ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

暗い青春・魔の退屈 -2 ( 革命と武力の手段を嫌う、安吾 )

2020-07-20 22:08:50 | 徒然の記

 『石の思い』の中から、一節を紹介します。続きの文章でなく、私が拾い出して、並べたものです。

 「中学校をどうしても休んで、海の松林で、ひっくり返って暮らさねばならなくなってから、」「私のふるさとの家は、空と、海と、松林であった。」「そして吹く風であり、風の音であった。」

 「私は今日もなお、何より海が好きだ。」「単調な砂浜が好きだ。」「海岸に寝転んで海と空を見ていると、」「私は一日中ねころんでいても、何か心が満たされている。」「それは少年の頃、否応なく心に植え付けられた私の心であり、」「ふるさとの情であったから。」

 「私はいつも空の奥、海のかなたに見えない母をよんでいた。」「ふるさとの母をよんでいた。」「そして私は、今もなおよび続けている。」「そして私は今もなお、自分の家を恐れる。」

 ひねくれ者で、乱暴な少年だった彼は、父だけでなく、母にも愛されず、学校を怠け、行く場所は、浜辺の松林しかありませんでした。この叙述を読んでいますと、彼は人間嫌いでなく、人の優しさを求め、愛に飢えている少年であったような気がします。思いの激しさのため、不機嫌になり、自己嫌悪に陥り、悪態をついているのだと、そんな気がしてなりません。

 28ページ、『石の思い』から抜粋しました。ちなみに石とは、感情がない石のような人間という意味で、自分の姿にたとえています。

 次は『二十一(才)』という短編で、一気に読みましたが、省略します。神経衰弱になりかけた21才の彼が、病を克服するため、わざわざ精神病院にいる友を訪ねたり、夏休みには実家へ戻ったり、そんな日々が描かれています。真面目に取り上げていると、キリがないほど、中身があります。

 短編の題名に、『二十一(才)』と、(才)を追加したのは私です。別途『二十七才』と『三十才』の作品があり、ここにはちゃんと " 才 " の字があるのに、『二十一』にだけ " 才 " がないため、気になって追加しました。深い考えがあってそうしたのか、適当につけた題名なのか、不思議な安吾の精神を見ます。

 その次が、『暗い青春』です。41才の時の作品ですが、描かれている主人公の安吾は、24、5才です。珍しい話なので、叙述をそのまま転記します。

 「全く暗い家だった。」「いつも日当たりがいいくせに。」「どうして、あんなに暗かったのだろう。」「それは芥川龍之介の家だった。」「私があの家へ行くようになったのは、あるじの自殺後に三年を過ぎていたが、」「あるじの苦悶がまだ染みついているように、暗かった。」「私はいつもその暗さを呪い、死を蔑み、」「そしてあるじを憎んでいた。」

 「私は、生きている芥川龍之介を知らなかった。」「私がこの家を訪れたのは、同人雑誌を出したとき、」「同人の一人に芥川の甥の葛巻義敏がいて、彼と私が編集をやり、」「芥川家を編集室にしていたからであった。」「葛巻は芥川家に寄宿し、芥川全集の出版など、」「もっぱら彼が、芥川家を代表してやっていたのである。」

 東京へ下宿する学生時代にも、郷里から婆やがついて来て、身の回りの世話をするというのですから、彼は貧しいと言っても、私から見れば、大家の坊ちゃんです。文豪の名の高い芥川家に出入りしても、特別の感慨がなく、むしろ無遠慮な批評をしており、こんなところが面白いと感じました。芥川家の遺族には、面白くなかったろうと思います。

 「私の青春は暗かった。」「私は死について考えざるを得なかったが、直接死について思うことが、」「私の青春を暗くしていたのでは、なかったはずだ。」「青春自体が死の翳 (かげ) だから。」

