日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

沖縄旅(6)久茂地小学校統廃合と那覇市民会館

2012-03-25 21:34:55 | 沖縄考

衆議院の予算委員会で穀田議員(共産党)が質問に立った。25年を経過した公立小中学校の校数を把握してその建て替え費用算定と予算措置をしているのか?答えたのは岡田副総理。「やり方はいろいろとありますから」というそっけないものだった。
消費税増税反対の共産党が何故こういう質問をしたのかとピンとこなかったし、穀田氏は岡田氏の回答に対して一言も述べずに一件落着したのにも唖然とした。奇妙なやり取りの中で危惧を憶えたのは、25年経った学校を壊して建て替えるのが当然だという国会議員の認識である。岡田副総理の真意はよく分からないが、改修(メンテナンスをする)をする方法もあるしそんなことは当然でしょう!という風に僕は受け止めはした。

しかしテーマが同じ那覇でのシンポジウムに参加して見えてきたことを危機感を持って伝えたい。シンポジウムの主催は、旧少年会館(久茂地公民館)の存続を目指す「新しい沖縄子どもを守る会」である。

僕の講演の前に、市民に対して分かりやすくとPPを使って解説した照屋寛公さんのテーマは、「断面欠損」問題である。
会場になった久茂地小学校はともかく、市内の数多くの小学校の鉄筋が露出した柱の写真など事例を上げながら、鉄筋が引っ張り力を、コンクリートが圧縮を担う鉄筋コンクリート構造の説明をし、鉄筋が錆びて膨張し、コンクリートが爆裂して剥落し、露出した鉄筋を塗装したり、モルタルで覆ってメンテナンスをしたという教育委員会のスタンスを指摘し、そのやりかたでは必要な柱(や梁)の断面不足(断面欠損)になり、地震に対応できずに危険だというものだ。
その後の市議会で、子どもの安全が守れないと危機感を持って質問をする議員が現れることになった。

僕が怖いと思ったのは、即日「早く取り壊せ」というメールが「守る会」に寄せられたことだ。
学校だけでなく建築物の安全は何より大切なことは論を待つまでもないが、子ども時代に学んだ学校には若き日の先生や友達とのさまざまな記憶が内在し、その場所に建つ建築は「まち」を構成し、「都市の記憶」に満ちている。何故即刻改修せよとならないのだろうか。そこに沖縄の風土があるとしたら悲しい。
潮風を運ぶ台風の通路になり、木造対応の困難なシロアリ対策もあって、海砂の使用をせざるを得ないとしても建築が鉄筋コンクリート造になるのは自然な推移でもあるし、使い続けるには培われてきた技術力を駆使したメンテナンスをするべきである。そこに建築の果たす役割を検証した新しいスタンスの創造力が求められる。

―二つの疑念:そのⅡ―まず壊してしまう。
シンポジウムで思いがけない情報を聞いた。会場からの地元の有力者の発言である。
市はこの地域からまず旧沖縄少年会館(久茂地公民館)を取り壊し、久茂地小学校を廃校にして前島小学校と統合し、指定されている「文教地区」を商業地区などに改定し、与儀公園に隣接し市民会館通りど名付けられた大通りに面した「那覇市民会館」を取り壊して廃校して取り壊した跡地に新築をするというのである。つまり学校も公民館も建っていると邪魔なのだ。だからメンテナンスをしないで取り壊す。
市議会で市長は、「老朽化」した市民会館を壊してこの小学校の跡地に建て替える、と言明した。
その裏では何が起きているのか。仕事のほしい産業界と議員と市長の思惑が透けて見えてくる。まず壊す「大阪中央郵便局」と同じ構図だ。
人の生きる糧となる文化がどこかに飛んでいく!

