長年住んでいる我が住まいのある・海老名プラザ。記載する写真、この春(4月18日)の夕陽の沈む寸前の空!`夕闇の迫る′と言っていいのか!とも思うが 何はともあれその気配に心打たれた。遠くにある大山が見えず他の棟が逆光で黒く、それがなにがしかの風情を醸し出している。
我が住まい地も捨てたものじゃあないなあ!と言いたくなったが、夏過ぎて秋の盛り‼の昨今の夕暮れ、4か月前と同じ光景(風情)を味わえるだろうか! WHY! ?かな!
長年住んでいる我が住まいのある・海老名プラザ。記載する写真、この春(4月18日)の夕陽の沈む寸前の空!`夕闇の迫る′と言っていいのか!とも思うが 何はともあれその気配に心打たれた。遠くにある大山が見えず他の棟が逆光で黒く、それがなにがしかの風情を醸し出している。
我が住まい地も捨てたものじゃあないなあ!と言いたくなったが、夏過ぎて秋の盛り‼の昨今の夕暮れ、4か月前と同じ光景(風情)を味わえるだろうか! WHY! ?かな!
都内に住む我が子(娘です!)から、`海老名図書館′のスケッチを″と言われて、いそいそと出かけて描いたスケッチ! コレどうかな!とメールで配信したら`いいんじゃナイ!′の一言。喜び勇んで・・さてどうかな!(どうでしょうか?・・苦笑・)
厚木駅前の道(大通り:と言っていいのか!路?)を右手に歩いて大通り(三叉路`:あゆみ橋東)を左手に曲がって`ささやかな登り路を少し歩くと、`あゆみ橋′が現れる。
その下を流れているのは`相模川′…このスケッチ…左手と橋の間から見えるのは厚木の市街地、遠くに大山が‼ その連なる山脈と街並みの様相が小さく観えていて、ナカナカの味わいを楽しんだ。相模川の手前は広い整地・運動場?になっていて、ゴルフの稽古をしている初老(失礼:苦笑)の方々が楽しんでいたりする。
ところで、左手の高層ビルの右上に点々のように見えるのは鴉(カラス)の群れだけど、わかんないでしょうね!
JIA・建築家写真倶楽部(関東甲信越支部)の面々と、東京・銀座の郊外、そして並木通りをブラ歩きしながら写真を撮り、`三国一`で一杯を酌み交わしながら、長い年月を共にした諸々話を楽しんだ。
名残惜しいが、この日を持ってJIAで唯一存在した建築写真を考察するこの`建築家写真倶楽部`を閉じることになって、起稿しながら様々な想いが湧いてくる。
起稿している我が家・4階の窓から、蝉の声が聞こえてくる。
新宿駅西口を出て左手に歩き、信号を見遣って右に歩くと出会うのは、昨今.ことに若き女性連の団体、外国の人々で一杯だとも言っておきたくなるその拠点の一つ.京王プラザホテルが現れる。
その右手前に、アプローチ(前庭)が舗装され広い広場になっている工学院大学が現れる。一階室内がゆったりとした広場とも言えるピロティ形状になっていて、そのコンビネーションには、ナカナカの風情があると言っておきたくなる。
掲載する写真はそのキャンパス外観の一齣。我がオフィスへ向かう風情に満ちた光景の一齣だと、重ねて言っておきたくなった。
オフィスが面している道を左に少し歩き、左手の急傾斜の道を見やりながら右に曲がり、その先の新宿中央公園に目をやりながら4.5メートル歩いて左の狭い路地を通り抜ける。
ブラ歩きをして大きなコンビニや西新宿郵便局のある大通りに出る.その間の両サイドは住宅や高層ビルが密集している。この狭い路地はいわば我が道(苦笑!)、コンビニで昼飯を調達したり、時には封書を出すために郵便局に出かけたりすることもある。
この路地、特段の風情はないが、途中の家屋の外壁に描かれた「絵」、若き女性の顔が何とも気になって・・・いつものことながら・・・ついつい見やると、その筆致に心うたれる。誰が描いたのだろうか!なぜここに魅惑的なこの`絵`を!
