電話取材とメールでの取材を読売新聞から受けたのに、ご覧のとおりベラルーシの部分はすっかりカットされてしまいました。
しかし受けた質問のほとんどは、多くの日本人が
「なんでまたベラルーシで新美南吉を翻訳?」
と思っていることを代わりに質問しているのだと思います。
ここでやりとりしたメールの内容を元にインタビューを公開します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・なぜ今回、新美南吉の作品を、ベラルーシの皆さんに知ってもらおうとされたのでしょうか。
100周年だから?南吉の魅力とは?といったあたりを伺いたいです。
日本文化情報センターがミンスク市立児童図書館の中に開設されていることが一番の理由です。
ベラルーシでも村上春樹などは日本文学でも翻訳されており、たくさん書店で売られていますが、有名ではない外国の児童文学は売れない、お金にならないの理由で昔話をのぞき、全くと言っていいほど翻訳されていませんし、ロシアからも輸入されていません。
弊センターは日本の文化をベラルーシ人に知ってもらうために開設され、また商業ベースではされないことをするようにしており、今回生誕100年を迎えたのをよい機会として、新美南吉の作品を翻訳することにしました。
もちろん理由はそれだけではなく、新美南吉の作品についてベラルーシ人に知ってもらいたいという理由もあります。
ただ新美南吉の作品全てがベラルーシ人に受け入れられる、あるいは高く評価されるとは思っていません。そのため翻訳する際には私が作品を厳選しています。
・翻訳・掲載は文化情報センターの企画、ということでいいのでしょうか。
はい、そのとおりです。
・ベラルーシ語でなくロシア語ということですが、これは準公用語だから、ということでいいのでしょうか。
ベラルーシではベラルーシ語とロシア語が公用語です。そのため、両方の言葉に翻訳しました。
私自身はベラルーシ語の翻訳は「ベラルーシ語→日本語」はできますが、「日本語→ベラルーシ語」はとても下手です。
「日本語→ロシア語」のほうが早くできますので、早く翻訳を作って、「ビブリヤテカ・プラパヌエ」誌編集部に持って行きました。ベラルーシでは無名の作家、無名の翻訳家の作品なので、早く持って行って交渉を始めないと、今年中に掲載されない可能性が高かったからです。生誕の年が終わってから掲載されたら、かっこ悪いでしょう。
その後ベラルーシ語にも翻訳し、もうすぐ新聞に載る予定です。これも5月に渡して、何とか新美南吉の生まれ月である7月中に掲載されないか祈っているところです。 (この新聞にはその後、記事が掲載されました。)
ロシア語訳を載せるのか、ベラルーシ語訳を載せるのかは、編集部の方針によります。
・地元の新聞にも掲載される、など南吉が注目されているようです。無名の作家がそこまで取り上げられる、というのはなぜでしょうか。それは南吉作品のよさがわかってもらえたから、ということなのでしょうか。
はい、そうだと思います。実際に編集部の人間が翻訳された作品を読んで共感を感じたので、掲載を了承してくれたのだと思います。
一方で私は30箇所を越える雑誌、新聞、ラジオ、テレビなどに打診しましたが、結果はご覧のとおりです。打診された側全員が共感したわけではないと思います。
見方を変えれば、反応がゼロかもしれない、という予想もしていましたので、それに比べれば、意外に多くの掲載の了解が得られたほうだと思います。
またベラルーシには文学者で、マクシム・ボグダノビッチという人気詩人がいますが、この人が100年ほど前に26歳で結核で死んでいるので、新美南吉を「日本のマクシム・ボグダノビッチ」と捉えているベラルーシ人も多いです。
・また、作品を厳選とのことですが、どんな作品だと読んでもらえそうなのでしょうか。逆にどういう話はベラルーシでは読まれないのでしょうか。
読んでもらえそうな作品というのは、哲学的であることです。人種が変わっても分かってもらえそうな内容です。「でんでんむしのかなしみ」や「去年の木」がこれに当たります。
読んでもらえそうにない話は仏教が出てくる話です。こちらはキリスト教の国なので、仏教色が強い作品は翻訳の対象から外しました。
またベラルーシではアルコール中毒が社会問題として最大の問題なので、酔っ払いが出てくる話はご法度です。児童図書館内には置いてはいけないという決まりがあります。