一つ付け加えたい。建築にかかわっている人でないと理解し難いのを敢えて書いて置きたい。コンクリートを(固練りの)スランプ8で密に打つという僕を沖縄に呼んでくれた根路銘さんの建築家魂である。

<写真 久茂地小学校>

マイ 小田急ロマンスカー 賛歌

2012-03-20 15:36:58 | 日々・音楽・BOOK

そろそろ貫禄中年になるオバンが、隣の席にドシンと腰を落としたとたん、思わず身体が飛び上がりそうになった。3月19日、朝の9時3分途中停車して町田からほぼ満席となる沢山の乗客を乗せた小田急ロマンスカーMSE(60000形)2号車の車内である。

オバンは見向きもせず通りかかった車掌に前方車両の窓際の席に移動させてくれないかと談判する。しゃがんだ車掌は丁寧にこれから前方点検に参りますので空いている席がございましたらご案内しますという。新百合ヶ丘駅を過ぎたころ戻ってきて、6号車(新宿より)に一席空いておりますがこれからでもお移りになりますかと問うと、うなずきもせずに立ち上がり歩き出した。
僕は一瞬ぽかんとした。袖で振り合うも他生の縁は死語になった。
健康保険高齢受給者の僕が言うのもおかしなことなのだが、言葉を交わさずともこんなオバンより隣席は若い女の子のほうが楽しい。だがほぼ満席になる通勤時のロマンスカーに乗るのは、大方中年を越したオジンとオバンで若い子に巡り合うことはほとんどないのだ。

しかし!と思った。数年前の本欄で車内で化粧する女性を揶揄したが、そのときの論旨は建築学会の機関紙に掲載された自宅空間と車内の区分けのできなくなった社会状況指摘論文に共鳴して、人前で熱心に化粧したってちっとも綺麗にならないじゃないの!という実感を述べたのだ。若い子が座ってくれても、隣で化粧されたらちょっと困る。話はそれていくがロマンスカー内でのもう一つのエピソードを書いてみたくなった。

ある日、がら空きの車両の通路を挟んだ反対側の座席に、若い女の子が座った。チラッと目をかわしたがやおらその子は化粧品を取り出した。美形とはいえないので関心がなくなって僕からその子が消えた。だが新宿について同時に立ち上がって目をかわした途端アッと驚く。美人だ。
あるスーパーモデルの話がある。ハリウッド映画にスッピンで出て、化粧して変身していくさまを映し出して話題になった。ケイト・モスだったような気もするが、うろ覚えで資料もなく彼女の経歴を調べても出てこないので違うのかもしれない。1990年代の一齣だった。

さてタイトルは吾がロマンスカー賛である。
新幹線旧車両の引退も話題になっているが、ロマンスカーのHiSE(10000形)、RSE( 20000形)がこの16日(2012年3月16日)に引退した。帰りは普通の急行に乗るが、故あって体調管理のために当面朝は本厚木から新宿までのロマンスカー通勤をしている。

2階に運転席が在って展望室のあるHiSEに引退するのだと気がつかないまま乗ったが、シートリクライニングの間隔が大きくて一段倒すと外が見えにくくなって困った。僕は車窓から移り行くまち並みと建築を見るのがすきなのだ。この車両は人気があったのにやはり時が経たのだ
沼津まで行く「あさぎり号」のRSE( 20000形)はつい最近乗ってみると、窓が大きいのがことのほか快適だった。一味違う楽しさがあるのに引退である。

さて、深みのあるブルーのMSE(60000形)は、早稲田の建築学科を出て山下設計を経たのちフランスに渡ってポンピドウセンターの設計にも関わり、神戸芸工大の教授も勤める建築家岡部憲明が設計したと嘗て話題になった。その内部意匠には建築家としての心が騒ぐ。だがしかし、冒頭のオバンのように、ドシンと座られると隣席に振動が伝わるのは困る。工夫はされたのだろうが骨格はともかく座席の厚みも薄いのだ。

昨年一緒に乗ったときに「ワー、ロマンスカーだ!」とはしゃいだ娘が、一番乗りたくなかった車両だ!とがっかりした茶系外観の地味な色調EXE(30000系)には僕のものつくり心も刺激されない。だけど僕はこの電車の乗り心地がすきなのである。
それはともかく吾がロマンスカー群の乗り心地は、遮音や空調設計をも含めておそらく新幹線を凌駕し、日本一と言ってみたくなる。娘は僕の一言にフーンという顔をしていたがさてどうだったカナ!

