曜日、休みなのだ。

トルコの子供は人懐っこい。いや大人もそうかもしれないが、僕がぼんやりしていると子供たちに囲まれる。イスタンブールのブルーモスクでは先生に引率されてきたらしい6,7人の中学生に取り巻かれた。まず第一声は同じく「ホワットイズユアネーム?」。
学校で習っている英語を試してみたくてしょうがないのだろうか。口々に自分の名前を言った後「ホワットイズユアジョブ」がそれに続く。「ハウデュユーシンク?」と返すと口々に言葉がほとばしる。

そのときの子供たちの生き生きとした顔と、ほのぼのとした空気が僕の目の前に浮かんでいる。

旅 トルコ(9)三つのホテル

2007-03-31 10:56:34 | 旅 トルコ

イスタンブールでの「ベラ・パラス」、アンカラの「ラディソン・サス」そしてギヨルメ村の洞窟ホテル「ケレベッキ・ブティック」が僕の泊まったホテルである。どれも知られている一流ホテルだったことはコトバの不自由な僕にとってはありがたいことだった。予約してくれた藤本さんに感謝しなくてはいけない。

ベラ・パラスでは航空券を見せて「リコンファーム、プリーズ」を繰り返したところ、しょうがないねという顔をしながら、それでもにやりとウインクしてトルコ航空へ電話してくれた。旅行社のいない一人旅のリコンファームは結構厄介なのだ。まずトルコ航空を探すところから始めなくてはいけないからだ。
ラディソン・サスでは僕のしどろもどろの英語に困惑しながらもちゃんとバスの席、それも窓際を取ってくれた。

ケレベッキ・ブティックでは翌朝フロントのおばちゃんがニコニコしながら僕を招く。何だと思ったらノートパソコンに日本語のメールが来ているのだ。心配した藤本さんからの大丈夫か?と言うメッセージ。なんと日本語のフォントがPCに入っているのだ。いやいや皆僕が一人で大丈夫かと心配してくれている。うれしいやらなんとも情けないやら!

アール・ヌーボー装飾に満ちたベラ・パラスはアガサ・クリスティの定宿として知られているが、グレタ・カルボやマタハリのネームの掛かっている部屋がある。ぼくの部屋には、モンテネグロの首相が泊まったようだ。
物珍しげにプレートをたどっていたら年輩の男性が現れて手招きされた。共和制を築き上げた近代トルコ建国の父「アタチュルク」の部屋を案内すると言う。

アタチュルクの泊まったことがベラ・パラスの誇り、ステータスになっているのだ。部屋には様々なパネルが展示されている。見入っている僕をうれしそうに見ながらもなんとなくもじもじしている。そうだ、チップだ。ポケットを探ってあせった。金がない。コインなど在るだけのお金を渡した。その様を可笑しそうに見ていてそれでもニコニコしてうなずいてくれた。後日篠田夫妻が「アタチュルクの部屋を見たぜ」と言うので僕も、と言ったら40YTLだったという。えーっ僕は7YTLと返したら愕然としていた。どんなもんだい!

アンカラからもどって再度泊まったベラ・パラスの今度の部屋は最上階、屋根裏部屋風でなかなかよろしい。チンとベルを押すとボーイ(おじさんだけど)がエレベーターを動かしてくれる。そのエレベーターの籠はアールヌーボースタイルの鉄のバーでできているのだ。

「ラディソン・サス」は最新の超高層ホテルである。地下鉄ウルス駅に隣接しているし、アンカラ城へも歩いていける便利な場所にある。
初日は予約どおりツインベッドルーム、ギヨルメから戻ってきてどっちにするかと問われたので、これも体験だとラージベッドルームを選んだ。それがなんとも・・風呂がなくシャワールームのみ、それが透明ガラス張り、いわゆるその手のつくりなのだ。コンベンションルームもある大ホテルの部屋がねえ、と世界は変われど男女の世界は変わらないものだとなにやら安心した。

