ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

新美南吉と私 (7)

2013-08-06 |   新美南吉
 新美南吉の新美は本名ですが、名前はペンネームです。でもどうして南吉にしたのか、はっきりしていないです。
 新美南吉記念館のサイトではこうなっています。

 記念図録「生誕100年 新美南吉」では初恋の恋人の名前、威子、 みなこ → みなみ → 南 → なん →南吉にしたのでは? という仮説が載っています。
 
 ペンネームについては安城女学校時代に新美南吉自身は生徒に「な」というあ音が入ると、明るくなる、苗字の新美はい音ばかりで暗い、と話しています。でも本名は正八なので、あ音である「は」が入っているのです。
 だからこの説明はちょっと変だと思います。

 そこで私から新説を発表します。これはやはりみなこから考えたペンネームだと思うのですが、アナグラムという方法を使ったのではないでしょうか?
 こう思ったのは小説「坂道」を読んだときです。主人公は東京の専門学校に通う学生で、新美南吉自身が明らかにモデルです。
 主人公には妹がいて、その名前はスミ子です。新美南吉には弟がいて益吉と言います。
 この名前をローマ字にすると
MASUKICHI

この文字の順番を変えて分けます。
SUMIK ACHI
 SUMIKの後ろにOを付けるとスミ子になります。 ACHIは捨てます。これがつくと男性名らしくなるからです。

 スミ子という女性名は益吉から作った名前ではないか、と思いました。
 そこでみなこをローマ字にします。
MINAKO

 これを並べ替えます。

NAMKI O

 Oがつくと女性名になるので、捨てます。男性名にするためにCHIをつけます。
NAMKICHI

 このままだと「なむきち」ですが、「なんきち」に音の響きが近いですね。
 これに漢字をあてて、南吉。
 
 これがペンネームの由来!・・・ではないでしょうか? あくまで仮説だけれど、こういう言葉遊び(文字の並べ替え)を、東京外大出身で文学者の新美南吉がしていたとしてもおかしくないのではないか? と思っています。

 これが本当だとすると、やっぱり初恋のみなこさんのことが、相当好きだった、というか一体化したかったのかなあ、なんて思いをめぐらしてしまいます。


  

新美南吉と私 (6)

2013-08-06 |   新美南吉
 新美南吉と私、というタイトルをつけておきながら、南吉さんと私には何の共通点もない。
 時代はもちろん出身地もちがうし、出身校もちがう。南吉さんはロシア文学を読むのが好きだったらしいが、ベラルーシとは縁もゆかりもない。そもそも南吉さんが生きていたころにはベラルーシという名前の国は存在していなかった。
 ベラルーシでは新美南吉は全くと言っていいほど知られていない作家だ。(今のところ。)

 そんなに全く関係のない国で南吉さんの作品がロシア語に翻訳されているわけだが・・・あの世の南吉さんは喜んでくれているだろうか?
 中学生のころに書いた日記に、いつかアンデルセンを越える童話作家になって・・・と書いているらしい。
 (そのためにはもっと長生きしなければならなかった・・・と思う。)

 まるで共通点がない、と思ったけれど、一つだけあった。
 それは私の祖父も1913年生まれということだ。
 私の祖父は1913年6月10日生まれで、南吉さんは7月30日生まれだから、50日しか年が離れていないのである。
 
 私の祖父は奈良県生まれで、愛知県とは関係がない。いろいろ調べた限りでは南吉さんが生まれた岩滑より、私の祖父が生まれた室生村のほうが、当時よっぽどひなびた田舎である。

 南吉さんは優秀だったので、苦労しつつも中学校に入学したが、家から通学していた。(同じ小学校から中学に入学したのは南吉さんを含め3人だけだった。)
 私の祖父も中学に入学したが(同じ小学校から中学に入学できたのは、2人ぐらいしかいなかったらしい。)遠くて通うことはできず、下宿したそうだ。ところが在学中に実家の家計が苦しくなって、下宿代が出せなくなり、無理やり通学していたということである。
 南吉さんは東京の大学を出たが、私の祖父は中学卒業後京都で就職した。

