「萩の花 尾花葛花 撫子が花 をみなへし また藤袴 朝顔の花」 山上憶良
「秋の七草」の歌です。「『万葉集』の後世に及ぼしたる影響たるや」と、大上段に、髭をしごきながら、言いたいところですが、これとても、いつの時代からそうなったのかわかりません。かすかに記憶にある限りでは、明治の子規によるものであるとか。
しかしながら、それから既に100年余り。「明治は遠くなりにけり」ではありますけれども、「万葉の歌の心」は、またしっかりと日本人の心に蘇ってきているようです。もしかしたら、グローバル化により、縮んでいた日本人の心が大らかになったせいかもしれませんが。
子規は嫌ったけれども、『古今集』にも、また『新古今集』にも、心惹かれる歌は少なくはないのです、現代人の心に響く歌は。
多分この「秋の七草」といわれるものも、いつとはなしに、人々の口の端に上るようになり、それが口調のよい歌にまとめられ、人口に膾炙するようになっただけのことかもしれません。今のように、洋物の花が幅をきかし、こういう花を目にすれば、却ってゆかしささえおぼえるくらいなのですから。
こういうのを、おそらくは、「文化」というのでしょう。人々の思いが時間をかけ、ある時代を漉し、残していったものなのです。春になれば、血が騒ぐくらいに待ち焦がれるという「桜」も、そうなのでしょう。一人西行が「あくがれた」からといって、それを後世の皆までが踊り騒ぐというはずもないのです。何か心浮き立たせるようなものがあったとはいえ、戦後、日本各地で焼け跡に、桜を植え続けてきた先人達の思いは、そのような一行か二行で束して終わりというものでもないのです。
かつての「朝顔」は、今の「キキョウ(桔梗)」となり、そのほかにも「新『秋の七草』」と言われるものが数々あれど、もちろん、個々の、「心の『秋の七草』」は別にしても、日本の社会では、これが「秋の七草」なのです。身近な存在ではなくなっても、秋の野山へ行けば、すぐに万葉の昔に戻れるというのも、こういう花々が古人と現代人とを結びつけているからなのです。
ススキにしても、もう立派なものは、都会では見られなくなりました。時折、郊外の土手や池のそばで見たりしますと、もう、「立派やな」と見とれてしまうくらいなのです。
私が子供の頃には、それこそ、掃いて捨てるほどありました。荒れ地にあるような類のものだと思っていましたし。それに、このススキに「みやび」などという冠をつけたことなんてありませんでした。
「お十五夜様」の頃になると、「お団子もできた。飾り付けも終わった。さて、そろそろ、ススキでも取りに行こうか」と、親に手を引かれ、近所の土手に取りに行ったものです。ススキを取っても、誰からも文句なんて言われたことなんてありませんでした。その日には、道を歩いているどの子の手にも、しっかりとススキが握られていたものでしたから。
もっとも、このススキというものも、盛りの頃は穂が銀色に輝き、見事なのですが、ひとたび盛りが過ぎると、耄けだった穂がフワフワと飛び散り、掃除をせねばならぬ者泣かせの代物となってしまいます。
それに比べ、ハギや撫子、女郎花、キキョウといったものは、どこかしら、乙女といった感じで得ですね。ただ葛はいけません。山の崖や太い木の上から垂れ下がっているのを見ると、野性という二字をかぶせたくなってしまいます。「秋の七草」は、どの花も野の草花であるのは同じなのですが、この花は、特に「ヒトの手を避けている」ような感じがするのです。
この「秋の七草」も、時期をずらしてしまうと、何やら、寂しげな存在となり果ててしまいます。今年は、10月の初めの頃に、ハギを見ましたし、葛も見ました。ところがススキだけは10月の末になっても、まだカタイ穂のまま川辺に立っているのを目撃していましたもの。何だかねじれが起きているような具合です。落ち着きません。
日本人は「変だ。変だ」と騒いでいるのですが、他国から来た人々は、日本の四季というものに先入観はありませんから、日本人のように、厄介なことは申しません。「私の国は一年中、夏です」であったり、自分の国には冬があると言った学生に話を聞いてみると、とても冬とは言えない気温であったり…。また、そんなことを言っているうちに、北国から来た学生が「日本(東京)の冬は冬じゃない」と言ったり…。
国が違うと「冬の概念」自体も変わってくるようで、そういう話題になると皆、話したくて話したくて、ウズウズしてしまうようです。授業中に、時々、こういう話をして、脱線させたりしているのですが、これもガス抜きなのです。授業の進度にそれほど大きな影響がないときには、したほうがいいのです。「勉強も辛い、アルバイトも辛い」では、二年間をどうやってやり抜けることができるでしょう。
互いに、時には冗談を言い、時には庇い合い、力づけ合わなくては、せっかく外国に来て、異国の友達と席を並べている意味がありません。こうして、互いにお互いを確かめ合うというのも、彼らが、これから後、数年を日本で生きていくためには必要なことなのです。
日本語学校だから、文法やら単語を覚えたり、会話の練習に終始しているわけではありません。そこは、厳しく叱責しなければならぬこともありますし、反対に力づけなければならぬ時もあります。これも、タイミングを見ておかねばならぬので、毎日学生の顔を見ていなければできることではないのです。
これは、ある意味では、義務教育の仕事と同じようなものなのです。専門学校のように、授業時間だけは彼らと一緒に居るけれども、「後は知らない」では済まないのです。
時々、注意をするために、授業時間が犠牲になったりすることがあります。そのあとは、進度を戻すために、やりくりをしなければならなくなるので、きついのですが、これも、注意をするなら、「今だ」というタイミングがあるのです。それを逃したら、もしかしたら、それから後には、このようなチャンスは来ないかもしれません。
つくづく、授業は生き物だと思います。同じ内容を教えるにしても、学生が変われば、去年のやり方ではもう通じません。同じ学生でも一人か二人が入れ替わっただけで、クラス全体の雰囲気がガラリと変わってしまうこともあります。その時々で、こちらの顔つきまで換えなければならないときもあるのです。
それが、大学や大学院へ行くための予備校のようなことをしながらも、それだけでは終われないという日本語学校なのかもしれません。(もちろん、ちゃんと学生達をフォローしてくれている良心的な専門学校があることは知っています)
日々是好日
「秋の七草」の歌です。「『万葉集』の後世に及ぼしたる影響たるや」と、大上段に、髭をしごきながら、言いたいところですが、これとても、いつの時代からそうなったのかわかりません。かすかに記憶にある限りでは、明治の子規によるものであるとか。
しかしながら、それから既に100年余り。「明治は遠くなりにけり」ではありますけれども、「万葉の歌の心」は、またしっかりと日本人の心に蘇ってきているようです。もしかしたら、グローバル化により、縮んでいた日本人の心が大らかになったせいかもしれませんが。
子規は嫌ったけれども、『古今集』にも、また『新古今集』にも、心惹かれる歌は少なくはないのです、現代人の心に響く歌は。
多分この「秋の七草」といわれるものも、いつとはなしに、人々の口の端に上るようになり、それが口調のよい歌にまとめられ、人口に膾炙するようになっただけのことかもしれません。今のように、洋物の花が幅をきかし、こういう花を目にすれば、却ってゆかしささえおぼえるくらいなのですから。
こういうのを、おそらくは、「文化」というのでしょう。人々の思いが時間をかけ、ある時代を漉し、残していったものなのです。春になれば、血が騒ぐくらいに待ち焦がれるという「桜」も、そうなのでしょう。一人西行が「あくがれた」からといって、それを後世の皆までが踊り騒ぐというはずもないのです。何か心浮き立たせるようなものがあったとはいえ、戦後、日本各地で焼け跡に、桜を植え続けてきた先人達の思いは、そのような一行か二行で束して終わりというものでもないのです。
かつての「朝顔」は、今の「キキョウ(桔梗)」となり、そのほかにも「新『秋の七草』」と言われるものが数々あれど、もちろん、個々の、「心の『秋の七草』」は別にしても、日本の社会では、これが「秋の七草」なのです。身近な存在ではなくなっても、秋の野山へ行けば、すぐに万葉の昔に戻れるというのも、こういう花々が古人と現代人とを結びつけているからなのです。
ススキにしても、もう立派なものは、都会では見られなくなりました。時折、郊外の土手や池のそばで見たりしますと、もう、「立派やな」と見とれてしまうくらいなのです。
私が子供の頃には、それこそ、掃いて捨てるほどありました。荒れ地にあるような類のものだと思っていましたし。それに、このススキに「みやび」などという冠をつけたことなんてありませんでした。
「お十五夜様」の頃になると、「お団子もできた。飾り付けも終わった。さて、そろそろ、ススキでも取りに行こうか」と、親に手を引かれ、近所の土手に取りに行ったものです。ススキを取っても、誰からも文句なんて言われたことなんてありませんでした。その日には、道を歩いているどの子の手にも、しっかりとススキが握られていたものでしたから。
もっとも、このススキというものも、盛りの頃は穂が銀色に輝き、見事なのですが、ひとたび盛りが過ぎると、耄けだった穂がフワフワと飛び散り、掃除をせねばならぬ者泣かせの代物となってしまいます。
それに比べ、ハギや撫子、女郎花、キキョウといったものは、どこかしら、乙女といった感じで得ですね。ただ葛はいけません。山の崖や太い木の上から垂れ下がっているのを見ると、野性という二字をかぶせたくなってしまいます。「秋の七草」は、どの花も野の草花であるのは同じなのですが、この花は、特に「ヒトの手を避けている」ような感じがするのです。
この「秋の七草」も、時期をずらしてしまうと、何やら、寂しげな存在となり果ててしまいます。今年は、10月の初めの頃に、ハギを見ましたし、葛も見ました。ところがススキだけは10月の末になっても、まだカタイ穂のまま川辺に立っているのを目撃していましたもの。何だかねじれが起きているような具合です。落ち着きません。
日本人は「変だ。変だ」と騒いでいるのですが、他国から来た人々は、日本の四季というものに先入観はありませんから、日本人のように、厄介なことは申しません。「私の国は一年中、夏です」であったり、自分の国には冬があると言った学生に話を聞いてみると、とても冬とは言えない気温であったり…。また、そんなことを言っているうちに、北国から来た学生が「日本(東京)の冬は冬じゃない」と言ったり…。
国が違うと「冬の概念」自体も変わってくるようで、そういう話題になると皆、話したくて話したくて、ウズウズしてしまうようです。授業中に、時々、こういう話をして、脱線させたりしているのですが、これもガス抜きなのです。授業の進度にそれほど大きな影響がないときには、したほうがいいのです。「勉強も辛い、アルバイトも辛い」では、二年間をどうやってやり抜けることができるでしょう。
互いに、時には冗談を言い、時には庇い合い、力づけ合わなくては、せっかく外国に来て、異国の友達と席を並べている意味がありません。こうして、互いにお互いを確かめ合うというのも、彼らが、これから後、数年を日本で生きていくためには必要なことなのです。
日本語学校だから、文法やら単語を覚えたり、会話の練習に終始しているわけではありません。そこは、厳しく叱責しなければならぬこともありますし、反対に力づけなければならぬ時もあります。これも、タイミングを見ておかねばならぬので、毎日学生の顔を見ていなければできることではないのです。
これは、ある意味では、義務教育の仕事と同じようなものなのです。専門学校のように、授業時間だけは彼らと一緒に居るけれども、「後は知らない」では済まないのです。
時々、注意をするために、授業時間が犠牲になったりすることがあります。そのあとは、進度を戻すために、やりくりをしなければならなくなるので、きついのですが、これも、注意をするなら、「今だ」というタイミングがあるのです。それを逃したら、もしかしたら、それから後には、このようなチャンスは来ないかもしれません。
つくづく、授業は生き物だと思います。同じ内容を教えるにしても、学生が変われば、去年のやり方ではもう通じません。同じ学生でも一人か二人が入れ替わっただけで、クラス全体の雰囲気がガラリと変わってしまうこともあります。その時々で、こちらの顔つきまで換えなければならないときもあるのです。
それが、大学や大学院へ行くための予備校のようなことをしながらも、それだけでは終われないという日本語学校なのかもしれません。(もちろん、ちゃんと学生達をフォローしてくれている良心的な専門学校があることは知っています)
日々是好日