麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第542回)

2016-11-28 22:06:05 | Weblog
11月27日

スマートボール場には、やはり管理人がいたような気がする。スマートボールの台は、ドアを入ると、右と左に数台ずつ、壁に向かって並んでいる。その左側が実は壁ではなく、カーテンで仕切られた楽屋みたいな場所だった気もする。なにか機械にトラブルがあったとき、まるでそこの下宿人のような中年の男の人がカーテンを開けて出てきた映像が彼の頭の中に残っている。どうでもいいが、彼には「頭の中に浮かんでくる映像を自由に泳がせておく」というくせがある。何も判断せず、なにもせきとめない。自分を開放して受像機になりきる。すると、時系列に無関係にさまざまな映像が頭の中で再現される。ずっとその状態を続けていると、人間はちらとでも見たものはすべて記憶しているのではないかという気がすることもあった。スマートボールをやりながら、彼はそんなふうにいつも頭を開放して浮かんでくる映像をながめていた。自分の下宿が浮かぶ。母と合格発表を見たその足で、生協に紹介されて訪ね、一軒目で即決した。もと病院だったという建物はコの字型に棟がつながっている。開いた部分が庭になっていて、そこには名も知らない数種の木が植えられ、小さな池があり、その池にはカエルがいた。病院長だった夫がなくなったあと、川島民江は、ここを下宿にして一人娘を育てた。現在娘は結婚して夫婦でコの字型の下の横棒の二階に母とともに住んでいた。今年68歳になる川島民江そっくりの3歳の娘もいっしょに。



万葉集、もうすぐ八巻にさしかかるところ。岩波文庫の悪口を書きましたが、とてもいい、コンパクトな最新資料であることは間違いありません。5000円でそれが手に入るのはすばらしい。――黒人、憶良につづいて大伴旅人もかなり好きになりました。ここまでのめりこむきっかけとなった折口信夫の仕事、読めば読むほど、大げさでなく、巨大なエネルギーを感じます。「呪術的言霊の力を知れ」という、万葉集全体の発する最も大事なメッセージは折口訳の行間に忠実に再現されていると思います(こまかい解釈の違いは些細なこと)。すごいことだなと思います。
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生活と意見 (第541回)

2016-11-13 19:32:45 | Weblog
11月13日

中野駅北口。早稲田通りに向かって、ブロードウェイ――いまブロードウェイがアーケード街全体を指すのか、それともあのまんだらけの入ったビルだけをそう呼ぶのかわからずに書いているが――をあのアーケード街全体の名称とすれば、その右手に並行する細い道がある。アスファルトが、幼稚園のバザーで三谷あきらの母親が「多少の金持ち感」とともに焼き上げたカップケーキの頭のように隆起し割れていて歩きにくい通りだった。「紀子」という飲み屋はその通りにあった。たぶん。奥のほう。早稲田通りに近いところに。のりこ。で、いい。昨日、ママの基本モデルを決めたから(バカみたい)。その人がのりこ。ここには「紀子」以外にも何軒かの飲み屋があった。と思う。彼は酒が飲めないので、彼の頭の中の地図には「飲み屋」という記号がない。だからわからないが、何軒かはあった気がする。その店の手前、通りの中ほどの左手に、彼の気に入りの場所があった。スマートボール場だ。原始パチンコというか、見たことのない人に説明するのはむずかしい。ゲームセンターにあった、効果音のうるさい、大きな鉄のボールをはじく、あれと原理は同じだが、違う。まず、スマートボールは座ってやる。金を入れると、がらがらとやる気のない音を立てて使い古された白いボールが登場する。いくつだったか。たぶん10個ぐらい。それをとてもいい感じのやわらかいばねのハンドルではじくと、ボールは出てきた時より少しだけやる気のある音を立てながら飛び出していき、てっぺんで左右に数回はじかれ、ふと自分のやる気がはずかしくなったかのように立ちすくみ、やがて斜めになった盤面をゆっくり転がりはじめる。ふたたびやる気を失った球は、50、30、10、0などと書かれた奈落に自ら望んだように落ちていく。中には心底やる気を失い、奈落の際で立ち往生する球もある。そんなとき、かなり大きな台をゆすって落とさなければならない。管理人も、管理人にやとわれたバイトもいない。客もほとんどいない。台が5~6台。みな低い位置を埋めているだけで四方はなんの装飾も張り紙もない白壁。音楽もない。つねに昭和40年代の土曜の午後のようなその場所で奈落に落ちていくボールを見ていると、まるで自分がそこに落ちていくようなマゾ的な快感を感じた。そうやって、彼は、実務的には、九段下の大学から帰って、夕方「紀子」にバイトに入る中田をつかまえて金を借りようと思っていたのだった。
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生活と意見 (第540回)

2016-11-05 06:15:42 | Weblog
11月5日

東京に来る前から中野という町があるのを知っていた。二見書房が彼の高校時代に出し始めた、貸本マンガ復刊文庫の一冊「悪魔くん」(水木しげる)を通じて。悪魔くんの計画でヤモリビトに変身させられ、やがて自分の意識さえもヤモリビトに乗っ取られてしまうことを嘆いた佐藤が、人間としての最後の時間を味わおうと入ったのが「中野にある喫茶店『喫茶・再会』」だった。「若い人は恋を語り、バカンスを楽しんでいる」という佐藤のつぶやきと同時に描かれているのは、醜い男と醜い女がキスをしている場面だった。初めて実際に中野の駅に降りたのは、79年の春だったろう。北口で中田と待ち合わせて、ブロードウェイをぶらぶらした。当時はまだ、テナントの中の一軒の古本屋に過ぎなかった「まんだらけ」が彼を喜ばせたが、それと同じぐらい、2階の新刊書店の蔵書も彼を魅了した。雑誌や一般書籍の棚の奥には、いく筋かに分かれた狭いスペースがあって、そこには様々なジャンルの専門書(一般書店では必要ないのでは、と思えるほどの)がぎっしりと詰め込めるだけ詰め込んであった。中でも際立っていたのが、「アダムスキー全集」とスウェーデンボルグの「天界との通信」シリーズ(青い表紙に白い紙が貼り付けてあり、そこに各巻のテーマが書かれていた)を中心にひとつのスペース全部を埋めていた超常現象関連本だった。59年生まれの彼にとって、矢追純一のUFO特番やつのだじろうの心霊漫画はおなじみのものだった(ユリ・ゲラーはスターの一人だった)。彼も中学から高1のころまでは、よく見たり読んだりしていた。そのころはただそれらをおもしろがっていただけだった。だが、いまは違う感じ方をしていた。それはまた書くことになるはずだ。そのことはいちおう、このどうでもいい物語の中心になるかもしれない話だから。ああ疲れた。



口譯萬葉集、五巻まで。
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