 南吉さんが結核などにかからず、健康体で長生きしていたらよかったのに・・・と想像するが、よく考えたら、健康な南吉さんなら、私の祖父と同じように戦時中赤紙が来ていただろう。そしてやっぱり30歳ぐらいで戦死していたかもしれない。

 私の祖父は88歳で亡くなったが、南吉さんが長生きしていたら、どういうおじいさんになっていたのだろう、などと思う。
 
 こうして比較してみると、「久助君の話」のような南吉童話の中にある久助君ものを読むのもちがって読めてくる。
 うちのおじいさんも子どものときこんな遊びをしていたのだろうかとか、学校のようすはこんなだったのだろうか、と思いながら読むのはとても楽しい。

 ちなみに私の祖母は祖父より9歳年が下で、女学校を出ている。
 今はめったに会わないので、会話することもないが、私が日本にいた頃は、ときどき「私は女学校出ている。」と言って、とても自慢そうにしていた。
 昔は女学校に行けるのは、お金持ちの家の娘だけだったかららしい。
 と言っても田舎の村の出身なので、本人が「私はお金持ちの家の娘」と思っていたとしても、言うほど大した金持ちではない。

 しかしこうして考えてみると、南吉先生が安城の女学校で教師をしていたときのエピソードなど、とてもおもしろく読める。
 ちょうどその頃私の祖母も(もちろん安城ではないが)女学校に通っていたので、こんな授業があったのか、とかこんな学校行事があったのか、とか身近に感じられる。
 さらに私のもう1人の祖母の妹も女学校を出ている。

 祖母のほうは卒業後、就職せずすぐにお嫁に行った。南吉先生が自分の作品中でちょっと批判ぽく書いているが、女学校の卒業証書はいいところへお嫁に行くための嫁入り道具の一つ、とあるけど全くそのとおりだったわけだ。
 もう1人の祖母の妹のほうは医者を目指して、当時の医学部に入学したが、家庭の事情で中退しなくてはならなくなり、その後学校の教師をずっとしていた。
 こういう話を聞くと当時の「できる」女学校出の女性像そのものに思えてくる。

 南吉先生が教え子たちと白黒写真に収まっているのを見るのもとても楽しい。

 
  
 

新美南吉と私 (5)

2013-08-06 |   新美南吉
 新美南吉といえば「ごんぎつね」しか知らない、子どものとき泣いたよね、という人が聞いたらびっくりするようなエピソードが新美南吉にはたくさんある。暇な人はネットや書籍で調べてみてください。
 新美南吉イコール早死にした童話作家イコール清純なイメージを持っていたら、それが崩れます。
 私の中で驚いたエピソードは・・・

 読書好きの南吉さんはたくさんの蔵書を抱えていた。自宅の部屋の壁は床から天井まで本でぎっしり詰まっていて、それでも本が増えてしまい、寝るところがなくなったので、仕方なく本棚の一番下の段に寝ていた。
 遊びに来たり見舞いに来た人が「危ない。」と指摘すると「本に埋もれて死ねるなら本望です。」と答えていた。

(・・・地震が来なくてよかったね。死因が結核じゃなくて、窒息死になっていたところです・・・。それにしても本棚の中で寝るのってどんな感じ?)

 
 22歳のとき身長が166センチだったが、体重は48キロしかなかった。 

(やせすぎ。)

 本人もやせているのがコンプレックスで、服の下にさらしの布を巻いて、胴回りを太く見せようとごまかしていた。

(何もそこまでしなくても。確かに南吉さんの写真の中には微妙に太って見える写真があるけど、これがさらしを巻いている姿なのか。)

 やせているわりに甘党で、お菓子が大好きだった。女学校の先生をしているとき、宿直を担当していると、急に甘いものが食べたくなって我慢できず、冬の夜スリッパ履きのまま町の店へ買いに走った。

