ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

沈む国 昇る国 - 4 ( 田中正明氏の著作 )

2020-07-01 21:23:54 | 徒然の記

 南京事件について、一番詳しく書かれている本は、平成19年に出版された、田中正明氏の『南京事件の総括』です。中川氏の本が出された、9年後ですから、この本を知らなくて当然ですが、たとえ知っていたとしても、氏は自分の主張を変えないと思います。

 教科書問題が事実無根の誤報だと判明していても、南京記念館の設立理由として、そのまま使っています。良心的な人物なら、内容を修正するか、絶版にするかし、読者に正しい事実を伝えようとします。

 現在の時点でハッキリしているのは、「南京事件」と「東京裁判」がワンセットのもので、切り離しては考えられない・ということです。敗戦国となった日本の戦争責任を追求し、政府の責任者を処刑するという結論が最初にあり、見せしめとして行われたのが、東京裁判でした。

 南京事件が初めて世に出たのは、東京裁判で、日本人には寝耳の水の話だったと言います。田中正明氏は著書の中で、南京事件を否定する根拠として、二つ上げています。

   1. 鎌倉市より狭い南京城内に、日本の記者とカメラマンが約120人、占領と同時に入場している。

   2. 当時、中国のニュースを独占していた、ロイター、AP、UP、アブスなどといった、大通信社の記者も、南京や上海に常駐していた。

 虐殺があったとされる期間に、各社が書いたのは、日中兵士の戦闘や、衝突事件など、ほとんどが小さな一段ものの雑記事でした。虐殺事件に関するニュースが無かった事実を根拠に、氏は南京事件の捏造を訴えています。

 「アウシュビッツに匹敵するような、中国人の大量虐殺事件を、」「彼ら記者が見過ごしていたということは、とうてい考えられない。」

 氏は冤罪で処刑され、弁明の機会も与えられなかった、松井石根大将の秘書として、氏は身辺のお世話をしていました。南京陥落後に大将とともに入城し、敗戦となり共に引揚げ、東京裁判中もそばを離れなかった人物です。

 南京事件が持ち出され、大将が裁かれる法廷を見ながら、必ず無実を世間に訴えると心に誓い、著作の準備をしたと言います。同じ二つの理由をあげても、中川氏のようにいい加減なものではありません。

 外国の新聞記者が、虐殺記事を書かなかったと同じように、日本の記者たちも、報道していません。

 「朝日、毎日、読売、日経など全国紙の支局や、」「地方紙や通信社も、南京に特派員を派遣している。」「南京に入城したのは、約120名の新聞記者や、」「カメラマンだけではない。」

 「大宅壮一、木村毅、杉山平助、野依秀一、」「西条八十、草野心平、林芙美子、石川達三といった、」「高名な評論家や詩人、作家も、陥落とほとんど同時に、」「入城している。」「これらの人々は、帰国するや、いろいろな雑誌や新聞に、」「レポートを書き、講演もしている。」

 「終戦になり、東京裁判が始まり、」「軍の作戦や、旧軍人に対する批判が高まった時でも、」「これらの作家や、評論家や詩人の誰一人として、」「南京事件を告発したり、口にする者はいなかった。」「批判力旺盛な、口八丁、手八丁といわれた大宅壮一氏でさえ、」「南京虐殺には、終始否定的であった。」

 名前を出された大宅氏には、気の毒な気もしますが、これが事実ではなかったかと、思います。作家や評論家たちが、GHQに異論を唱えられるはずがなく、口をつぐむのが、せめての抵抗ではなかったのでしょうか。

 紹介したのは、氏の著作の一部分だけですが、中川氏の嘘を証明するには、これで十分でないかと考えます。

 中川氏の著書は、現在208ページ、「インド」に関する叙述です。ホテルのボーイにチップを騙し取られ、タクシーの運転手に料金を法外にふっかけられ、両替商からはごまかされと、こんな話ばかりです。どうやら氏は、中国と韓国以外は好感が持てないらしく、欠点や短所を並べています。