やることがないので部屋に入った。だんだん薄暗くなっていく。バスもトイレも奥にあるので真っ暗だ。何しろ何だかわからないけど電気が来ないのだ。まあしょうがないやとベッドで横になる。20分ほどボートしていたらぱっと電気がついた。見上げた天井のライトアップされた鑿(のみ)の跡が突然現れた。ああこれが洞窟ホテル。ニコニコしたおばちゃんのいるアットホームなホテル、カッパドギア・「ケレベッキ・ブティック」だ。

<写真 洞窟部屋とフロントのおばちゃん>

旅トルコ(8) ギヨルメ村を歩く

2007-03-04 11:56:08 | 旅 トルコ

12時の帰りのバスの予約をした。
6時からアンカラのスエーデン大使公館でのDOCOMOMO大会お別れパーティーに参加するつもりなのだ。バスの旅は5時間掛かるのでこれがぎりぎりの時間。ところが戻ったアンカラは雷雨で市内は水浸しだった。
バスとタクシーが衝突したり、道の真ん中にエンジンが止まって放置してある車が何台もある有様で酷い交通渋滞を起こしていた。乗ったタクシーの運転手の奮闘にもかかわらず1時間たっても行き着かない。ついにOK、OK、Come Backというと、一瞬本当に良いの?となにやら申し訳けなさそうな顔をしたので、僕はいいんだとウインクした。なんと帰りは15分、こんなに近かったのかと思ったものだ。インフラ整備がいまいちの首都の一面を垣間見ることになった。それも一興、興味深い街である。

さてこの午前中をどうしようか。さすがにタクシーやバスを使って地下都市を訪ねる度胸はなく、街(ギヨルメは小さい村だけど木造家屋の日本の村とは趣が違い、街と言いたくなる)を散策してみようと朝のコヒーを飲みながら昨夜の興奮を思いだした。探検するのだ。

昨夜電気が来ないのだとホテルのお兄ちゃんに言われてどうなるのかと思ったが、7時になってパッと電灯がついた。ホテルだけでなく闇に包まれていた街が突然現れたのだ。ディナーを食べるホテルのテラスから眺めるライトアップされた街の石の塔の幻想的な姿に呆然とする。節電のためとはいえ(なぜかそうだと聞き取れた)上手い演出、さすがに世界遺産の街だ。好奇心が湧いてくる。

僕の怪しげな英語をニコニコして聞いてくれ、何も言わないのに、宿泊が僕一人になったので泊まり賃を安くしてくれたふっくらとして優しいフロントのおばちゃん、もしかしたら経営者。チェックアウトをして思わず握手をする。ふんわりと良い気持ちになって歩き始める。

街並は傾斜地をうまくつかった住まいやホテルで構成されていて、ところどころに塔がある。そこが刳り貫かれたり傾斜地が掘られて洞窟部屋になっているのだ。石で組み立てられたどの建物もシンプルな装飾がありしっくりと街に馴染んでいる。木の扉にはグリーンやブルーが塗られていた様だが、すっかりかすれていて風情がある。そういう街なのだ。

人とほとんど出会わない。こういうところを歩く観光客なんていないのだろう。たまに出会うのはそこで生活している人だ。僕を見ると何故なのだろう、皆微笑んでくれる。この時期はOFFシーズンなのかもしれない。どうして大会をラマダンの時期にしたのかと不審に思っていたのだが、ホテルも空いているし何かと具合が良いのだとやっと気がついた。

坂道を登って街を見下ろしその先の岩の立つ風景を眺めた。街は細い川を挟んで広がっている。中心地には平屋建ての学校もある。役場もある。その川を挟んだ反対側の閑散としている坂道を登ってみた。洞窟があったので覗いてみる。壁面は真っ黒に塗られているが中にオーダーがある。上に小さな窓(孔)があいているので中は明るいのだ。集会場だったのだろうか。こういう空間体験は初めてだ。

家を造っている人がいた。石を積み上げていくのだ。コンベックスで寸法を測りながら石を選び、なんと差し金で線を引き平鏨(ひらたがね)ハンマーで削り取って長方形にする。やわらかい石なのだ。それにしても引いた線とは1ミリとは違わない業に見ほれた。ユアハウス?とそっと聞いてもニコニコしているだけだ。トルコ語ではないからなあと思いながらカメラを指してOK?というとうなずいてくれた。
のんびりした家造りだ。でも鉄筋を入れない。モルタルも使わない。ただ積んでいくだけ。ふーん、この街の建築はこうやって造られているのだろうか?地震なんてないのだろうか。