(こんなにお菓子を食べていても、体重は増えなかったのか・・・。雪の中「手袋を買いに」ではなく「お菓子を買いに」ですね。)

 体調が悪化し、一度遺言状をなぜか弟宛に書いたが、死んだら自分が借りっぱなしにしている借金(つけ)を代わりに払っておいてほしい、ということが遺言状の最初に書いてあった。
 つけがあったお店のほとんどは、本屋かお菓子屋で、具体的に「羊羹2本分」などと書いてあった。

(だから親宛てには遺言状が書けなかったのか・・・。)

 結核のせいで再就職先がなかなか見つからない南吉(24歳)に、両親はつらく当たる。本来なら療養しないといけないのに家にいるのがいやで、いきつけの喫茶店へ逃げていた。当時18歳ですでに社会人だった弟と喫茶店で待ち合わせすると、コーヒー代は兄が出していたが、帰りに立ち寄った本屋では雑誌代を弟に出させていた。

(病弱で就活がうまくいかず、ニート状態であることを親から責められ、自室に引きこもり・・・はせずに喫茶店に逃避。お金がないので、雑誌を10代の弟にねだる20代の兄・・・。)

 大学生時代、シェークスピアの劇「リア王」を英語で演じることになり、南吉さんはリア王の次女の役(お姫様)を担当し、当然女装した。
 上演後、わざとメイクを落とさず友だちの家に行って、友だちを驚かしては喜んでいた。

(人を驚かすのが好きだったんですね。)

 女学校の先生をしていたとき、書いた小説を編集者に送ったところ、絶賛されその後雑誌に掲載されるのだが、その絶賛する葉書が届いたとき、嬉しさのあまり学校の校庭にあった池に飛び込んだ。

(これは人を驚かすためにしたのではないです。)

 女学校の先生をしていたとき、担任をしていた生徒が転校することになると、「お餞別」と称し、リルケの詩集をあげていた。花のついた木の枝を添えられて詩集をもらった人もいた。

(いやあ、うらやましい。私も新美先生からリルケの詩集を手渡されたいよー。いいなあーいいなあーと悶絶したが、よく考えたら、今時こんなことする学校の先生、しかも女子高あるいは女子中の先生はいないよねえ。いたら、逆に問題行為扱いされてしまうかも。)

 女学校の先生をしていたとき、学校がある町の大きな家の一室で下宿をしていた。南吉さんは家事が苦手な人だったらしく、食事は外食(駅前の食堂で朝晩食事、昼食はその食堂が学校に届ける弁当。)洗濯は週末まとめて実家へ持って帰り、母親にさせていた。布団は万年床だった。その布団の上に寝ながら童話を書いていた。

(自分で洗濯をしなかったのは大家さんに気を使っていたのかもしれない。お風呂も大家さんの家のお風呂は使っていなかったらしい。
 それしても南吉さんは母親(継母)と確執があり、継子いじめしてたんじゃないの? という印象を持たれがちなお母さんではあるが、ちゃんと洗濯してくれているから、いいお母さんではないか。
 それにしても、布団ぐらい自分でたたんだり、たまに干したりすることはしなかったのだろうか。こんなんだから病気がよくならないんだよ。若死にの原因は布団なのではないか・・・と思った。)

 女学校の先生をしていたとき、学校がある町の大きな家の一室で下宿をしていた。本人の日記によると、やはり大家さんに気を使ってか、夜トイレに行きたくなったとき、トイレには行かず、自分の部屋の障子を細く開けて、庭に向かって音を立てないように立ちションしていた。

(・・・。人の家の庭におしっこしている学校の先生・・・。これを読んで、日記をつけるときは気をつけないといけない、死後急に有名人になったら、全て白日の下にさらされるのだから・・・と思った。)

 ・・・・・・他にもあるけど、もう書きません。
(いや、もっと知りたい、という方は新美南吉の日記が発見されたは分は全て刊行されていますので、そちらを参考になさってください。)
 南吉童話の美しいイメージが壊れた、と言う人へ。すみません。

