日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

沖縄旅(3) 聖クララ教会の夜景と神父さんへ選定プレートを

2012-02-26 22:05:12 | 沖縄考

ラサール神父に選定プレートを差し上げる前に、200人を超えた聴衆にDOCOMOMOの概要と聖クララ教会の選定経緯を伝えた。
聖クララ教会については、このブログの2005年11月9日(沖縄考:沖縄文化紀行Ⅰ)に書いたので重複を避けたいのだが、コンサートの始まる前のPM2:00から急遽、統廃合にゆれる久茂地小学校で行われた那覇市の久茂地公民館(旧沖縄少年会館)存続に向けてのシンポジウムに招かれて講話をしたことを伝え、改めて早朝に見に行った「那覇市民会館」や久茂地公民館との比較をしたときの面白さについて触れたことは伝えたい。

実は娘から、この建築の何処がいいのかということが伝わってこなかったと結構厳しい指摘を受けた。吾が子ではあるが妻君の子であることも実感させられるのはこういうときだ。ということでくどくなるが下記に再度まとめてみる(閑話休題)。

2002年JIA(日本建築家協会)の沖縄大会に理事として参加したときに、義務として理事会には出席したが、といっても財政的に厳しくなったJIAはこの年からこの会議を理事会ではなく理事懇談会として交通費支給をやめた。ということで自費訪沖、では好きなところへ!となるのが今に変わらぬ僕で我ながら苦笑してしまう。でもそれが楽しく、同行したクリスチャンでもある建築家藤本幸充さんに素晴らしい教会があるよと案内されて初めて訪ねたことから15分の講話をスタートした。そしてこう述べたのだ。
観た瞬間「これはDOCOMOMOだ!」と。
でも今にして思えば、バスによる基地内の建築ツアーに参加して観た、芝生の中の宿舎群のシンプルな姿(つまりアメリカ住宅・スラブヤー)とラップしたのだ。このときの情景は、民家と亀甲墓が当たり前のように共存している風景とともに何年経っても忘れ得ない。

さて改めて感じたこの建築の姿を書いてみる。
基地内の宿舎に範を取った単純なバタフライ形状のスラブ屋根(宿舎は広大な敷地内に軒樋もつけない何純な切妻の屋根形態に白い外壁で構成)に、陽の差さない北面は天井いっぱいに開口をとり、側面には穴あきブロックでアクセントをつける。
陽が溢れる芝生を張った中庭側は天井を下げて回廊をつくり、日差しに配慮するなどこの地の自然環境に見事に対応させ、この建物の何処にいてもシンプルで豊かな空間構成と、過酷で豊かな沖縄の自然環境への受容を感じることができる。建築の限りない可能性に建築家である僕の心をいつにも増して騒がせるのだ。

風土とモダンムーブネント(建築)、これからの建築界が検証すべきテーマだと考えるからでもある。

設計した京都出身でハワイに移民をしたといわれる建築家片岡献は基地の建築に通訳的な立場で携わっており、SOMなど基地の建築群の設計に関わったアメリカの建築家のサポートを得てつくったと伝えられている。

DOCOMOMOで選定した沖縄の建築は、この教会(+修道院)と、「那覇市民会館」である。
僕が講話で述べたのは、聖クララは新しい時代を告げるアメリカ文化の一側面を、市民と共有できる素朴なスタイルで具現化したことである。カトリック教会は尖塔を配してその存在を際だたせることが多いのだが、塔のないこの教会は、与那原のまちから見上げるその姿が威張っていないのだ。
斎場御嶽から58号線で那覇に向かうと、正面の丘の上にその姿が望める。ここは与那原(よなばる)。まちのランドマークとして街づくりの要になっているのだろう。
一方の那覇市民会館は、屏風(ひんぷん)を取り込むとともに、台風に立ち向かう様を力強い造形によって現わした。ここに沖縄ありと表現したその建築は、風土に即した沖縄のモダンムーブネント表現する二つの姿を僕たちに見事に伝えているのだ。

根路銘さんから、ラサール神父が私たちの活動の意味を僕の言葉を通して(更に深く)理解してくれたという趣旨のメールをもらった。80歳を超える神父はユーモアを感じ取れる口調で、教会はいつでも皆様に開いているので、気軽に尋ねてきてくださいと述べる。

根路銘さんたちとの島酒を飲みながらのやり取りで見えてきたことがある。
当初SOMに設計監理を委託しようと考えたが、日本語を解する設計者がいないし施工する建築業者は英語を解さない。そこで片岡献が担当することになった。経歴など詳細がつかめないが、沖縄のカトリック教会本部(安里教会)の資料室に埋もれている資料を紐解いていくと浮かび上がってくるものがありそうだという。
来春の魅力いっぱいのコンサート開催とともに、建築士会島尻支部の記録の発掘活動に期待したい。

