ねこ庭の独り言

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ふるさとに寄する讃歌

2020-07-17 19:55:04 | 徒然の記

 坂口安吾著『ふるさとに寄する讃歌』( 昭和46年刊 角川文庫 )を、読みつつあります。変色し黄ばんだ紙に、小さな活字で印刷され、しかも時々インクが薄くなっています。

 今の文庫本は、活字が大きくなり、紙も上質で、苦労せずに読めます。昔はこんな本を、当たり前のように誰もが読んでいたのですから、時代の変化とは、不思議なものです。こうした時代物の文庫本が、まだ処分できないまま、本棚に並んでいます。

 単行本は、ほとんど市の図書館からの貰いものですが、文庫本は、たいてい20代の若い頃買った本です。274ページの本を、94ページまで進み、三分の一を読んだところです。面白いもので、20代の頃一度読んだのに、55年が経過しますと、ほとんど覚えておらず、新しく読むのと同じです。

 現在「温故知新」で、沢山読んでいますが、50年経てばみんな忘れ、また新しく読む楽しみが味わえる、と言うことになります。忘れるも忘れないも、50年後に自分はこの世にいませんので、こういうバカな空想は、息子たちに笑われない内にやめます。

 いつものように、著者の略歴をネットで調べようとしたら、何と、巻末に詳暦がありました。279ページから291ページまで、12ページにわたり記載されています。さすがに昔の本というべきか、それとも彼が大物作家なのか、そこは分かりませんが、手間が省けました。

 無頼派作家と呼ばれ、沢山の読者を持ち、昔から有名なので、息の長い人気作家だと記憶しています。明治39年に生まれ、昭和30年に亡くなっていますから、ずいぶん長生きをしたように感じますが、計算しますと、49才で生涯を終えています。人生わずか50年と、昔の人が言いましたが、理想の人生を全うしたのでしょうか。

 本は短編集で、11の作品が収録され、『ふるさとに寄する讃歌』はその内の一編です。『黒谷村』『海の霧』『にじ博士の廃頽』等々、どれも暗く陰鬱な作品ばかりで、氏が理想の人生を全うしたとは、とても考えられません。若い時愛読した、『三太郎の日記』に共通する、自己研鑽への憧憬も垣間見えます。

 「充実した人生が欲しい」「自分を生かす道を探したい」「生きがいとは何か」などと、学生時代の私は、安吾に似てぼんやりと、しかし真剣に、青春の浪費をしていました。違いがどこにあるか考えますと、安吾は運よく49才で没し、私は77才になっても世俗の民というところです。彼は49才で有名人でしたが、私は77才でも無名のままです。

 無名も有名も、この年になりますと、大きな意味がない気がいたします。愛する妻も子もなく、子や孫の愛らしさも知らず、苦悶のうちに終えた彼を羨む気持ちは、どこからも生じません。

 『ふるさとに寄する讃歌』とは、名前ばかりで、描かれているのは不健康な、自堕落な、無気力な人間たちです。自然主義的、私小説的、観念文学とでもいうのでしょうか、読んでいて少しも楽しくありません。自分の中の異常性や、狂気、臆病、猜疑心を、細かく描写しますが、自分が生きる社会や、国や、歴史については無関心のままです。

 氏の作品を読んでいますと、牧野信一を思い出しました。家族を嫌悪し、人を拒み、悶々として生きる自分の姿が、誇張した文体で描かれます。雰囲気がそっくりなので、当時の小説の流行のスタイルだったのかと、そんな気がします。年表を見ますと、この作品は昭和6年、氏が25才の時に発表したと書かれています。

 横光利一は、「言葉と格闘した作家」だと言われますが、氏も同じでないかと思います。とるに足りないことが、さも重大らしく書かれているのに、退屈せずに読んでいるのは、ひとえに氏の文章力です。人間の悩みや苦しみや悲しみは、世間一般の誰もが持つもので、このありふれた喜怒哀楽が、粗末な文章で綴られたら、たちまち退屈され、読む人はいません。大した内容がないと感じつつも、それでも読まされるのですから、やはり氏はひとかどの作家です。まして25才の時の作品だと知れば、敬意を表すべき才能です。

 「白い灯台があった。」「三角のシャッポをかぶっていた。」「ピカピカの海へ白日の夢を流していた。」「古い思い出の匂いがした。」「佐渡通いの船が一塊りの煙を海へ落とした。」

 『ふるさとに寄する讃歌』の書き出しの部分の文章ですが、「海へ夢を流す」とか「一塊りの煙を海へ落とす」とか、誰もが思いつく言葉使いではありません。考え抜かれた文章だから、私たち読者は無意識のうちに、作者の世界に誘われます。

 昭和6年といえば、若手軍人の政治結社、「桜会」によるクーデター計画が発覚した年です。9月には柳条湖事件 があり、満州事変が勃発しています。東北や北海道で、冷害と凶作が深刻化し、農家の娘の身売りが急増しています。やがてこの困窮が、農村出身の下士官たちを、政治家への怒りへと駆り立て、2・26事件につながります。

 それなのに、氏は日本のことに構わず、自分や周囲の人間たちの狂気や激情を、語るだけです。若い女に恋をしたり、酔っ払ったり、喚いたり、そんなことを延々と描写します。自我の追求が人生と思っていた、若い時の私は、きっと氏に似ていたのでしょう。親も兄弟も、自分の住んでいる社会や国について、何も考えず、自己中心だったから、氏の本に惹かれたのでしょう。

 77才になった私は、破滅型人生を推奨するような氏に、眉をひそめます。自己研鑽の名目で、欲望やわがままを野放にし、自己破産者になる生き方を肯定する氏に、賛同しません。息子や孫たちが毒されるという点では、反日・左翼の書と同じです。

 氏の著書があと二冊ありますので、文学作品を読む姿勢として、私の「思い込み」は、正しくないような気もいたします。こんな結論を持っていては、読書ができませんから、批判をせず、味わうことを優先しようと、思い直しています。息子たちの参考になるか否かは、私の姿勢一つにかかっているような気もします。

 頑固な年寄りになった私に、そんなことが可能なのかどうか、次回から「批判せず、味わうことを優先する」努力をしてみます。

コメント (6)
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