柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

文化の箍

2007-09-20 19:35:37 | Weblog
今朝はメンテナンスでいつもの時間に書けず、昼は時間作れず、午後7時過ぎて書いています。いつも通りにやれぬはまことに腹が立つというか、いらいらすると言うか。やはり几帳面とか、きっちりしているという褒め言葉は、単にそうしないといらいらして次に進めないという、幅のない性格であることの裏返しなんでしょう。ほんとに良くわかります。情けないことです、齢五十にして未熟。
 女性が神聖なる(女人禁制の)土俵に駆け上がろうとして取り押さえられたという記事です。全国紙はなんだかちっぽけな記事ですが、中国新聞は写真が添えられています。おばちゃんの後姿です、裸足。何だか安っぽい服装。おばちゃんの右側から水戸泉が手を押さえ、左後ろからは観客のおっちゃんが足を押さえています。東の力士溜りには高見盛が何が起こったんだ?という顔でボウと立っている。そういう絵です。体半分土俵に上がっています。やったね、大田女知事にもできなかったことだのに、体半分だけ、日本の女で史上初めて大相撲の土俵に上がったんです!もう女が男がの時代じゃないし、特にこの手の文化遺産的差別にはすべて血の穢れのという理由がついていて、さらにナンセンスさが強調されているわけです。山に神社に土俵にと、いわば要らぬ災難は避けようという意味でしかなかったものですが、こう言えば女が災難かい?なんて噛み付き、ごもっとも、女の所為にして災難を避けようとしたと言えばより正確ですか。でも、これが日本の文化だったわけです、そこはよろしくご理解ご容赦いただきたいと思うところ、今時忌みの穢れのという意識自体がないものですから。でも、かたやでこういう不可知の分野、闇に隠された領域がなくなった(電気電話の発見発明が世界から闇を放逐したという謂いです)から世界が社会が変わってきたのだという説も根強いところ。おばちゃん、意味不明のビラ持ち込んでの狼藉だったらしく、これはこれでご愛嬌、思想犯ではなさそうですが、こういう思いもしない所から文化の箍は緩んでいくのかもしれません。皆笑っているだけですから。
コメント
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