柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

現状維持

2008-08-21 08:44:37 | Weblog
当地一昨日に世に言うゲリラ雷雨、昨朝にはいわゆる夕立が降り、久しぶりの雨に草木や畑ものは潤ったのでしたが、昨昼夕と涼しいこと。その後夜になっても涼しいまま、夜は肌寒いほどで窓は閉めるわ掛け物引っぱり出すわでした。なんと極端なことです。やはりおかしいんですかね。こんな天候が思い出したように挿間されるのはよくあることではあるのでしょうが、大雨が降り続いている東北日本を思えばやはりそんな気にもなることです。
 福島の県立病院での帝王切開出産での死亡事故裁判、地裁は医師の無罪を言い渡しました。読売新聞はコラムで情理の間で揺れる判決と表現しています、医療事故裁判はどれもそうです、この例に限った話ではありません。遺族側は情(怒り、不信)を原動力にして、慣れない専門用語や専門文献に格闘します、有能な弁護士(検察官)が付けばいいのですが気の毒にも医学にも法定手続きにも不慣れな素人には非常に高い壁です。一方で医師側は自分の土俵でとれる相撲です、医学に素人の裁判官を騙くらかすのは簡単です。言葉が悪いのでしょうが、この場でも何度も書いてきましたが裁判とは正しい間違いを決める場ではありません。遠山の金さんなんかいません。大岡越前なんかいませんよ。検察官と弁護士と、どちらがもっともらしいこと言って裁判官をその気にさせるかの勝負です。本当の事をどうやって判定できるんです?裁判官自体が大の素人です。だから参考人とか鑑定人とか、肩書きちゃらちゃらさせたお偉いさんが重々しく言うとそっちに傾くんです、当然ですね。私のような天の邪鬼がいれば面白いんでしょうが、あの業界もやっつけ裁判官が多いんでしょうし。一見は医師側が理を詰めて弁明する如き様相ですが、あくまで「情の遺族」に対置しているだけです、仕方なかったのだと言い訳しているだけです。素人の遺族が用意せねばならぬのはこの医者のした処置が間違っていたという証拠なんですが、どうやって捜しましょうか、気の遠くなりそうな雲を掴むような話です。法定手続きに沿わねばなりません。検察官の指示に従うばかりです。さぞや悔しい事でしょうね、自分のこの怒り、不信感を直接にぶつけられないもどかしさです。裁判とはそういうものです。情をくみ取るようにはできていません。でも、訴え出るしかないのです、泣き寝入りはしない、死んだこの子に申し訳ないという悲壮感が後押しします。医療事故はきっとなくなりません。各紙の社説が言うように、医学医療を科学と位置づけるならちゃんと科学的に解明すべきです、都合が悪くなると個人差に逃げるのではなくて。確かにそうなのですが、しかし医療が科学である、つまり物理現象のように数字で一般式化できる、再現性に富んだものだという前提からして間違いなんですから、個人差はどうしても排除できません。出産模様も誰一人として同じものはないのです。そう分かっているならちゃん用意して準備して万全下に対応しろ!ということになるのでしょうが、となると日本の医療が崩壊します。今回も県立病院であるにもかかわらず一人医長状態だったんですから。そして彼はきっとちゃんと対応したんです。ううむ、ここのところで永遠にすれ違うのでしょう。寄り合えぬ、つまり現状を維持するが精一杯なんだと思います。そう思います。
 
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他山の石

2008-08-20 08:41:23 | Weblog
昨昼女子バレーボール対ブラジル戦 Live で見ました。例によっての実況アナウンサーの絶叫を嘲笑うかのような圧倒的な力の差。素人目に明らかな(いつもこういう表現してますが、これは専門家達の読みが往々にして希望観測に偏っていくのを皮肉っているのでもあります)おそらく絶対的な差。この場に限った相対的な差ではなくて絶対的な差。10回戦えば10回ボロ負けするだろうという差。素人目に分かり易いのはスパイクの角度でしょう、こっちは60度くらいで飛んでいく、向こうは例えばクイックなら殆ど90度の感覚で突き刺さる、バックアタックなのに60度よりはきつい角度で飛んでくるんです。