<写真 MSE(60000形)の車内>

宮城県女川町被災と 風評は風評であってほしい

2012-03-18 12:13:23 | 建築・風景

思いがけず「女川海物語」の著者小岩勉さんからコメントを頂いた。
その一言一言に心が打たれ、許可を頂いて全文をここに記載したいとも思ったが、まず前項のコメントを開いて読んでほしい。
「出版当時から話題にもならず、売れる訳も無く。また、この本が売れるようなことがあるときは、おそらく女川に良くないことが起きたときだろうと思っていました」。小岩さんが30歳のときの複雑な(でも的確な)想いである。
そして津波に襲われ、原発に脅えることになった1年後の3月11日、僕がささやかな一文を書いた。遠くからこのようなエッセイしか書けない僕が心を打たれるのは続く次の一節である。

「(女川の)市街地とほとんどの集落は壊滅してしまいましたので、本も家とともに流されてしまいました。昨年の秋から女川を訪ね、直接あるいは人づてに、幸いにもたくさん残っていたこの本を仮設住宅に届けています」。

女川の人々の、この本を手に取ってページをめくり、涙をこらえて20年前に見入る姿が目に浮かぶ。僕は女川原発のHPを見て(安全に)自動停止していると皮肉を込めて(不遜だろうか?)書いたが、小岩さんの「・・間一髪止まったというのが本当のようです」という一文に震撼とし、事故にならなくてよかったとホッとしたが、やはりとも思った。

それなのに、こともあろうにこの3月11日の野田首相は、停止中の福井県おおい町の関西電力大飯原発の再稼動に首相として率先して邁進すると述べるのである。福島原発で水素爆発が起き`あちゃあ`という顔をしたと朝日新聞の「プロメテウスの罠」で暴露された水素爆発は起こらないと断言していたあの斑目春樹(現)内閣府原子力安全委員会委員長でさえ、一次評価だけでは不十分と述べていたにもかかわらず。
原発の町に住む人々の生活の糧と不安は、沖縄の米軍基地に隣接する住民の糧に通じる課題だということは分かる。しかし人間が引き起こし人間が制御できないことを人間がやるべきではない。怖い。

「不退転」だという。野田首相の不退転は=(状況がどうあれ)聞く耳持たず!ということになる。人は誰しもさほど高邁ではないのだ。今日(3月17日)、細野環境大臣は、風評が現実になった場合は、政府が責任を持って対処すると生き生きと、一見格好良く宣言した。しかし聞いたこともなかったベクレルやシーベルトという言葉(と数値)が当たり前のように蔓延し、安全だといわれても本当に安全なのか?との不安がことに現地の人々の心のどこかに在るのだと察する。つまり本当に安全かどうかよく分からないのだ。細野のこの一言は、風評は風評(うわさ)ではなく現実に起こりうるのだと吐露したようなものだ。

爆心地から500キロ離れていた第5福竜丸の久保山さんの死と、先だって放映された原爆実験(1954年)にされたビキニ環礁の廃墟ともいえる珊瑚礁の海中に、58年を経たいまでも生き物がいない映像を忘れ得ない。原爆実験と原発事故とは違うとはいえ・・・風評は風評、単なるうわさであってほしい。

結局小岩さんの許可を得ないまま、大方の文章を使わせてもらった。
帯に、`海辺に生きる人々`と記載されている「女川海物語」はネットで調べていただくと購入できるようだ。大勢の人々に手にとってほしい。各地の図書館での公開はできないものだろうか!

