麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第212回)

2010-02-28 16:50:51 | Weblog
2月28日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

少年少女古典文学館で「落窪物語」を読みました。
ご存知、天才少女小説家・氷室冴子さんによる翻案です。

日本版シンデレラ物語。床が「おちくぼ」んだ部屋で、継母にいじめられながら育った姫が、やさしい男と出会い、幸せになる。昔の昼メロでさんざんやりつくしたようなストーリーですが、氷室さんも書かれているように、いじめ役の「北の方」の、改心しないいじめっぷりは見事です。

また、私には、例によって、脇役で、ただ読者に笑われるために出てくる2人の男が気になりました。ひとりは、落窪の義姉の婿になる、馬のように長い顔の男。もうひとりは、落窪を手に入れられると「北の方」にそそのかされ、寒い夜、年甲斐もなく鍵のかかった部屋の戸を開けようとするうち、下痢便をもらして引き下がる老人です。
「ぶさいく」と「としより」は笑われる以外役はないという端的な考え。たしかにそのとおりですね。せいぜいそれを自覚することで、こっけいの上塗りをしないでいることが大事でしょう。



文春文庫から「文学全集を立ち上げる」という本が出ました。
丸谷才一さんほか2名が「もし自分たちが、世界文学全集と日本文学全集をつくるなら、どの作品を入れて、どの作品をはずすか」について対談形式ですすめていく内容です。
世界文学全集のほうでは、丸谷氏が「ドストエフスキーは、一作だけなら『悪霊』だと思う」といっていて、大きくうなずけたし、日本文学全集では「僕は小林秀雄がよくわからない」という発言もあって、これもまったく同感。ディケンズと漱石を重くあつかうところも。逆に、ヘッセもロマン・ロランもいらないとは私は思わないし、ヘミングウェイの長編がつまらないとも思いません。また、ワシントン・アーヴィングは名作集の中にだけでも入れるべきだと思いますが、まったく触れられていないのはちょっと不満です。

いずれにしても、心の中で、あるいは声に出して「そのとおり。いや、それはちがう」と最後までぶつぶつ言いながら読める楽しい本です。



しばらく前から、アーヴィングの「アルハンブラ物語」を読んでいます。今下巻の後半。来週までに読了していればなにか書こうと思います。



では、また来週。
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生活と意見 (第211回)

2010-02-21 10:21:49 | Weblog
2月21日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

創元推理文庫の「シャーロック・ホームズの冒険」が新訳になりました。
まさかこの文庫の訳が、自分が生きているうちに阿部知二訳ではなくなるなんて考えてもみなかったことです。画期的です。しばらく前に光文社文庫の新訳全集が完結したばかりですが、なにか訳文になじめなかったところ。今回のものは「ボヘミアの醜聞」を読んだ限り、阿部知二訳のいいところを残したような読みやすい文です。興味のある方は見てみてください。



作家として成功をおさめられた昔の知り合いの方に、ひさしぶりに仕事でお会いしました。その方のブログを読んでいると「才能がないのにあまりに高い理想をかかげて一生を台無しにする人間も多い」と書いてあり、まさに自分のことだと感じました。その「台無し」の影響を誰にも受け継がせないでくたばるということだけで、なんとか許してほしいと思わずにいられません。



では、また来週。

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生活と意見 (第210回)

2010-02-13 08:24:19 | Weblog
2月13日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

光文社新訳文庫から、シェイクスピアの「ハムレットQ1」が出ました。
Q1とは、「四つ折り本・パターン1」のことで、三つあるテキストのひとつだそうです。解説の河合祥一郎さんによると、旅先で役者たちが「ハムレット」を演じるために、記憶を頼りに、アレンジを加えながら書いた上演台本ということ。
シェイクスピアが書いたのでないにしろ、芸術的価値は低いにしろ、私はこの本が大変気に入りました。こんなに短くすっきりしたハムレットがあるなんて知りませんでした。
河合さんも書かれているように「生きるべきか、死ぬべきか…」のセリフは、この本の位置に入るのがもっとも自然な気がします。
短いのであまり時間がかかりません。ぜひ、読んでみてください。



新聞広告で、タイトルしか見ていないのですが、
「桐嶋、部活やめるってよ」という小説が出たとのこと。
すばらしいタイトル。この30年で出た創作で一番いいタイトルではないでしょうか。
読むかどうかわかりませんが、読まなくても、それが傑作だとわかります。
やはり、すごい人は出てくるものですね。若い人という以外、プロフィールすら知らないのですが、選ばれた作家に違いありません。勝利の輝きがあるすばらしい言葉。いつかその作者の本を読んでみたいと思います。
ひさしぶりに目と脳が驚くほどの経験でした。