 しかしまあ、何と言うか、南吉さんのことを知れば知るほど、びっくりしますね。天才肌の人だったんですね。やっぱり。

 宮沢賢治もまじめ人間のイメージがあるけど、冬の夜着物一枚で大声で法華経を唱えながら町中歩き回ったり、見方によっては「奇行」が多いですよ。
 今だから偉人は凡人とは違う、ということになっているけど、当時の近所に住んでいた人は、不気味だったと思う。

新美南吉と私 (4)

2013-08-06 |   新美南吉
 そもそも日本人は早死にした人が好きである。

 例えば源義経。判官びいきという言葉があるのは、義経が早死にしたからである。
 新撰組の沖田総司に人気があるのも同じ理由。
 平家物語の「敦盛」だって、美少年で早死にした「敦盛」がタイトルになっているから有名なエピソードになっているのであって、早死にしていない「直実」はタイトルに選ばれないのである。

 早死にした人(それにくわえて美少年だったり美少女だったりすると完璧)がどうしてひいきされたり、人気が出たり、伝説になってしまうのであろうか。
 それは「もし長生きしていたら・・・。」と続きの人生を想像することができるからではなかろうか。

 例えば「もし新美南吉が長生きしていたら・・・」などと想像する。
「きっともっと多くの作品を残していたにちがいない。ああ、それが読みたかったな。」
「30代、40代、50代・・・のときはどのような作風の作品を書くようになっていただろうか?」
「どんなおじいさんになっていただろう?」
「晩年はPCで創作活動していただろうか?」
「日本児童文学協会会長に選出されていただろうか。」
 などといろいろ妄想できる。

 それが楽しかったりする。夭折した本人が聞いたら、勝手なことを想像するな、と怒るかもしれないけれど、本人がこの世にいないので、文句も言われず勝手に想像できる。
 人生半ばにして、断ち切られた人の人生の続きをいっしょに創作できるような錯覚に陥ることができる。
 こうして早死にした美少年とか美少女と一体感を感じることができる・・・のが楽しいのかもしれない。

 次に早死にした人に対して、特にその人が独身のまま死んだ場合、ついつい清純潔白なイメージを持ってしまいがちだ。
 穢れることなく、世間の垢にまみれることなく、儚く息絶えた人・・・ご本人は死んでしまってもう汚されることはけしてない。ああ、よかった。
 こうして美しく純粋なものが好き、という人にとっては、早死にした人は「好きなタイプ」の1人になってしまう。

 だから早死にした人には人気が出てしまう。

 新美南吉は早死にしたから人気が出た人、ではなく、あくまで童話作家として人気のある人だ。
 特に「ごんぎつね」が教科書に採用されていることが大きい、と思う。
 (考えてみれば子狐ごんも早死にした狐である。)

 しかし、作家、しかも子ども向けの童話作家であり、20代で結核で、しかも独身のまま死去。と紹介されると、ついつい清純なイメージがつきまとってしまう。
(それと、最近になってようやく新美南吉の顔が分かった私が言うのも何ですが、南吉さんは美青年だと私は思うのですが、どうでしょ? イケメンというより、最近の日本男子にはいないタイプの美青年だと思います。この人の目を見ると、「ああ、これは芸術家の目だなあ。」といつも思います。) 
 
 そんなわけで、新美南吉に美しい清らかなイメージを持っている人も多いと思うけど、実際のご本人はそうではなかったらしい。
 大人になっても子どもらしい視線を持ち合わせている人ではあったと思うけど、残された日記や手紙を読むと、一筋縄ではいかない人だったことが分かります。
 心の中にどろどろしたものがあって、自分でもそれをうまく整理できていなかったように感じます。
 
 新美南吉は謎が多い。捕まえられない。だから奥が深い。
 だから多くの人に読まれるような作品を生み出すことができたのだと思います。
 

新美南吉と私 (3)

2013-08-06 |   新美南吉
 そして今年になってから、翻訳作業が始まりました。
 ただ作品だけ訳して見せるのではなく作者の経歴も紹介しなくてはいけない。
 それで角川文庫の最後に入っている年表を参考にしながら、ロシア語で文章を作っていると、ちゃんとした写真もいることに気がつき、ネットで検索することにしました。
 そして新美南吉記念館のサイトで写真を発見。

 これがその写真。
 あれ? めがねかけていない? しかも坊主頭???

