日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

明建祭(続Ⅰ)  国際化と若者への期待を!

2011-05-30 14:39:55 | 建築・風景

前項に続いて「明建祭」に触れておきたい。少し長くなるので2回に分けますが、お読みいただけると幸いです。

企画を担当、プログラム提言をし意見を交わして構成を決めたが、シンポジウムの司会をやりながら学んだものも多く、考えさせられることもあった。
セッションは3部構成になった。懇談会でスタートし、内田祥哉先生の記念講演「私の明治大学」、それにシンポジウム「建築を拓く・明治大学を巡って」である。

日本設計のOBでLC(ライフサイクル!)企画を創設した大武通伯(おおたけ ゆきみち)さんの司会による懇談会のタイトルは「大学と社会の連携を考える」。
久米設計の社長山田幸夫さんと、三菱地所レジデンスの執行役員栢森靖(かやもり やすし)さん、それに建築学科長の園田真理子教授がパネリストで、大武さんがまず山田さんに投げかけたのは、グローバル化と環境と人間とのコミュニケーションに対しての企業としての長期環境ビジョンをどう捉えているかということだった。

この問いかけと山田さんの答えに僕の胸が騒いだ。
僕より7歳若い山田さんは、いわば団塊の世代のはしりで、学生時代は大学紛争・ロックアウトでほとんど授業がなく、山の上ホテル(設計者ヴォーリズ)で行った事前の会合では、軽音楽にのめり込んだ話などに終始して、これぞ明大マンなんて思ったものだ。
ところが氏は、世界の中での日本の企業としてのラージファーム(大手設計事務所)の位置付けをEUを引きながらボーダレスの時代だと明言し、日本ではアジア化をせざるを得ないが、中国は老齢化していくものの、ベトナムや韓国の力(可能性)に眼を向けて、大学に対しては設計者教育だけではなく、今の日本の企業では、世界各地の社会状況を理解分析でき得る若き人材を求めているのだと明快に説得力を持って発言した。

このことは、実行委員長平川清さんの開催挨拶に続いて、小林正美教授が一言といって「ジャビー」を紹介し、UIA(国際建築家連合)基準に準じた国際プロフェッショナルコースをつくり、社会人院生を含めて優れた人材を「世界に向けて」育成していくと述べた明大のスタンスを受けてのものだ。
在学中に尾崎竜童や阿木耀子と共に軽音楽にのめり込んだエピソードを挟んだ山田さんは、会場に詰めかけた200人のOBの心を捉え、だからこそとか、日本の建築界を率いる人は流石だ!とか、さまざまな思いを抱かせたものだ。

栢森さんは更に僕より17歳も若いが、実務の第一線に立つ対場から、明大人はコツコツとまじめに実務をこなすが(僕の時代とは違うなあ!)交渉力持つ若者が必要なのだと述べる。建築学科設備の篠原研を卒業して藤和不動産に入社、統合によって三菱地所に移ることになった経緯報告も、産業界の変遷を感じとれて興味深い。

僕がもう一つ感じ入ったのは、吾はやけに歳にこだわるなあと思いながらも、栢森さんのほぼ同年代の園田教授の現状認識によって2年前に、安全学専攻コースを大学院につくると共に、昨年は韓国、今年はシンガポールに行き明大ワークショップを開催するなど国際化実践にトライしていることを紹介、これはとりもなおさず大武さんや山田さんの問題意識とラップするものだ。
園田教授は千葉大建築学科を卒業されたが、懇談の中で浮かび上がった今の社会とそれを受け止めて、社会活動に尽力している明大建築学科OBの60年間の積み上げがあってのことと思う、そしていまの学生の課題は、正しく先輩が欲しがっているコミュニケーション力だと実感を述べた。
学生と社会を思いやる魅力に満ちていて、その話っぷりにぞっこんになった。僕とは先生がまだ助教授時代に、小林正美教授の提案したDOCOMOMOを題材にした設計課題の講評に参加して以来の出会いでもある。.

