日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

旅 トルコ(12)イスタンブール歴史地区を歩く② トラムヴァイでブルーモスクへ

2007-04-28 22:29:15 | 旅 トルコ

最終日は初日に歩いていないイスタンブールの歴史地区の建築群を見ることにした。帰りの飛行機も夜行便なので時間はたっぷりある。
ペラ・パレスをチェックアウトをし、バッゲージをホテルに預かってもらって、世界最短といわれる地下鉄テュネルに向かう。初日は間違って反対方向に歩き出してしまったが今度は大丈夫。ベラ・パレスとガラタ橋の間の急な坂道を息を切らしながら登り下りしたものだが、登山電車のようなこの地下鉄は一駅しかなく3分で着いてしまう。賃料はたったの1YTL。

ガラタ橋の手前にあるカラキョイでトラムヴァイに乗り、ブルーモスク(スルタンアフメット・ジャーミイ)の近くスルタンアフメット駅へ行く。みやげ物店の連なる中を軒を接して走るモダンな路面電車が、千数百年の時代を繋いでいるようでいい風景だ。この辺りが旧市街の中心地で、朝の10時なのに大勢の人で一杯だ。

歩き始めてすぐ気がつくのは、歩道が石敷きで、ピンコロといわれる小ぶりの白い花崗岩でも様々な組み方がしてあり、道が模様で溢れていることだ。模様つまり装飾を廃して工業化製品を使いながら新しい美意識のもとで、時代を切り開いていったモダニズム、その魅力を伝えたいと思っている僕ではあっても、徐々に道から始まる多彩な装飾の虜になっていく。どちらも素晴らしいのだと実感できる。しかしこの模様を培うのは時間なのだということも、それもどうあれ人の業なのだということも同時に見えてくる。

ブルーモスクでは子供たちに囲まれて口々にホワットイズユアネームと聞かれてにぎやかに楽しんだが、引率の先生に呼ばれて子供たちは「じゃーねー」(とは言わないか)と手を振って駆けていった。
この壮大なイスラム寺院は、青を主体とした2万枚のイズミックタイルで内壁が飾られていて、ブルーモスクと愛称されて観光客に喜ばれているが、様々なドームで組み立てられていて260箇所もあるという小窓のステンドガラスからは、柔らかな光が注ぎ込まれている。

礼拝している人々がイエニ・ジャーミーと同じようにひとところに集まって一人の男性の歌うようなコーランに聴き入っている。聞き入っているのではなく一緒に祈っているのだろうか。微かに反響するがいい声だ。壁と向かい合って一人で祈りを繰り返している人もいる。宗徒と観光客が、違和感なく院内に満ちている。

初日に見学したガラタ橋の前に建つイエニ・ジャーミーの内部空間の素晴らしさの虜になってしまったので、ブルーモスクとはいえ特に興奮することもない。大きな空間の中心に、ワイヤーでつるされた照明器具が大きな円形に配置されているのは、どのジャーミーに行ってもほぼ同じだ。そして時間が来ると塔に取り付けられたスピーカーからコーランが鳴り響く。
聴いていると、これはイスラム教国トルコの国策なのだとつくづく思う。それがごくごく当たり前のようスーと僕たち観光客の心にも入ってきて、数多くの寺院やバザール、路地で行き交う人々の衣装や交わす言葉、つまりトルコをなんとも好ましく思ってしまうのだ。

でも朝の5時半からの鳴り響くコーランに「冗談じゃない、これではとても寝ていられない」とブルーモスクの近くの宿を引き払った建築家がいる。大会に参加した理科大学の山名准教授だ。朝びっくりして飛び起きてしまったらしい。身振り手振りの言い方がユーモアに溢れ、その有様を思い描き、僕たちは思わず笑ってしまった。DOCOMOMOの総会の初日、Japan会長鈴木博之東大教授のプレゼンテーションの後、アンカラの飲み屋で皆で一杯やったときのことだ。

