ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

暗い青春・魔の退屈 - 4 ( 時も場所も考えない「芸術至上主義」 )

2020-07-22 14:36:02 | 徒然の記

 『石の思い』 『二十一』 『暗い青春』 『二十七才』 『いずこへ』を読み終え、これから『三十才』を読もうとしています。128ページです。

 一度使うのをやめた言葉を、再び持ち出します。

「中身は無いが、文才はある。」・・『ふるさとに寄する讃歌』の読後に、書評として使いましたが、残念ながら、安吾に送る言葉はこれしかないようです。巻末の安吾年表を見ますと、次のことが確認できます。

    1.   『いずこへ』  ・・ 昭和21年、安吾40才の時発表した作品

    2.  『二十七才』  ・・ 昭和22年、安吾41才の時発表した作品

 昭和21年といえば、敗戦の翌年です。焦土と化した日本で、多くの国民が明日の生活のため、家族のためと、死に物狂いで頑張っていた時です。シベリアの炭鉱で働かされていた父が、運良く戻り、父と母と私の三人家族が、再出発した年でもあります。当時4才でしたから、おぼろげながら、今でもその時の情景や雰囲気が心に残っています。

 そんな時に、こんな私小説を書くなど、一体どんな神経をしているのかと、怒りを覚えました。作品の書かれた時代と安吾の年齢を考えず、単なる小説として読めば、「中身は無いが、文才はある。」・・という書評になります。

 書いた時代と安吾の年齢を考えますと、「何が無頼派だ。単なるぐうたら人間の、女狂いの話ではないか。」と、軽蔑の念さえ生じてきます。

 「以上の青春記により、安吾が常に自己の内部と戦い、」「求道僧のごとく苦行するとともに、」「たちまち破壊僧のごとく、自己破壊のデカダンスに自らを追いやる。」「誠に純粋で、かつ巨大な生き方が、読者に迫ってくるに違いない。」

 奥野健男氏の「解説」を読み返し、やっぱり不動産屋の広告書きだったかと、氏に対しても怒りがこみ上げてきます。芸術至上主義と言えば聞こえが良いのでしょうが、私のような庶民からみれば、時も場所も考えない「芸術至上主義」など、一顧の価値もありません。

 日本中が汗を流し、親のため子のため、兄弟縁者のためと、泣き言も言わず、身を粉に働いている時に、取っ替え引っ替え女を作り、温泉旅行をし、浪費を繰り返し、自己嫌悪に苛まれ、苦悶する安吾が、なんで求道僧と評されるのか、奥野氏の常識を疑います。

 「君の姿勢がまちがっている。芸術というものは、世間の常識などを超えたところにある。」「凡人の常識で、測れないところに、価値がある。」

 私に向けられる彼らの言葉は、どうせ、こんなものでしょう。私は強いて、反対しません。彼らの意見ですから、自由に言えばいいのです。同様に、私は私の物差しで、安吾の不埒な生活態度を批判します。日本中の人間が、こんな生き方をしたら、とんでもない社会が出現します。なりっこないし、少数派だから、奥野氏のような評論家が、わかったような顔でほめそやすのでしょうが、氏は自分の息子や娘が、安吾の生き方を真似たとき、大いに結構と、賛成するのでしょうか。

 私の物差しは、単純です。

「自分の子供たちに勧められないような生き方は、無責任に称賛してはならない。」

 芸術とは縁なき衆生の、ばかな常識と、奥野氏が批判しても、一向に構いません。庶民の暮らしを破壊し、不快にするものを、私の物差しは芸術として認めません。愛知トリエンナーレで、日本人の心を傷つける展示物を並べ、芸術と強弁した者たちと、奥野氏の姿勢には共通する愚かさがあります。

 共産主義を否定した安吾は評価しますが、自堕落な生き方をする安吾は、評価しません。

 「安吾に対する先入観を、ちょっぴり見直しました。(ちょっぴり、だけですが、、、)」と、こんなコメントを寄せられた方がいますが、今の気持ちは、そっくり同じです。

 ちょっぴり見直し、大いに否定し、「中身は無いが、文才はある。」氏の作品を、私は読み続けます。批判するのでなく、味わうことを優先すると、自分に言い聞かせながら・・・

コメント
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