ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

暗い青春・魔の退屈 - 5 ( 歴史の事実を教えてくれる師 )

2020-07-23 19:56:31 | 徒然の記

 『暗い青春・魔の退屈』を、読み終えました。作品の順番を、発表された年代ごとに、並び替えてみますと、私の知らない世界が見えてきます。朝日新聞や、反日・左翼の人々がいう、「軍国主義に抑圧された時代」「個人の自由が失われた時代」についてです。

  1.   『古 都』     ・・ 昭和17年、安吾36才の時発表した作品

    2.  『居酒屋の聖人』  ・・ 昭和17年、安吾36才の時発表した作品

  3.   『ぐうたら戦記』  ・・ 昭和21年、安吾40才の時発表した作品

    4.  『魔の退屈』    ・・ 昭和21年、安吾40才の時発表した作品

  5   『三十才』     ・・ 昭和23年、安吾42才の時発表した作品

    6.  『死の影』     ・・ 昭和23年、安吾42才の時発表した作品

  昭和17年に、安吾が36才の時発表した『古都』や、『居酒屋の聖人』を読んでいますと、違う日本が見えます。反日・左翼の人間たちが、いかにも暗い時代であったかのごとく語りますが、果たしてそうだったのかという疑問です。戦争も平和も、受け止める個人の主観に、左右されるのでないのかと、そんな気がしてきました。

 安吾は、平野謙、荒正人、佐々木基一、中野重治、窪川鶴次郎という共産党親派の作家たちと、親しくしていました。共産主義は嫌いだと言いながら、彼らと酒を飲み談笑し、口論したり花街に繰り出したり、特高警察も目をつけていました。

 206ページの『魔の退屈』から、冒頭の部分を転記します。

 「戦争中、私ぐらいだらしのない男は、めったにいなかったと思う。」「今度は来るか、今度はと、赤い紙切れを覚悟していたが、」「とうとうそれも来ず、徴用令も出頭命令というのはきたけれども、」「二、三たずねられただけで、他の人たちに比べると、驚くほどあっさりと、」「おまけに、どうもご苦労様でしたと、」「バカ丁寧に送り出されて終わりであった。」

 言うまでもなく、赤紙というのは召集令状のことですが、その他にも当時は、徴用令や出頭命令というのがあったようです。詳しく知りませんので、そのまま安吾の文章を写します。

 「私は戦争中は、天命に任せてなんでも勝手にしろと、」「俺は知らんと言う主義であったから、徴用出頭命令と言う時も、勝手にするがいいや何でもおっしゃる通りに、」・・(  省略  )・・ 「私はそういうジタバタはしなかった。」

 「けれども役人は、私をよほど無能と言うよりも、他の徴用工に有害なる人物と、」「考えた様子で、小説家というものは怠け者で、規則に服さない無頼漢だと定評があるから、」「恐れをなしたのだろうと思う、」・・(  省略  )・・ 「私が天命主義で、ちっともジタバタしたようすがないので、」「薄気味悪く思ったらしいところがあった。」

 結局彼には、召集令状が来ることなく、軍隊へ行かずに済みました。思想犯を取り締まると特高とか、不審者を密告する隣組とか、確かにあったとしても、安吾のような人物はなんの咎も受けていません。かえって特高が、遠慮して語りかけたりする描写があります。

 よほど目に余る行動をしない限り、特高警察も、無闇に彼らを捕まえず、逆に敬遠していたのでないかと、そんな気がします。

 話が飛びますが、7月18日の千葉日報に、三島由紀夫の特集記事があります。三島の自決の意味を探ろうと、保阪正康氏が意見を寄せています。

 「戦前は、軍部や天皇制に振り回され、」「戦後は米国に民主主義を押し込まれた。」と、氏が言っていますが、安吾はそんなものに振り回されていません。ノンフィクション作家と呼ばれ、マスコミで重宝されていますが、保守なのか、反日・左翼なのか、曖昧な主張で人々を惑わせる様子は、田原総一郎氏にそっくりです。

 「三島の主張は、時計の針を逆に戻すようなものだが、」「その憂には、若干共鳴できる。」と、相変わらずいい加減な意見を述べています。私は、安吾の「解説」を書いた奥野健男氏以上に、氏を軽蔑しています。有識者などと呼ばれる、こういう要領の良い人間が、戦前の日本を、紋切り型の言葉で語り、歴史を歪めていくと、それを知っただけでも、安吾の小説を読んだ価値があります。

 昭和17年に、『古都』や、『居酒屋の聖人』が発表されていることを思えば、特高警察も戦後の左翼が言うほどには、厳しい取り締まりを、していなかったのではないでしょうか。

 現在の「武漢コロナ」にしても、3、40年経って思い出話になった時、その記憶は人様々なはずです。神経質な人間には、たまらなく酷い日々だったとなるでしょうし、パチンコ屋へ行く人間には、なんでもない日々でしょうし、私のような者には、辛いような、不便なような、有難いような、どちらともつかない不思議な体験になっています。

 書評をするつもりでしたが、千葉日報の記事を見て、話が逸れてしまいました。明日からは、安吾の文庫本の最後の一冊を読みます。同じ角川書店の『散る日本』です。慌てなくとも、安吾の書評はまだやれますけれど、私が戸惑うのは、肝心の安吾の評価です。

  「内容はないが、文章は上手い。」という側から、「歴史の事実を教えてくれる師」となるし、徹底した個人主義には敬意を評したくなるし、手に負えない人物です。

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