個人的には好きな話ですが「百姓の足、坊さんの足」は両方にひっかかるので、絶対にベラルーシでは(児童文学としては)紹介できない作品です。
「和太郎さんと牛」は酔っ払ったうえに子どもを授かるという話ですが、ベラルーシではアル中の親が子どもを育児放棄している大問題があり、とてもこの作品はベラルーシ人には理解してもらえないでしょう。
・日本の児童文学は、読みごたえがあるというか、レベルの高い方だと思うのですが、辰巳さんからみてどうですか。そのなかでの南吉作品の位置付けもお願いします。
私もそう思いますし、「ベラルーシ人は村上春樹ばっかりではなく、他の作家の作品や児童文学にも目を向けてほしい。」としょっちゅう思います。
しかしやはり翻訳されなくては理解してもらえない、と今回強く思いました。
日本人が「日本の児童文学はレベルが高いほう」と思っていても、ベラルーシでは全く知られていませんし、そのような認識はベラルーシ人にはありません。アニメはレベルが高いと思っているでしょうが・・・。
逆に日本の児童文学や絵本、教科書の中に、飲酒、喫煙、放屁のシーンが平気で出てくるのは、ベラルーシ人からすれば「レベル低い」になると思いますよ。
国語の教科書に採用されている話でも酔っ払いが出てくるものはあります。ベラルーシ人からすれば信じられない話です。
新美南吉の作品は小さい作品であっても、深みがあり、哲学的です。(ベラルーシ人はドストエフスキーのようなロシア文学を読んで育つので、とにかく哲学的な作品が大好きです。)
新美南吉の作品には作家本人の人間性がにじみ出ているように私には思えます。読めば読むほど、新美南吉という人のことが分かってくるように感じます。
子ども向けの作品ですが、大人になっても作家と作品を通じて対話できるのがすばらしいところだと思います。
新美南吉は童話だけではなく、詩や俳句、短歌の作品もたくさん作っていますが、「詩人」「歌人」というよりやっぱり「童話作家」として有名で、そのように紹介されることが多いです。
読んでいて詩や短歌の作品もすてきだと思うのですが、やっぱり童話作品のほうに、より深く新美南吉らしい個性が出ていると思います。それは童話作品のほうが作家との対話がしやすいからだと思います。
しかし受けた質問のほとんどは、多くの日本人が
「なんでまたベラルーシで新美南吉を翻訳?」
と思っていることを代わりに質問しているのだと思います。
ここでやりとりしたメールの内容を元にインタビューを公開します。
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・なぜ今回、新美南吉の作品を、ベラルーシの皆さんに知ってもらおうとされたのでしょうか。
100周年だから?南吉の魅力とは?といったあたりを伺いたいです。
日本文化情報センターがミンスク市立児童図書館の中に開設されていることが一番の理由です。
ベラルーシでも村上春樹などは日本文学でも翻訳されており、たくさん書店で売られていますが、有名ではない外国の児童文学は売れない、お金にならないの理由で昔話をのぞき、全くと言っていいほど翻訳されていませんし、ロシアからも輸入されていません。
弊センターは日本の文化をベラルーシ人に知ってもらうために開設され、また商業ベースではされないことをするようにしており、今回生誕100年を迎えたのをよい機会として、新美南吉の作品を翻訳することにしました。
もちろん理由はそれだけではなく、新美南吉の作品についてベラルーシ人に知ってもらいたいという理由もあります。
ただ新美南吉の作品全てがベラルーシ人に受け入れられる、あるいは高く評価されるとは思っていません。そのため翻訳する際には私が作品を厳選しています。
・翻訳・掲載は文化情報センターの企画、ということでいいのでしょうか。
はい、そのとおりです。
・ベラルーシ語でなくロシア語ということですが、これは準公用語だから、ということでいいのでしょうか。
ベラルーシではベラルーシ語とロシア語が公用語です。そのため、両方の言葉に翻訳しました。
私自身はベラルーシ語の翻訳は「ベラルーシ語→日本語」はできますが、「日本語→ベラルーシ語」はとても下手です。
「日本語→ロシア語」のほうが早くできますので、早く翻訳を作って、「ビブリヤテカ・プラパヌエ」誌編集部に持って行きました。ベラルーシでは無名の作家、無名の翻訳家の作品なので、早く持って行って交渉を始めないと、今年中に掲載されない可能性が高かったからです。生誕の年が終わってから掲載されたら、かっこ悪いでしょう。
