ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

暗い青春・魔の退屈

2020-07-20 00:32:41 | 徒然の記

 本題と関係のない話ですが、私にとっては大事なことなので、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々へ、予め説明させて頂きます。

 私がブログで、人名を呼び捨てにするのは、反日・左翼の人間で、それも誰彼でなく、限定しています。本多勝一、吉田清治、植村隆、時々、田原総一郎です。

 坂口安吾をブログの中で呼び捨てにしているため、同様の扱いをしていると誤解されてはいけません。作家であれ画家であれ、音楽家であれ、芸術家については、歴史で評価の定まった故人は、呼び捨てにする方が、敬意を表したことになるので、そうしています。

 夏目漱石は夏目漱石であり、夏目氏とか、夏目さんとか、世間でもそんなおかしな呼び方をしません。鴎外は鴎外であり、ミレーもゴッホも、そのまま呼び捨てにするのが正しいのです。だから私が坂口安吾を呼び捨てにするのは、反日・左翼の害虫をそうするのとは違うのだと、どうか、理解して頂きたいと思います。

 ということで私は今、坂口安吾著『暗い青春・魔の退屈』( 昭和45年刊 角川文庫 ) を、読んでいます。

 11の短編が収められていますが、巻末の年表を見ると、何才の時の作品であるかが分かります。目次の順番と異なりますので、参考のため、時系列に並べてみました。

 36才・・『古都』 『居酒屋の聖人』

 37才・・『二十一(才)』

 40才・・『石の思い』 『いずこへ』 『魔の退屈』 『ぐうたら戦記』

 41才・・『暗い青春』 『二十七才』

 42才・・『死と影』  『三十才』

 並べ替えをしますと、作品の目次が、なぜ時系列に並べられていないのか、本の表題に選んだ短編が、なぜ最初に掲載されないのかなどと、余計な詮索がしたくなります。出版社の都合なのか、編集者の好みなのか、何かの魂胆があるはずですが、知ったところで、私には何の役にも立ちません。

 現在72ページで、『石の思い』『二十一(才)』『暗い青春』を読み終え、『二十七才』の途中です。『石の思い』は、少年時代の回想で、両親と兄弟との暮らしが語られています。屈折した彼の思考が、どのようにして生まれたのかが、分かる気がします。明るいもの、楽しいものはどこにもありませんが、息もつかず読みました。

 『二十一(才)』も、同じ回想ものですが、同様に貪り読みました。『石の思い』は40才の時、『二十一(才)』は、37才の時の作品です。自分のことを客観的に書くには、才能のある作家でも、このくらいの時間の経過が必要なのだと、教えられました。

 前回読んだ『ふるさとに寄する讃歌』は、安吾が25才の時作品でしたが、10年、20年も経つと、同列に論じられないと知りました。同じ喜怒哀楽を叙述しても、人間性の厚みというか、深みというのか、よく分かりませんが、不思議な味があります。適切な例になるのか、自信がありませんが、私は井伏鱒二の作品が好きです。辛いことや悲しいことを述べているのに、その文章には、どことなくユーモアがあり、読者を楽しませます。

 懸命に悲惨さを伝えようと、強い言葉を並べるのでなく、悲しみや苦しみをオブラートに包んでいるような、とぼけた表現で心を和らげる文章です。いい加減に書きなぐった文章でなく、吟味推敲した結果の文なので、それはやはり優れた作家にしか出せない味です。

 「私の父は私の十八の年に死んだのであるから、父と子の交渉が相当あって良いはずなのだが、」「何もない。」「私は十三人もある兄弟 ( もっとも妾の子もある ) の末男で、」「下に妹が一人あるだけ、父とは全く年齢が違う。」

 『石の思い』の書き出しの部分ですが、参考のため割愛して、転記します。

「私の父は二、三流ぐらいの政治家で、つまり田舎政治家とでも称する人種で、」「十遍ぐらい代議士に当選して・・・・(  割愛)」「しかしこういう人物は、極度に多忙なのであろう。」「家にいるなどということは滅多にない。」

 乾いた文章で、自分と父親のことを語っています。

 「家にいる時は、書斎にこもったきり顔を出すことがなく、」「私が父を見るのは、墨をすらされる時だけであった。」「女中が旦那様がお呼びですと言って、私を呼びにくる。」「用件はわかっているのだ。」「墨をするのに決まっている。」

 「父はニコリともしない。」「こぼしたりすると、いらいら怒るだけである。」「私はただ癪に触っていただけだ。」「女中がたくさんいるのに、何のために私が墨をすらなくてならないのか。」

 「その父とは、私に墨を擦らせる以外に、何の交渉関係もない他人であり、」「そのほかの場所では、年中顔を見るということもなかった。」「だから私は、父の愛などは何も知らないのだ。」「父のない子供は、むしろ父の愛について考えるのであろうが、」「私には父があり、その父と一ヶ月に一度くらい呼ばれて、」「墨をする関係にあり、仏頂面を見て、いらいら何か言われて、」「腹を立てて引き上げてくるだけで、父の愛などと言えば、」「私にはおよそ滑稽な、無関係なことだった。」

 「そして墨をすらされるたびに、うるさい奴だと思った。」「威張りくさった奴だと思った。」「そしてともかく父だから、それだけは仕方がなかろうと、」「考えていただけである。」

 安吾以外の人間が書けば、こうはいきません。怒りや悲しみや恨み言が述べられ、不幸な暮らしが綴られるはずです。そうしてもおかしくないほど、無残な少年の姿です。父親だけでなく、自分さえも突き放し、何でもないように書いていますが、読者は却って、安吾の不幸を強く感じます。技巧と言うより、彼自身の人間性の一部となった文章道でないのかと、味わいたくなります。

 今度は前回のように、「中身はないが、文才がある。」などと、偉そうなことが言えなくなりました。無頼派の作家は、私をどんな世界へ連れて行こうとするのか、少し楽しみになってきました。夜が更けましたので、今夜はここで一区切りです。

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