電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

歴史の教訓~先人の知恵の陰に

2011年04月22日 06時01分23秒 | Weblog
このたびの震災に伴う大津波では、大きな被害を被ったところと、被害を免れたところと、明暗がくっきりとわかれました。それだけに、様々な形で、歴史の教訓が浮かび上がったようです。

たとえば、奥州街道の宿立地です。宮城資料ネットの平川新氏による記事(*1)によれば、奥州街道の宿立地は、慶長16(1611)年12月の大地震・津波の被害を免れた場所を選び、街道を作ったらしい。津波の到達しにくい山沿いに移動した可能性があるとのことです。

また、「此処より下に家建てるな...先人の石碑、集落救う」という読売新聞の記事(*2)も象徴的です。「高き住居は児孫の和楽 想へ惨禍の大津浪」という字句を刻んだ石碑が建っていたところより上にあった集落は、津波の被害を免れたとか。これなども、多くの犠牲を払った先人の残した教えであり、歴史の教訓でしょう。

一方で、手作り避難所で70人を救った人の話(*3)も紹介されていました。宮城県東松島で、10年かけて岩山に手作りの避難所を造った男性は、指定の避難所が低すぎると不安に感じていたのだとか。津波被害を免れるには、とにかく高さだ、ということなのでしょう。

一方で、M9を想定した設計を進言した社員に、上司は「千年に一度とか、そういうことを想定してどうなる」と笑って却下したというような話もありました。元の記事はすでに削除されているようですが、もし本当ならば、慶長津波を記載した古文書の記録を採用した東北電力・女川原発の例(*4)もあり、きわだった対比です。石碑や古文書に刻まれた歴史の教訓と先人の知恵の陰には、きっと多くの犠牲を悼む悲しみの涙がこめられているのでしょう。考えさせられます。

(*1):東北・関東大震災 津波水域図を見て~宮城資料ネット・ニュース第98号:2011年3月27日
(*2):此処より下に家建てるな...先人の石碑、集落救う~読売オンライン2011年3月30日
(*3):手作り避難所、70人救った 10年かけ岩山に 東松島~asahi.com-2011年3月31日
(*4):女川原発と福島第一との違いは古文書にある慶長津波の評価にある?~「電網郊外散歩道」2011年4月

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2 コメント

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考えさせられます (mozart1889)
2011-04-24 06:29:54
おはようございます。四国伊予路はのんびりとした春が来ております。もう初夏の陽気になりそうです、
「此処より下に家建てるな...先人の石碑、集落救う」・・・・この記事、私も読みました。歴史の教訓をつくづく思わされました。
このたぐいの碑文は、伊予路の田舎にも結構遺っております。先人の知恵には、哀楽様々な思いが込められているのだと思います。
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mozart1889 さん、 (narkejp)
2011-04-24 22:16:25
コメントありがとうございます。四国にもそうした碑文があるのですか。当地は盆地ですので、このたびの震災・津波で初めて知りました。先人がどんな気持ちで碑を残したのかを思うと、切ないものがありますね。
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