イスラムの帽子をかぶったおじさんと出会った。僕のカメラが気になるようだ。ファインピックスS2プロ。レンズがニコンの17-55、F2.8の大型なので目立つのだ。トルコ語はわからないけど言っていることはわかる。カメラを渡してファインダーを覗かせてあげる。ズームを動かす。びっくりしているのが微笑ましく僕もうれしくなった。写真を撮らせてもらう。良い旅の思い出ができた。

旅トルコ(7) 奇岩「野外博物館」

2007-02-23 15:06:03 | 旅 トルコ

カッパドギアってナンだろう。
キノコのような奇岩がにょきにょき建ち、地下都市があることは知っていた。しかし何故?

5時間を掛けて大草原を走ってきた標高1000メートルになるこの地帯は、アナトリア高原といわれる。
数億年前に起きたエンジェルス山の噴火によって堆積された火山灰と溶岩が侵食されて、奇岩が林立する風景になったのだそうだ。これも帰ってきてからガイドブックを改めて読み返してなるほどと思った。
どうもギヨルメへ行くことだけが目的のようなおかしな旅になってしまった。良い旅のしかたではないかもしれない。でも先入観がないので発見だらけだ。言い方を替えれば僕の感性が試される。

ケレベッキ・ブディックホテルへチェックインして岩を掘って造った部屋を見せてもらい、さてどうしようかとガイドブックをめくる。
この村の見所は「野外博物館」だ。村の中心バス停辺りへ坂を下り地図を見ながらぶらぶらと歩き始める。絨毯屋が軒を連ねている。なるべくそちらへ目を向けないようにするが、声を掛けられると「やあ」とかなんとか言いながらニコニコと手をふる。

街外れに案内看板が立っていて矢印があり300メートルと書いてある。それが・・途中で間違ったのではないかと頭をひねりながら20分も歩いた頃ショッピングモールが現れた。1キロはゆうにある。
入場受付所でコインを買い、自動入場機にコインを入れる。博物館といっても幾つものとんがった奇岩を巡るのだ。

大勢の観光客がのんびりと見学しているが、この岩の中がくりぬかれていて天井や壁にフレスコ画が描かれている。4世紀前後からキリスト教の修道士が外的から身を守りつつ住み付き、キリストを描きながら信仰を守ったのだ。バカンスでトルコを回っているという一人旅の韓国の女性と、片言の英語を交わしながら幾つかの洞窟を巡った。

フレスコ画はブルーが基調だったり朱を多用したりして一つ一つの趣が違うがどれも魅力的だ。ギリシャ正教の大本山だったイスタンブールのアナソフィア博物館が、イスラム寺院に改宗されながらもその姿を大切に受け継いできたように、この洞窟もキリスト教修道士信仰の場の姿を見事に保存してきた。偶像崇拝を禁じてきたイスラムでありながら、この懐の深さは素晴らしい。

帰りはビザンツ美術の逸品といわれる、やはり岩を掘ったトカル・キリセ教会を覗いたり、道の右側の傾斜地に点在する奇岩を、これは一人で巡った。ギヨルメの岩はキノコ状ではないのがちょっと残念だ。
さてこれからホテルへ戻って一杯やりながらトルコ料理を食い、洞窟ホテルの夜を楽しむのだ。


旅 トルコ(6) カッパドギアへ

2007-02-01 13:20:04 | 旅 トルコ

アンカラからカッパドギア・ギヨルメ村に行くバスの旅は、ステップという大平原を横断する旅だった。一つ手前の街ネヴシュヒルを過ぎると、突然奇岩が現れる。延々と続く草原に呆れていただけに刺激的で思考回路が瞬時切断される。

バスターミナルを出た途端僕の乗ったバスは膨大な再開発中の街を走り始めた。柱と梁のラーメン構造による工事中の躯体が路の両側に林立している。
トルコの首都でありながらアンカラ空港は国際便もない小さなローカル空港で驚いたが、すぐ隣に国際空港が工事中だ。猛烈な勢いで街が拡大しているのだと実感する。そしてすぐに平原が拡がり始まる。