 ・・・また新美南吉のイメージが変わってしまいました。

 しかもネットで検索しているとブログなどで
「新美南吉といえばこの写真ですよね。」
などと書いてあるのを読んでまたびっくり。私だけが知らなかったのか・・・。
 さらに
「新美南吉といえば帽子とステッキ。」
とあって、またびっくり。 

 一言で言うと私にとって新美南吉はずーっと顔が分からない人だったのです。

 宮沢賢治とちがうところは、宮沢賢治は(たぶん)一生同じ髪型(坊主頭)だったりして、イメージが固まっている、ということです。
 新美南吉はイメージが(少なくとも私の中では)固まっていなくて、外見が変化していて、名前は知っていても顔が浮ばない人でした。

 今はこの写真があるので、ようやくイメージができてきましたが、そもそも作家というのは外見が大事なのではなく、どんな作品を書いているのかが大事です。
 
 それで、全部ではないのですが、せっせと新美南吉の作品を読み始めました。
 子どものときだったら、純粋な一読者として読めていたはずなのですが、今は「この作品を翻訳するかどうか」という視点を持って読んだので、ある意味純粋な心で読めずこの点が残念です。
 もっと早くに新美南吉童話と出会っていれば、と後悔しました。

 さらに翻訳するに当たって、その人となりを勉強しないといけません。翻訳する際にそれが助けになることもあるからです。
 それであれこれ新美南吉の人生について調べました。
 私が感じたのは、童話の中の文章とは違って、日記には本人のどろどろした心のうちなどが吐露されていて、ちょっとびっくりしました。
 さらに学校で教師として生徒に見せていた顔はまたちがっていて、三重人格というか、なかなか本当の姿が見えてこない人だと思えました。

 このようなわけで、新美南吉は私にとって、外見も中身も確定しないイメージの人なのです。
 でもそうだと言って、新美南吉のことをわけの分からない人で、こんな人の作品を読まなくていい、と言っているわけではありません。
 逆にもっともっと知りたいな、と思わせる人物なのです。
 

(つづく)

新美南吉と私 (2)

2013-08-06 |   新美南吉
 1999年9月日本文化情報センターが開設され、私は所有文献数を増やすために本を寄贈してくれる人を探したり、チロ基金の予算で書籍を購入したりしていました。

 宮沢賢治の本は、寄贈者様の中に私と同じく熱烈賢治ファンの人が1人いて、たくさんの本(文庫が多いですが)を寄贈してくれました。
 (それを改めて読んでまたうっとり。)
 宮沢賢治の人生を子ども向けに書いた本もありました。

 新美南吉の本は・・・表紙が取れて茶色に日焼けしたかなり古い角川文庫1冊(牛をつないだ椿の木)をロシア人の知人の知人が寄贈してくれました。
 さらに賢治ファンの方からの寄贈本の中にもフォア文庫の「おじいさんのランプ」(岩崎書店)が1冊まじっていました。
 この2冊だけでした・・・。

 しかし日本文化情報センターで仕事を始めると、職業柄、所蔵文献について把握しておかないといけないので、片端から文献を読むことにしました。
 特に児童文学は優先しないといけない分野だったので、全て先に読むことにしました。

 そこでやっと人生で初めて南吉童話をちゃんと読むことになったのです。
 まず角川文庫の「張紅倫」・・・「ごんぎつね」と「てぶくろを買いに」しか読んだことのなかった私には
「へえ、新美南吉ってこんな話も書いていたんだ。」
と驚きの連続でした。
 角川文庫の「おじいさんのランプ」は巽聖歌があとがきを書いていて、収録作品も巽聖歌チョイスなのですが、有名な作品のほか脚本の「病む子の祭」なども入っていて、バラエティーに富んでいる。そのわりに入門者向けというお勧めの本です。
 フォア文庫のほうも読んで、すっかり感動しました。
 