(写真 ペラ・パラス最上階EVホールとトラムヴァイ)

旅 トルコ(11) イスタンブール歴史地区を歩く①イエニ・ジャーミィから

2007-04-26 14:49:37 | 旅 トルコ

イスタンブールの旧市街、つまり世界遺産になっている歴史地区にも触れよう。
このトルコの旅は、DOCOMOMO世界大会に参加するために出かけることにしたのだが、イスタンブールという名前を聞いただけで心が動いた。

ヨーロッパとアジアの入り混じった街。かつてスパイが暗躍し、アガサクリスティの愛した都市。街の喧騒とともにベリーダンサーの妙なる肢体が目の前に浮かんできたりする。冒険・スパイ小説に少々毒されていると我ながら思うが、帰国して半年も過ぎるとさすがに印象が少し薄れてきたものの、それでも書き記したメモや撮った写真を見ると、一つ一つが鮮やかに蘇ってくる。

帰ってきて感じたのは、僕たちが行こうが行くまいが、トルコはトルコだということだ。イスタンブールもアンカラもカッパドギアも。
そこに行けば変わらない姿でいつもそこにある。時が紡ぎだしてきたそれが歴史なのだろうか。
その感慨は日本の街、つい最近訪れた沖縄や金沢や札幌、そして京都、1300年を経た法隆寺の建つ奈良などとも少し違う。異国からの旅人の僕をすぐに同化させてしまうエネルギーと無頓着な深い懐とでも言いたくなる街。ニューヨークでもない街。コーランに満ち満ちているが、それさえも僕のもののような気がしてくるから不思議だ。

ところでイスタンブールを歩いたのは初日と最終日の2日間である。
初日は、ホテル ぺラ・パラスを出た後新市街に迷い出てしまったが、今となってはそれも楽しいことだった。
現代美術館のレストランで食事をした後、トプハーネ駅から路面電車トラムヴァイに乗ってガラタ橋を渡り、エミノユで降りる。
乗り方がわからないので、駅の前の広場の石垣に腰掛けてぼんやりと様子を窺っていたら、後ろの椅子に腰掛けていた叔父さんが近寄ってきた。何を言っているのかわからないが、そのうち写真を撮ってくれという。立ち上がって2枚撮ったもののそれだけだ。不思議が始まる。

アナソフィアもブルーモスクも素晴らしいが、僕が最も感銘を受けたのは、ガラタ橋の前に建つ1663年に完成したという「イエニ・ジャーミィ」だ。両サイドに塔が建ち大きなドームと小さいドームのバランスもいいが、内部のドームに張られたタイルは繊細でえもいわれぬ美しさだ。
壁を背にした片隅に大勢の人が座っていて、中心にいる人が見事なバリトンでコーランをうたっている。それがドームの中に累々と響き渡る。
一廓の天井のタイルを筆を持って4人の女性が修復していた。昔見せてもらった日光東照宮陽明門の修復工事を思い出す。ここもこうやって歴史を伝えてきたのだ。

隣にあるエジプシャンバザールに入りその賑やかさ、その店員のノー天気な明るさに思わずにやりとしてしまう。そうだここでお土産を買ってしまおうと思った途端、つい店員に乗せられた。お菓子をつまみ口に入れる。美味いじゃないか。数箱に分けて様々な種類を詰めてもらうことになった。まあいいか!

人をかき分けながらこのバザールを抜けて、坂を上ってスュレイマニエ・ジャーミイに行く。ガラタ橋からイエニ・ジャーミィとその背後の丘の上に見える姿がとても美しかったからだ。ここは人が閑散としていてそれはそれで居心地がよい。
庭に出ると付属屋のドーム屋根の修復をのんびりやっていて見とれてしまった。

イスタンブールは喧騒に包まれて活気に充ちているが、時間が止まっているなあ。
はてドームはこんな土(?)を固めてできているのか?