バスはベンツだ。客席はほぼ満席。でも観光客らしい乗客はほとんどいない。僕の隣に40歳代のケビン・スペーシイに似た格好いい男が座った。なんとなく二人でうなずく。挨拶のつもりだ。音楽が小さく鳴り始まる。コーラン風の,テレビやタクシーや街のあちこちで聞くトルコではやり(流行)の若者音楽のようだ。
若いバスの助手がボトルに入った水を配り、オイルのようなものを使うかと問いかける。お絞りの代わりだろうと思ったがとりあえずは断る。帰りにためしにと思って手のひらにたらしてもらったら、なんともトルコっぽい?匂いがした。手を揉んでいるうちにあっという間に乾いた。揮発性のアルコールが入っているのだろう。やはり日本でのお絞りの代わりなのだ。

トルコの温度は日本とさほど変わらない。砂漠にならない程度の雨が降り、でも樹木が育つほどには降らないのだろう。時折小さな街が現れる。平原の遠くの起伏の中に幻のように浮かび上がることがあったり、赤や青や黄色や文様の書いてある建物が現れるのだ。そして必ずジャーミイがあって二本の塔が立っている。塔の根っこにはスピカーが付いていて、時間になるとコーランが鳴り響く。

街に着くとバスが停車し、降りる人がいて乗ってくる人がいる。定期バスだから。
路に沿って貧弱な電柱と二本の電線が張っていて街と街を繋ぐ。こんな二本の電線で街の電力が保てるとは思えないがどうなっているのだろう。ベンツのマークの入った生コン車とすれ違うこともある。ベンツでも生コン車を作っているのだ。好奇心が刺激され延々と続く平原を走るバスの旅はまったく退屈しない。

スペーシイさんとカタコトの英語で会話とは言えない会話を交わす。「ホワットイズユアジョブ?」程度。ガイドブックを開き、何処を走っているのかときいた。余りにもアバウトな地図で、これではどの辺かわからないというが、大体の走るルートを教えてくれた。僕が考えていたルートとはまったく違う。
「サルト」と窓の外を指差していわれた。トウズ湖は塩湖なのだ。湖が白く輝いてえもいわれぬ美しさだ。塩が60センチも堆積しているのだという。ビューティフル!お互いにニコニコする。ガイドブックには書かれていない。何だか得したような気がする。

ネヴシュヒルに着いた。大きな街だ。スペーシイさんは此処で降りる。どうやら家があり家族がいてアンカラには単身赴任しているようだ。ネックストストップがギヨルメだと教えてくれる。グッドラックと握手をした。

そこへ若い男性が乗り込んできてバスチェンジだと叫ぶ。二人のおばさんを除いてみな降りてしまった。このバスはギヨルメへは行かないのかと残った二人の客に聴いても困ったような顔をしている。トルコ語でないのでわからないのだ。余りにしつこくチェンジだというので半信半疑のままバスを降りた。でもどうもおかしい。地元のスペーシイさんだって次がギヨルメだと言ったではないか。
気になり休んでいたバスの助手を捕まえ切符を見せて、ディスバスゴートウギヨルメ?と聞くとうなずく。あわてて乗り込んでこれだと思った。ガイドブックにそういう客引きがいるから気をつけろと書いてあった。客引きが乗り込んできても助手も運転手も知らん顔だ。やれやれと思ったが面白くなった。

翌朝ギヨルメの街中を歩いていたら、昨日ネヴシュヒルで降りた4人組の東南アジア系の若い女性グループにばったりと出会った。お互いになんとなく覚えていて、にやにやしながら手を振った。
翌日、30分も遅れてバス停にきた帰りのバスは、次のネヴシュヒルでバス交換した。これは本物のバス交換だった。何故交換するのか説明を聴いていてもわからない。トルコ語だし。
このバスでは映画が放映された。流行のアクションもので、トルコ語の吹き替えだがなんとなく筋がわかり結構楽しめた。長いバスの旅を楽しんでもらおうという心遣いだ。サッと雨が降った。大平原に巨大な虹が掛かった。
こういうことがあるから旅は刺激的で楽しい。