 日本文化情報センターには他にも「小川未明童話集」とか「浜田広介童話集」などもあるのですが、(意外にも小川未明を読んでもうっとりできず)読み比べてみても、あまり心が動かなかったです。
 今年がもし例えば小川未明生誕100年だったとしても、日本文化情報センターでこんなに力を入れて特別展やろう、とか翻訳しようとか思わなかったと思います。

 これはやはり新美南吉だからこそ、訳してベラルーシの人にも紹介したいと思うわけですよ。
 作品にもよりますが、南吉童話の世界は、人種に関係なく、通じる部分がとても大きいと感じています。

 ・・・で、角川文庫のほうですが、後ろのほうに新美南吉の写真が載っています。
 それが、この大学生時代の写真ですよ。
 中学生のときに初めて見た写真しか新美南吉の顔を見たことがなかった私は
「あ、あれ? 眼鏡なんかかけていたっけ?」
とびっくりしました。
 こっちの写真のほうが目鼻立ちももう少しはっきり写っている写真だったので、ようやく
「こういう顔していた人だったのか・・・。」
と思いました。
「きりっとした感じの顔だなあ。やっぱり頭よさそう。」
というのがそのときの感想です。
 ついでに言うと
「この髪の毛、絶対ポマード塗りたくってるよねえ。こういうのが当時ははやってたのかなあ。」
とも思いました。 
 こういうわけで1999年からずっと私の頭の中では、新美南吉は眼鏡かけてて髪の毛七三分けにしてポマード塗っている人、というイメージが形作られてしまったのです。
 

新美南吉と私 (1)

2013-08-06 |   新美南吉
 新美南吉と私、と言ってもご本人と会ったことがあるわけではないのですが、今年生誕100年を記念して、南吉作品のロシア語・ベラルーシ語翻訳に関わったというご縁と、先日読売新聞から取材de質問を受けては返しているうちに、こんなタイトルの記事を書きたくなりました。

 ベラルーシで南吉童話を翻訳して広めています、などと言うと、元から新美南吉の大ファンだった日本人なのだろうと、思われがちですが・・・すみません。日本に住んでいた間の20年余り、新美南吉の作品は「ごんぎつね」と「手袋を買いに」しか読んだことがありません・・・。

 今ごろになって「どうしてたったの2作品しか読んでないのだろう。」とか「感性豊かな子ども時代に南吉童話をもっと読んでおけばよかった。」とか考えてしまいました。

 実は私は子どものころから現在に至るまで、宮沢賢治の大ファンなのです。
 小学6年生のとき、学校図書館に宮沢賢治全集が入るやいなや、全巻読破しました。家にも宮沢賢治の本があったし、「銀河鉄道の夜」がアニメ化されると、映画館まで見に行きました。大人になった今でも何回も読み返しています。宮沢賢治の本はベラルーシにも持って行きましたよ。

 しかし、新美南吉は・・・確か小学校低学年のころ、おそらくそのとき購読していた子ども向け雑誌のお話のページに「手袋を買いに」が載っていたのを読んだのが人生初めてで、その後4年生の教科書で「ごんぎつね」を読んで・・・ちょうどそのころ学校の体育館で「ごんぎつね」のアニメが上映されたので、それを見て主題歌のサビのところだけが記憶に残っている・・・という有様です。

 宮沢賢治には熱中していたのに、同じように図書館にあったはずの新美南吉はどうして読んだことがないのでしょう・・・。
 我ながら不思議に思い理由を考えてみました。

 それで分かったのは、「賢治にはうっとりできるけど、南吉にはできないから」ということに気がつきました。つまり
「ああ、私も銀河鉄道に乗って宇宙を旅したい・・・。」
とうっとりできるけれど
「ああ、私も栗をこっそり誰かにあげたい・・・。」「一人ぼっちで夜遅く手袋を買いに行きたい・・・。」
とは思わないし、うっとりできないのです。