こっちのスパイクはコートの後ろ半分、後ろ四分の一に落ちていきますが、向こうのバックアタックはコートの真ん中から前に刺さります。これじゃぁ勝てる道理がありません。おまけに向こうさんサービスエースを連発します。勝てます?実況アナは勝てぬと見るや方向を変えます、日本のバレーを見せてくれ!なんて。目の前に見えてるっての。他に、走り幅跳びの池田、トラックの小林、福士、赤羽、渋井、みーんなバッタバタと予選落ちです。日本でチヤホヤされても世界には倍も三倍も凄い奴らがわんさかいるわけです。負け惜しみするしかないのもよく分かりますが、もう少し工夫と情に訴えるところから離れた潔さがないもんでしょうかね。感動したとか元気を貰ったとかいうステレオ合唱には恥ずかしさが湧いてきます。
 岡山の総合病院で、検体の取り違えで乳腺炎の人の乳房を摘出した事件です。生検といって針を刺したり直接切開したりして疑わしい部位から少し(ほんの少しで十分です)組織を採ってきてそれを顕微鏡で見ます、悪性(癌)かそうでないのかを調べます、その検体の取り違えが原因の事故です。この人の標本と別の人の標本とを取り違えて、別の人のものが癌だったというわけです。まだこんなことやっているのか!という非難です。これは弁明のしようがないことでしょう。今まで何例同じような与太を繰り返してきたんでしょうこの国の医療界は、そしていつまでこんな単純なミスを繰り返していくつもりなんでしょう。医療界なんて問題を大きくすると、誰か分からない(問題意識の全くない)どこやらの偉いさんが出てきて遺憾イカンと繰り言並べてチョン。事の張本人はこの病院の取り間違えた奴なんですが、これ言い出すと曖昧になります、癌かどうか調べるのは病理医ですがこの診断が間違っていたわけじゃぁないんです、そして病理医は出てきたプレパラートを見るだけです、番号や順番は自分で変えるものではないことでしょう。名前と標本の一致確認なんてのは手術場でしかできないことで、一旦手術場から出て病理医のもとに送られるとどれもこれも同一規格(同じプレパラート)ですから見た目では区別などつきません、付されている番号やら名前やらだけが頼りです。たまたま同じ病気の手術が重なっていて同時に同じ臓器の組織が送られてきたら端々ではそこのシステム、区別手順だけが頼りです。誰の所為です?誰の所為でもなくなります。おまけに最近のこの手のミスへの非難は、個人には向きません、そういう手続き、システムの間違いだということになってます。院長は型通り言います、今後こんなことのないように気をつけると。自分のこととして受け取れないんですね、世の中にはあれだけ事故がおこり、サンプルに溢れているというのに。気をつけましょう皆様。他山の石であります。
 
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抑圧

2008-08-19 08:42:20 | Weblog
毎度のことですが、オリンピック陸上での日本選手の負けっぷりは見事なもんです。あれだけはっきり負けてくれると見ている方も清々しいというか。私は足が遅かったのであの場面は自分にダブります、運動会徒競走ではずっとあの位置でしたから。さぞや辛かろうと思うことですが、彼らは日本では敵なしの人達なのです、その分あの場でプライドなんてものが彼らにあるとすればズタズタでしょうね、気の毒なことです。おまけにインタビュアーが追いかけてくる。やめてやれよ。そういうのを武士の情けっていうんじゃないのか?聞いているのも辛いですが、しれっと答えれば答えたで何を言うとるか?!ってこっちも怒ったりして。ジャマイカの最速男、昨日200メートルの予選見ましたが、隣のレーンの選手を最初の3歩で追い抜いてます。こりゃ敵いません。ひとえに体格差、筋肉差、人種差です。世界の壁。バカの壁より百倍高そうです。
 中国、女子マラソンの中継を5秒遅れで放映していたんだそうです。不測の事態を世界中に発信しないためにです。例えば誰かが乱入しても5秒あれば他の画面に変えられるわけです。ディレクターは一秒たりとも画面から目を離せませんが。沿道はそういえば道路一本挟んで観衆がいましたね。日本で見慣れた、観衆がうち振る旗が選手に当たるなんて風景はないんです、観衆は遙か遠くに追いやられています。なるほど、これもその一環なのですか。チベットに自由を、なんて横断幕すら見せないようにする処置なんですね。すごいことです。ここまで抑制制限してしまう事自体、やはり怖いことと思いますね。表現の自由、報道の自由、知る権利なんて大きな言葉で言うとピンときませんが、こういう具体的な抑制を見ると聞くと嫌なことだなと実感しますね。日本はいい国なんですよ、きっと。
