音楽の大福帳

Yoko Nakamura, 作曲家・中村洋子から、音楽を愛する皆さまへ

■ ドイツ映画の傑作 「 白いリボン 」 を観る ( 下 ) ■

2011-06-25 12:57:46 | ■楽しいやら、悲しいやら色々なお話■

■ ドイツ映画の傑作 「 白いリボン 」 を観る  ( 下 )  ■
                  2011.6.25      中村洋子

 

 

 

★クリスマスも終わった冬の夜、男爵家の荘園で火事が起きます。

大きな納屋が、全焼してしまいます。

炎上の映像は、 Hitler ヒットラーの

「 Kristallnacht 水晶の夜 」 を、思い浮かばせることでしょう。

マルティンは就眠時も、罰として、ベッドに紐で縛りつけられています。

窓の外が、赤々と燃えているのに気付き、

「 大変だ、大変だ 」 、マルティンは、大声で叫びます。

しかし、それでも、紐を解かれることはありませんでした。

 
★翌朝、貧しい小作人が首を吊っていました。

「 男爵家に逆らわないことが、唯一生き延びる道だ 」 と、

自分にも、子供たちにも、言い聴かせてきた老人でした。

臭気が漂う、暗く汚い家畜小屋、

前掛けの付いた、みすぼらしい作業衣の息子。

馬車でお棺を運び出すシーンは、遥かかなたから遠景のみ。

ブリューゲルの絵のようです。


★男爵夫人が去った後、入れ替わるように、

大けがで入院していた医師が、自宅に戻ります。

医師の妻は、息子の出産時亡くなり、自宅には、

14歳になる美しい長女 Anna アンナと、幼い長男ルディがいます。

 
★歳のころ、50歳前後の精力的な顔付きの医師、

その隣に住む助産婦は、医師の昔からの愛人。

帰宅早々、医師と愛人との、醜い、

愛欲の場面を何度も、見せつけられます。

医師は、「 口臭がひどい、お前にはもう飽きた。うんざりだ 」 と

口汚く、助産婦を罵ります。


★幼い 長男 ルディにとって、14歳の長女 Anna アンナは母です。

清楚で、やさしさに満ちた美しい顔。

絵画の聖母像そっくりです。

深夜、目が覚めたルディは、いつもそばに居る姉がいません。

「 アンナ、アンナ どこ? 」 と、真っ暗な家中を、捜し回ります。

明りがほんのり漏れている診察室、そのドアを少し、静かに開けると、

父と姉との異様な光景が・・・。


★「 堅信礼で、ママの形見のピアスを付けるの、

耳に、穴を開けてもらっているの 」。

狼狽して、頬を紅潮させたアンナ。

父親が、娘すら、聖母すら、犯すという非道さ。

一見、何事もない平和に見える家庭の片隅で、

蛮行が、平然と行われている。

「 Confirmation 堅信礼 」 とは、幼児洗礼を受けた者が、

信仰告白をして、教会の正会員となるための、重要な儀式、

キリスト教徒となるための、聖なる儀式です。

しかし、アンナは、堅信礼で、ピアスをつけてはいませんでした。

 

★教師のシューベルト君は、冬の休暇で、乳母の実家を訪れます。

プロポーズし、父親に認められ、希望に燃えています。

 

 


★春になり、男爵夫人が息子ジギと一緒に、村に戻ってきました。

ジギは、男爵家の家令の息子たちと、池のほとりで遊んでいます。

縦笛を楽しげに操り、メロディーを奏でるジギ。

家令の二人の息子たちは、いくらやっても音がでません。

家令の息子は、いきなりジギを抱きかかえ、池の中に放り投げる。

また、ジギは殺されかかりました。

" イタリア " がプンプンと薫るジグ、その文化への憧れと嫉妬。

家令は、息子を半殺しの目に遭わせます。


★牧師が留守の書斎、忍び入った長女クララとおぼしき少女、

父が可愛がっている小鳥 「 ピーピー 」 を、鳥かごから掴みだし、

躊躇いもなく、鋏を首から刺し込みます。

鋏がまるで、十字架のように刺さった小鳥の亡骸、

父の机に、無言で置きます、机の真ん中です。

 

 


痛ましい事件が・・・。

助産婦の息子は、知恵遅れ。

彼女は、この子を溺愛しています。

この息子が、堅信礼の日、行方不明となった。

森の中に、ゴミのように捨てられているのが見つかります。

凄惨なリンチを受け、ほとんど失明状態になっていました。

「 親の因果が子に・・・ 」 という、手紙まで添えられていた。

診察した医師は、長居せずに去ろうとしますが、

助産婦の息子は、医師の手を握り、放そうとしません。


★「イタリアで、心の暖かい人にめぐり会ったのよ。

とっても子供好きなの・・・」。

男爵夫人は、夜の食卓で、別れ話を切り出します。

「この村を支配しているのは、嫉妬、悪意、無関心、暴力よ・・・」

夫人を、睨みつける男爵。

「 ドン、ドン、ドン 」  家令が、ベランダのガラス戸を叩く。

「 急な、お知らせです。

サラエボで、オーストリア皇太子が、暗殺されました 」・・・。

この瞬間から、すべてが、戦争へ、戦争へと流されていきます。

 


★この場面は、この映画で最も美しい映像です。

蝋燭の灯を受け、妖しく光る夫人のイアリング、

Vermeer フェルメールの

「 The Girl With The Pearl Earring

真珠の耳飾りの少女 」 を、見事に再現しています。

 