 そして賢治の作品に出てくる登場人物の名前・・・「ジョバンニ」「カムパネルラ」「ゴーシュ」「オッペル」「グスコーブトリ」「クラムボン」(←これって登場人物だっけ?)(^^;) 
 でもって舞台はイーハトーブ!
 カタカナが多くて外国みたい! 夢の世界そのもので、うっとりしてしまう。

 しかし南吉作品の登場人物で、カタカナの名前の人っていたっけ??? 兵十に加助に弥助、吉べえさん・・・ 舞台はどこか日本の田舎の村・・・
 だめだ・・・。うっとりできない・・・。

 というわけで、私は新美南吉の本を進んで手に取ることはなかったのです。

 これは別に「うっとりできる宮沢賢治作品がすばらしくて、うっとりできない新美南吉作品はだめ。」と言いたいわけではありません。
 単に子どものときの私は、うっとりできる夢の世界が書いてある童話が好きだった、というそれだけのことなのです。
 大人になった今は新美南吉の「久助君もの」をとても興味深く読んでいるのですが、もし子どもの時にたまたま「久助君」に出会っていたとしても、今の私のようにおもしろいとは感じなかったでしょう。
  
 このように「ごんぎつね」も「手袋を買いに」は好きな話だったけれど、他の作品を探して読むことはないまま小学校を卒業しました。
 当然子どものころは作者の名前が新美南吉である、というのは教科書で習って知っているけれど、その人がどんな顔しているのか、どんな人生を送った人なのか、全く興味もなく知らないままでした。
 宮沢賢治の顔はちゃんと知っているのに、新美南吉の顔も知らないままだったのです。

 やがて中学に入学した春。
 国語の教科書の副教材として「国語資料総覧」という資料集が学校で配られました。
 この資料集が優れもので、教科書よりずっとおもしろいので、ベラルーシにも持って行き、現在に至るまで仕事の役に立っているほど愛用しています。

 そして、その資料集に
「ま、日本人なら常識としてこれぐらいの文学者の名前と代表作ぐらいは覚えておきなさいよ。」
という感じで、夏目漱石やら森鴎外やら文学者の紹介がずらっと並んでいるページがあるのです。
 その中に、新美南吉がおりました。そのとき私は人生で初めて、新美南吉の顔というものを見たのです。
 資料集のそのページをスキャンしたので、見てください。

 最初の感想は
「若いなあ。」そして「こんな写真じゃあんまり顔が分からん。集合写真を切り取って無理やり載せた写真だな。もっとましな写真を撮る機会もなかった人なのか。」
・・・というものでした。
 そのとき初めて、30歳ぐらいで若死にした人なんだと知り、「だから年取ったときの写真なんてないんだな。」と思いました。
 この資料集に載っている他の文学者の中で新美南吉より若く死んだのは、樋口一葉だけ。
 童話作家で載っているのは、南吉さんと宮沢賢治ぐらいです。

 しかし、「有名な作品だから読みましょう」と言う感じで紹介されているのが「おじいさんのランプ」でこのイラストですよ。
 同じ資料集でも宮沢賢治のほうは「銀河鉄道の夜」なので、だめだ、やっぱり「おじいさんのランプではうっとりできない」私は、中学生になっても全く新美南吉を読むことはありませんでした。

 それにこの資料集の作者紹介の文章中に「ユーモアの漂う独自の世界を展開した。」とか書いてあるけど、私が読んだことのある「ごんぎつね」と「手袋を買いに」にユーモア漂う世界は感じなかったので、この文章を書いた人に対して違和感を感じました。紹介されている「おじいさんのランプ」にもタイトルからして、このイラストからしてユーモアが漂っている感じがさっぱりしなかったのです。

 こうして新美南吉作品に触れることなく大人になってしまいました。