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耳目

2008-08-18 08:40:07 | Weblog
四年に一度のこの時期にピークを合わせられない人の悲劇(これも才能の一つと断言しますが)は可哀想なんでしょうが前振りの大きさとのコントラストに鼻白みます。本人達にすれば期待したのはそっちの勝手だろうということにもなりましょうし、連中も持てる力を出しました悔いはありませんとか満足してますとか言えばいいと高括ってます、そういう言葉で水に流そうという予定調和でもあります。誰々と挙げていっても詮無きこと、蛙の面に小便でしょうから。強い奴が際だちます。力の差が歴然と判るのもスポーツの面白味でしょう。女子レスリングは何だか四人とも浪花節に色づけされてしまってうっとうしいことでしたが、アテネと出場選手も同じならメダルも一緒というのが不自然と言えば不自然、そこが凄いと言えば凄いこと。見ていて手に汗握りました。
 こういう機会にしか見ないスポーツがたくさんあって、ルール覚えながら見るのも楽しみなんですが、選手も色々いて面白いことです、女子卓球の愛ちゃん以外の強い人、平野さん。まぁ相手をこれでもかと睨みつけるんです。明らかに喧嘩売ってますよ、いわゆるメンチを切るという奴です。顔を動かさずに足はステップ踏んでいるときもあります、その姿はまるでブルースリーです。ひとしきり睨んでその後サーブです。勝ったら勝ったでまた睨む、どんなもんだい?!参ったか?!って感じで。相手はどうしてるかというと目を逸らしてます、にらみ合うのでもないんですねこれが、相撲の仕切りと違って。昨日の韓国戦の相手は一つ上を行っていて、ぶつぶつ独り言いったりネット指さしたりしてます、こっちはグッと睨んでいるのにどこ吹く風です。あれはあれでこっちの気合いが抜けるんでしょうか、色々対応があるもんだと感じ入りました。技術というより性格性分。あのひと人気が出るかもしれませんね、誰かが物真似して。四年に一度、このくらいの周期が適当なんでしょうかね素人の耳目を集め続けるには。
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兎と亀

2008-08-17 08:34:27 | Weblog
たぶん多くの人が予想していた通りになっているんじゃないですか五輪野球。キューバ、韓国、アメリカに負ける。オーストラリアにも負けたことがあるでしょう?星野が外連を切れば切るほどそう思いましたが(私は天の邪鬼の冷笑屋ですのですみません)、ここにも欧米礼賛アジア蔑視思考、強烈な脱亜差別指向が窺えます。日本は違うんだ。こういう優越感が有ればこそ上昇志向を保てたのも確かなことなのですが、どれもこれも今となっては過去の遺物的な代物です、あちこちで綻び始めて慌てています、こんな筈じゃなかったって。もう一度一番下からしゃくり上げて行かねばならぬ時期にかかっているのでしょう。少なくとも中国韓国はとうに日本を超えています。強がっていても何にもなりません。日本が少し先んじていたので美味しいところを持って行けていただけで、他の国が追いついてきたら資源のない国は細るばかりのこと、おまけに金回りがよくなった後には資本主義の成熟爛熟による個人主義が横溢してパイの取り合いに堕ちてしまう。必然ですおそらく。これをマルクスが予言していたかどうかはさておき、資本主義のやがて行き着く先に届いたということなんだと思います。いや、資本主義ではなくて五輪野球の話でした。まだあいつらには勝てるだろうなんて思っている内にすっかりひっくり返されているわけです。ハングリーさとか人口の差とか、いろいろ言い訳はあるんでしょうが、兎と亀の寓話そのものなんでしょうね。日本ができたことですから、他のどの国にもできることなんです。それを根拠に薄い優越感で(つまり彼らにはできないだろうという思い込み、差別感覚)もってごまかし、批判を聞かない。政治経済面で吹き出している諸問題の根元は日本人の根元です、スポーツにもそのまま当てはまるというわけです。すみません、安物の学者がやるような一般式化、陳腐な帰納演繹で知ったかぶりをしました。でも、星野ジャパン、メダル獲れないかもしれませんね。丸刈りにするなんてのが悪い徴候です。星野は嬉しそうですが、そう思われませんか。
 
