麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第104回)

2008-01-27 01:08:58 | Weblog
1月27日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

ブログを始めて今週で丸2年。本当にあっという間ですね。

2006年1月28日に、最初のあいさつをアップしていますが、いまでもそのときのことはよくおぼえています。創作メモ兼日記を見ると、1月21日に大雪が降ったと書いてあります。その翌日に部屋の賃貸契約の更新に行き、帰りに下北沢に寄って、「風景をまきとる人」が二十冊近く売れたことを知り、ブログを始めてみよう、と思いました。そうして、次の休み(28日)がくるのを待って、さっそく立ち上げてみたというわけです。なんと朝の10時前に、です。

あのころは、まだ入院の記憶も生々しくて、いまより心がすっきりしていました。自分にとって大切なことはなにか、それさえじっと見据えていればいいという緊張感が自分の中にありました。

入院するときには、咳をするたびに血を吐いたので、肺がんだと思っていて(毎日100本近くタバコを吸っていましたから)、たぶんもう出てはこれないだろう、と感じていました。だから、どうしても読みきってしまいたいと、埴谷雄高の「死霊」を持ち込み、また、長いこと読みたいと思っていたマハーバーラタも、もはや完訳版を読んでいる時間はないだろうとからと、縮約版を買い揃えたりしました。それは冗談ではなく、本気で「最後だから」と考えたからです。聖書も、アラビアンナイトもプルーストも、古典文学大系の原始仏典も、エセーも国家も、とりあえず一回は読めてよかった、と思いました。一冊だけ本も書けてよかったと思いました。不思議と、それ以外のことはなにも気になりませんでした。以前はよく、東京では死にたくない、と思いましたが、いざとなるとそんなのどうでもいいと思いました。むしろ、新宿に里帰りしたような形になったので、ここでいいや、と思いました。検査をしている間に「死霊」を読み終わり、がんではないとわかってからは、ヘミングウェイが読みたくなりました。「海流のなかの~」「誰がため~」と立て続けに読んでいるうちに血は出なくなって、血圧も下がりました。ひと月半過ぎて、出てきたとき、新緑の季節になっていて、木々の緑が目にしみました。

あのときの、すっきりした気持ち。それが、ブログを始めたころにはまだ残っていて、一回一回が、なんとなく遺言を書いているような(そこまで大げさではないですが)気分に近いものがあったと思います。

それが、いまでは、またしても、自分がいつまでも生き続けられるかのような錯覚にとらわれ(DNAの巧妙なやり口のおかげで)、あるときは若い人たちと同じような視線で世の中をながめ、自分の死期がもうすぐ近くにきていることを忘れてしまっています。人生の主要登場人物との出会いは40歳ころを最後ににすでに終わっており(その最後の人は宮島径氏です)、冠婚葬祭の中で、まだ経験していないのは、親と自分の葬式だけ。そんな地点にいることをちゃんと自覚しなければ。なによりも、カテーテル検査のあと、病院のベッドの上で身動きできずに何時間も天井をながめていたときの気分をいつも思い出さなければ。また、あのときとなりのベッドにいたKさんは、もうこの世にはいないのだということをしっかりおぼえていなければ。「行ってくるよ」と、散歩に出かけたときのKさんのダンディな姿も。



「全一冊」シリーズで、啄木の巻が大きな活字になって出ました。明日にも買ってこようと思います。

では、また来週。
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生活と意見 (第103回)

2008-01-19 20:33:43 | Weblog
1月19日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

また、女性の芥川賞作家が誕生しましたね。しかも、音楽家でもあるという。
両方に半端な才能しかない私には、まさにまぶしいような存在です。きっと注目を浴びながら王道を歩いていかれるのでしょうね。

けれども、まあ、それはそれ。私の持ち時間はあとわずか。雲の上をうらやんだり、自分の才能のなさをいまさら嘆いたりしている場合ではありません。やり残した自分の仕事を、機会を見て進めるだけです。



いつか書かなければ、と思っていたことを書いてみようと思います。

「風景をまきとる人」は、もちろん、自分自身のためにやった仕事です。
が、いくつかほかの目的もありました。そのひとつは、音信不通になって久しい、二人の友だちに(創作への)やる気を出させることでした。

