2007/9/2(日)
★東京新聞( 07.9.1朝刊)芸術欄「音楽」に
「避暑地の老ピアニスト・ハイドシェック」という記事が、載っていました。
いろいろな意味で考えさせられる記事です。
記事の結論で「いま音楽の世界でビジネス化が進み、一握りのスターが過剰な注目を浴びる。
半面、確かな力を持ちながら過酷なコンサートビジネスの生存競争で、脱落する人や、
そもそもデビュー時から華やかなライトとは無縁の人も多い。」
「スターではなくとも優れた音楽家を招き、音楽と人のつながりを育む
独自のサークルやサロン。
19世紀風のそんな集いが、(略)現代の日本で盛んにならないだろうか。
音楽産業が自らマンネリだと認めつつ『天才』や『巨匠』の演奏会を
量産する現状を変える契機にならないか」とあります。
これは、おおむね的確な現状認識です。
★あえて≪音楽産業≫、≪『天才』≫、≪『巨匠』≫、≪量産≫という言葉を巧みに使い、
【美しい“天才”少女、少年たち、あるいは“巨匠”と称される人たちによる
音楽会の量産、産業化した音楽界】という現状を見事に浮かび上がらせます。
★しかしながら、この記事は冒頭で、エリック・ハイドシェックの演奏を取り上げ、
次のように紹介しています。
★「1936年生まれ、個性派の巨匠だった師匠コルトーの衣鉢を継いで、
楽譜への忠実さより自身の主観を全面に打ち出す。
いわば19世紀風の音楽家で、ベートーヴェンなど独墺系の曲でも
唯一無二の音楽をすることで人気を集める」
★残念ながら、この筆者は、コルトーもハイドシェックも、本当になにも知らないのでしょう。
≪楽譜への忠実さより自身の主観を全面に打ち出す≫。
≪いわば19世紀風の音楽家≫
≪唯一無二の音楽をする≫
この表現にはあきれ果てます。
多分、どこかに書いてあるものを、自己の検証なく、
そのまま孫引きしているのでしょう。
★コルトーにつきましては、ショパンの校訂版が、日本では有名で、
「ショパンの専門家」という誤った認識しかされていないようです。
しかし、日本人が知らないだけで、例えば、ブラームスのピアノ作品への
膨大なコルトー校訂版は、ブラームスの意図を探り尽くそう、という
コルトーの情熱に支えられた楽譜です。
私はブラームスを勉強する際、
必ず、コルトー校訂版を参考にしつつ、原典版に当たります。
★どれだけ楽譜への読みが深く、「恣意的」、「思いつき」とは
無縁のピアニストであるか、大変、よく分かります。
★「コルトーのマスター・クラス」というCDがあります。
バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューマン、ショパンの
コルトーの公開レッスン(1954~60、パリ・エコルノルマル)が、
3枚のCDに収録されています。
★このCDを聴けば、校訂楽譜のみならず、レッスンにおいても、
彼がいかに、作曲家の意図を忠実に演奏に反映しよう、と努めていたか、
よく分かります。
★この記事の≪19世紀風≫という言葉の意味が全く、理解できません。
ある種、あざけりの意味を込めているのかもしれません。
感情の赴くまま、テンポルバートをかけたり、単なる思いつきで甘ったるく歌わせる、
そのような自己陶酔する演奏を「19世紀風ロマン派」としているのでしょうか。
★ロマン派とされるショパン、シューマン、ブラームスには、
上記の意味での“ロマン主義”は、ひとかけらもないのです。
いつまでも、このような稚拙な定義の言葉、孫引きの形容詞を使っていますと、
本当の意味での批評は、全く育ちません。
逆に、いい聴衆を育てません。
★私は、ハイドシェックのレッスンを聴講しましたが、
≪作曲家の意図に、どれだけ迫れるか≫、
彼のこれまで71歳のキャリアは、すべてそこに注がれているのです。
偉大な芸術家に対し、たとえ彼らがこの日本語のこの記事を読まないとしても、
決して、決して、発してはいけない言葉なのです。
★この記事は、結果的に、コルトー、ハイドシェックに対し、
根本的に間違った評価を植え付けています。
この記事によって、コルトーやハイドシェックのCDを聴いた人が、
≪自分は、とても素晴らしい演奏だと思うが、
“19世紀風で、楽譜への忠実さより自身の主観を全面に打ち出す”とされている。
しかし、この演奏のどこが、主観的なのか!≫と、戸惑いを覚えることでしょう。
あるいは、素直な人ほど、≪自分の耳がおかしいのかしら?≫と、
自分に対し、自信を失ってしまうことすらありえます。
そして、≪自分にはクラシック音楽は、分からない世界だ≫と
離れていく結果すら生み出します。
★皆さまは、新聞、音楽雑誌の批評や評論を読むより、
まず、楽譜とお友達になってください。
これが、時間を無駄にせず、音楽を真に理解し、愛する最短距離です。
▼▲▽△▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲▽△▼▲