生きること(22) 思いを込めて生きる

2007-04-22 16:08:47 | 生きること

写真館で撮った一枚の写真がある。
父と母が椅子に腰掛け。`智`叔父が中央に立ち、僕は父の膝に抱かれている。
皆きりっとしたいい顔の写真だ。生まれて幾ばくかもないのに僕まで「これから生きていくぞ」とでも宣言しているようで威張っている。父はほんの少し微笑んでいるようにも見え、32歳とはいえ大人の風格がある。
新宿を歩いている写真(第6回掲載参照してください)もある。楽しそうだ。同じメンバーで着ている物も同じなので、この写真館で写真を撮るために出かけたときのスナップなのだろう。その写真でも僕は父に抱かれているが僕は後ろ向きだ。紘ちゃんはいつもお父さんに抱かれていたねと従姉妹によく言われたことを思い出した。
どちらの写真からも、その場のそしてその時代の空気まで伝わってくるような気がしてくる。

僕の「生きること」は67年前のここから始まった。
「吾子の生立」に書かれた父や母の言葉や、出征した父からのはがきを読むと、どんなに僕が可愛がられてきたかと身が引き締まるような気がする。両親の愛を一身に受ける子供って贅沢なものだ。
この写真の中の3人はもういない。僕も児の親だ。『生きること』に思いを込めて僕はもう少し生きていく。

22回にわたって読んでくださった皆様ありがとう。
この回で「生きること」を閉じることにする。
来月小学生時代を過した天草に行くことにした。何十年ぶりだろうか。久しぶりに同級生に会うのが楽しみだ。これから僕が生きていくための発見があるかもしれない。

「織部菊文茶碗」 かぶく桃山時代に想いを馳せる

2007-04-19 11:03:50 | 文化考

時折取り出してはページをめくり、その都度溜息の出る本がある。
15代(当代)楽吉左衛門が責任編集をした淡交社発行の`茶道具の世界`「和風茶碗」である。

僕は当代の切れ味があって大胆な茶碗が好きだ。
一昨年の初春、その作品を特に新作を見たくて京都油小路にある「楽美術館を」訪ねた。しかし当代の作品とはいえ、初春の慣わしという千家の初釜のために焼かれた伝統にのっとったつくりの茶碗展示のみで、それはそれで興味深かったものの思いを果たせなかった残念な記憶がある。
楽茶碗でもこういう壮絶なつくり方がありうるのだと、今の時代を切り開いていこうとする15代は、歴代の楽吉左衛門のなかでも傑出した陶人ではないかと僕は思うのだ。

その一端がこの本で道具商`戸田博`との対談でも伺える。例えばこういう言い方をしている。
「茶碗は・・・自己主張そのものと対峙するもの。われと対峙するあり方そのものが茶碗なんだ」そしてやはり15代と同世代の傑出した人物戸田博にこういわせる。「楽さんは作家としての話しになっているわけ。僕は作家ではないから、それじゃあ何かと考える」。

この本に収録されている二人の対談はなんとも面白い。利休の茶碗、つまり長次郎の黒は「色の黒というより暗闇という空間、宇宙空間というか暗い暗い世界」と戸田が言い、15代はそれに共感し、「瀬戸黒の黒は色の黒、泥臭くて野太い。物が生まれてくるときのエネルギーがある」そして利休の影響はその時代の権力につながる機構の中で生まれ、瀬戸黒や織部はいわば地下人の茶、ことに織部は「かぶく」の世界、その時代(慶長)の産物として生まれた、と時代をとらえていく。

さてこの本の表紙に使われている茶碗が『織部菊文茶碗』だ。
この黒織部の造形は『破格』で、しかも手強く、そしてなんとも可愛らしい、とある。写真を見て破格で手強くはそうだと思ったが、可愛らしいというのが僕にはよくわからなかった。
この本には思わず溜息の出てくる,唐津の`三宝`、志野`羽衣`(これは凄い)、空中信楽茶碗`時雨月 空中`という惹かれる名を持つ茶碗などが収録されているが、僕の心を捉えて離さないのが、この『織部菊文茶碗』なのだ。