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冷や水

2008-08-16 10:31:33 | Weblog
柔道男、鈴木の惨敗を受けて、さらに重い級に一回り小さい石井です、外人は2mを超える大男がぞろぞろいます、ジャイアント馬場そっくりな人もいます、大丈夫かなぁでしたが。今朝の新聞はこぞって異端児と表現します、美しさを求めるなら体操でもやれ、一本勝ちよりも勝利だと公言して憚らない男です。次々と負け続けてきて、私も柔道のレスリング化についていけないのならついていかないのも手じゃないのか、あくまで日本柔道は美しさの追求だなんて書きましたし、勝った選手が一本に拘る柔道とコメントしていたことも相俟って、Judo は柔道と違うんだから仕方ないか?という言い訳に流れそうではありましたが、例によってマスコミは無節操にあっちからこっちに大きく針を振って異端児と一つ布石して置いて賞賛します。勝ったもん勝ちなのではあります。彼がどう言おうと人は聞くばかりなのです。あの山下泰裕が辛口に言ってます、鈴木と泉を名指して、私達は彼らの実力を見誤っていたのだと。その山下さんも石井の勝利に対しては日本の伝統が守られたという表現をします、この謂から察するに日本の伝統とは最重量級(無差別級というのはなくなっているんですね)を制することのようです。本家本元という体面、お家芸というメンツ。本来の姿に拘れば拘るほど、国際化という名のルール改正に取り残されていくジレンマ。石井のような選手が今後業界のお歴々をどう変えていくか。要は、指導者がどう肚をくくるかの問題のように思います。
 なでしこジャパン。あんな場面で(中国で中国相手に、つまり13億を敵に回した状況で)よくぞ勝ったこと。次は緒戦で負けたアメリカと準決勝だそうです。根拠に薄い下馬評を煽り立てて、結果の悪さには頬被りするマスコミを皮肉り、それに乗って思い違いしている選手達を皮肉っていたのですが(この典型が陸上の為末でしょう、奇跡が起こるかも知れないなんて自分で言ってましたから。素人目にもこの人やら朝原やらはとてもだめでしょうに。果たしてダメでしたが、この人達に勝てる日本人が他にいないんですから仕方ないですか)、男のサッカーがあのていたらくでしたから余計にコントラストがついています。彼女達こそが下馬評通りの実力者だったのだなんてのも、狼少年の中には本物もいるよなんてごまかしでしょう。もちろん私がタチの悪い天の邪鬼であるというバイアスも大きいです、周りが騒げば騒ぐほど眺めすがめつですから。本当?大丈夫かい?しかしこういう晴れの舞台で、中国やら韓国やらに勝つのは胸のすくことではあるのです、相手が血相変えて来ますから余計にです。反日剥き出し、こいつらにだけは負けるな!北朝鮮と一緒ですわ。柔道でも、バドミントンでも、体操でもなんでもそうです、あの大歓声は愛国心だけじゃないですね、反日の雄叫びですね。むろんこんな大きなイベントになってしまって、今更スポーツは綺麗事じゃ済みません、国威発揚と愛国心煽動、スポーツにかこつけての溜飲下げ、いわばガス抜きの道具です。ううむ、この方向に進んでいけば、行け!神風は吹くぞ!!でもいいんでしょうかね。自己撞着ですか。冷や水掛ける方がおかしいんでしょうね。