今日は約2週間ぶりの休み。
ただ、書いておくだけですが。



では、また来週。
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生活と意見 (第209回)

2010-02-06 11:14:09 | Weblog
2月6日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

今週は、読書の時間すらとることができませんでした。
こういうときは「風景をまきとる人」をポケットに入れて持ち歩き、電車の中や定食屋や便所で適当なページを開いて読むことにしています。今現在の印象や経験にまきこまれていても、その奥でいつも静止している自分の姿にすぐに触れることができるからです。その自分以外、自分を救ってくれる者は誰もいません。



そういうわけで、昨夜まで、新刊紹介もなにもできないと思っていたら、帰ってきて寄った本屋で河出文庫の新刊「ランボー全詩集」を発見。買ってきました。ちくま文庫、青土社に続くひさしぶりの新訳です(3つとも同じタイトルです)。

ランボーについては以前書いたかどうか覚えていませんが、高校時代、新潮文庫の堀口大学訳でいくつかの韻文詩を読んだのが最初です。このときは、ほとんどよさがわかりませんでした。

そのあと大学時代、小林秀雄訳の「地獄の季節」を読みましたが、よくわかりませんでした(今でもこれはいい訳ではないと思います)。その他の訳でも読んでみましたが、やっぱりよくわかりませんでした(よくわからない、というのはぼかして適当にいっているわけではなく、いくつかイメージとしては心にくるものがあるけど、それを書いた作者の意図や全体像を感じることはできない、という意味です)。

それで、ランボーもスタンダールなどと同じで「自分には関係のない作家」の中に入れていたのですが、30歳ころ馬場の古本屋で、昔の三笠書房版「世界の詩集」シリーズの「ランボー詩集」(高橋彦明訳・たぶん300円)に出会って、まったく変わりました。その日は仕事の打ち合わせで馬場に行き、用件が終わったので古本屋に寄ったのですが、恵比寿の職場へ帰るのに高田馬場駅まで歩くのが面倒になって明治通りで新宿行きのバスに乗りました。買ってきたばかりの本を開き、なんの期待もなく「地獄の季節」を読み始めました。ところが、すぐに、まるで「なにかいま揺れなかった? 地震みたいに、風景が」という足田久美のセリフのように、自分が椅子から転げ落ちそうな感覚にとらわれました。そこに書いてあることが、あまりによくわかったからです。章を追うごとに、私は心の中で「次の章はまったくわからないかもしれない。もしそうなら、俺の理解が間違っているからだ」と賭けをするような気持ちで読み進めました。でも、結局最後までその状態は続いたのです。

ひとつだけ解釈を書けば、「悪い血(血筋)」の章の「科学、新しい貴族だ!~」の節の中に「俺たちは『精神』へ向かう。」という文があります。この『精神』の原語は「エスプリ」ということですが(私はフランス語のフの字も知りませんが)、『精神』と訳されたものと、『精霊』と訳されたもののふたつがあります。私は、ここでは『精霊』は誤訳だと考えます。小林秀雄訳などは『精霊』になっていますが(今手元にないので記憶だけですが)、それはただ、文脈の悲嘆の調子につられてそうしているだけで、まったく意味を理解できていないと思います。次の節ではこの言葉は『精霊』という訳を与えられるのが当然です。そこでは「俺」はキリストを呼んでいるからです。しかし、この前の節では、「俺」をとらえているのは、おそらく生物の創造的進化のイメージであり、その進化の到達点が(もはや肉体をもたない)『精神』であるというビジョンが提示されているのだと思います。それが「異教徒の言葉でなければ説明できない」ことなのです。そうしてそんなビジョンが見えたにもかかわらず、次の節ではキリストに助けを求めずにいられないことで語り手の心の傷ついた様子がよりはっきりわかるのです。

訳者の方たちはおおかた東大卒の秀才なので、「庶民に披露してもわかるまい」と思っているのか、いつもご自分の解釈はまったく開示されません。「元々詩なんだからどう解釈してもいいわけで」などと解説ではお茶を濁しています。でも、庶民で失敗者の私は自分の解釈を述べることになんの迷いもありません。

ちなみに今回の訳では『精神』となっています。



では、また来週。
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