★東京新聞( 07.9.1朝刊)芸術欄「音楽」に
「避暑地の老ピアニスト・ハイドシェック」という記事が、載っていました。
いろいろな意味で考えさせられる記事です。
記事の結論で「いま音楽の世界でビジネス化が進み、一握りのスターが過剰な注目を浴びる。
半面、確かな力を持ちながら過酷なコンサートビジネスの生存競争で、脱落する人や、
そもそもデビュー時から華やかなライトとは無縁の人も多い。」
「スターではなくとも優れた音楽家を招き、音楽と人のつながりを育む
独自のサークルやサロン。
19世紀風のそんな集いが、(略)現代の日本で盛んにならないだろうか。
音楽産業が自らマンネリだと認めつつ『天才』や『巨匠』の演奏会を
量産する現状を変える契機にならないか」とあります。
これは、おおむね的確な現状認識です。
★あえて≪音楽産業≫、≪『天才』≫、≪『巨匠』≫、≪量産≫という言葉を巧みに使い、
【美しい“天才”少女、少年たち、あるいは“巨匠”と称される人たちによる
音楽会の量産、産業化した音楽界】という現状を見事に浮かび上がらせます。
★しかしながら、この記事は冒頭で、エリック・ハイドシェックの演奏を取り上げ、
次のように紹介しています。
★「1936年生まれ、個性派の巨匠だった師匠コルトーの衣鉢を継いで、
楽譜への忠実さより自身の主観を全面に打ち出す。
いわば19世紀風の音楽家で、ベートーヴェンなど独墺系の曲でも
唯一無二の音楽をすることで人気を集める」
★残念ながら、この筆者は、コルトーもハイドシェックも、本当になにも知らないのでしょう。
≪楽譜への忠実さより自身の主観を全面に打ち出す≫。
≪いわば19世紀風の音楽家≫
≪唯一無二の音楽をする≫
この表現にはあきれ果てます。
多分、どこかに書いてあるものを、自己の検証なく、
そのまま孫引きしているのでしょう。
★コルトーにつきましては、ショパンの校訂版が、日本では有名で、
「ショパンの専門家」という誤った認識しかされていないようです。
しかし、日本人が知らないだけで、例えば、ブラームスのピアノ作品への
膨大なコルトー校訂版は、ブラームスの意図を探り尽くそう、という
コルトーの情熱に支えられた楽譜です。
私はブラームスを勉強する際、
必ず、コルトー校訂版を参考にしつつ、原典版に当たります。
★どれだけ楽譜への読みが深く、「恣意的」、「思いつき」とは
無縁のピアニストであるか、大変、よく分かります。
★「コルトーのマスター・クラス」というCDがあります。
バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューマン、ショパンの
コルトーの公開レッスン(1954~60、パリ・エコルノルマル)が、
3枚のCDに収録されています。
★このCDを聴けば、校訂楽譜のみならず、レッスンにおいても、
彼がいかに、作曲家の意図を忠実に演奏に反映しよう、と努めていたか、
よく分かります。
★この記事の≪19世紀風≫という言葉の意味が全く、理解できません。
ある種、あざけりの意味を込めているのかもしれません。
感情の赴くまま、テンポルバートをかけたり、単なる思いつきで甘ったるく歌わせる、
そのような自己陶酔する演奏を「19世紀風ロマン派」としているのでしょうか。
★ロマン派とされるショパン、シューマン、ブラームスには、
上記の意味での“ロマン主義”は、ひとかけらもないのです。
いつまでも、このような稚拙な定義の言葉、孫引きの形容詞を使っていますと、
本当の意味での批評は、全く育ちません。
逆に、いい聴衆を育てません。
★私は、ハイドシェックのレッスンを聴講しましたが、
≪作曲家の意図に、どれだけ迫れるか≫、
彼のこれまで71歳のキャリアは、すべてそこに注がれているのです。
偉大な芸術家に対し、たとえ彼らがこの日本語のこの記事を読まないとしても、
決して、決して、発してはいけない言葉なのです。
★この記事は、結果的に、コルトー、ハイドシェックに対し、
根本的に間違った評価を植え付けています。
この記事によって、コルトーやハイドシェックのCDを聴いた人が、
≪自分は、とても素晴らしい演奏だと思うが、
“19世紀風で、楽譜への忠実さより自身の主観を全面に打ち出す”とされている。
しかし、この演奏のどこが、主観的なのか!≫と、戸惑いを覚えることでしょう。
あるいは、素直な人ほど、≪自分の耳がおかしいのかしら?≫と、
自分に対し、自信を失ってしまうことすらありえます。
そして、≪自分にはクラシック音楽は、分からない世界だ≫と
離れていく結果すら生み出します。
★皆さまは、新聞、音楽雑誌の批評や評論を読むより、
まず、楽譜とお友達になってください。
これが、時間を無駄にせず、音楽を真に理解し、愛する最短距離です。
▼▲▽△▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲▽△▼▲