シンポジウムで僕は、1962年に卒業した時代を振り返りながら自己紹介をした。2年後に東京オリンピックが開催され、伴って新幹線が開通、世が再開発、つまり戦後19年を経て現在(いま)考えると戦後復興の一つの形態でもあり、若き僕は丹下、前川、坂倉そして日本の建築家に大きな影響を与えたル・コルビュジエにのめり込んでいったのだ。

僕のセッションの前に講演いただいた内田祥哉先生には30分間しか時間を差し上げられなかったが、ユーモアを交えながらの講演(講義だ!)に、会場のOB、OGは魅せれたように聞き入っている。
当時の駿河台の吹き抜け空間の中に回廊があって研究室が並び、吹き抜けの天井はガラス張り、まるでF・Lライトのマリン郡庁舎のような研究棟のその空間に、先生が学生と一緒につくったフラー・ドームの模型をぶら下げたという。言われて微かにそんなものがぶら下がっていたような気がしてきた。
フラーとの交流の写真をPPで披露し、それが先生が日本の建築構法研究を率いていくきっかけになったのだと納得する。先ごろ、学士院会員になられた内田先生は、当時はまだ30代だったことに思いを馳せる。(続く)

<写真 明建祭はOBの作品と研究室の活動報告パネル展も行い、テープカットからスタートする>

「明建祭」シンポジウム 「建築を拓く・明治大学を巡って」と懇親会コンサート

2011-05-21 23:48:38 | 建築・風景

1949年、堀口捨巳、河野輝夫、渡辺要、徳永勇雄、神代雄一郎の僅か5名の教授、助教授で駿河台に産声を上げた明治大学理工学部建築学科が、1966年の生田移転を経て設立60周年を迎えることになった。60年を経て、最先端の研究による建築界や産業界への貢献、次代を担う若者を育てる大学の位置付けもOBから見て心強いものだ。
更に明治大学建築学科のOBは、様々な分野で大きな役割を担うようになった。
そして時代を切り拓き、時代を率いる「建築家」の存在もまた明治大学の誇りである。

シンポジウムでは、各世代を代表して3人の建築家に、設計した建築のコンセプトや設計・竣工に至る経緯を紹介していただくことにした。そして先輩、後輩のつくった建築を受け止め感じ取ったことと、各自の建築感について語り合ってみたい。「建築とは何か」、「つくることとはなにか」、という建築家としての命題にトライすることになると思うからだ。

3月11日に起きた東関東大震災に、建築に携わる私たちは大きなショックを受けた。1ヶ月を経た現在、建築と自然・環境について(産業界にも目を向けながら)改めて考え込んでいる。パネリストにも問いたい。「建築家とは何かと!」。それが若き日駿河台や、生田キャンパスで「明治大学」に学んだ私たちの「生きること」を問うことにもなると思うのである。(4月11日兼松記)

  パネリスト     中村拓志(NAP建築設計事務所)
             井口浩(井口浩フィフス・ワールド・アーキテクツ)
             篠田義男(篠田義男建築研究所)
  コーディネーター 兼松紘一郎(兼松設計)

上記の一文は、明5月22日(日)に駿河台キャンパス・アカデミーコモンで行う、明治大学理工学部建築学科同窓会「明建会」の60周年を記念するイベントの一つ「シンポジウム」の案内である。
僕はこの「明建祭」の企画を担当した。このあと、会場をリバティタワーに移して5時から懇親会を行うが、祝宴の前に、明治大学交響楽団OB弦楽合奏団によるコンサートをやることになった。5年前に行った55年祭でも演奏会を行い好評だったからだ。

リーダーは、6年後輩になる建築家でありチェリストでもある久保寺敏郎さんである。
今回は素敵な女性歌手にお願いしてジョン・レノンの「イマジン」を歌って欲しいなどと注文をつけた。司会をやる僕は、歌っていただくことになった飯森恵子さんや久保寺さんとのやり取りが楽しみだ。

好奇心が喚起され、先週の日曜日、練習に立ちあった。久保寺さんが編曲した楽譜を、初見でありなら見事に弾きこなし、音を聴きながら組み立てを少しずつ変えて完成させていく様に、感銘を受けた。コンサートマスターと久保寺さんとの音楽家としての意気投合、うーん!と思わず唸りたくなる。
スタートは、被災され亡くなられた方々への祈りを込めて、映画「タイタニック」での主題(歌)でもあった賛美歌 `主よみもとに近づかん` である。
そして最後は久保寺さんに、パブロ・カザルスがケネディの前で弾いたカタルーニア民謡「鳥の歌」をソロで弾いてもらう。平和を願って!