それに出会った。観たのだ。
JIAでの会合の後、建築学会での委員会まで少し時間があったので覗いてみた出光美術館での「志野と織部」展で。ガラスケースに収められてトップライトに浮かび上がってつつましく。

思いがけなかった。恋焦がれた片思いの女が突然目の前に現れたように。一瞬呆然とする。魅入っているうちに可愛らしいという言い方に思い当たった。小さいのだ。手のひらに包みこまれてしまいそうだ。
可愛い。こんなに小さいのだとは思わなかった。しかし力強く破格の造形だ。やはり大きいのだ。描かれた菊文は大雑把で手のひらを広げたようだ。小さなグローブのようにも見えたりする。おおらかだ。

僕は実は織部はあまり好きではない。無理に形を歪ませ、作為的だからだ。しかしこの茶碗は!戸田は「(かぶく)という捨てばちな気分というよりも、ある種の格を感じるな」という。
僕の織部感が変わるかもしれない?

鼠志野の重要文化財『峯紅葉』も展示(3月28日で展示終了)されている。五島美術館から出光へ出かけてきたのだ。そうだ。吉田五十八の設計したこの美術館をつい先日愛妻同伴で見てきたんだっけ。
志野も織部も桃山時代が生み出したのだ。風流の時代だ。そしてそれは「かぶく」(歌舞伎)の生まれた時代でもあったのだ。
この『織部菊文茶碗』は手で触れることはできないが、壮大な日本の歴史に触れ得たのかもしれない。そしてふと思うのだ。15代楽吉左衛門のこの黒織部に通じるものつくりの心を。

(この展覧会は残念ながら4月22日(日)で終了してしまう)

生きること(21)顔を見合わせて微笑みあっているだろう

2007-04-15 15:25:07 | 生きること

元旦の午前1時過ぎ、母は逝った。
一年余り母は良く眠っていたがもう眼を覚ますことはない。僕の撮った微笑でいる母の顔と、きりっとした顔で僕たちを見やっている父の写真を見ると、「お前よく来たね、62年も待っていたよ、でもちょっとふけたね」と母に笑いかける父の姿が目の前に浮かんでくる。そういうことがあるような気がする。6年しか一緒にいることができなかったがそんな夫婦だったと思う。

僕たち三人の子供たちの見る母の姿は少しずつ違う。妹はオールマイティの母だったという。母と過した時間の一番多かった弟は、母親ではあるが母に対して身近な自分の子供のような気持ちを抱いていたような気がする。
僕は母に一度も叱られた記憶がない。そういうとあなたはノーテンキだから感じないのよ、と妻に言われそうだがそれでもどこかに近寄りがたいところがあった。

僕には小言を言わなかったが、オールマイティではなく僕にとってはちょっと頑固な一人の女性だった。それなのに何故そう感じていたのだろう。こういうことを思い出す。卒寿の祝いで僕たち三人の子供たちとその家族、つまり一族が浅草に集まったときに、しばらく弟の家にいて久しぶりに会った母は、ニコニコするだけでほとんど喋らなかったものの、思わずドキッとした。
髪が真っ白でなんとなく品がありそして可愛いのだ。僕はまだ及ばない、いやたどり着けないかもしれないと思ったのだ。

戦争という存在があった。
幼子を抱えて多くの人に支えられてきたが、それでも一人で生きなくてはいけなかった。頑固に寡黙に。そういう時代だったといえるかもしれない。母と接するごとに笑顔の底の戦争を僕はみてきた。人にはただ居るだけで教えられることがあるのだと思う。だから居るだけでもいいのだ。

大晦日の夜、気になると病院から電話があり、弟と妹に電話をした。年を越したが医師が、僕たちが着く前に母は息も脈も一旦止まったが甦生したという。父が亡くなったのは6月だが、祖父から電報でその知らせがあったのは元旦。僕たちが枕元に来るのを待っていたのかもしれないが、夫の死の知らせのあった元旦に夫のところへと、夫への気持ちを僕たちに伝えたかったのかもしれない。岡崎に居て来ることのできなかった妹も同じことを考えたという。

