日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「雑木で作られた秋山の『美』」。

2010-11-15 12:12:59 | 日本語の授業
 公園が、ずいぶん賑やかになりました。赤や黄色に彩られて。また、その赤や黄色とて、同じ色は全くないのですから。自然は偉大な芸術家であるとは、偉大な人間の芸術家たちが好んで言うところの言葉ですが、日々の生活に追われている普通の人族である私にとっても、心からこの言葉を叫びたくなる時は、案外多いのです。

 一番早く染まり始めたのは、近くの小学校の校庭からだったでしょうか。そして今は、公園の桜の葉も真っ赤に染まって街路を飾っています。

 半年以上も前になりますが、日本に来たばかりの「4月生」に、「よくぞ桜の国、日本へやって来た。桜は春は花、秋は葉を楽しめる」と言っておいたのですが、彼らは毎日通っているこの木が、かつて桜色の花に覆われていた桜の木であることに気がついたでしょうか。

 「モミジ」の緑の美しさに気づかないように、「桜」の紅葉にも気がつかないもののようです、人というものは。どうしても「桜は春。モミジは秋」と思い込んでしまうのです。

 そう言えば、「モミジ」は、桜よりももっともっと楽しめます。特に「イロハモミジ」は葉も薄く、陽が当たれば、光が透けて、その緑が人の手や顔を染めそうに見えるのですから、きれいなものです。それに、花が咲いた頃も、また種が散る頃も、そして言うまでもなく紅に染まる頃も。

 日本の秋が美しいのは、山に様々な種類の木があるからだと聞いたことがあります。普通のところでは、樹の種類はそれほど多くはないのだそうです。日本にも、杉山とか檜の山とか、経済的な理由から作られた山も確かにありますが、それでも人々が好きでよく訪れるというのは、いわゆる「雑木」で作られた山なのです。

 子供の頃に、小学校の遠足で、よく山に行きました。湖に行くためにも、山を通っていかねばならぬのですから、日本というのは、ほとほと山に囲まれた国だと思います。当時、山道というのには、舗装はなされていませんでしたから、雨が降った後は、歩きにくかったし、時々、その水たまりに蛙の卵などが生み付けれらているのが発見されたりすると、もう大騒ぎ。全く、山道を歩けば、「無聊」という言葉と無縁になれます。

 ところが、昨今は、舗装されていない道を探す方が難しいのです。「舗装しない」というのは、大変なことのようです。

 近くの住民に、土地の伝統文化に根ざした「美意識」と、それを守ろうという強い「意志」があり、しかも、その住民の意思を汲み取り、それを基に、地域をどのような有様にして後世に伝えるかという「ヴィジョン」が、国や地方のリーダー側にない限り、無理な相談なのでしょうか。

 一般的に、だれでも、「経済効果を考えれば、舗装せざるを得ない」と言います。けれども、これとても、車でなく鉄道をという、この国の姿を考えてからの指導があれば、日本人はそれほど愚かでも、忍耐心がないわけでもありませんから、多少の不便は我慢できるでしょうか。もちろん、リーダー側に何もなければ、だれでも目先の便利に走ってしまうでしょうが。

 だいたい政治家の役割とは、その意味の半分以上が「夢を語る」ことであるような気がするのです。どうやってそれを実現化するかは、役人の仕事でしょうし。実務能力に長けた人は、どの官庁にも大勢いるでしょうから。但し、人に夢を語り、それが実現可能であると信じさせ、不自由を耐えさせるに至るというのは、だれにでも出来ることではありません。

 戦国時代、名将たちは、味方の兵士をして「この人のためならば、死をも厭わぬ」という気にさせるのが半分、もう半分は「この人について行けば、栄耀栄華は思いのまま」と「運を見せてやる」のが半分だったと言います。

 それは今時の政治家にしても同じでしょう。ただこういう時代ですから、始めの10年か20年くらいは、耐えねばならぬということを言わなければならないのが辛いところです。一発勝負というのは、それほど大変なことではないのです。大変なのは、限りのある期間を耐えるよりも、その苦しみに出口が見えないことなのです。

 ややもすれば、壊れそうになる人の心をその都度、つなぎ止めておかねばならぬのですから。

日日是好日

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