 昨日の毎日新聞に、終戦記念日に寄せた野坂昭如のエッセイが載っていました。大島渚をぶん殴ったり奇行で鳴らした人、病を得てからはさすがに精彩を欠きますが「火垂るの墓」はこの時期のスタンダードとして未だ色褪せません。反戦のエッセイです、終戦記念日よりも日本中が好戦性を剥き出しにした開戦日を反省の日にすべきだという論でした。昭和16年12月8日です。中国への進出(侵略という表現もあります)が行き詰まり、ハワイ攻撃することで天窓が開いた思いになったとあります。あの時日本中を覆っていたあの空気こそを反省しなければならないという論調でした、なるほどなと読みました。こういう皮肉も交えます、8月にはいると突然戦争反対の気運が高まる、意味もよくわからないまま反戦を唱え、殊勝な面持ちの世間と。戦争はいけませんと言っておけばいいという安易さ、しれっと真顔で言い放つ殊勝さ、そこに偽善の匂いを嗅ぐわけです。でも彼は言います、それでもいい、意味は判らなくていい、殺し合いに反対するのに意味は要らないと。短い文章でしたが読ませるものでした。そしてプロの巧さを思いました。というより私の書く文章の生硬さ稚拙さを改めて感じました。さらりと書く、肩肘張った言葉を使わずに意を通す。この辺りが才能の有る無しなんだと痛感することです。才能なんてのは無い者にだけわかるものでしょうし。是非ご一読を。
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後世

2008-08-15 10:10:47 | Weblog
北島大したもんでした。百メートルで勝ったときのあの涙が、この男が背負ってきた重しを示してましたね。勝って当然、負ければ叩かれる。世間の期待にかこつけたマスコミの集団暴力を一身に受け、低空飛行の時期を凌ぎ・・ですが、それもこれも勝ったから遡れるプロフィールです。柔道の鈴木、水泳の柴田などなどあっさり負けてしまうと、それぞれに用意されていた物語が一切ボツになるわけです。不幸不遇な生い立ち、不自由不十分な環境、そういうのがあればあるほど浪花節が大きく吟じられるというわけです、辛酸をはね返してとやら逆境を踏み越えてとやらです。こっちは要らぬ事なんですがね、連中が自分で選んだ道なんですから。なんて言うから嫌われるんですね、これもよくわかっているんですが。
 昨日東条英機の手記の事書きました。現在の常識で測る、六十有余年の歴史が積み重なった後(現在)から遡る評価は正しくない、左に偏った断罪は肯けないと書きました。その左の代表二紙が今朝のコラムで取り上げています(天声人語、余録)。二紙共に噛みついているのはこのくだりです、「戦いは最期の一瞬において決定するの常則は不変」であるし、まだ「軍殊に陸軍のなお参を頼むところなしとせざる」状況であるのに、「敵の宣伝政略の前に屈し」「結局は国体護持という空名のみを得てその実右は総じて敵側の隷属化に立つに至なきか」と嘆いた後の一文です、長いですがそのまま引用します「もろくも敵の脅威に脅え簡単に手を挙ぐるに至るがごとき国政指導者及国民の無気魂なりとは夢想だもせざりしところ、これに基礎を置きて戦争指導に当りたる不明は開戦当時の責任者として深くその責を感ずる」。天声人語は、「親爆弾(原爆)に脅え、ソ連参戦に腰をぬかし」て敗戦者になりきっている無様を嘆いている別の文章も挙げて、現状との観念的なあまりな乖離具合に呆れながら(これは8/12の日経の感想や保坂正康のコメントに通じます)、「この期に及んで戦争を正当化するメモは、戦後の感覚からは読むに堪えない」ど断じます。両コラム子ともに「無気魂」という字面に反感が沸き上がっているようで、余録では東条英機が感じた責任とは誰に対するどういうものなのか、「国民がダメなのを知らずに開戦した責任をわびねばならぬ国家とは何なのか」と声を荒げています。いや、この文章を素直に読めば東条英機が詫びている相手は天皇陛下でしょう。こんな国民ですみませんと。こんなつもりではありませんでしたという言い訳でもあるのでしょう。責任はちゃんとる「日本的なる方法によりて応ゆべし、陛下が重臣を敵側に売りたるとのそしりを受けざるごとく」と最後に書いてあります、事実その後死にきれなかったのですが拳銃自殺を図っています。敵が自分を戦犯者として捕まえに来る、このことを陛下が重臣を敵に売ると表現するわけです。そんな人間が書いた文章です、誰に対する責任かといえばひとえに天皇陛下に対してでしょう。毎日のコラム子は国家を殊更に強調して軍国主義全体主義を非難したいのでしょう、国民を単なる駒にしか見ない、戦争に負けたことを無気魂を持つ国民の所為にしている戦争指導者の傲慢さに反駁しているのでしょう。気持ちは理解しますが、どれもこれも天声人語に言う「戦後の感覚」です。彼(東条英機)にすれば開戦時の責任者という意識がもちろん強いだろうし、一にも二にも天皇陛下の御為という行動規範でやってきている人です、最後の一兵まで陛下のために戦い死んでいく覚悟!と言いたいのです、というかそう信じていたのでしょう。後の歴史が明らかにしたように、8月15日以降、米軍は九州、九十九里浜等への上陸を計画していて、これが実行されれば、と思うだけで身の毛がよだつ気がしますし、更にソ連軍の無体蹂躙は留まるところを知らなかったでしょう、北海道に住んでいる人が皆殺しになるとか。スターリンは日露戦争の仇をとるって言ってたそうですから。獰猛な狩猟民族の本能剥き出しです、満州、朝鮮の無体虐待が物語ります。そうならないために日本は敗戦を選んだのだ、なんて言うわけです。そんな筈ないでしょう?そんな無茶苦茶なこじつけがありますか?そしてそれはアメリカのアメリカ善玉日本軍悪玉論につながります、原爆投下は仕方なかったんだ、あれがあって日本は救われたのだって。そんなはずないでしょう?無差別に何十万人も一気に殺戮して仕方なかったって?馬鹿馬鹿しい。日本は戦争していたのです。にっちもさっちもいかないところまで追い込まれて、作戦の不備やら軍の硬直化やらそれこそ後世司馬遼太郎を初めとしてあまた批判がなされていますが、それでも彼の立場とすれば首尾一貫しなければならないのではないのですか。それが責任者としての筋だったんじゃないんでしょうか。この手記で、例えば逆に俺は間違っていた、戦争なんかするんじゃなかった、なんて書かれていたらそれはそれでまた大叩きですよ。負け時を逸したとか交渉期を逸したとか後知恵であれこれ批判するのは簡単ではありますが、事実は違ったのです。日本はあの時政策決定するべき者がちゃんとした手続きをもって開戦の決定をしたのです。そして同様の手続きをもって終戦(敗戦)決定したのです。まるで狂人に無理矢理誤った方向に引っ張られたかのような評価は必ず間違っています。この期に及んで戦争を正当化する(朝日)、国の惨状をよそに継戦を主張する軍人の虚勢(毎日)と左翼にかかるとボロクソですが、東条英機はそういう人だった、そういう思想に貫かれていた(こういう表現が気に入りませんか、左寄りの皆様)ということなんです。天皇陛下こそが国体そのもの、日本そのものなのです。赤子八千万(当時は一億ではないのです)は天皇陛下のために存在するのです。そういう時代だったのです。日本は自存自衛の戦いをしていたのです。そこから否定してかかっていては(戦後の感覚でいたのでは)当時の空気なぞわかるはずもないことだろうと思うのです。東条英機は狂っている、よくもこんな石頭に舵取りさせていたこのだ・・なんて与太を言うようになるのです。どうしてわからなかったんだ?ですか。わかっていたはずですよ。あの選択があの当時の最良の選択だったんです。反省がない、ですか。反省するのは後世の人間です、つまり我々です。ああいう無茶をしたらまずい、とわかればいいんです。でも、あの時代に生きた人達を蔑むは当たりません。ましてや国の命令に粛々と従い異国の地で死んでいった人達、あたら若い命を投げ出した人達を犬死に扱いする心情は理解できません。歴史は必然。私はそう思います。その場面場面に登場すべき人が登場して役割を演ずる。東条英機も選ばれし人だったのです。その人の掲げる旗にその時代がついていった。そういう事実があるばかりです。後世に生きる者はそのままに知ればいいことだと思うのです。
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論評

2008-08-14 08:43:09 | Weblog
水泳のフェルプス、化け物ですね。昔のスピッツ、最近のソープと凄いのがいましたけど、この怪物、でかい奴なんでしょうが何か威圧感のない普通の男に見えます。童顔だからでしょうか。スピッツはもっといかつい顔でしたよね。ソープは自意識の強そうなスター気取り顔で。天才ってのはこんなんでしょうね。え?あんたが?柔道、オリンピックの時くらいしか見ませんが、朽木倒しってのが何とも日本的な命名で感心しています。何故青木や若木でなく朽ち木なのか。ここですね。朽ちた木を倒すような、単に体を預けて低く屈んで相手の足を手で巻いて倒す技だからでしょう、つまり技としては一段も二段も低いというニュアンスじゃないんでしょうか。堂々と四つに組んで(柔道でこう表現するかどうか知りませんが)、相手の息と動きを測って掛ける技とはちと違いますから。これぞレスリングのタックルですわね。外人達にはとっても分かり易い技なんじゃないでしょうか、だから頻用される、柔道と Judo は違うなんて謂になる。同じ倒すにしてもそこには気品や潔さ、美しさが要求されるのです、それが柔道なんでしょう。素人でも短期間にこれだけ色々なタイプを見ると違いがわかります。朽木倒しとはよくぞつけたりと思うのですが、いかがですか。
 東条英機の手記が発見されてその抜粋が日経に載りました(8/12)、新聞に載っているのは終戦の年の8/10ー14のものです。この時点で東条英機は首相ではありません、辞職した後です。開戦時の首相であり、戦争遂行した首相ですが、終戦処理したのはこの人ではありません。ですからポツダム宣言受諾に関しては意思決定の外にいるわけです、いわば野に下っている状態です。自分の考え方について、戦争遂行してきた者としての整合性は調えねばならぬことでしょうし、国体護持という当時の最大の関心事についても態度は鮮明です。戦局の悪化への責任で内閣総辞職した身としての言い訳もあるでしょうし。もっとも私達はこの後の流れを知っています「死をもってお詫び申上ぐる」と書き、事実拳銃で自殺を図りますがMPに助けられて東京裁判に被告としてかけられ絞首刑に処せられました。東条英機こそが先の戦争の責任者、負けるとわかっている戦争に国民を駆り出した大罪人という評価が確かにあるのですが、日経の紙上の評価「本音がもろに出ているだけに、戦争を指導した人物の視野の狭さと認識の甘さがよくわかる文書といえる」、保阪正康氏のコメント、東条英機の此の期に及んでの強気(戦争継続をほのめかすもの)によっていたら、本土の破壊、ソ連軍の北海道上陸と続き惨禍は計り知れなかっただろうとの結果論からの断罪には肯けません。歴史的事実からの遡っての断罪は原爆が落ちて日本は助かったという論に与するものです。やがていずれかの月刊誌に全文が掲載されましょうし、多くの論評が載りましょう。左寄りの評価だけではなりませぬ。そう思ったことでした。
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お国柄

2008-08-13 08:42:13 | Weblog
柔道谷本、強かったですね。這いつくばったりバタバタ動き回ったりしない、そういう体重のクラスなんでしょうが、まさしくストロングスタイル、全て一本勝ち!なんてアナウンサーは叫んでいますが決勝除いてみんな押さえ込み一本。日本人が考えつきそうなルールですが、立ち技の派手さはないですがこれもなかなか味があります。あのでかいガタイで上に乗られたら動けないんだろうなと思うことです。でも決勝は胸がすきましたね、素人目にも鮮やかな投げ。谷亮子が三位決定戦で見せつけた格の違いとはまた違った、この人の意地とか信条とかが見えるようなそんな綺麗さでした。なでしこジャパン、先に私はアメリカより強いノルウェーに勝てるわけないじゃないか、神風なんか吹くもんか!とぼろくそに書きました、あらら、5-1なんて凄いスコアで勝ちました。途中でチャンネルが合って、アナウンサーの叫びがまず耳に入って「5-1です」って、おいおいこんなにぼろ負けかい・・とみればなんと反対ですわ。ええ?見れば、ああ相手は暑さにやられちゃってる。足が動いてないのが丸わかりです。キーパーも反応悪いし。こういうこともあるか、それが五輪だってわけですか。10回戦ったら9回負ける相手にここぞという場面で偶々勝つ。この場にコンディションを合わせられなくて沈んだ選手は数知れずでしょう、古いところで水泳の長崎宏子、今回の野口みずき。どんなまぐれでもこの場で出せた奴が勝つ。で、人は言う、実力のない奴にまぐれはない、地道な努力があればこそだなんて。勝てば誉褒がいい方にいい方に回ってくれます。勝てなければ所詮そんなもんだったかってね、毀貶の嵐です。こういう世界に身を置いているんですそれは覚悟の上とは言え、やはりきついことでしょうね。私の如き凡人が慮れる筈もないことなのでありましょう。勝ったのは実力です。ご立派。前言取り消しはしませんが、この結果には拍手します。体操の具志堅監督(この人も強かった人です、個人総合優勝した人です)が言ってます、連覇できなかったけれど日本の体操は美しかった、伝統をを受け継いでくれて嬉しいと。うむ、それはそれでいいと思いますが、でもどう見ても中国の連中の方がうんと優れてましたね。彼らも十分に美しかったですよ。機械仕掛けのロボット然としたそんな演技じゃなかったです。日中の差は大きいですね。そう思いました。
