雪道を、向こうから自転車で来るじいさんよ。
あんたの顔は、転ばないように注意集中してるせいで、年のわりに引き締まり、悲壮感さえ漂う。
たぶん、西新宿四丁目か、中野区弥生町の自宅から、数分前、
あんたはふきげんな女房に見送られ、
わずかばかりの冬の午後を、
隣町の信之介じいさんと将棋を指すことで、
男のロマンに費やすため、
出かけてきたのだろう。
雪は今日は降っていない。
昨日までの積もった固まりは、歩道の両側に寄せられて、
あんたと俺は、裂けた海から現れた土地のような、
狭いアスファルトの帯の上で、
向こうとこちら、
まるで対決するようなかっこうで向かい合ったのだ。
あんたは、ユリシーズのように男の旅を夢見て、
あぶない氷結した道を、悲壮な顔でやってくる。
あんたは英雄だ。
小春日和に、危険な自転車にまたがり、
信之介と勝負を決めようとしているあんたの目は、ドラマを見ている。
だが、じいさん。
俺にはあんたが、
あんたのドラマと同様、
じゃまだ。
あんたはなんのためにわざわざ自転車に乗るのか?
どうしてそこまで自分のドラマに酔えるのか?
あんたが本当の英雄でも、
俺にとっては変わらない。
英雄のじいさんよ。
せっぱつまった顔をしたあんたは、
この細い道じゃ、じゃまなんだ。
俺は英雄になど用事はない。
本当の本当には、
生きる意味もなく、
本当の本当には、
向かう場所もない。
ただ、
俺は、
生きているのが、わりと好きなんだ。
さっき、ハトと、ゴミを奪い合っていたカラス。
俺がにらみつけると、わずらわしそうに舞い上がったカラス。
そんなものも好きだし、
よく知っている建物の壁に、
雪で濡れた跡があるのを、ながめるのも好きだ。
ゆっくりゆっくり歩きながら、
そういうものたちに心を絡みつかせて、
生きていきたいだけなんだ。
じいさん。
英雄になるなら、
もっと若いときじゃなきゃだめだよ。
あんたの年になるまで生きていてはいけない。
俺の年でももういけない。
じいさん。
信之介と勝負するのはやめて、
俺と一緒に、
小春日和の西新宿五丁目の風景に、
心を絡みつかせながらゆっくり歩こうよ。
自転車を降りてさ。
でなきゃ……
ほら、こけた。
俺はかなしいよ。
あんたの顔は、転ばないように注意集中してるせいで、年のわりに引き締まり、悲壮感さえ漂う。
たぶん、西新宿四丁目か、中野区弥生町の自宅から、数分前、
あんたはふきげんな女房に見送られ、
わずかばかりの冬の午後を、
隣町の信之介じいさんと将棋を指すことで、
男のロマンに費やすため、
出かけてきたのだろう。
雪は今日は降っていない。
昨日までの積もった固まりは、歩道の両側に寄せられて、
あんたと俺は、裂けた海から現れた土地のような、
狭いアスファルトの帯の上で、
向こうとこちら、
まるで対決するようなかっこうで向かい合ったのだ。
あんたは、ユリシーズのように男の旅を夢見て、
あぶない氷結した道を、悲壮な顔でやってくる。
あんたは英雄だ。
小春日和に、危険な自転車にまたがり、
信之介と勝負を決めようとしているあんたの目は、ドラマを見ている。
だが、じいさん。
俺にはあんたが、
あんたのドラマと同様、
じゃまだ。
あんたはなんのためにわざわざ自転車に乗るのか?
どうしてそこまで自分のドラマに酔えるのか?
あんたが本当の英雄でも、
俺にとっては変わらない。
英雄のじいさんよ。
せっぱつまった顔をしたあんたは、
この細い道じゃ、じゃまなんだ。
俺は英雄になど用事はない。
本当の本当には、
生きる意味もなく、
本当の本当には、
向かう場所もない。
ただ、
俺は、
生きているのが、わりと好きなんだ。
さっき、ハトと、ゴミを奪い合っていたカラス。
俺がにらみつけると、わずらわしそうに舞い上がったカラス。
そんなものも好きだし、
よく知っている建物の壁に、
雪で濡れた跡があるのを、ながめるのも好きだ。
ゆっくりゆっくり歩きながら、
そういうものたちに心を絡みつかせて、
生きていきたいだけなんだ。
じいさん。
英雄になるなら、
もっと若いときじゃなきゃだめだよ。
あんたの年になるまで生きていてはいけない。
俺の年でももういけない。
じいさん。
信之介と勝負するのはやめて、
俺と一緒に、
小春日和の西新宿五丁目の風景に、
心を絡みつかせながらゆっくり歩こうよ。
自転車を降りてさ。
でなきゃ……
ほら、こけた。
俺はかなしいよ。
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