ひとりは、大学時代に知り合ったSくん。もうひとりは、ライター仲間だったMくんです。

Sくんはご両親とも画家で、とくに、大学の先生もしておられたお父さんは、日本画の世界では名前を知られた方だったようです。彼の口からあまり詳しくは聞いたことがありません。ただ、美術展のパンフレットに載っていた作品を見せてくれたことと、そのときの絵の印象は覚えています。当然のように彼も絵を描く人でしたが、不思議なことに彼の一番やりたいことは文学でした。

Mくんは、私が最初の職場をやめてさまよっているとき、ある雑誌の原稿を書く仕事に私を採用してくれた、恩人といってもいい人です。早生まれなので、本人は自分がひとつ年下だという顔をしていますが、同級でしかも広島の出身。つまり、母国語はほとんど同じです。お父さんは、国立大学の先生でした。

Sくんは、どちらかというと、わいわい騒ぐのが好きな人で、ふだんはミーハーが蝶ネクタイをしめて歩いているような印象ですが、いったん文章を書くと、「これが彼の作品?」と疑いたくなるほど硬質で観念的な散文詩のようなものが出来上がります。私にはそのギャップがおもしろくて仕方ありませんでした。

Mくんは、彼のライターとしての原稿を読んだだけで、誰もが「うまい」と思わずにいられないほどはっきりとわかりやすい才能の持ち主でした。私も仕事の文章では、彼の真似をしようとやってみましたが、遠く及びませんでした。

私は、自分が知り合いになった人の中で、この二人だけは、作品を世に知らしめる作家になるに違いないとひそかに確信していました。もちろん、私自身も作る努力はするつもりでしたが、彼らのほうが先になるのはしかたないと思い、編集者として暮らしながら、彼らが成し遂げた仕事が私を刺激し、目を覚ましてくれるのを待っていました。

私たちの世代にも、何人かの作家が出ていますが、私には、どうしても彼らに親近感を抱けませんでした。なにか彼らは、自分たちより上の世代の人に向けて自分の新しさをアピールするために書いているような気がして、一見わかりづらい、私たちの世代の生きにくさを取り上げてくれなかったからです。(これもある意味、仕方ないことかもしれません。私たちの世代の最もすぐれた人たちは、文学よりも、音楽や、映画、マンガ、広告の世界に進んだに違いないからです。)SくんとMくんなら、親近感を抱け、同時に普遍的な何かを生み出してくれるに違いない、と私は思ったのです。

二人と離れて5年がたち、やがて10年がたっても、彼らの作品は、私の目の前に提出されませんでした。(どうやら、あとで聞いたら、二人ともライターとしては大成したといっていい活躍ぶりだったようで、それはそれですごいのでしょうが、当時はそのことを知らなかったし、いずれにしても、二人が本来の目標をまだ成し遂げてはいないことは事実だったのです。)

そうこうしているうちに40歳になり、しばし立ち止まって考えて、自分にとって大事なものの優先順位が決まりました。以降それに沿うことにし、長い間放り出していた創作をもう一度やり始めることにしました。

途中で挫折しそうになると、私はしばしば二人のことを思い出しました。ときには、いま彼らも私と同じように考えて自分の仕事を進めていて、明日にもそのことが私の耳に入ってくるかもしれない、と思ったりしました。最初に言ったとおり、自分自身のためにやり終えた仕事ですが、「二人を鼓舞して仕事に向かわせるんだ」という思いは、書き上げる推進力のひとつになりました。

二人は、おそらく「風景~」を読んで、「変わらねーな」と笑ったに違いありません。また、「下手くそだな」とも思ったことでしょう。
どう思ってくれてもいいのです。ただ、私が笑いをひとつ提供したのだから、二人も、何かを提供していただきたい、と私は思うのです。どんなものでもいいけど、思い切り自分であるものを。お互い、もう頭のはっきりしている時間は長くありません。せめて脳のしわがとれてツルツルになる前に、見せてください。そうしてそれに刺激されて私も、また脳に鞭打ちましょう。



もし、二人がこれを読んでくれていても、「コメント」にはなにも書き入れないでください。なにかあったら、メールをください。でも、いつか作品で応えていただくのが一番ありがたいけど。



寒いですね。
受験生は大変ですね。

では、また来週。
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生活と意見 (第102回)

2008-01-14 00:56:40 | Weblog
1月14日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

