ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

ふるさとに寄する讃歌 - 2 ( 中身は無いが、文才はある )

2020-07-18 17:08:29 | 徒然の記

  『ふるさとに寄する讃歌』を、読了。馬野氏の『嵌められた日本』は、批判をしましたけれど、温かい気持ちが余韻として残りました。

 しかし本書の読後にあるのは、乾燥した冷淡さだけでした。これが果たして「批判」なのか、それとも「味わい」なのか、区別するのは困難です。味わいたいと思っても、味わうほどの中身がなく、どの作品も独りよがりな観念の遊戯でした。

 それでも読み終えたのは、やはり、氏の文章の技でしょう。

 「こうして私は、腕の確かな、しかし非常に平凡な、」「そして相当貧乏な、さらにまた、時々私の、訳のわからぬ独り言を、思い余って聞く時も、」「きっとその人は吃驚して、私の顔を見つめながら、」「ぼやけた顔で、何ですかと聞いてみて、」「私の方で赤面してしまうような、」

 まだ続きますけれど、長いのでやめますが、これが全部好人物の医者を説明する、修飾語です。私はこの文を読みながら、かって読んだハムスンの『飢え』を、思い出しました。人物だけでなく、町の通りや、建物や、通行人など、全ての描写に、このように執拗な、修飾語がこれでもかと被さりますが、それが一向に煩雑でなく、返って魅力となる、そんな作品でした。

 用語と格闘する作家たちは、ハムスンの『飢え』を手本にしたと言いますから、氏もその手法を、取り入れているのでないかと思います。中身がなくても文章で読ませる・・、文学作品には、そんなものもあるのではないでしょうか。例えば、程々の技量の芸者でも、とびきりの美貌があれば、普通に舞っても、酒席の男たちが心を奪われてしまうと、こんな話に似ている気が、しないでもありません。

 「君はどうして生きているのだろう ?  君くらい、死のほかに道の残されていない人を、見出すことはできないような気がするのだ。」

当太郎は突然目を輝かして草吉を見つめながら、幾分息を弾ませて言い出した。

「君は夜道の街灯なんだよ。一途に何かを照らそうとしている。しかし結局、君を包む闇の方が、文句なしに遥かに大きい。」

「俺は生きたいために死にたいと思わない。自殺は悪徳だと思っている。」

「しかし君の方が、俺よりも死にたがっているのだよ。」

「無意味だ。」と草吉は吐き捨てるように呟いた。二人が襖を開けて出ようとすると、小柄な娘が叫びながら走り出てきた。妹のまさ子であった。

「お兄さん !   行っちゃいけないわ !   死んじゃうよ !  殺されちゃうよ ! 」

 互いに自死を考えている二人の青年が、部屋を出ようとする時、隣室から当太郎の妹が、突然現れる場面です。私は自分の経験の中で、このような会話をする若者に出会ったことがありませんが、世間にはこういう人もいるのでしょうか。陳腐な会話に堕そうとする時、唐突な妹の金切り声が、小説を転回させます。

 身に迫る、切ない言葉ですが、一歩引いて考えますと、私たち日本人は、本当にこんな会話をするのだろうかと、疑問が生じます。絶叫したり、暴れたり、感情の赴くままに、隣近所の目も気にせず、四六時中そんなことをするだろうかと、首を傾げてしまいます。

 西欧人なら、というより、中国人も韓国人も、自己主張の強い彼らは、喜怒哀楽をそのままぶつけます。それが彼らの文化であり、生活様式だから、なんの不思議もありません。しかし多くの日本人は、そのようなことをしません。異国の風を真似、異国風の言葉を喋らせ、それをあまり不自然と思わせないのも、やはり技巧の一つなのかと、私は考えてしまいます。

 巻末に書かれた「解説」を読んだ時、なんとなく自分の思いに自信を持ちました。東京工業大学の教授でもあり、川端康成の研究家としても知られる、川嶋至氏の解説でした。

 「『黒谷村』は、牧野信一、島崎藤村、宇野浩二によって絶賛され、」「先に牧野に認められた『風博士』とともに、安吾の出世作となった作品である。」

 作風が似ていると述べましたが、なんということはありません。氏の作品を絶賛し世に出したのが、牧野信一でした。私小説的、自然主義的、観念小説を書いている作家たちの仲間だったのです。自分の直観も満更でないと、自信を深めたという次第です。

 ネットで調べますと、評論家・川嶋氏も、世のスネ者の仲間でした。昭和49年に、安岡章太郎の作品について、「事実をねじ曲げて、作者の都合の良いように書いている。」と、批判し、文壇の権力者だった安岡を激怒させています。このため氏は文壇を追放され、江藤淳の推薦で東工大教授になったという伝説があるそうです。

 その川嶋氏の世話で、東工大に職を得た井口時男氏が、「川嶋が死んだ時、文芸雑誌には全く追悼文が載らず、文壇は川嶋を抹殺した。」と書いたそうです。何が言いたいのかと言いますと、はぐれ鳥のような坂口安吾を解説するのは、やはりはぐれ鳥のような評論家なのかという、感慨です。川嶋氏のように評価せず、批判的意見を私が述べても良いのではなかろうか、という自惚れでもあります。

 「中身は無いが、文才はある。」・・これが私の、今回の書評です。次回は、『暗い青春・魔の退屈』です。聞くだけで、退屈になりそうな書名ですから、息子たちも、そのほかの方々も、「ねこ庭」へのお誘いは致しません。

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする