日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「『日本語を学びたい』という、理由はそれぞれあれど…」。

2009-03-10 07:53:33 | 日本語の授業
 今朝も雨もよい。小糠雨とも言えぬような小さな雨滴が、身にまとわりついているだけ、そんな雨もよいの朝です。

 昨日は、人の出入りが多く、いろいろな人が出たり入ったりしていました。中には、在日の方で、お子さんの相談に見えたり(「子供を、国から呼んだのだが、日本語が出来なくて困っている」とか、「今年高校を卒業する子供を呼びたいのだが、どうしたらいいのか」とか、本当に様々です)、また、「一級試験(7月)」を目指して勉強したいという方が見えたり…。近くにお住まいの方が、こうやって相談にきてくださるのは本当にありがたいことです。

 その中のお一人は、早速、昨日から「Eクラス」に入り、まずは耳慣らしと言うところでしょうか。何年、日本に住んでいても、「系統だった勉強」をしていないと、「助詞」と「動詞」の関係があやふやだったり、「動詞」や「形容詞」の活用が、いい加減であったりしてしまいます。その結果、きちんとした日本語が話せていないというコンプレックスを持ってしまうようなのです。

 もちろん、ここは学校ですので、学費が必要です。そこで、学校へ相談に見える方は、ご自分の「経済」状態と、「日本語の習得の必要性」とを秤にかけ、どちらかを選ぶということになります。これは、日本人とて同じこと。何かを学ぼうとすれば、何事によらず、お金はかかるものです。そのために、この学校では、まず授業に参加してもらい、それから、ご自分で判断してもらうことにしています。

 ただ、日本人には、「知識の習得にはお金がかかる」ということは、わかるのですが(私たちが、他の言語を習ったり、技能を習うときにも、それ相応のお金がかかります)、それがなかなか判らない国の人もいるのです。つまり、「学ぶ」ということに、お金をかけるという習慣がないのです。資本主義国、或いは、先進国では考えられないことなのですが。

 また、「日本にいれば、だれでもすぐに、日本語が話せるようになる。日本語を、学校で学ぶ必要性などない」という日本人の夫を持つ人もいます。面白いですね。そういう人に限って、外国に住んでも、ずっとその国の言葉を話せないものなのですが。こういう外国から嫁いできた女性は、夫の経済状態云々というよりも、夫の理解が得られなくて困っているようなのです。

 もちろん、日本に5年、10年と住み、パートでの作業も適当にやっていれば、日常会話には、それほど困らなくなるでしょう。しかし、日常生活の中で、言語を習得していくというのは、一見出来そうでありながら、実際は、それほど簡単なものではないのです。かなり個人の資質や嫁ぎ先の協力云々(つまり、生活環境の差)が介在してきます。夫が一緒に日本語の教科書を読んで、日本語を教えてやるとか、嫁ぎ先の家族が教えてやるとか、或いは夫が妻の母国語を話せるとか、二人とも別の言語が話せるとかいう、二人の間の共通言語の存在も必要になるでしょう。

 日本人と結婚したという外国人の女性の場合には、随分と年の差がある場合も多く、夫に相談しても「日本にいれば、自然と覚える。だから、お金を出してまで、学ぶ必要はない」で、終わってしまっているようなのです。こういう場合、女性の方も、それほど学歴が高くない人が多いので、学ぶということに執着心がなく、「そうだ。自分も学校が好きじゃなかった」で納得してしまい、そのままになってしまうのでしょう。これが、ある程度の学歴をもっている人になりますと、学ぶことの必要性を知っていますから、それで、引き下がると言うことはないようなのですが。

 結局、夫の言うままに、適当に日本語を話しながら、日本で生活していた人でも、「いい加減」が通用しない情況に追い込まれると、さすがに焦り始めるようです。

 例えば、子供が学校へ入った。日本人の先生が、ひらがなで「通信」を書いてくれるけれども、一体何と書いてあるのかわからない。意味がよく判らないので、返事の出しようもないのです。また、子供が出来た。病院へ行ったけれども、医師がなんと言っているのか全く判らない。どう答えていいのか判らない。一人では行けないなどと言うこともあるようです。

 ただ、在日も5年以上の人になると、この、いわゆる「決心」も、それほど当てにはなりません。初めは「系統だった日本語を学ぶのだ」と、勢い込んでやって来ていても、「四分野」に、非常に偏りがあるものですから、なかなか続かないのです。「文法」に的を定めて、どの教科書を用いているときでも、「文法」を見ていけばいいのに、言語学習の経験がそれほどないものですから、絞りようが判らないのです。それに、人間の常として、楽な方へ流れてしまいますもの。それで、「知っていることばかり」と、「初心(正しく日本語を話したり、書いたりするようになりたい)」を忘れて、直ぐにやめてしまうのです。

 ただ、高学歴の人や言語教育をかなり受けている人は、違います。「待てる」のです。待つ間、自分が出来ないと思われる部分を、日々の学習の中から、拾っているのです。おそらくは、これも、資質によるのでしょう、学歴はあっても、鼻持ちならない人もいますから。

 昨日、初めて来た人の中に、「この学校の卒業生とアルバイトで知り合い、紹介された」という女性がいました。在日二年で、去年の「日本語能力試験(2級)」に独学で合格し、今度は7月の「日本語能力試験(1級)」を目指したいというのです。「二級試験」の結果を見ると、やはり「聴解」の点数が随分低い。それに比べ、「読解」はかなりの高得点。母語においても、かなりの読解力がある人なのでしょう。

 こういう人とは話しやすい。私たちが言うことを直ぐに判ってくれますから。はじめ、「一週間に二日ほど仕事の関係で来られない日がある。そういう場合、学費はどうなるか」と聞かれましたので、その場合でも、学費は同じであると伝えました。それと同時に、来たり来なかったり、勉強したりしなかったりは、言語を習得する場合、できれば、避けた方がいいと思われる。それよりも、来られる時に、たとえ、一ヶ月でも二ヶ月でも、集中して勉強した方がいいのではないかと言いました。彼女は少し考えていましたが、仕事を辞めてから、改めて連絡すると言うことでしたので、私たちは「待ち」の状態です。

 どういうやり方が、様々な状況下にある人達にとって一番いいことなのか。就学生ではありませんので、皆同じようにすると言うわけにはいきません。もちろん、一人一人の「心の持ちよう」、或いは「資質」と言ってしまえば、それまでなのですが、学校では、その「学び方の方向付け」をしたり、「それぞれに向いた学習方法」をいくつか提示することは出来ます。

 既に社会人として活躍しており、私たちにない能力や知識を備えている人達には、ある意味では、それで十分なのかもしれません。

日々是好日
コメント
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