 あとは「イギリス」ですが、書評は本日で終わります。息子たちには何の役にも立たず、「ねこ庭」を訪問される方々を、これ以上退屈させたくありません。

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沈む国 昇る国 - 3 ( 嘘を疑わない中川氏 )

2020-07-01 14:03:26 | 徒然の記

 今回は、中川氏の間違いを説明する予定でしたが、もう少し、氏の意見を紹介します。その方が、息子たちに、氏の反日ぶりが分かります。99ページの文章です。

 「南京虐殺記念館は、昭和60年8月15日に開館。」「日本では敗戦の日であるが、中国では抗日戦勝利の日であり、」「丁度、抗日戦勝利40周年を記念して、立てられたことになる。」「この動きの背景として、二つの理由が挙げられる。」

 左翼活動家の間で語られていたことなのか、2つの理由をあげます。

   1. 昭和57年に発生した、教科書書き換え問題

   2. 深まる日中の経済関係の中で、過去の歴史を忘れていないと国民に示す必要があった。

 1. は、高校の社会科の教科書検定で、文部省が、中国への「侵略」を「進出」と書き換えたと、新聞各社が報道したものです。歴史への反省がないと、中国が激しく反発し、当時の鈴木首相と宮沢官房長官が、大慌てで陳謝しました。

 しかし後日、書き換えの事実のないことが判明し、「教科書書き換え誤報事件」として、語り草になっています。氏の本が出版された平成10 年には、こうした経緯が分かっていたのですから、不勉強な左翼先生です。

 2. の理由は、珍説なので紹介します。

 「もう一つは、中国が全力を上げて取り組んでいる、近代化政策との関係である。」「中国の近代化には、日本の経済協力が不可欠であり、」「また、日本の経済界にとっても、中国市場は魅力がある。」

 「外国人観光客が利用するバスは、ほとんど日本製であり、」「ホテル前に並ぶタクシーの多くは、日本製乗用車である。」「都市の目抜き通りには、日本の弱電メーカーの広告が目につく。」「中国の為政者は、国民感情に配慮して、」「過去の歴史を忘れていないことを、」「虐殺記念館を設置することにより、示すことになったと思われる。」

 鄧小平氏が来日し、日中友好ムードが盛り上がり、日本の経済界が中国の近代化に協力していた頃の話です。この理由が本当なら、中国は「礼節の国」でもなく、「信義の国」でもありません。熱烈歓迎と右手で握手しながら、片手には凶器を握っていたことになります。

 驚かされるのは、こう言う理由を疑問もなく受け入れ、日本だけを批判する、氏の心です。息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々に、興味深い情報を紹介します。

 「浜田幸一によると、社会党の田辺委員長が、昭和55年に南京を訪れた際、」「南京大虐殺記念館を建設するよう、求めたと言う。」「浜田は、田辺の要請と、総評からの南京市への寄付金3000万円によって、」「同記念館が建設されたと、語っている。」

 田辺氏は否定していますが、こういう話もあるということです。日本製品が溢れているため、国民感情を考慮し、南京記念館を建てたと言う話より、余程現実味があります。

 大事なのは、中国が記念館を作る気がなかったほど、関心の薄い南京事件だったと言う点です。現在のように意味を持つ施設になったのは、氏のような反日・左翼活動家たちが、騒ぐからです。

 「ショックなことが、今一つ続く。」「わが高校生訪中団が、記念館に到着して間もない時、」「館内からゾロゾロと、日本人観光団が出てきた。」「添乗員と思われる人が、ハンドマイクで、」「記念写真をとりますから、集合してくださいと、」「呼び掛けた。」「写真好きの日本人は、何でもカメラに収めたがる。」

