麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

雪道を、向こうから自転車で来るじいさんよ

2006-07-08 21:39:27 | 創作
雪道を、向こうから自転車で来るじいさんよ。
あんたの顔は、転ばないように注意集中してるせいで、年のわりに引き締まり、悲壮感さえ漂う。

たぶん、西新宿四丁目か、中野区弥生町の自宅から、数分前、
あんたはふきげんな女房に見送られ、
わずかばかりの冬の午後を、
隣町の信之介じいさんと将棋を指すことで、
男のロマンに費やすため、
出かけてきたのだろう。

雪は今日は降っていない。
昨日までの積もった固まりは、歩道の両側に寄せられて、
あんたと俺は、裂けた海から現れた土地のような、
狭いアスファルトの帯の上で、
向こうとこちら、
まるで対決するようなかっこうで向かい合ったのだ。

あんたは、ユリシーズのように男の旅を夢見て、
あぶない氷結した道を、悲壮な顔でやってくる。

あんたは英雄だ。
小春日和に、危険な自転車にまたがり、
信之介と勝負を決めようとしているあんたの目は、ドラマを見ている。

だが、じいさん。
俺にはあんたが、
あんたのドラマと同様、
じゃまだ。

あんたはなんのためにわざわざ自転車に乗るのか?
どうしてそこまで自分のドラマに酔えるのか?

あんたが本当の英雄でも、
俺にとっては変わらない。

英雄のじいさんよ。
せっぱつまった顔をしたあんたは、
この細い道じゃ、じゃまなんだ。

俺は英雄になど用事はない。

本当の本当には、
生きる意味もなく、
本当の本当には、
向かう場所もない。

ただ、
俺は、
生きているのが、わりと好きなんだ。

さっき、ハトと、ゴミを奪い合っていたカラス。
俺がにらみつけると、わずらわしそうに舞い上がったカラス。
そんなものも好きだし、
よく知っている建物の壁に、
雪で濡れた跡があるのを、ながめるのも好きだ。
ゆっくりゆっくり歩きながら、
そういうものたちに心を絡みつかせて、
生きていきたいだけなんだ。

じいさん。
英雄になるなら、
もっと若いときじゃなきゃだめだよ。
あんたの年になるまで生きていてはいけない。
俺の年でももういけない。

じいさん。
信之介と勝負するのはやめて、
俺と一緒に、
小春日和の西新宿五丁目の風景に、
心を絡みつかせながらゆっくり歩こうよ。
自転車を降りてさ。
でなきゃ……

ほら、こけた。

俺はかなしいよ。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 生活と意見 (第22回) | トップ | 生活と意見 (第23回) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

創作」カテゴリの最新記事