そもそも日本人は早死にした人が好きである。
例えば源義経。判官びいきという言葉があるのは、義経が早死にしたからである。
新撰組の沖田総司に人気があるのも同じ理由。
平家物語の「敦盛」だって、美少年で早死にした「敦盛」がタイトルになっているから有名なエピソードになっているのであって、早死にしていない「直実」はタイトルに選ばれないのである。
早死にした人(それにくわえて美少年だったり美少女だったりすると完璧)がどうしてひいきされたり、人気が出たり、伝説になってしまうのであろうか。
それは「もし長生きしていたら・・・。」と続きの人生を想像することができるからではなかろうか。
例えば「もし新美南吉が長生きしていたら・・・」などと想像する。
「きっともっと多くの作品を残していたにちがいない。ああ、それが読みたかったな。」
「30代、40代、50代・・・のときはどのような作風の作品を書くようになっていただろうか?」
「どんなおじいさんになっていただろう?」
「晩年はPCで創作活動していただろうか?」
「日本児童文学協会会長に選出されていただろうか。」
などといろいろ妄想できる。
それが楽しかったりする。夭折した本人が聞いたら、勝手なことを想像するな、と怒るかもしれないけれど、本人がこの世にいないので、文句も言われず勝手に想像できる。
人生半ばにして、断ち切られた人の人生の続きをいっしょに創作できるような錯覚に陥ることができる。
こうして早死にした美少年とか美少女と一体感を感じることができる・・・のが楽しいのかもしれない。
次に早死にした人に対して、特にその人が独身のまま死んだ場合、ついつい清純潔白なイメージを持ってしまいがちだ。
穢れることなく、世間の垢にまみれることなく、儚く息絶えた人・・・ご本人は死んでしまってもう汚されることはけしてない。ああ、よかった。
こうして美しく純粋なものが好き、という人にとっては、早死にした人は「好きなタイプ」の1人になってしまう。
だから早死にした人には人気が出てしまう。
新美南吉は早死にしたから人気が出た人、ではなく、あくまで童話作家として人気のある人だ。
特に「ごんぎつね」が教科書に採用されていることが大きい、と思う。
(考えてみれば子狐ごんも早死にした狐である。)
しかし、作家、しかも子ども向けの童話作家であり、20代で結核で、しかも独身のまま死去。と紹介されると、ついつい清純なイメージがつきまとってしまう。
(それと、最近になってようやく新美南吉の顔が分かった私が言うのも何ですが、南吉さんは美青年だと私は思うのですが、どうでしょ? イケメンというより、最近の日本男子にはいないタイプの美青年だと思います。この人の目を見ると、「ああ、これは芸術家の目だなあ。」といつも思います。)
そんなわけで、新美南吉に美しい清らかなイメージを持っている人も多いと思うけど、実際のご本人はそうではなかったらしい。
大人になっても子どもらしい視線を持ち合わせている人ではあったと思うけど、残された日記や手紙を読むと、一筋縄ではいかない人だったことが分かります。
心の中にどろどろしたものがあって、自分でもそれをうまく整理できていなかったように感じます。
新美南吉は謎が多い。捕まえられない。だから奥が深い。
だから多くの人に読まれるような作品を生み出すことができたのだと思います。
例えば源義経。判官びいきという言葉があるのは、義経が早死にしたからである。
新撰組の沖田総司に人気があるのも同じ理由。
平家物語の「敦盛」だって、美少年で早死にした「敦盛」がタイトルになっているから有名なエピソードになっているのであって、早死にしていない「直実」はタイトルに選ばれないのである。
早死にした人(それにくわえて美少年だったり美少女だったりすると完璧)がどうしてひいきされたり、人気が出たり、伝説になってしまうのであろうか。
それは「もし長生きしていたら・・・。」と続きの人生を想像することができるからではなかろうか。
例えば「もし新美南吉が長生きしていたら・・・」などと想像する。
「きっともっと多くの作品を残していたにちがいない。ああ、それが読みたかったな。」
「30代、40代、50代・・・のときはどのような作風の作品を書くようになっていただろうか?」
「どんなおじいさんになっていただろう?」
「晩年はPCで創作活動していただろうか?」
「日本児童文学協会会長に選出されていただろうか。」
などといろいろ妄想できる。
それが楽しかったりする。夭折した本人が聞いたら、勝手なことを想像するな、と怒るかもしれないけれど、本人がこの世にいないので、文句も言われず勝手に想像できる。
人生半ばにして、断ち切られた人の人生の続きをいっしょに創作できるような錯覚に陥ることができる。
こうして早死にした美少年とか美少女と一体感を感じることができる・・・のが楽しいのかもしれない。
次に早死にした人に対して、特にその人が独身のまま死んだ場合、ついつい清純潔白なイメージを持ってしまいがちだ。
穢れることなく、世間の垢にまみれることなく、儚く息絶えた人・・・ご本人は死んでしまってもう汚されることはけしてない。ああ、よかった。
こうして美しく純粋なものが好き、という人にとっては、早死にした人は「好きなタイプ」の1人になってしまう。
だから早死にした人には人気が出てしまう。
新美南吉は早死にしたから人気が出た人、ではなく、あくまで童話作家として人気のある人だ。
特に「ごんぎつね」が教科書に採用されていることが大きい、と思う。
(考えてみれば子狐ごんも早死にした狐である。)
しかし、作家、しかも子ども向けの童話作家であり、20代で結核で、しかも独身のまま死去。と紹介されると、ついつい清純なイメージがつきまとってしまう。
(それと、最近になってようやく新美南吉の顔が分かった私が言うのも何ですが、南吉さんは美青年だと私は思うのですが、どうでしょ? イケメンというより、最近の日本男子にはいないタイプの美青年だと思います。この人の目を見ると、「ああ、これは芸術家の目だなあ。」といつも思います。)
そんなわけで、新美南吉に美しい清らかなイメージを持っている人も多いと思うけど、実際のご本人はそうではなかったらしい。
大人になっても子どもらしい視線を持ち合わせている人ではあったと思うけど、残された日記や手紙を読むと、一筋縄ではいかない人だったことが分かります。
心の中にどろどろしたものがあって、自分でもそれをうまく整理できていなかったように感じます。
新美南吉は謎が多い。捕まえられない。だから奥が深い。
だから多くの人に読まれるような作品を生み出すことができたのだと思います。