日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

晴天に恵まれて 年の瀬から新年に!とは思いながらも…

2016-12-31 16:22:26 | 日々・音楽・BOOK
年の瀬、大晦日、大晦(おおつごもり)、そして`おおとし`という言い方もあるという今日は、年の暮れ。
久し振りに我が家に来た娘は、妻君と御節(おせち)料理を一緒につくりながらの四方山話。
僕は自宅の大掃除、とは言え居間のバルコニーに面しているサッシのガラスを拭いただけ。ところが陽が差すと雑巾の後が妙に浮かび上がってきて、これじゃあ駄目でないか!キレイにしてくれよとガラスから睨まれているような気がしてきた。執筆を中断して拭きなおしてみる。

聴いているのはジョン・コルトレーンの「バラード」。
聴き慣れてはいるものの年の瀬に添って、といいたくなる、マッコイ・タイナー、ジミイ・ギャリスン、エルビン・ジョーンズという黄金のメンバー。
実は、朝10時からのNHK BSで映画「天使にラブソング」を観てしまい、何度も観ているのにあらためてグッときて困ってしまった。暮れの慌しいこの時間に、何故こんな映画を!とぶつくさ言いながらも・・・・

マンデリンを益子の陶芸家、親しい後藤茂夫さんの子息竜太君の作品真っ黒な`ぐい飲み`(とは言わず小ぶりの珈琲茶碗といったほうがいいのかナ)で呑みながらのこの一文。同時に娘のお土産,中野玉屋の和菓子十貫坂`一粒粟餅を食べての珈琲。年の瀬というより春の始まりといいたくもなる。とは言え・・・・

CDを、ギタリスト宮下昌子氏の`ヴィルトウオーゾに換えて、作曲家フェルナンド・ソルが亡くなった弟子を悼んで作った幻想曲ホ短調op.59に換える。そして今年亡くなられた建築家阪田誠造さんや、沖縄の盟友国場幸房さん、高校時代に仲のよかった友へ瞑目する。
2月に沖縄に行く。例年の聖クララ教会でのコンサートに参加すると共に、国場さんにお線香を手向けさせていただく。

クリスマスから年の瀬へ

2016-12-27 13:41:36 | 添景・点々

12月23日、横浜市磯子区の「杉田キリスト教会」でのイベントに出かけた。お送りいただいた案内書のタイトルは、~あなたに贈る~「ゴスペル クリスマス」だった。
例年のことながら、久保田牧師の若き日の、ある日のある時のエピソードを軸にしながらの講話に惹き込まれた。この教会を設計して建てたこと、ことに土地を探すことから始めたことなどへの想いが僕の中に湧いてくる。久保田牧師とはほぼ同年代、僕はクリスチャンではないものの、どこかに価値観の共有があってそれが改めて妙に心の中に広がっていく。

燭火礼拝
神山みささんによるゴスペルコンサート。キリスト生誕などの画像をスクリーンに映しこみながら、ギター片手のゴスペル。だんだん惹き込まれていく。神山さんの父親が牧師とのことでおそらく小さい時から聖歌を軸にした音楽に触れて育ったのだろう。でも伝わってきたのは若き日、街頭でのライブを長年続けてきたという根性が、声にも挟み込む話にも溶け込んでいて僕の心を打つ。

抽選会が行われた。会場いっぱいの人の中で、なんと5人の中でまず僕が引き当てて、神山さんからゴスペルを収録したCDをいただいた。祭壇の前で頂いた時に、この教会は僕が設計したんですよ!と一言述べたら会場が湧きに沸いた。とまあこれが僕のクリスマスです。

さて、これから新年を迎えるための、事務所の大掃除である。

初冬の1日

2016-12-18 21:05:45 | 添景・点々
昨土曜日、娘が来宅し(帰宅と言いたいものだが!)なかなか魅惑的な干支・とり(鶏)の姿を、勢いのある筆致で描いてくれた年賀状作成を取りまとめてくれた。夕刻僕は、伊勢原の若き友南野さんと、駅の近くの「寛屋」で一杯やることになっていた。忘年会である。

ところで4日前に伊勢原にある東海大学病院での検診に赴いたものの、薬局へ立ち寄るのをうっかりしたので薬を取りに行くことにする。
ところがこの第3土曜日は4時で閉局。3時半に着いたものの、何時もはほぼ満席の待合室が空っぽ、担当者と不思議な感じですねえ!などとニコヤカに言葉を交わす。
時間が余っているので本館の巨大な待合室へ、吹き抜けになっている上部から夕刻とは言え光が差し込むものの支払機にはカバーがかぶせられていて、ただ一人隅っこのソファーに腰掛けて本を読んでいる男が居るだけ。時折白衣の若き女性が、待合スペースの椅子に腰掛けている僕にチラッと目をやりながら通り抜けていく。

人が居ない大空間は異様。15分ほどぼんやりとその異空間を味わっていたが、どうも居心地が悪くなって駅まで歩いて行くことにした。ふと思い立って246号を横切って市民会館へ、閉鎖されていたがその前の図書館に入ってみた。入り口の近くに大きなテーブルが連なっていて居て、数人の閲覧者が書籍にのめりこむように読みふけっている。

僕が書架から取り出したのは、「キネマ旬報」。映画監督・松山善三(今年の8月27日に91歳で死去)特集を拝読。デビュー作の、懐かしき `名もなく貧しく美しく` などの一文を読みふけり写真にも目をやる。
閉館の時間が迫ってきたので退館してブラ歩き。若き日の、建築家としてのデビュー作となった駅に近い小田急沿線沿いに建てたKUNO BLDの様子を確認したりした。コンクリーと打ち放しの外壁にも異常がなくてホッとする。

そして、待ち合わせをした伊勢原駅へ。笑顔で四方山話をしながら「寛屋」へ!ということになった。この飲み屋の主は、南野さんの中学時代の同級生、彼の盟友。
旨い酒と心を込めた味わい深い料理、肩を組んだ二人の写真を撮った!