 「青春は力の時期であるから、同時に死の激しさと密着している時期なのだ。」

 「私は野心に燃えていた。」「肉体は健康だった。」「私の野性は、いつも友人たちを悩ましたものだ。」「なぜなら、友人たちはおおむね病弱で、ひ弱であったから。」

 誰もが、若い頃の自分に思い当たる言葉ですから、こういうところでファンになるのかもしれません。ファンにはなりませんが、私の心に残る叙述があります。

 「戦争中のことであったが、私は平野謙にこう聞かれたことがあった。」「青春期に、左翼運動から思想の動揺を受けなかったか、というのだ。」

 彼は受けなかったと返事をし、留置所に入れられた葛巻や、中野重治、窪川鶴次郎など左傾作家との話を披露します。

 「私は共産主義は嫌いであった。」「彼らは自らの絶対、自らの永遠、自らの心理を信じているからであった。」

 左翼思想を嫌悪する私は、どこかに共通するものがないかと、安吾の言葉に注目しました。

 「我々の一生は短いものだ。」「過去には長い歴史があったが、未来には、その過去より更に長い時間がある。」「無限の未来に、絶対の制度を押し付けるなどとは、無限なる時間と、無限なる進化に対し、」「冒涜ではないか。」

 「政治はただ現実の欠陥を、修正する実際の施策で足りる。」「政治が正義であるために、必要欠くべからざる根底の一事は、」「ただ各人の自由の確立ということだけだ。」

 家族の愛を知らず、国への愛も知らない安吾ですが、左翼全体主義への嫌悪が共通していました。違った観点から考察しても、左翼思想の欠陥には到達するのだと、教えられました。

 「私は革命、武力の手段を嫌う。」「革命に訴えても実現されねばならぬことは、ただ一つ、」「自由の確立ということだけ。」

 安吾の言葉を、自らの絶対を盲信する、中国共産党政府に伝えたくなり、無頼作家という呼び名を、訂正したくなりました。次回は評論家奥野健男氏の、歯の浮くような賛辞を紹介いたします。

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暗い青春・魔の退屈

2020-07-20 00:32:41 | 徒然の記

 本題と関係のない話ですが、私にとっては大事なことなので、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々へ、予め説明させて頂きます。

 私がブログで、人名を呼び捨てにするのは、反日・左翼の人間で、それも誰彼でなく、限定しています。本多勝一、吉田清治、植村隆、時々、田原総一郎です。

 坂口安吾をブログの中で呼び捨てにしているため、同様の扱いをしていると誤解されてはいけません。作家であれ画家であれ、音楽家であれ、芸術家については、歴史で評価の定まった故人は、呼び捨てにする方が、敬意を表したことになるので、そうしています。

 夏目漱石は夏目漱石であり、夏目氏とか、夏目さんとか、世間でもそんなおかしな呼び方をしません。鴎外は鴎外であり、ミレーもゴッホも、そのまま呼び捨てにするのが正しいのです。だから私が坂口安吾を呼び捨てにするのは、反日・左翼の害虫をそうするのとは違うのだと、どうか、理解して頂きたいと思います。

 ということで私は今、坂口安吾著『暗い青春・魔の退屈』( 昭和45年刊 角川文庫 ) を、読んでいます。

 11の短編が収められていますが、巻末の年表を見ると、何才の時の作品であるかが分かります。目次の順番と異なりますので、参考のため、時系列に並べてみました。

 36才・・『古都』 『居酒屋の聖人』

 37才・・『二十一(才)』

 40才・・『石の思い』 『いずこへ』 『魔の退屈』 『ぐうたら戦記』

 41才・・『暗い青春』 『二十七才』

 42才・・『死と影』  『三十才』

 並べ替えをしますと、作品の目次が、なぜ時系列に並べられていないのか、本の表題に選んだ短編が、なぜ最初に掲載されないのかなどと、余計な詮索がしたくなります。出版社の都合なのか、編集者の好みなのか、何かの魂胆があるはずですが、知ったところで、私には何の役にも立ちません。

