■ ドイツ映画の傑作 「 白いリボン 」 を観る ( 下 ) ■
2011.6.25 中村洋子
★クリスマスも終わった冬の夜、男爵家の荘園で火事が起きます。
大きな納屋が、全焼してしまいます。
炎上の映像は、 Hitler ヒットラーの
「 Kristallnacht 水晶の夜 」 を、思い浮かばせることでしょう。
マルティンは就眠時も、罰として、ベッドに紐で縛りつけられています。
窓の外が、赤々と燃えているのに気付き、
「 大変だ、大変だ 」 、マルティンは、大声で叫びます。
しかし、それでも、紐を解かれることはありませんでした。
★翌朝、貧しい小作人が首を吊っていました。
「 男爵家に逆らわないことが、唯一生き延びる道だ 」 と、
自分にも、子供たちにも、言い聴かせてきた老人でした。
臭気が漂う、暗く汚い家畜小屋、
前掛けの付いた、みすぼらしい作業衣の息子。
馬車でお棺を運び出すシーンは、遥かかなたから遠景のみ。
ブリューゲルの絵のようです。
★男爵夫人が去った後、入れ替わるように、
大けがで入院していた医師が、自宅に戻ります。
医師の妻は、息子の出産時亡くなり、自宅には、
14歳になる美しい長女 Anna アンナと、幼い長男ルディがいます。
★歳のころ、50歳前後の精力的な顔付きの医師、
その隣に住む助産婦は、医師の昔からの愛人。
帰宅早々、医師と愛人との、醜い、
愛欲の場面を何度も、見せつけられます。
医師は、「 口臭がひどい、お前にはもう飽きた。うんざりだ 」 と
口汚く、助産婦を罵ります。
★幼い 長男 ルディにとって、14歳の長女 Anna アンナは母です。
清楚で、やさしさに満ちた美しい顔。
絵画の聖母像そっくりです。
深夜、目が覚めたルディは、いつもそばに居る姉がいません。
「 アンナ、アンナ どこ? 」 と、真っ暗な家中を、捜し回ります。
明りがほんのり漏れている診察室、そのドアを少し、静かに開けると、
父と姉との異様な光景が・・・。
★「 堅信礼で、ママの形見のピアスを付けるの、
耳に、穴を開けてもらっているの 」。
狼狽して、頬を紅潮させたアンナ。
父親が、娘すら、聖母すら、犯すという非道さ。
一見、何事もない平和に見える家庭の片隅で、
蛮行が、平然と行われている。
「 Confirmation 堅信礼 」 とは、幼児洗礼を受けた者が、
信仰告白をして、教会の正会員となるための、重要な儀式、
キリスト教徒となるための、聖なる儀式です。
しかし、アンナは、堅信礼で、ピアスをつけてはいませんでした。
★教師のシューベルト君は、冬の休暇で、乳母の実家を訪れます。
プロポーズし、父親に認められ、希望に燃えています。
★春になり、男爵夫人が息子ジギと一緒に、村に戻ってきました。
ジギは、男爵家の家令の息子たちと、池のほとりで遊んでいます。
縦笛を楽しげに操り、メロディーを奏でるジギ。
家令の二人の息子たちは、いくらやっても音がでません。
家令の息子は、いきなりジギを抱きかかえ、池の中に放り投げる。
また、ジギは殺されかかりました。
" イタリア " がプンプンと薫るジグ、その文化への憧れと嫉妬。
家令は、息子を半殺しの目に遭わせます。
★牧師が留守の書斎、忍び入った長女クララとおぼしき少女、
父が可愛がっている小鳥 「 ピーピー 」 を、鳥かごから掴みだし、
躊躇いもなく、鋏を首から刺し込みます。
鋏がまるで、十字架のように刺さった小鳥の亡骸、
父の机に、無言で置きます、机の真ん中です。
★痛ましい事件が・・・。
助産婦の息子は、知恵遅れ。
彼女は、この子を溺愛しています。
この息子が、堅信礼の日、行方不明となった。
森の中に、ゴミのように捨てられているのが見つかります。
凄惨なリンチを受け、ほとんど失明状態になっていました。
「 親の因果が子に・・・ 」 という、手紙まで添えられていた。
診察した医師は、長居せずに去ろうとしますが、
助産婦の息子は、医師の手を握り、放そうとしません。
★「イタリアで、心の暖かい人にめぐり会ったのよ。
とっても子供好きなの・・・」。
男爵夫人は、夜の食卓で、別れ話を切り出します。
「この村を支配しているのは、嫉妬、悪意、無関心、暴力よ・・・」
夫人を、睨みつける男爵。
「 ドン、ドン、ドン 」 家令が、ベランダのガラス戸を叩く。
「 急な、お知らせです。
サラエボで、オーストリア皇太子が、暗殺されました 」・・・。
この瞬間から、すべてが、戦争へ、戦争へと流されていきます。
★この場面は、この映画で最も美しい映像です。
蝋燭の灯を受け、妖しく光る夫人のイアリング、
Vermeer フェルメールの
「 The Girl With The Pearl Earring
真珠の耳飾りの少女 」 を、見事に再現しています。
★牧師の長男マルティンは、 「 白いリボン 」 を強制された翌日、
小川の欄干を、放心したように、ゆっくりと歩いているのを、
教師のシューベルト君に発見され、慌てて引き戻されます。
落ちれば、下は深い谷、確実に死にます。
どうして、そのようなことをするのか。
神を試していたのかもしれません。
自分が果たして、必要な人間かどうか、
もしそうなら、神は殺さないであろうと。
深い絶望。
★シューベルト君は、これまでの不可解な事件について、
牧師の子供たち、マルティンやクララが、きっとよく知っているに違いない、