晩秋の日差しがとてつもなく美しく見飽きない。起稿しているのは午後3時半(2018年)、夕焼けの気配が漂い始めて少しずつ遥か彼方の雲の色が変わっていく。変わっていくと言うより空に溶け込んでいき、雲の姿が夕陽と一体となる。この我が住いの窓から見る地平線は、厚木インターから中央道に繋がって行く東名高速道路。車が走る様が伺えて、時が動いていく実感を感じ取ることになる。
さて記載しておきたいのは、僕の住む海老名市さつき町に隣り合っている厚木駅の一駅新宿寄りの海老名駅に隣接している此の秋の「ビナヲーク」の様相。大きな広場を囲んでの2層 (とは言え、一階は主として通路)の構成は、家族連れの大勢の人々が当たり前のように行き来していて建築家として眼をやるも、ナカナカ旨くできていると言って置きたくなる。
此の広場を使って様々なイベントが開催されているが、その一齣の写真を記載しておくことにした。僕も何をやっているのかと、大勢の人々の中に割り込んで、しばしその様子を味わった。添付する此の光景、如何なものでしょうか!
「ひんぷん」と銘が打たれた`沖縄県建築士事務所協会`の機関誌VOL.148号(2018年4月) `うりずん号`に、特別起稿された(株)国建代表の平良啓氏による一文が、沖縄の盟友根路銘安史からのメールに添付されて送られてきた。僕にとって馴染の浅い〝うりずん〝とは、「若夏(初夏)の季節を意味する」との付記が記載されている。
此の寄稿文のタイトルは〝「国場幸房+国建展」を終えて〝。そしてこの2月に沖縄に赴き、国場の自邸を訪ねて仏壇に花をささげて瞑目したことと、その展覧会を拝見したことを思い起こした。そして改めて亡くなった国場幸房を偲ぶことになったが、この平良氏の一文は既読していた。とは言え、改めて国場幸房との出会い(嘗てのJIA・日本建築家協会での理事会で!)と、親しくお付き合いをしたことを思い起こすことにもなった。そして沖縄を訪問しご自宅のお仏壇にお線香をあげさせていただいたことなどなど想いは尽きない。
僕のこのブログ、前稿は俳人金子兜太氏を偲び、引き続いて国場幸房を思い起こすことになり、うまく言葉にできない何者かにそういうお前はまだ大丈夫か!と、問われているような気もしてくる。人の生きることを改めて考える。
事務所の起稿している僕の机の前のガラス窓に日が差してきた。昨日は小雨模様で梅雨の始まりか!と思ったものの、少し日を置いてと言う事になるやもしれぬ。今日の夕刻、御茶の水の明大(母校)のキャンパスに行き、若きOBの多い`明建会`と言う建築学科の卒業生による委員会に臨む。前項では金子兜太を偲び、本稿では国場幸房を偲ぶ。さてどうしたものかとも思いながら、この稿を起稿した。
ところでこの一文、上記した会議を前にしての一稿、繰り返し読みこなし、複雑な想いを秘めての委員会参画と言う事になりそうだ! <文中 敬称略>
今日、これから仙台行きです。帰京するのは28日の土曜日の午後、このあわただしい一時にこの一文を執筆。特段の事があるのでもないのですが、仙台の建築家に、設計をし建てた建築を幾つか案内して頂いて拝見。その前日26日には、例年の仕業になった東北大の教授と仙台の写真家と共に女川などに赴いて3.11のその後の様子を拝見・考察し、軽く一杯やりながら様々様相を語り合ってきます。以上取り急ぎ・・・新宿からの事務所からの発信、でも写真は住まいのある海老名市の一齣!仙台とは何の関係もありませんが、この地から仙台へ!と言う怪しげな一言を追記
朝日新聞のコラム)1月20日(土)`折々のことば`(鷲田精一の稿:「天声人語」の左上欄に連載)に、盟友・小岩勉さんの写真集「女川海物語」の`あとがき`のなかの一節が取り上げられた。
『誰かがいつも側にいて、黙って、あるいはうなずきながら聴いているのだった』 。その一文である。
女川は周知の通り「原発(原子力発電所)」が設置され、1984年に稼動したまち。その27年後の2011年3月11日、`東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に見舞われた。仙台に在住している小岩さんは、地震の起きた19年前に此の著作を刊行している。僕との出会いは此の著作、写真に触発されたが、その`あとがき`に目を通し、僕の中の何かが触発されたのだ。
「3・11」という自然災害は僕に何をもたらしたのか!と改めて自問自答するが、2011年の翌年から毎年3・11の前後に女川を訪れてその`まち`の変容に目を向けている。と同時に仙台近郊の変化にも目を向けることにもなる。そして小岩さんや、東京女子大から東北大学に赴任した森一郎教授と、教授に紹介した小岩さんと共に女川を訪れた後、仙台に戻って軽く一杯やりながら四方山話(かなり深刻な、とは言え笑いを含んだ)を楽しんでいる。
さて今年も!例年の2月中旬の沖縄紀行の後、此のお二人と共にの女川行き、まだやり取りしていないがさて・・・・