更新が遅くなってすみません。

今日は、部屋の賃貸契約の更新のために、電車を乗り継いで40分くらいかかる不動産屋のある町に行ってきました。風が強かったですね。

契約を終えて、駅前に戻ってきたら、レコード屋があったので寄ることにしました。と、ドアに大きな張り紙が。「永い間お世話になりました。当店は今月末をもって閉店……」とのこと。入ってみると、なんだか懐かしいような店のふんいき。木製のCD棚に、手書きのアーティスト名の仕切り。カウンターには、私と同じ年くらいの、なぜかはわからないけどペドロ&カプリシャスのようなバンドでマラカスかなにかをやっていたのでは、という感じのする(たんなる印象です)ご主人。そのとなりに、母親と思われるおばあさん(でも、まあ私がその人に呼びかけるとしたら「おばちゃん」というでしょうが)。こういうレコード屋がかつてそうだったように、ここにも楽譜のコーナーがあって、私は30分もあれこれめくってみた末、昔の楽譜の復刻版を一冊手にとってレジへ。「あばちゃん」のほうが応対してくれるタイミングに。たぶん、うちの母親と同じくらいの年齢。「二割引きさせてもらいます」と、まるでそれが閉店セールではなく、お店の何十周年の感謝セールででもあるかのように明るくいって、ていねいに袋に包んでくれます。おばちゃんの顔には、おそらく70年代あたりの幸福なころの笑顔がそのまま残っていて、私も思わずおばちゃんの頭の中に広がる風景に吸い込まれそうになります。日本なら、アイドル歌謡からフォークやニューミュージックと呼ばれた音楽、洋楽なら、わかりやすいロックとカーペンターズなどのわかりやすいポップスの流行りまくった時代。おばちゃんにも、つるおかまさよしと東京パンチョス(?)から、チューリップへの変化がまだはっきりととらえられた時代。レコードが時代を作っていて、おばちゃんはそれを売っていることで、自然時代の真ん中にいると感じられた時代。年齢的には40歳代で、いまとなりにいる息子が20歳代で学生かプーで、そのために店をきりもりして(おそらく亭主は怠け者に違いないので)息子を一人前にしなければ、とはりきっていた時代……。

 お店がなくなるということは、そのお店が封じ込めていた「世界のふんいき」が、つまりある時期の世界そのものが消えてなくなるということにほかなりません。そうして、やがては、そのふんいきを知っていたわれわれもいなくなり、そういう世界はなかったのと同じことになっていく。いくら写真を残そうが、ビデオを残そうが、ただ「当時の人々は……」と紋切り型でまとめられておしまいです。

 いまの部屋に住んで8年。10年間住んでいた西新宿につぐ長さになりました。2年後の更新期には、どうなっていることやら。

 では、また来週。
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生活と意見 (第101回)

2008-01-05 20:31:20 | Weblog
1月5日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

今日は、神保町へ行く機会があったので、岩波ブックセンターに寄ってきました。
実は、同ブックセンターで「画用紙の夜・絵本」を作って以来初めて行ったのです。「店頭に置いてもらえる」ということだったから、もちろん見てみたかったのですが、なにかの都合で私が見たときに出ていなかったらショックだし……と思っているうちに今日になりました。

ありました、ありました。まっすぐ奥に進んだ突き当りのブックメイドの棚に「画用紙の夜・絵本」が。ヴィレッジヴァンガードや芳林堂などに「風景をまきとる人」が並んでいるのを見たときにもそうでしたが、やっぱりうれしいものですね。あまりにうれしかったので、自分で一冊買ってきました。
もし、神保町へ行かれる機会がありましたら、岩波ブックセンターに立ち寄ってみてください。買っていただかなくても、造本(とくにカバーの宮島径氏の写真)を見てみてください。よろしくお願いします。



このブログで書いたことに間違いを見つけたときは、なるべく直すようにしていますが、今日は、数回前に書いた内容に間違いを見つけたので、ここで訂正させてもらいます。

芥川龍之介の「トロッコ」が載っていた国語の教科書は、光村図書ではなく、東京書籍の「新しい国語 1」(昭和47年2月10日発行)の間違いです。なぜわかったかというと、その現物がいまここにあるからです。単元2の「小説に親しむ」に、新美南吉の「歌どけい」に続いて掲載されています。

びっくりしたのは、「塵労」の注です。私が思っていたより、はるかに長い注でした。
「塵労=生きるために、まわりの人々とかかわりあってしなければならない、わずらわしい苦労。」
とあります。
どうやら、大学を卒業してからの私の時間の9割は「塵労」のようです。

では、また来週。
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