 現在72ページで、『石の思い』『二十一(才)』『暗い青春』を読み終え、『二十七才』の途中です。『石の思い』は、少年時代の回想で、両親と兄弟との暮らしが語られています。屈折した彼の思考が、どのようにして生まれたのかが、分かる気がします。明るいもの、楽しいものはどこにもありませんが、息もつかず読みました。

 『二十一(才)』も、同じ回想ものですが、同様に貪り読みました。『石の思い』は40才の時、『二十一(才)』は、37才の時の作品です。自分のことを客観的に書くには、才能のある作家でも、このくらいの時間の経過が必要なのだと、教えられました。

 前回読んだ『ふるさとに寄する讃歌』は、安吾が25才の時作品でしたが、10年、20年も経つと、同列に論じられないと知りました。同じ喜怒哀楽を叙述しても、人間性の厚みというか、深みというのか、よく分かりませんが、不思議な味があります。適切な例になるのか、自信がありませんが、私は井伏鱒二の作品が好きです。辛いことや悲しいことを述べているのに、その文章には、どことなくユーモアがあり、読者を楽しませます。

 懸命に悲惨さを伝えようと、強い言葉を並べるのでなく、悲しみや苦しみをオブラートに包んでいるような、とぼけた表現で心を和らげる文章です。いい加減に書きなぐった文章でなく、吟味推敲した結果の文なので、それはやはり優れた作家にしか出せない味です。

 「私の父は私の十八の年に死んだのであるから、父と子の交渉が相当あって良いはずなのだが、」「何もない。」「私は十三人もある兄弟 ( もっとも妾の子もある ) の末男で、」「下に妹が一人あるだけ、父とは全く年齢が違う。」

 『石の思い』の書き出しの部分ですが、参考のため割愛して、転記します。

「私の父は二、三流ぐらいの政治家で、つまり田舎政治家とでも称する人種で、」「十遍ぐらい代議士に当選して・・・・(  割愛)」「しかしこういう人物は、極度に多忙なのであろう。」「家にいるなどということは滅多にない。」

 乾いた文章で、自分と父親のことを語っています。

 「家にいる時は、書斎にこもったきり顔を出すことがなく、」「私が父を見るのは、墨をすらされる時だけであった。」「女中が旦那様がお呼びですと言って、私を呼びにくる。」「用件はわかっているのだ。」「墨をするのに決まっている。」

 「父はニコリともしない。」「こぼしたりすると、いらいら怒るだけである。」「私はただ癪に触っていただけだ。」「女中がたくさんいるのに、何のために私が墨をすらなくてならないのか。」

 「その父とは、私に墨を擦らせる以外に、何の交渉関係もない他人であり、」「そのほかの場所では、年中顔を見るということもなかった。」「だから私は、父の愛などは何も知らないのだ。」「父のない子供は、むしろ父の愛について考えるのであろうが、」「私には父があり、その父と一ヶ月に一度くらい呼ばれて、」「墨をする関係にあり、仏頂面を見て、いらいら何か言われて、」「腹を立てて引き上げてくるだけで、父の愛などと言えば、」「私にはおよそ滑稽な、無関係なことだった。」

 「そして墨をすらされるたびに、うるさい奴だと思った。」「威張りくさった奴だと思った。」「そしてともかく父だから、それだけは仕方がなかろうと、」「考えていただけである。」

 安吾以外の人間が書けば、こうはいきません。怒りや悲しみや恨み言が述べられ、不幸な暮らしが綴られるはずです。そうしてもおかしくないほど、無残な少年の姿です。父親だけでなく、自分さえも突き放し、何でもないように書いていますが、読者は却って、安吾の不幸を強く感じます。技巧と言うより、彼自身の人間性の一部となった文章道でないのかと、味わいたくなります。

 今度は前回のように、「中身はないが、文才がある。」などと、偉そうなことが言えなくなりました。無頼派の作家は、私をどんな世界へ連れて行こうとするのか、少し楽しみになってきました。夜が更けましたので、今夜はここで一区切りです。

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