沖縄旅(5)余話:「女川海物語」―被災を受けた宮城県女川町―

2012-03-11 17:22:24 | 沖縄考

本棚に「女川海物語」(カタツムリ社刊)という写真集がある。
1962年に岩手県一関に生まれ、宮城教育大学を卒業して仙台に住む、後に写真家になった小岩勉がちょうど20年前になる1992年に発表したものだ。その隣に木戸征治の「家族原点」(1986年晶文社刊)や、北井一夫の「村へ」(1980年淡交社刊)が並んでいる。そのどれもが「村」(或いはまち)に住む人の姿を捉えた写真(写文)集である。

3月11日の今日、「女川海物語(おながわうみものがたり)」をめくりながら、なぜこの本がうちにあるのだろうと考えていたら、一通の封筒が挟み込まれていた。印刷を担当した知人が送ってくれたのだ。
「小社で出来上がった自費出版の写真集を送るとあって、写真の芸術性はよく分からないが、写真集には印刷適正に優れているアート紙を使用すべしという固定観念を持っているものの、作者の指示によりこの本には上質紙が使われているために、シャドー表現が豊かでない。勝手に送ってくる本にはつまらないものが多いといわれることもあるので、この本もその中に入ってしまうのではないかと心配です」という文字が連ねてある。
そんなことはない。よく送って下さったと20年前を思い起こしてお伝えしたい。

当時の社会に衝撃を与えた北井のアクティブな「村へ」は、コントラストの強い写真で、木戸の「家族原点」も上質紙による粒子の粒が魅力的なモノクロ写真である。
「女川海物語」の写真は平坦な淡い色調のモノクロだが、だからこそ `内陸の山村で育った私に、違いとしか映らなかった浜の暮らしは、今も残る山村となんら代わりのない人と人とのつながりがあることを知ったころから、違いではなくなっていた` と、3年間に渡って淡々と撮った写真のあとがきに書くことになったのだ。
でも改めてあとがきを読み始めて衝撃を受けた一文を書き留めておきたい。

小岩はこう書き始める。
「女川通いで泊めてもらった家の中で、放射線警報機を置いている家が一軒だけあった。二十四時間スイッチを入れっぱなしの警報機は、ときおり環境中の微量の自然放射線を感じてピピピピ・・・と鳴り出し、やがて止まる。(中略)なかなか寝付けなかった。・・・もし鳴り止まらなかったらすぐに逃げなくてはならない。そしてもうこの土地に戻ってくることはできないのだと。原発のある町で暮らすということは、そういうことでもあるのだとそのときはっきり感じた。」

小岩は女川の日常をゆっくりとみてみたいと思ったという。そして二十年以前の(つまりいまから四十年以上前からの)原発建設計画が持ち上がったころから現在までのことを聞き取ることになる。

「原発つくるって話があったが、みんな反対だった。そのうち電力の社員が毎日隠れて家を回るようになってなあ、一軒一軒・・・・十年ぐらい前、女川漁協が切り崩されたことから、この浜も危なくなってさ・・・原発が来たことで、昔からの浜の人間関係をむちゃくちゃにされてしまったんだよ。反対したのがよかったのか、そうでなかったのか・・」

しかし、小岩はこうも書く。20年も前に!
私が暮らしている環境とは違って、女川のみなが言う苦しい話を誰かが側で、黙って或いはうなずいて聞いていることだったと。「たすけあって生きるということは、迷惑を掛け合って生きることでもあるということを、ずっと忘れていた。いつからか、迷惑をかけあうことを恐れてた暮らしを続けてきてしまった自分に、そのとき気がついた」。

女川町は津波で大変な被災を受け、発する言葉が僕にはないが、女川原子力発電所は震災を受けたが予定通り(安全に)自動停止していると報じられている。

この一項を「沖縄旅」の余話としてあえて書きとめておきたいのは、1年前の3月11日を思い起こし時の経つのは思いがけなく早いと思うものの、僕自身のことも含め生きていくことに予測のできない(野田政府は何故かいち早く終息したと宣言したが)また収束の難しい様々なことがおこるものだという思いに駆られるからだ。