沖縄旅(2) 聖クララ教会(与那原カトリック教会+修道院)Ⅰ

2012-02-20 23:04:13 | 沖縄考

戦災の復興に翔けた多くの人々の思いのこもった建築がある。
その全てを網羅することはできないが、DOCOMOMOで選定してきた150の建築の、例えば東京六本木の「国際文化会館(Iハウス)」(設計坂倉準三、前川國男、吉村順三)は終戦後10年経った1955年、これからの日本に国際交流の拠点が必要と考えた外務省と米政府の思惑の中でロックフェラーの寄付を受けて建てられた。
鎌倉の鶴岡八幡宮の境内に建つ県立近代美術館本館(1951年設計坂倉準三)と横浜の神奈川県立図書館(1954設計前川國男)は、当時の内山知事の、人の生きていく糧として日本に新しい時代の文化を築きたいという想いによった。

訪れた聖クララ教会や那覇市民会館、久茂地公民館(旧沖縄少年会館)は、それぞれ建設年や用途が違うが、つくられた志には共通するものがある。

日本の数多くの都市が空襲によって破壊されたが、沖縄は本島を分断する米軍の作戦によって中心部となる読谷に上陸した米軍と日本軍との悲惨な戦いから始まり、その凄惨な様は肝に力を込めないと振り返ることさえできないが、1945年の終戦後もアメリカ統治の時代が続き、その27年後の1972年に日本復帰がなされて沖縄県となった。
それから40年を経た今なお普天間基地をはじめとする基地問題に沖縄の人々の生活と自然環境が脅威にさらされているのは周知のことである。

コンサートを主催する沖縄建築士会島尻支部から送ってもらった資料によると、聖クララ教会(与那原カトリック教会+修道院)の設立は、終戦2年後の1947年、全土が焦土化した沖縄支援のためにアメリカからサンフランシスコ修道会の方々が來沖したことに端を発する。
援助物資の配布や医療支援など多くの問題があるものの、唯一つの教会も活動拠点になる建物もなく、援助活動のためには修道女であるシスターたちの奉仕活動が不可欠で、シスターを養成する修道院を建てることが必要となった。

資料には更にこう書かれている。「サーダカー(怨霊のいる場)として地元の人々に恐れられている土地を取得して整地し、1958年7月27日、ここに沖縄のための世界で一番小さな修道院『聖クララ修道院』が誕生します」。

2002
年初めてここを訪れた僕は、中央の廊下(回廊とも言いたい)を挟んで中庭を持つ教会と併設された修道院との魅力的な構成に触れて、当然の如く一つの建築として選定推薦をし、選定要旨(解説文)には`修道院を併せ持つ`と書いたものの、選定名を「聖クララ教会」ではなく「聖クララ教会・修道院」としておくべきだったとこの設立の経緯(物語)を読みながら思ったものだ。
そして「世界で一番小さな修道院」という一言にこれを書いた人の万感の想いが読み取れ、この建築に込められたその理念の存続に尽力している主催者、根路銘さんと新川さんの志に改めて打たれたのであった。

<写真 修道院の中庭>

沖縄旅(1) JAZZのライブハウス「寓話」へ

2012-02-16 18:33:40 | 沖縄考

通勤電車が新宿に着くと、今日は一日中寒いとのことですのでお気をつけてお出かけ下さい、とアナウンスがあった。いつもなら余計なお世話だと気に障るのだが、昨夜遅く沖縄から帰ってきて20℃の温度差を実感し、空気の冷たさが妙に愛しくなって首をすくめて事務所に向かう。

2003年、ドコモモ100選として選定した「聖クララ教会・修道院」の存在を多くの人々に知ってもらい、その存続をサポートするために5年前から聖堂で室内楽のコンサートをやっている沖縄建築士会島尻支部の建築家、根路銘(ネロメ)前支部長から相談を受け、娘を誘い選定プレートをもって沖縄に飛んだ。ラサール神父に差し上げるのだ。
2月10日から2泊三日という短い旅である。
娘は微かに覚えているというが、小学生低学年のとき家族で行って以来の沖縄、僕がことあるごとに沖縄、沖縄と言うものだから親孝行のつもりで同行してくれたのだ。そして(多分)沖縄にはまった。

短い旅だが娘のペースののんびり旅。首里城、玉陵(たまうどん)、石畳を歩いて途中にある巨木の御獄(うたき)だけで時間がいっぱいになり識名園はパスして霊園を見せる。大きな亀甲墓とその入り口に設置された「制さつ」(殺気除け)屏風(ひんぷん)に驚いたようだ。
玉陵に見る王朝文化と、風水思潮の中国文化の混在、そして御嶽。
牧志市場のエスカレーターの下で根路銘さん、新川支部長と待ち合わせて、2階の食堂で前夜祭だ。島酒を酌み交わす。何度も沖縄通いをやって、沖縄の人たちは泡盛を島酒ということに気がついた。島酒、そうだ、島の酒だ。ここは沖縄なのだとグッとくる。
そして那覇の夜、必殺・JAZZのライブハウス「寓話」である。