 「それにしても、ほんの数分前に、館内で惨たらしい展示物、」「跳ねたばかりの首と、もう一方の手に軍刀を下げた日本軍人、」「腹を裂かれた妊婦、川岸に並ぶ、夥しい数の死体・・」「こうした写真を目にしてきて、どうして平気な顔で、」「虐殺の文字を背に、記念写真を撮ることができるのだろうか。」

 「団体を見回すと、年配の人もかなり混じっている。」「この人たちは、日中戦争はもはや過去のことと、」「割り切っているのだろうかと、沈んだ気持ちになった。」

 氏は団体旅行の日本人に、首をかしげますが、中国人になりきっている氏にも、首をひねりたくなります。田辺氏に勧められて作った館内の展示物は、捏造物ばかりです。写真は他所で撮されていたものが多く、中国軍による殺戮写真も混じっていると聞きます。

 南京事件も、今では捏造と判明しています。氏の頭の中には、本多勝一が書いた、『中国の旅』があるのではないでしょうか。朝日新聞の記者だった本多が、昭和56年に出し、ベストセラーになりました。真偽のほどは知りませんが、崔泰英という在日朝鮮人という話もあります。

 本多の著作は、昭和46年の6月から7月にかけて、約40日間の取材旅行をもとに書かれています。立ち寄った先ごとの「聞き込み記録」の一部が、後年話題となった「南京事件」です。自身の説明によると、南京滞在はたったの一泊二日で、ヒヤリングも4人で、事実の検証もされていません。

 取材旅行は、中国政府の支援のもとに行われ、インタビューした相手は、中国政府が手配した人物で、4人の証言者は次の人物です。

   1.  姜根福 43才 (事件当時 11才)  南京港務局内海船員 

   2.  陳徳貴 53才 (事件当時 21才)  南京運輸公司勤務

   3.  梅福康 50才 (事件当時 18才)  南京人民公社梅山大隊所属

   4.  蔡周氏 60才 (事件当時 28才)  南京人民公社大隊の女性社員

 「毛主席は、私たちに第二の人生を開いてくれた。今の私たちがあるのは、全く毛主席と党のおかげです。この恩恵は、あの悲惨な旧社会に生きて来た私たちにとって、どんなに強調しても足りないくらいです。毛主席の恩は、天と地よりも大きく、党の恵みは川や海よりも深い。」

 インタビューの中で、証言者たちに語らせていますが、公安が目を光らせている監視社会で、外国人に彼らが何を語るのか。敵国の日本人に、何を語れと命令されているのか。本多は、疑問を抱きませんでした。

 虐殺された中国人として、書中に掲載されている写真は、無関係な別のものが混じっていました。酷い写真になると、虐殺されているのは、通州事件当時の日本人だったりしていました。

 著作には、銃剣で突き刺し、腹を引き裂き、強姦し、なぶりものにしたと、最初から最後まで、このような証言が書かれています。白髪三千丈の国で、しかも反日の国で、出任せの嘘を聞かされているのに、本多は、無責任に、無慈悲に、日本の軍人の罪として悪し様に叙述していました。

 現在では、南京事件そのものが、米国による捏造だったと証明する資料が、出ています。資料を読んだのは6年前ですが、あれ以来私は、本多の名前を呼び捨てにしています。私が、ブログの中で呼び捨てにする日本人は、4人です。

 吉田清治、本多勝一、植村隆、田原惣一郎。
 
 最初の三人には、日本人を貶める大嘘を作り出した張本人です。本多の「南京ねつ造」と、吉田・植村の「売春婦ねつ造」は、反日野党とマスコミを通じ、世界に発信されました。中国、韓国・朝鮮による、日本攻撃の道具となるだけでなく、なにも知らない世界の人びとに信じられています。

 だから私は、中川氏の本を読みながら、悪宣伝の片棒を担ぐ氏を軽蔑しました。本来なら呼び捨てにしたいところですが、吉田清治、本多勝一、植村隆に比べれば、大した影響力もなさそうなので、止めました。

 次回は、氏の間違いを息子たちに伝え、それでお終いとします。

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