 五輪の開会式で歌唄っていた少女、そう言えば大写しでヘッドフォン方のマイクつけて、まるで北朝鮮の映像かと見紛うほどに外連たっぷりに笑顔つくって唄ってましたね、あの娘がえらく人気で中国でひと騒ぎになってるらしいのですが、実は口パクで唄っているのは別人だったんだそうです。あらら。でも、口パクであるのはあの映像でもわかったでしょう?なんでもこれ以外にもあれこれインチキしていたことが暴露されているんだそうです。これもお国柄ですか。この娘さん可哀想ですな、国柄から考えれば大叩きされますよ、匿名インターネット社会ですから。で、当局は国益優先だって強弁しているそうです。ああ、これもお国柄ですか。
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負け惜しみ

2008-08-12 08:44:08 | Weblog
人が(観客が)感動するのは、もちろん技や力の優れているところへの驚き、その結果を出すまでの才能や努力を総合評価してのことですが、やはり人なのだと昨日書きました。人というのは人柄のこと、その人の発する言葉のこと、付随的には新聞やTV、雑誌が教えてくれるその人のプロフィールも含めてです。言葉ってのは本当に大事なものなんです。その人の頭の中知りたければ喋らせればいいです、何でも良いです話をさせる、すれば丸見えです。自分の頭の中からしか言葉は出てきませんからね。自分の育ってきたところの言葉、今自分が生きている場所の言葉遣いしかできません。人はそんなに器用じゃありません。そういう生な姿を見て、観客はがっかりもし、バカにもし、感動もするわけです。ステレオタイプの返答には食傷するわけですが、負けて悔いなしとか満足してますとか、言わなければならぬのでしょうかね、連中はそう言うのが格好いいと思っているのでしょうか、こう言うべきだとマニュアル化されているのでしょうか、こう言えばいいわけになると思っているのでしょうか。オグシオなる組が負けて、そのどちらかが言ってました、今までのプロセスに満足してますって。ああ、そうですか。見ている方にはプロセスなんてのは聞きたくもないことです。思いがけずに勝ったもう一組、とってつけたようにスエマエなんて書く新聞の節操のなさ。こっちがダメならこっち。こっちもそんなにビジュアル的に劣るわけでもないぞってか。浅薄。軽佻浮薄。強いものが勝つと限らないのが五輪だ、なんてね。スターは日替わり、誰が彗星になってもおかしくないなんて、これも言い訳。解説者や実況アナの弁解やら絶叫の内に次々に負けていく日の丸選手を見ながら多くの日本人は「いつもの光景」と諦めてはいるのでしょうが。柔道、こういう時にしか見ませんからよくわかるのでしょうが、すっかりレスリングですね。服を着た、服を掴んでもいいレスリング。お互いに構えて、なんて美しさが全くありません。バタバタするばかり。そうかと思うとすぐに這いつくばる。背中をつけては負けになりますから奇妙な(美しくない)姿勢で反り返ったり、くるくる回転したりする。剣道の高段者達の漂わせる気品、高潔さ、美しさ、きっと柔道にもあるはずなのですが、世界のスポーツになってしまうと(これをグローバル化なんて言うそうですが)外人達にはとても通じない「地域性」「民族性」なのでしょう。何かの本にありました、日本人は郷にいれば郷に従えという感覚があるが、日本人以外の連中はこっちの都合に向こうを合わせようとするのだと。柔道もそうなんでしょう、日本のルールに合わせはしません、連中の都合のいいようにどんどん変えていく訳です。レスリングに変わっていきます、仕方ありませんか。柔道から Judo への誤訳、なんて表現している新聞がありましたが、別の土俵を作ればいいんです。柔道はかくあるべしって。講道館柔道という競技を作り直すとか。負け惜しみですかね。
コメント
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