<写真 コンサート練習風景>


気になる二つの建築 津山文化センターと、被災地に建つ 真白き旧古川市民会館(大崎市民会館)

2011-05-15 11:14:42 | 建築・風景

DOCOMOMOで選定した、気になる二つの建築がある。
岡山県津山市の津山文化センター(1965年)と、宮城県大崎市の旧古川市民会館(現大崎市民会館・1966年)である。
気になるのは、モダニズム建築の課題の一つ、日本の建築家が伝統と風土をどう捉えたかという格好の事例になると考えるからだ。そして、それを支えた技術へのトライが際立だっていて、多彩な建築が林立したこの時代を切り開いたとも思える。

川島甲士の設計した津山文化センターは、津山城址の一角に建ち、台形に築かれた石垣と対話して逆台形型の建築を構築、工場でつくったコンクリート打ち放しによる(PCコンクリート)斗栱を外周に組み込むことによって、日本の伝統を意識しながらも屋根をフラットルーフにした。

一方の、市町村合併によって大崎市民会館と名称の変わった旧古川市民会館は、早稲田大学で教鞭をとった武基雄の設計による建築である。
武基雄は長崎市公会堂や、一部が建て替えられて改修された長崎市水族館など、ぶっとい建築もつくったが、この古川市民会館は、鉄筋コンクリートによる大きなシェル(曲面の薄板)構造の床(屋根)を、4隅に据えられた三角形の壁柱で支えると言う、一見アクロバット的な建築で、建築本体を真っ白に塗装し、仙台の北方東北の地に、言わばシャープで瀟洒な存在を際立たせた。
風土とは何かと考えさせられるモダニズムの先端をいく造形、しかし土地に威張ってはいない。
可愛らしいとも言いたくなるこの建築に、45年前のこの地の人々は、新しい時代を、都会の人々と共有する喜びを感じたのではないだろうか。

武は鎌倉市役所の向かいに、「鎌倉市商工会議所」というホールを内在したシャープな建築をつくったが、古川市民会館はその系列にあるといってもいいだろう。
だが特記しておきたいのが、長崎も鎌倉も、この古川市民会館ホールも、ここに集う人たちと舞台を一体化して、つまり演奏家や講演をする人と聴衆が一つになるように、客席を、見やすいように傾斜をつけてもワンフロアとした。そしてこの空間は、心を和ませる暖かな空気に包まれる。コンクリートの打ち放しを使っていても。
面白がって書けば、僕たちの心の何処かにある弥生と縄文のエッセンスを、嫌みなく取り出したといってみたくなる。
人のための建築を武基雄はつくったのだ。

3月11日の大震災で気になったのは、この古川市民会館の被災状況だった。
報道されなかったので大丈夫だとは思っていたが、極端なことを言えば、シェル屋根が三角の柱から外れ落下していないかなどと不安になったものだ。それくらいその取っ付きはどうなっているのかとも思える驚くべき建築なのだ。

気にしていたら、視察にいった建築家から自宅に電話が入った。現地からだ。
ホールの空調機がずれたりして職員が気にしていたが、一見クラックもなくて本体は大丈夫だと言う。エキスパンションで構造が別れている平屋の付属施設がやられているが、この大崎市は地盤が緩んで大変な被災が起きた地域。ホッとすると共に、武基雄と構造家谷資信教授の凄さを実感する。
ついつい大崎市の酒、「一の蔵」の純米酒で吾一人、密かに乾杯した。