と、感づいています。
クララに 「 あなたは、いつも近くにいた。 」 と、率直に尋ねます。
クララは鉄面皮のように「知りません」、表情一つ変えません。。
すべてを拒絶する顔、とても、子供の顔ではありません。
シューベルト君は、ここでは 「 ワキ 」 役を飛び抜け、
主人公のような役割です。
★牧師にも 「 彼らは知っているのではないか 」 と、直談判します。
牧師は 「 訴えるぞ! 」 と激怒するが、訴えることはしなかった。
牧師もうすうす感ずいているように、映像ではうかがえます。
★伯爵夫人は、ピアノが趣味。
彼女のピアノに合わせ、ジギの家庭教師がフルートを吹きます。
SCHUBERT: VARIATIONEN UBER " TROCKNE BLUMEN "
シューベルト 「 萎める花への変奏曲 」 OP.160 D802 です。
家庭教師は、自分の下手なフルートを、
「 私は、フリードリッヒ大王ではないので 」 と、自嘲します。
電灯がまだない時代、グランドピアノの鍵盤の左右には、
豪華な燭台が、明々と輝いています。
Bach バッハの、Friedrich II. フリードリッヒ大王への
「 Musikalisches Opfer 音楽の捧げもの 」 のシーンは、
このようだったであろうと、想像できる楽しい光景です。
★教会で、第一次大戦に出征する若い兵士を送り出すシーンでは、
Martin Luther マルティン・ルターが作曲、作詞したといわれる、
最も有名な讃美歌 「 Ein' feste Burg ist unser Gott
神はわがやぐら 」 が、歌われます。
神は、無力な我々の代わりに邪悪と戦い、苦しみ、悲惨から
助け出してくれる、という内容の歌詞です。
この曲は、大変に美しく、J.S.BACHバッハが、 INVENTION
インヴェンションや、Das Wohltemperirte Clavier
平均律 で追求し続けた 「 Motif モティーフ 」 により、
この曲はできています。
「 Matthäus-Passion マタイ受難曲 」 では、
NBA 15番 ( BWV 21 )や、NBA 62 番 ( BWV 72 ) など、
最重要な場面で、このメロディーを度々、使っています。
★ナレーションによると、シューベルト君は、間もなく村を離れ、
乳母と結婚、父親の仕事だった 「 仕立屋 」 を継ぎ、
村とはずっと、没交渉だった。
晩年になって、当時を回顧する形で、ナレーションが続きます。
★「 村人のうわさによると、助産婦の2人の知恵遅れの子供は、
医者の子供。
医者が中絶を無理にしようとしたため、障害が起きた 」
「 アンナの母親は殺されたのかもしれない、という噂もあった 」
「 あの出来事全部こそが、当時のわが国のそのものだった 」
「 あの年が、平和だった最後の正月だった 」
★村の名前は架空の 「 Eichwald アイヒヴァルト 」 、これは、
ユダヤ人虐殺のEichmann アイヒマンの 「 Eichアイヒ 」と、
有名な収容所 Buchenwald の 「 wald 」 を、
合成した言葉ではないか、という説も。
★Michael Haneke ミヒャエル・ハネケ監督は、
Rote Armee Fraktion ドイツ赤軍 の
首謀者の一人だった Ulrike Meinhof ウルリケ・マインホフと、
1960年代末にしばらく、テレビ局で一緒に、
働いたことがあった、という。
彼女は、知的でユーモアたっぷり、温かい人だったが、
社会構造をどうしても、変えられないと思うに至った末、
過激化し、突然、地下にもぐった。
熱心なキリスト教徒の娘だった、という。
★また、ミヒャエル・ハネケ監督は、 映画への考え方について、
次のような趣旨のことを語っています。
私は、過剰な説明の映画は嫌いだ。 文学は読者に、情景を思い浮かばせるが、 映画は、映像をもろに見せるため、それを鵜呑みにさせてしまう。 映画から、新しい情景を思い浮かばせたいと思うなら、 観客に 「 自由 」 を、与える必要がある。 それが、芸術という仕事。 音楽は、さらにレベルが高いのです。
★観客は、想像力をつかい、表面に見えるものから、
さらにその下の、層の奥深くへと、
分け入っていくことで、不可解と思われる現象の背後に、
なにが横たわっているか、それを見つけることができます。
★ いま、物事の表面だけをさらう大作や、
テレビ風の軽い作品が、溢れかえっています。
その結果、観客は、人間の存在とは、こんなに深いのであろうか、
と考えさせるようなものに、直面すると、
逆に、苛立ちを覚えるのでしょう。
ギリシア悲劇の時代から、人間存在の深さを探ろうとしてきたのが、
「 ドラマ 」 ではないでしょうか 。
過剰な説明は、観客を馬鹿にしているのではないか?
現在はびこっている ″ 映像文化 ″ への、痛烈な批判でしょう。
★男爵夫人の言葉
「 この村を支配しているのは、嫉妬、悪意、無関心、暴力 ・・・」 は、
社会の行動原理として、負の推進力として、
いつの時代にも、共通する、
人間の、悲しき側面かもしれませんね。
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