その後ベラルーシ語にも翻訳し、もうすぐ新聞に載る予定です。これも5月に渡して、何とか新美南吉の生まれ月である7月中に掲載されないか祈っているところです。 (この新聞にはその後、記事が掲載されました。)
ロシア語訳を載せるのか、ベラルーシ語訳を載せるのかは、編集部の方針によります。
・地元の新聞にも掲載される、など南吉が注目されているようです。無名の作家がそこまで取り上げられる、というのはなぜでしょうか。それは南吉作品のよさがわかってもらえたから、ということなのでしょうか。
はい、そうだと思います。実際に編集部の人間が翻訳された作品を読んで共感を感じたので、掲載を了承してくれたのだと思います。
一方で私は30箇所を越える雑誌、新聞、ラジオ、テレビなどに打診しましたが、結果はご覧のとおりです。打診された側全員が共感したわけではないと思います。
見方を変えれば、反応がゼロかもしれない、という予想もしていましたので、それに比べれば、意外に多くの掲載の了解が得られたほうだと思います。
またベラルーシには文学者で、マクシム・ボグダノビッチという人気詩人がいますが、この人が100年ほど前に26歳で結核で死んでいるので、新美南吉を「日本のマクシム・ボグダノビッチ」と捉えているベラルーシ人も多いです。
・また、作品を厳選とのことですが、どんな作品だと読んでもらえそうなのでしょうか。逆にどういう話はベラルーシでは読まれないのでしょうか。
読んでもらえそうな作品というのは、哲学的であることです。人種が変わっても分かってもらえそうな内容です。「でんでんむしのかなしみ」や「去年の木」がこれに当たります。
読んでもらえそうにない話は仏教が出てくる話です。こちらはキリスト教の国なので、仏教色が強い作品は翻訳の対象から外しました。
またベラルーシではアルコール中毒が社会問題として最大の問題なので、酔っ払いが出てくる話はご法度です。児童図書館内には置いてはいけないという決まりがあります。
個人的には好きな話ですが「百姓の足、坊さんの足」は両方にひっかかるので、絶対にベラルーシでは(児童文学としては)紹介できない作品です。
「和太郎さんと牛」は酔っ払ったうえに子どもを授かるという話ですが、ベラルーシではアル中の親が子どもを育児放棄している大問題があり、とてもこの作品はベラルーシ人には理解してもらえないでしょう。
・日本の児童文学は、読みごたえがあるというか、レベルの高い方だと思うのですが、辰巳さんからみてどうですか。そのなかでの南吉作品の位置付けもお願いします。
私もそう思いますし、「ベラルーシ人は村上春樹ばっかりではなく、他の作家の作品や児童文学にも目を向けてほしい。」としょっちゅう思います。
しかしやはり翻訳されなくては理解してもらえない、と今回強く思いました。
日本人が「日本の児童文学はレベルが高いほう」と思っていても、ベラルーシでは全く知られていませんし、そのような認識はベラルーシ人にはありません。アニメはレベルが高いと思っているでしょうが・・・。
逆に日本の児童文学や絵本、教科書の中に、飲酒、喫煙、放屁のシーンが平気で出てくるのは、ベラルーシ人からすれば「レベル低い」になると思いますよ。
国語の教科書に採用されている話でも酔っ払いが出てくるものはあります。ベラルーシ人からすれば信じられない話です。
新美南吉の作品は小さい作品であっても、深みがあり、哲学的です。(ベラルーシ人はドストエフスキーのようなロシア文学を読んで育つので、とにかく哲学的な作品が大好きです。)
新美南吉の作品には作家本人の人間性がにじみ出ているように私には思えます。読めば読むほど、新美南吉という人のことが分かってくるように感じます。
子ども向けの作品ですが、大人になっても作家と作品を通じて対話できるのがすばらしいところだと思います。
新美南吉は童話だけではなく、詩や俳句、短歌の作品もたくさん作っていますが、「詩人」「歌人」というよりやっぱり「童話作家」として有名で、そのように紹介されることが多いです。
読んでいて詩や短歌の作品もすてきだと思うのですが、やっぱり童話作品のほうに、より深く新美南吉らしい個性が出ていると思います。それは童話作品のほうが作家との対話がしやすいからだと思います。