密葬のとき従兄弟たちから、僕の生まれる前の付き合いの様子と様々な母への想いが語られた。母は僕たち家族だけの存在ではないのだ。人の「生きること」の不思議さと大切なことを教えられる。母は92歳だった。

<写真 母の文字のある「吾児の生立」に僕の描いた落書き。口がなかなかおそくて二歳誕生過ぎでやっといろいろ云えるようになった。カキクケコが云えないのでオタアチャマである。と書かれている>



沖縄文化紀行(Ⅱ-6)名護十字路

2007-04-09 17:50:21 | 沖縄考

名護と聞くと、僕をはじめとする建築家は即座に像設計集団(Team Zoo+アトリエ・モビル)が設計し、1981年に建てられた「名護市庁舎」を思い起こす。
アサギテラスといわれるブーゲンビリアを這わせたパーゴラを配置して遮光や通風に配慮し、沖縄の風土と共生した建築として建築家には知られているが、様々な形をしたシーサーを沢山取り付けたことで、沖縄の人々や観光客に馴染まれているかもしれない。
しかし今回の僕たちが訪ねるのは、名護十字路の近くに立つガジュマルの大木と石碑だ。

この高さが19メートルもあり、樹齢280年から300年と言われるガジュマルは道路の中央に立っていて、車はそこを迂回する。

樹木の前に1750年に建てられた石碑は、当時の琉球王府の名護遷都論議を納めるために蔡温(具志頭親方)がその経緯と遷都反対論を記したものだという。この場所が名護の玄関口になるので、風水の原点「屏風」(ひんぷん)といわれるようになり、このガジュマルも「ひんぷんガジュマル」と呼ばれるようになった。平成9年(1997年)には、国の天然記念物に指定された。
石碑の文言は漢文だ。かすれていて読み取れない。道路の向かい側に市がつくった説明版が設置されていておおよその様子はわかるが、これだけでは遷都論など名護の歴史を捉えることはできない。
でも僕は渡邊教授の説明を聞きながら、此処にも風水の痕跡があり、それを市や国が認めているのだと感慨を覚えた。

さて飯を食おうと名護の中心地「名護十字路」に向かう。ところが人が歩いていない。車も少ない。あちこちの店のシャッターが下りていて閑散としている。食事のできる店がない。今日は街の定休日かと思った。
やっと見つけた「かどや食堂」にはいる。定食のグルクン唐揚げがぱりっとして旨い。刺身も旨い。旨いのだが人が来ない。聞くとこの商店街はシャッター街になってしまったという。
観光客もこの街に来ない。それでもかどや食堂を手伝うこの店のお嬢さんは「がんばります」と微笑んだ。私が頑張らなくてはという。嘗て調査の折何度も名護を訪れた渡邊教授は愕然としている。

名護市は人口58,000名あまり、沖縄本島北部の要に位置する。北へ上ると海洋博公園やその先には備瀬がある。キャンプシュラブを抱えていて沖縄の課題を内在しているが、僕たち旅行者には産業構成が見えてこない。それにしてもシャッター街を歩くのは辛い。

昨年来たときに賑やかだった那覇の国際通りも活気がないと気になった。
店はお土産のシーサーで溢れているがどの店も同じだ。珍しい泡盛もあるが、東京だって買えるではないか。牧志公設市場の2階飲み屋街「マチグワー」はいつものとおりやすくて旨いし、とりわけイカ墨ソーメンには参る。そこだってお客が上ってくるエスカレーターから離れた店は早仕舞いしてしまう。どうしたのだ。

沖縄は観光を選んだ。産業育成に手を抜いたのだろうか。この一年の変化がなぜか気になる。飛行機は満席なのに!
同行の学生諸君を案内したJAZZのライブハウス「寓話」も満席。僕と肩を叩き合ったピアニスト屋良さんは相変わらず元気で、見事なリズム感とリリカルなタッチで僕たちを夢中にさせてくれたのだけど・・・