村野藤吾と菊竹清訓(Ⅳ) WAの小寺泰と松ノ井覚治 (エピソード3)

2012-02-05 21:10:43 | 建築・風景

小寺泰という男がいた。
上背はなかったが痩身で細面、ちょび髭を蓄え、柔和な眼差しで微笑む紳士であった。
早稲田の卒業生でありながら毎日夕方になると新橋の会社から銀座の、慶応OBの集う交詢社に通い、会員や職員に慈しまれていたという。名門我孫子ゴルフ倶楽部でも車が着くと、いっしょにまわらせてとキャディが取り囲む名物会員として知られていた。

小寺泰は僕の伯父である。
小寺家の長男で、僕の母は20歳年のはなれた末っ子だった。赤紙で招集された父は昭和20年の6月ルソン島で戦没し、後年僕の一家はこの伯父に支えられて生活をした。 (僕のブログの「生きること」を参照していただけるとうれしい)。
村野藤吾と同級生だった伯父は、早稲田を卒業した後松村組に在籍の後、小寺工務店を設立する。

「WA100」の`早稲田建築100年の歩みのⅠ、1910-1930に、佐藤功一、佐藤武夫、そして今井兼次についで「松ノ井覚治」という建築家が2ページに渡って登場する。紹介された建築は「バンク・オブ・マンハッタン」である。
早稲田を出た後コロンビア大学に留学し、モレル・スミス建築設計事務所に勤務し、帰国後、ヴォーリズ事務所の東京出張所長を経て「松ノ井建築設計事務所」を開設する。
編者石堂さんの松ノ井の紹介文の後に、松ノ井の書いた、現在はチェイス・マンハッタン銀行と名を変えたこの銀行の設計・建築経緯の報告書の抜粋が記載されており、アメリカ建築界の一断面を伺える貴重な記録となっている。

その松ノ井の経歴欄に「1943年小寺工務店役員」と記されているのを発見、あっと思った。
石堂さんからは何故アメリカ帰りが建築会社にと思っていたが、同級生ならわかる、という一言をもらった。
村野と松ノ井、小寺泰は同級生だった。
小寺工務店は小さな建築会社だったが、それでも日立市に支店を持ち、日立多賀駅から日立駅に至る壮大な日立製作所の数多くの工場群の施工をした。日立製作所も創設されてからまだ日も浅かった時期である。

ジャーナリストを目指して明大の文学部に合格していた僕は、建築をやれという伯父からの一言で、明大建築学科の二部に入り、昼間は小寺の設計部で仕事をすると言う二重生活を味わったが、卒業後も10年間この伯父の会社に在籍した後、設計をやりたくて飛びだす。

伯父に同行して日立に行ったことがある。伯父は顔面神経痛で左の目をぴくつかせていたが、なあこうやって列車の窓を空けて寝込んでいたら風にやられてナア!なんてことを笑いながら話してくれた。この口調は明治男、伯父というよりは祖父だった。年の上でも!
そういう伯父の長女の旦那の弟は、あの、話の面白かった俳優丹波哲郎である。進駐軍通訳時代、疎開先の小寺の社宅にジープでアメリカの菓子を沢山僕たちに持ってきてくれた。
そういう一族を伯父は楽しんでいたような気がするが、終生自宅を持たず大崎の明電舎を望む丘陵地の小さな借家に住んでいた。
伯父の細君つまり伯母は下町育ち、沢村貞子のような早口で歯切れのいい物言いで明るく、僕たち一家は足繁く伯父の家を訪ねたものだ。

小寺工務店の下請け組織の会の主要メンバーはこの伯父を慕って自分のためではなく、伯父のために仕事をしているという風だった。設計部で仕事をしているとエスカイヤーという洋服の仕立て屋から電話があったり、寸法を取りにきたりした。ダンディなのだ。
今井兼次先生が狭い急な階段を上って来社されたことがある。設計部長は横浜国大のOBで某有名事務所の出だったが「兼松君、今井先生だよ!」と目を見開いた。村野とともに今井兼次は早稲田の巨星、一年後輩なのだ。

こうやって「WA100」を紐解きながら、数十年前のことを思い出していると考えることがある。
何かとても大切なことを僕は見失ってきたのではないか、僕でしかできない何かを。
小寺泰は寄り道して早稲田に入った村野より若かったが、先に亡くなった。葬儀に出席された同級生を亡くした村野藤吾の厳しい姿を僕は覚えている。
小寺工務店もなくなり、資料も消えた。小寺泰という男を知っている人がほとんどいなくなった。これからの僕のやらなくてはいけないこと、何よりも考える前にやる、やりながら考えればいいのではないかと示唆を与えてくれた[WA100]であった。

<写真・若き日の小寺泰>
(交詢社:慶応義塾の開祖福沢諭吉の提唱によってつくられた実業家の社交倶楽部)