★牧師の長男マルティンは、 「 白いリボン 」 を強制された翌日、

小川の欄干を、放心したように、ゆっくりと歩いているのを、

教師のシューベルト君に発見され、慌てて引き戻されます。

落ちれば、下は深い谷、確実に死にます。

どうして、そのようなことをするのか。

神を試していたのかもしれません。

自分が果たして、必要な人間かどうか、

もしそうなら、神は殺さないであろうと。

深い絶望。

 

 


★シューベルト君は、これまでの不可解な事件について、

牧師の子供たち、マルティンやクララが、きっとよく知っているに違いない、

と、感づいています。

クララに 「 あなたは、いつも近くにいた。 」 と、率直に尋ねます。

クララは鉄面皮のように「知りません」、表情一つ変えません。。

すべてを拒絶する顔、とても、子供の顔ではありません

シューベルト君は、ここでは 「 ワキ 」 役を飛び抜け、

主人公のような役割です。

 
★牧師にも 「 彼らは知っているのではないか 」 と、直談判します。

牧師は 「 訴えるぞ! 」 と激怒するが、訴えることはしなかった。

牧師もうすうす感ずいているように、映像ではうかがえます。


★伯爵夫人は、ピアノが趣味。

彼女のピアノに合わせ、ジギの家庭教師がフルートを吹きます。

SCHUBERT: VARIATIONEN UBER " TROCKNE BLUMEN "

シューベルト 「 萎める花への変奏曲 」 OP.160 D802 です。

家庭教師は、自分の下手なフルートを、

「 私は、フリードリッヒ大王ではないので 」 と、自嘲します。

電灯がまだない時代、グランドピアノの鍵盤の左右には、

豪華な燭台が、明々と輝いています。

Bach バッハの、Friedrich II. フリードリッヒ大王への

「 Musikalisches Opfer 音楽の捧げもの 」 のシーンは、

このようだったであろうと、想像できる楽しい光景です。

 

★教会で、第一次大戦に出征する若い兵士を送り出すシーンでは、

Martin Luther マルティン・ルターが作曲、作詞したといわれる、

最も有名な讃美歌 「 Ein' feste Burg ist unser Gott

神はわがやぐら 」 が、歌われます。

神は、無力な我々の代わりに邪悪と戦い、苦しみ、悲惨から

助け出してくれる、という内容の歌詞です。

この曲は、大変に美しく、J.S.BACHバッハが、 INVENTION

インヴェンションや、Das Wohltemperirte Clavier 

平均律 で追求し続けた 「 Motif モティーフ 」 により、

この曲はできています。

「 Matthäus-Passion マタイ受難曲 」 では、

NBA 15番 ( BWV 21 )や、NBA 62 番 ( BWV 72 ) など、

最重要な場面で、このメロディーを度々、使っています。


★ナレーションによると、シューベルト君は、間もなく村を離れ、

乳母と結婚、父親の仕事だった 「 仕立屋 」 を継ぎ、

村とはずっと、没交渉だった。

晩年になって、当時を回顧する形で、ナレーションが続きます。


★「 村人のうわさによると、助産婦の2人の知恵遅れの子供は、

医者の子供。

医者が中絶を無理にしようとしたため、障害が起きた 」

「 アンナの母親は殺されたのかもしれない、という噂もあった 」

「 あの出来事全部こそが、当時のわが国のそのものだった 」

「 あの年が、平和だった最後の正月だった 」


★村の名前は架空の 「 Eichwald アイヒヴァルト 」 、これは、

ユダヤ人虐殺のEichmann アイヒマンの 「 Eichアイヒ 」と、

有名な収容所 Buchenwald の 「 wald 」 を、

 合成した言葉ではないか、という説も。

 


★Michael Haneke ミヒャエル・ハネケ監督は、

Rote Armee Fraktion ドイツ赤軍 

首謀者の一人だった Ulrike Meinhof  ルリケ・マインホフと、 

1960年代末にしばらくテレビ局で一緒に、

 働いたことがあった、という。

彼女は、知的でユーモアたっぷり、温かい人だったが、

社会構造をどうしても、変えられないと思うに至った末、

過激化し、突然、地下にもぐった。

熱心なキリスト教徒の娘だった、という。

 

★また、ミヒャエル・ハネケ監督は、 映画への考え方について、

次のような趣旨のことを語っています。

 私は、過剰な説明の映画は嫌いだ。

文学は読者に、情景を思い浮かばせるが、

映画は、映像をもろに見せるため、それを鵜呑みにさせてしまう。

映画から、新しい情景を思い浮かばせたいと思うなら、

観客に 「 自由 」 を、与える必要がある。

それが、芸術という仕事。

音楽は、さらにレベルが高いのです。

 

観客は、想像力をつかい、表面に見えるものから、

 さらにその下の、層の奥深くへと、

 分け入っていくことで、不可解と思われる現象の背後に、

なにが横たわっているか、それを見つけることができます。

 

★ いま、物事の表面だけをさらう大作や、

テレビ風の軽い作品が、溢れかえっています。

その結果、観客は、人間の存在とは、こんなに深いのであろうか、

と考えさせるようなものに、直面すると、

逆に、苛立ちを覚えるのでしょう。

ギリシア悲劇の時代から、人間存在の深さを探ろうとしてきたのが、

「 ドラマ 」 ではないでしょうか 。

過剰な説明は、観客を馬鹿にしているのではないか?

現在はびこっている ″ 映像文化 ″ への、痛烈な批判でしょう。

 

★男爵夫人の言葉

「 この村を支配しているのは、嫉妬、悪意、無関心、暴力 ・・・」 は、

社会の行動原理として、負の推進力として、

いつの時代にも、共通する、

人間の、悲しき側面かもしれませんね。

 

 

                                        ※copyright ©Yoko Nakamura


▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲

 

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