旅 トルコ(10) アンカラ城と子供たち

2007-04-07 09:58:05 | 旅 トルコ

トルコの首都アンカラの歴史は興味深い。
620年余りも続いたオスマン朝が衰退し、後に「トルコの父・アタチュルク」と呼ばれるムスファタ・ケマルは革命を起こし、分割して植民地化を図る列強から国を守ってトルコ共和国を成立させ、アンカラを首都と定めたのは1932年である。

当時の人口は6万人程度の小都市だったが今では33万人、都市計画を着々と行って首都としての機能を整備してきた。でも空港はそこらのローカル空港並みだし、豪雨に見舞われると水が街路に溢れてしまう。しかし述べてきたように新国際空港は建設中だし、再開発が猛烈な勢いでは郊外に広がっていることが窺える。勢いがある。

でも僕の関心事は、アンカラ城とその周辺に残る村落(街並み)だ。
小高い丘の上に建つアンカラ城は、7世紀のローマ時代に築かれたというから気の遠くなるような時を経てきたのだ。朝食の後チェックアウトをし、バッグをホテルに預けて歩き始めた。まだ店も開いていないがアタチュルク像のある広場には人がいる。ベンチに座ってなんとなく路行く人を眺めている。

僕はまず石段を登ってアンカラ城に入った。城壁の上には既に人がいて、僕がぶらぶら歩いていくと手をふる。招いているようだ。眼下に広がる赤瓦の連なる町の風景は絶景だ。凄いと思いながら近寄っていくと2人の若者が僕のカメラで写真を撮ってくれという。撮ってもあげる事ができないのにと思いながらシャッターを押すと、ありがとう(サーオル?)と深々と頭を下げられた。Why!

かごを手に持った女の子が僕を見つけた。来るなあ、と思ったらやはり来た。階段を上って城壁の天辺まで。
ビーズなどで作ったネックレスやブレスレット、トルコではやっているらしい一眼のブルーの玉がトルコらしくてなかなかいい。どれでも一つ1YTL。可愛い子だし10個購入。それでも1000円に満たない。写真撮って良いか?と聞くとうなずいたがニコリと笑ってはくれなかった。
どうしようかと考えたが、地図を見てわからなかった「アナトリア文明博物館」の場所を聞いた。
「ミュゼイ」というと通じた。困ったような顔をして城壁の上からから大体の方向を指差すので、ああ、あのあたりかと思い塔を指してオーバーザモスクというとうなずいた。密かな交流だ。

僕が魅かれたのは土や漆喰で作られた民家の連なる街並み。木の扉が開いているので覗くと、庭があったりする。日本ではなく中国の四合院でもないヨーロッパ風の、やはり村落ではなく都会の中の街だ。
スカーフ(ターバンといっていいのかなあ)を巻き、ロングスカートをはいたおばさんたちが路端会議をやっていて廻りを子供たちがはしりまわっている。思わず立ち止まって眺めていたら、「ホワットイズユアネーム」と声を掛けられた。そして「マイネームイズ・・・」と口々に自分の名前を言う。にこやかに単語のやり取りをした。小学生だ!そうか今日は日曜日、休みなのだ。

トルコの子供は人懐っこい。いや大人もそうかもしれないが、僕がぼんやりしていると子供たちに囲まれる。イスタンブールのブルーモスクでは先生に引率されてきたらしい6,7人の中学生に取り巻かれた。まず第一声は同じく「ホワットイズユアネーム?」。
学校で習っている英語を試してみたくてしょうがないのだろうか。口々に自分の名前を言った後「ホワットイズユアジョブ」がそれに続く。「ハウデュユーシンク?」と返すと口々に言葉がほとばしる。

そのときの子供たちの生き生きとした顔と、ほのぼのとした空気が僕の目の前に浮かんでいる。