日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「『桜』と、『紅葉』、日本の美」。「異国の文章を読む、『読解力の深み』はどこから来るのか」。

2009-03-04 08:17:56 | 日本語の授業
 今朝の地面は濡れて黒光りがしています。どうも、関東の中でも、ここは暖かいようですね。都心でも雪が降ったというのに。「太平洋に面している」ということも関係しているのでしょうか。

 昨日、学生達が「本当ですか」と疑心暗鬼で聞いてきた「雪が降る」という予報も外れてしまいました。この分で行くと、「雪の便り」どころか、「桜の便り」の方が、速く届きそうです。もし、今学期が終わるまでに、「千鳥ヶ淵の桜」が咲けば、一緒に、花見に行けますね。もっとも、一番彼らに見せたいのは、「満開」を過ぎて、「春風の誘いに、乗りそうで乗らない桜」、或いは「触れなば、落ちなん風情の桜」の方なのですが…。

 勿論、三分咲き、七分咲きの桜であっても、それはそれなりに、美しい。それはそうなのですが、少々野性味が強すぎて、日本の美として必要な「たおやかさ」が乏しいような、私には、そんな気がするのです。それよりも「散り急ぐ姿」と「散り敷いた地上の花びら」、或いは「川面に漂う桜の花びら」のほうを、異国の人々には見せたいのです。

 これは、「紅葉」でも同じこと。

 木々の枝が、すべて朱に染まって見える、「紅葉」もきれい。ですが、「川面に浮かび漂う紅葉」の美しさ、はかなさの方に気づいてもらいたい。「大地に降り注ぐ紅葉」も、「散り敷いた紅葉」の上を歩く「この世ならではの思い」にも心を馳せて欲しい…。

 いけませんね。こんなことを書いていると、また、山に行きたくなってしまいました。人を拒絶する「峻厳な山」ではなく、いわゆる「日本の山里」に、です。人々の息づかいが聞こえ、山と人とが、その富を分かち合い、また、共に築き上げていくことを知っている山里。それを習いにしてきたというのが、日本の山里なのです。

 日本の優しい自然は、大陸の厳しい自然とは違います。日本の自然には「垣根」がないのです。ここからが、自然というものであり、獣たち、人とは関係のないもの達の住む領域であるという「垣根」がないのです。

 古代、人は死ぬと、その魂は近在の山に帰っていきました。近しい人を亡くした人々は、その人を偲びたくなると、その山へ行き、そこで、一夜を過ごしました。その夜、夢見ることが出来なかった人は、山中をさまよい、「彼の人に続く道を示してよ」と歌を詠みました。古代の日本では、生者と死者の住む世界の境界は無きに等しかったのです。

 そういう日本の習慣の一つ、「ひな祭り」の日が、昨日でした。

 上のクラスでは、下のクラスには見せなかったDVDも見せました。「日本語のレベル」に応じて、或いは、彼らの「資質」、「知識欲」、「好奇心」に応じて、見せるものも違いますし、説明の仕方も違います。こういう日本の「ハレ」と「ケ」の部分に関わるものは、特にそうです。「ハレ」の部分だけ説明すれば、事足れる人達と、少し深い説明をすれば、自分でいろいろなことを考えるであろうと考えられるレベルの学生とは、勢い、教える内容も異なってきます。

 「文化の深みを見よう」としてくれる学生には、どんどん説明を増やし、見せられるものは見せていきたいと考えています。勿論、「日本語のレベル」を上げていくことが一番の課題なのですが、ここを卒業する、来年の今頃までに、どの程度まで、「日本語のレベル」が上がっているかをまず考え、その時に読みこなせなければならないであろう日本語の文章を考えます。それらを読みこなすに必要な「日本の歴史」、或いは「文化・習慣」なども、先に、知識として与えておかないと、「文法も判る、単語も判る。しかし、平面的な読みしかできない」という学生になってしまう畏れがあるのです。

ただし、そこまでいけるであろうと思える学生は、そうはいません。これで終わると思えれば、私の方も、無駄な努力はしません。教えるエネルギーは、「広く、そして、浅く」の方に割きます。

 「外国語の文章」の「読みの深さ」というものは、彼ら自身の「母語のレベル」に相当すると思われます。しかしながら、それは、ある言葉を発した時の、彼らの表情、或いは、質問の内容などから、ある程度想像できるものなのです。

 普通は、どの大学を出ているか」とか、「どんな高校を出ているか」とか、「どの程度のの国から来ているか」などから、判断されるものでしょうが、教師というものは、そういう「既に形としてあるもの」からだけ、判断するものではありません。そういうものは、「素人の教師」でもできます。

 日々の彼らとの接触の中から、「彼らが何に興味を持っているか」だけではなく、「どの程度のものを理解していけるか」を判断していかなければなりません。必要とされるのは、彼らの先に、教師がいなければならないということです。一歩でもいいですし、二歩でもいいのです。自分より前にいない人に、誰が教えてもらおうとしますか。これは、本当に当たり前の事なのです。

 勿論、教師に、得手不得手という分野が存在することも確かです。しかし、他で、学生の先を歩いている教師には、どのような分野であれ、必ず手伝えることはあります。一つのことに、ある程度の深みをもって考えることができる教師には、自分では、説明は出来ない分野であろうと、少なくとも、必要な書籍やDVDくらいは示すことができるのです。

 自国で、制限された「知識」や「理解」しか与えられていない人達にとって、日本へ来た目的というのは、ただ単に「大学へ行く」、あるいは「大学院へ行く」ということだけではないはずです。もし、それだけでしたら、行けば終わり。どこであろうと、入ってしまえばいいのです。日本へ来る人の中に、そういう人も少なくはありません。いえ、却って、多いといった方がいいでしょう。

 けれど、ある程度、「学ぶことができると思われる学生」には、自国の大学で学べない「何を学べるか」ということまで考えて、それから、大学へ行って欲しいのです。そうすれば、大学に入ったときの「科目の選択」も、「取りやすいもの」から、「学んで意義あるもの」に、変わるはずです。そうなれば、「大卒」という「学位」を得ただけでなく、きっと(日本での大学生活は)もっと意義あるものになることでしょう。

日々是好日

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