ところで、明治大学の学生時代、当時芝浦工業大学で教鞭を取っていた川島甲士先生(ここから先生となる)に製図(設計)を学んだ。講師として僕たちを教えてくださったのだ。
僕が卒業したのは1962年だから、その3年後に津山文化センターが竣工したことに気が付き、不肖の弟子は驚いている。
課題にチェックをいれる鉛筆を右手や左手に持ち替えたり、向かいからこちら向きに書く文字が左右反対になったりして格好よかった。これが建築家なのだと思い、僕も建築家を夢見たものだ。

武先生は時折JIAでお見かけした。
杖を突き巨体を揺らせて歩かれるさまに、これが武先生だと畏敬の念を覚え、亡くなられた今でもなにやら近寄りがたい。
川島先生も先年亡くなられたが、いまの僕だったら、渾身の作「津山文化センター」論を先生と取り交わしてみたい。先生の苦笑される顔が、眼前に浮かび上がるのだが!

<写真 旧古川市民会館。津山文化センターについては、2006年3月5日本欄に記載した「春の風・神宿った津山文化センター」をお読みください>

マイ セカンドハウス 東海大学病院

2011-05-08 13:10:21 | 日々・音楽・BOOK

伊勢原の東海大学病院が、マイ セカンドハウスだというと、妻君は露骨に嫌な顔をする。最もだと思いながらも、このところこの病院とすっかり馴染みになったのだと妙な感慨を覚えるのだ。

毎年5月に「総合検診(人間ドック)」を受ける。昔は`自動化検診`と言っていたと思うが、40歳になったときに身体を大切にしようよ!と言うことになって、妻君が予約をしてくれたのが始まりだった。僕は30回を越え、妻君も二十数回を経て面談のお医者に驚かれたりする。
流れ作業的に大勢の受診者を裁くシステムも変わったが、診療項目も変わった。CTやMRIを使って行う肺癌の検査や脳ドックなどのオプションも取り入れられるようになった。
電子カルテが実用化され僕のデータが蓄積されていることもありがたいといえばありがたいが、そのデジタル化された検索システムのスピードにも驚く。昔の、いやつい最近までのレントゲン撮影はフイルムだった。

検診センターは別棟で30年前と変わらないが、病院建築で名を馳せた建築家小川健比子流(!)の本棟は、小川の象徴、外壁の廻りに張り巡らしたスロープの角が丸みを帯びている印象的な建築だった。現在は使われなくなって 前面に新棟が建てられた。(東海大学医学部の校舎となった)

新棟の一階の初診受付や会計のある吹き抜けのある大ホールはトップライトからの光が注がれ、明るい清潔空間になった。無論EVもあるがエスカレータが各階へのメイン通路である。計画停電時には自家発があるので診療には支障がないというが、EVもエスカレータも止めるという。
整形の先生に膝に注射をしてもらうために、僕は月に一度の常勤(?)をしていて、その度に杖を突き、夫婦で支えあっている人たちを見ているので気になるのだ。大学病院だから非常用EVがあるのはわかってはいるとはいえ・・・

手術室の新設など大阪で病院の大改修に携わったり、設計をしたことがあるので、建築はともかく、難しい設備の変遷もある程度はわかっている。この大学病院の30年の変遷も普段は気にしないもののいささか興味深い。建築家の性(さが)と言うものだろうか。

でもそんなことはとりあえずどうでもいい。
人の病の話を聞くなんて馬鹿馬鹿しいことだと思うが、吉行淳之介は冒頭に`病気の愉しみ`なんていうエッセイを収録した「吉行淳之介養生訓」なんていう題名のエッセイ集を本にして、持病を作品にしてしまうのだから、それはそれはたいしたものだ。それがまたなんとも面白いのだから困ってしまう。
恐れ多くも、では吾もと!