自然と向き合いそれでも自然と共存することを内に秘める東北(地震被災を受けた長野栄村も)の方々を想いながら、人知を尽くした(旧)沖縄少年会館を4000万円の費用をかけて壊して駐車場にし、費用がないのでメンテナンスが出来なかったとして久茂地小学校を取り壊し、那覇市民会館(ドコモモで選定した)を取り壊して久茂地小学校の跡地に新築するというその行為と重ね合わせておきたい。

那覇市には、修復する資金はないが、取り壊し新築する費用はあるのだということなのだろうか。
人の生きることの大切なことを、そして生きるとは何かを沖縄の人とともに考えてみたい。

<写真 那覇市民会館>

沖縄旅(4) 旧沖縄少年会館(久茂地公民館)に込められたもの

2012-03-06 14:28:49 | 沖縄考

那覇市中心市街地から一歩入った久茂地川に沿って建つ、旧沖縄少年会館(久茂地公民館)の解体決議が市議会でなされ、2月8日に入札が行われ解体業者が決まった。「まだ解体されていません」という一言から始まる「新沖縄子供を守る会」の方々や、その会をサポートする地元の建築家からの切実な思いに満ちたメールが送られてくる。

宮里栄一が設計し1966年(昭和41年)に完成した「旧沖縄少年会館」は、沖縄人の感性、つまりウチナンチュウのこの地の風土に根ざした建築家のつくった建築である。
庇の先端を支える壁柱に、三木淳の撮ったニーマイヤーの設計したブラジリアの`暁の宮殿`のシャープで優雅な曲線を思い出した(三木淳写真集:サンバ・サンバ ブラジル 研光社刊)が、日差しをさえぎる二重に重なり合う庇の楕円を取り込んだ意匠などには、湧き出て来る沖縄土着者の気概を読み取れる。

大学の後輩になる建築家照屋寛公さんが送ってくれた1月21日に行われたシンポジウムのDVDを観て、会場から発言されたご高齢(86歳)の宮里栄一氏のコメントに心打たれた。「東京上野に建つ前川國男の設計した`東京文化会館(1961年)`のように仮枠に使った美しい杉の木目の浮き出たコンクリート打ち放しの建築を沖縄の人々にも味わってもらいたい」。
横浜国大を出て東大の大学院に学んだ宮里は前川國男に師事したという。そしてその宮里によって沖縄に一味違う初のコンクリート打ち放し建築が生まれたのだ。

市は、老朽化と耐震に問題ありという。ここでも、常に言われる老朽化とは何か?と問いたくなる。メンテナンスをせずに老朽化と軽々しく言うべきではない。新耐震法以前の建築が全て現行建築基法に適合しないのは当たり前のことである。モダニズム建築であってもオセンティシティ(原初性・由緒ある正しさ)を検証し、耐震構法を検討して改修して使い続けられている事例はいくつもある。国際文化会館、重要文化財になった国立西洋美術館や広島のピースセンター、そして宮里栄一が範とした東京文化会館などなど。

―二つの疑念:そのⅠ―
この旧沖縄少年会館の解体を促進する沖縄を見て素朴に思うことがある。
戦後の疲弊した沖縄に子供の教育の拠点を作ろうと志した、屋良朝苗さんを中心とした`沖縄子供を守る会`の人たちが全国行脚をして集った多くの人々の寄付によって建てられ、後に那覇市に譲渡されて「久茂地公民館」となったこの沖縄の歴史を顧みることはないのだろうか。先達が未来を子供に託した建築を苦もなく捨て去る那覇市長や議員連のその心根は何なのだろう。
那覇少年会館ではなく、「沖縄少年会館」と名づけた当時の人々の想いに本土の僕でさえ心が打たれるのに。(この項続く)