<写真:Vサインをする寛屋の主と南野さん:南野さんの了解を得て掲載>

松本竣介展:神奈川県立近代美術館別館にて

2016-12-11 17:41:28 | 建築・風景

~解体された近美新館の様相を観る~写真左・発行してきた近美100年の会の冊子

昨2016年12月10日(土)、解体された神奈川県立近代美術館新館(鎌倉館)の様相を観るために鎌倉に赴いた。この件に関しては後段に記す事にして、別館で開催されている「「創造の原点」と銘打たれた「松本竣介」展(12月25日まで)に触れておきたい。

改めて感じ入ったのは「立てる像」と題した1942年松本竣介30歳のときの著名な作品である。
会場に入ると正面に掲示されていて息を凝らして佇み見入ってしまった。よく知られている作品群が丁寧なレイアウトで沢山展示されているが、この「立てる像」を見ただけで胸が熱くなった。そしてその作品群の一つ一つに眼が奪われ、嘗て具象にはほとんど眼を向けなかった僕が、なぜ!と自問自答することになる。

カタログの冒頭に、水沢勉館長の`あいさつ`と題した一文がある。
「松本俊介(1912―1948)は、戦争そして敗戦という日本近代において最も過酷な時代を生きた画家の一人です。36年という短い生涯を、戦後の混乱のなかおおくのひとにおしまれつつ終えましたが、その魅力は今なお色あせることはありません」とあり、戦争を挟んだその時代に生きた画家に眼を向ける。
展覧会の画集(カタログ)をめくりながら、何度か見てきたこの作品群に、ことに「立てる像」に何故こんなに心が騒ぐのかと、世界のJAZZ界を率いたコルトレーンの「バラード」を音を絞って聴きながら、夕陽の染まり始めた雲の浮ぶ空に時折眼を向けて、考え込んだりしている。

さて、鎌倉の「近美本館と新館」問題である。
この美術館の本館が鶴岡八幡宮からの敷地借用により、坂倉準三の設計によって建てられたのは、戦後間もない1951年、考えると僕がまだ小学生だった。そしてその15年後の1966年に同じく坂倉準三建築研究所によって新館が増築された。
本館を担当したのは駒田知彦と北村脩一。新館は、坂倉事務所の代表を担った阪田誠造の指示によって室伏次郎などが担当したが、館長を担っていた土方貞一から、このような美術館が欲しかったのだと絶賛されたとのエピソードが伝えられている。
その新館が無くなった。

本館ともども存続を願って2002年に高階修爾(当時は西洋美術館の館長)に代表をお願いし、坂倉建築研究所の阪田誠造にサポートして戴き僕は事務局長を担って「近美100年の会」を創設した。13年を経たが、敷地の土地の鶴岡八幡宮からの借地提供によって建てられたこの二つの建築の存続が怪しくなり、なんとか使い続けて欲しいと願って活動をしてきた。

ほぼ15年を経て活動自体が停滞してしまったが、多くの市民や様々な組織からのメッセージによって、本館は敷地変換後、鶴岡八幡宮が使い続けていくことになったものの、新館は僕たちの想いが及ばず、解体された。

この活動によって「近美100年の会」は、鎌倉市の第一回「景観づくり賞」を受賞し、2004年3月、鎌倉の御成小学校で表彰式が行われた。その折、僕は近美や様々な集会などの活動形跡の映像をスクリーンに映し出して報告を行ったことを思い出す。その新館が!とついボヤキたくもなる。

さて集大成。
「近美100年の会」の会報「小さな箱・大きな声」第4号(最終号)のとりまとめに、そろそろ取り組まなくてはいけない。<文中敬称略>

国立演芸場で「講談」をあじわう 

2016-12-04 22:25:07 | 文化考
11月29日(火)、久し振りに「講談」を味わった。第62回「講談かぶらや会」である。
「講談を聴いた」と書き出そうと思ったが、国立演芸場でのこの「かぶらや会」は、当然のことながら大きな舞台に釈台を置き、左手に`めくり`を設置した高座。釈場とは言えない大空間で、嘗ての畳を敷いた「本牧亭」のようないわゆる釈場が何となく恋しく・愛おしくなった。
上野広小路亭があるではないかといわれそうだが・・・それは其れとして、宝井家一族といってもいいメンバー構成でのこの高座は、独特の味わいを醸し出している。

講談にのめりこんだ若き日を、久し振りに思い起こした。
メンバーのお一人一龍斉貞山さんは、宝井家の一族(一門!)とはいえないものの、故六代目宝井馬琴師が学生時代、子供だった(中学生だったか・・)貞山師の家庭教師をしたとのエピソードを聞いたときの様を、懐かしく思い出す。
馬琴師は吾が母校明大の先輩、母校の100人ほどのOB連を対象とし、上野の料亭の大広間をぶち抜いて行った定期高座、同時に上野本牧亭でのこじんまりとした高座の会(修羅場の会)などを、後輩として明大OBの友人達とともにやってきたこと等を、一瞬思い起こした。
更に、高座の写真を撮って写真展をやり、数か所に巡回したことなども。
写真界がデジタルになる前の、モノクロフィルムを使い、自宅でプリントをしたものだった。