「総合検診」を受けると、何箇所かの精密検査の指摘がされる。CTやMRIを撮ったりして医療機器からのゴットンゴットンという音や最先端技術を味わうことになるが、治療する指摘もなく、次は半年後に検査しましょうなんてことになる。

膝は嘗ての永年のテニスでやられた軟骨の劣化、筋力を鍛えて骨を支えろ!と言われているが膝の訓練ってのはどうも楽しくない。注射を打つのはいわば潤滑油の注入で痛みは抑えるが直りはしない。月一の注入のペースと薬で今のところいい調子だ。加齢症なのだ。
高血圧の緩やかな薬は、住まいの近くの診療所からもらうが、治療という気はしない。直らないからだ。抑えている。膝と同じく僕の中に同居している。

両手の指6本がバネ指になってずい分経つ。先生は治療のための注射はしたくないという。ステロイドがからだ。
手術をしましょうかね、と仲良くなったスキンヘッドの先生がいう。手術はねえ!と粘っていたがそろそろ`ヤバイ`。一遍にとは行かないのでこれまた通い詰めなくてはいけない。
先生とこんな話をしていると、何となく医療文化論を語り合っているような気がしてくる。

伊勢原駅行きのバスを待っていたらドクターヘリが飛んできた。白地に赤やブルーのラインに大学名が描かれている小型のヘリだ。サイレンを消した救急車が走る。この地域の拠点病院なのだと合点する。

僕はこの一文をTVドラマ「女刑事・左近山響子」をチラチラみながら書いている。
京都の小さな飲み屋「れんこん屋」で見かけた菊川怜が左近山響子をやっているからだ。
画面に東海大学病院が出てきた。Oh!マイ セカンドハウスである。

面白くもない、 僕のささやかな日常生活の一段面である。

<写真 吾が日常生活の一断面?>

バースデイ・プレゼント「ADELE19」

2011-05-04 14:09:40 | 日々・音楽・BOOK

「お父さんのペースでずっとバリバリモリモリ楽しんでくだされ!」。
吾が娘からのバースデイ・プレゼントに添えられたメッセージだ。
オヤジはるんるん。なのだが、情けないことに一瞬目頭が熱くなった。ふと`るんるん` なんてコトバ、時代錯誤ではないかとも思った。このところ気に入っている明鏡国語辞典にはないが、あった!広辞苑に。「陽気に浮かれている様」。そうなのだろうが、となると僕の本音とは少し違う。

いままでのバースデイ・プレゼントに、お母さんと仲良くね!ってのがあったが、「お父さんのペースで、楽しんでくだされ!」。
そう言われてもいい歳にもなったのだとずしんと来た。マイペースのどうしようもないオヤジに、しょうがないね、楽しんだ方が(楽しんでも)いいよ!妻君と並んで肘をついている僕を見ている笑顔の娘の声が聞こえてくる。

プレゼントはCD「ADELE19」である。
僕の誕生日は2月だが、毎年、何にする?ときかれる。長いメモを書き込むための格好いい丸善のノートにしたり、読みたいが買うのをちょっとためらっていた本にしたりする。うーッといっているうちに2ヶ月が過ぎた。

娘が聴いてみる?と持ってきたのが「ADELE21」。CDプレイヤーのスイッチを入れる。ADELEの声が聴こえた途端ぞくっときた。
この声はナンだ!イギリスの奥深い原風景だ。といいたいのだが、驚嘆する21歳、ADELEのラブソングなのだ。
LOVEと言われてちょっと困ったが、複雑な心情を表現した一筋縄ではいかないこの歌声は「トラック・ストッパー(立ち止まらずにはいられない声)」としてイギリスの人々を捉え、CD売り上げチャートの11週連続一位を獲得(新記録だそうだ)、その後フーファイターズというバンドに取られたが今週(4月25日、吾が娘からの情報)一位に返り咲いたと言う。

繰り返し繰り返し聴いていて、第一作の19歳の歌声、デビューの前にポール・マッカートニーやビョークが虜になった「ADELE19」を聴きたくなった。ちなみにADELE19も3位にノミネートされているという。
CDプレイヤーのスイッチを入れた。そして・・2歳若かったADELEの歌声!