僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

半世紀前の読書ノート

2017年09月26日 | 読書

「断捨離」という言葉が、今や世間ではすっかり定着した感があります。それと「終活」という言葉もね~。いずれも身辺整理をするという意味で、一種のブームにもなっているように思えます。最近、僕も身の回りの物を処分したいと思っているところですが、なかなか難しいですね。

それでも、昔の日記やノート類は少しずつ処分してきました。…が、まだ残っているのもかなりあります。そして手元に残っているノートの中では一番古いと思われる「読書ノート」というのがあるのですが、何十年ぶりかで開けて眺めてみると、当時の記憶が驚くほど鮮明によみがえってくるんですよね。

僕が読書らしい読書を始めたのは高校へ入ってから。それまでは少年少女向きの本や漫画ばっかり。高校生になって「大人が読む小説を読んだら少しは賢くなれるのではないか」と思い、読書を趣味にしようと考えたのでした。

いま手元にある僕自身の一番古い読書ノートは、昭和39年(1964年)夏から始まっています。東京オリンピックが開かれた年。僕が高校へ入った15歳の時でした。

ノートの1ページ目には、読んだ本の題名が順番に並べられ、3ページ目から、それぞれの本の感想文が、下手な字で書かれています。

僕にとってはじめての本格的読書は、コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズの帰還」でした。それは50年以上経った現在でもよく覚えています(それが今では、先週読んだ本のことも忘れちゃっていますけど)。

それに続いて、主にこういう本を読んだことがノートに記されています。

昭和39年
「愛と死を見つめて」(大島みち子、河野実) 
「若き命の日記」 (大島みち子)
「蛙の王様」 (グリム)
「赤い子馬」 (スタインベック)
「ロビンソン漂流記」(デフォー)
「赤毛のアン」(モンゴメリ)
「アンの青春」(モンゴメリ)
「アンの愛情」(モンゴメリ)

昭和40年

「我輩は猫である」(夏目漱石)
「潮騒」(三島由紀夫)
「嵐」(島崎藤村)
「夜明け前」(島崎藤村)
「宮本武蔵」(吉川英治)
「愛と死」(武者小路実篤)
「若きウェルテルの悩み」(ゲーテ)
「湖畔の家」(ヘッセ)
「怪談・奇談」(小泉八雲)
「青い山脈」(石坂洋次郎)
「怒りの葡萄」(スタインベック)
「車輪の下」(ヘッセ)

こんな感じで。
一つひとつが、青春期の心に刻まれた、忘れ得ない作品と言えます。

高校時代の読書遍歴を、このノートで振り返ってみると、このあと3年生になった昭和41年の1年間が、最も本に没頭した年でした。

そういうことで、
僕の読書体験は、高校での3年間が大きな土台になっています。

こうした作品を並べて眺めると、この頃の読書は今とは違い、1冊1冊が血肉となって自分の体内を駆け巡り、いくらかの部分は今も体の一部として残っているように思います。兄弟もおらず、両親との対話もほとんどなかった僕にとっては、家にいる時はほとんど本を読んで過ごしていたので、僕の人生観、世界観というのは、かなりの部分を読書から影響を受けています。

読書は、若者にとっては自己を磨く鍛錬であり、老人にとっては娯楽である、という言葉も、この当時何かで読んだことを覚えています。

そんなことを思いながら、ノートの最初のページに列挙してあった作品をここへ書き出してみたのですが、このあとまた、自分の人生でも最も多くの本を読んだ昭和41年の高校3年生になった頃の読書一覧を書き出してみたいと思います。

う~ん。しかしまあ
こんな話は他の人には何の関心も湧かないような話なんですけど、年齢を重ねてくると、どんどんと、こうした懐古趣味が強まってくるんですよね。で、それをこんなふうにブログに書き残しておくって、こういうのも一種の「終活」なんでしょうか(笑)。

 

 

 

 


 

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