麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

恋のはじめ

2023-12-02 00:18:13 | 創作
 なにか、どこかに裏があるようだ。と、陽一は思った。なぜあの女は、あんな事を言ったのか。「私とあの女は幸せじゃない。それはちょうど、西日のさす部屋から眺めた人のいない公園のように」。それとも単なる聞き間違いなのか。「私はあの女のしわ寄せではない。橇は、ちょうどニキビの先、ヘアから舐めた人はいない高円寺のように」そんなはずはない、と陽一は思った。だが、陽一のキャパシティは狭く、子どものころから、自分で世界を単純化しないと落ち着けなかった。その世界の中ではいつも自分は王様のようだった。ある日、陽一は、「人は死ぬ」という認識したくないことを認識した。だが、そんな知識には耐えられなかったので、「自分ひとりは、これまで生まれてきた人間とは違い、死なないのだ」と考えた。実をいうと三十歳になる今もそう考えていた。自分だけは死なないのだ、と。単純化しなければ。早く単純化して「そういうこともあるさ」といういつもの状態にならなければ。そうしないと俺は安心していることが出来ない。雨が降っている。どしゃ降りではないが。だが、陽一は濡れてはいない。あの女のことがどうしてこんなに気になるんだろう。それは、あの女とやりたいからだろうと思った。やりたくない女が何を言っても関係ないから。でも不思議なことだ。どんな女にもやりたいと思う男が必ずいる。相性。実にうまく出来ている。それは生き物の本能なのだ。自分の遺伝子を残そうとする。生き物の本能という客観的な事実を認識した瞬間、陽一の、あの女への執着は消えて、まるで新学年になってもらったばかりの教科書のページのように心が静まった。しかし、心は揺れることを望んでいるのだろうか。しばらくすると、あの女への気持ちが、戻ってきた。煩悩の固まり。俺は時々岩波文庫の「ブッダの言葉」を読む。犀の角のようにただ一人歩め。俺にはその心がわかる。だが、いまはわからない。わからないのが心地いいのだ。あの女の声を聞きたい。そう思った時、雨が降っているのを感じた。なぜなら、シーツから雨の日のにおいがしたからだ。雨か……。雨か。何で俺は「雨か」なんていうのか。誰も聞いてはいないこの部屋で。あの女の足を見るのはいい。あの女の歩くたびに、短いスカートが腿のところで跳ね上がる。スカート自身にも執着はないし、女の腿だけでも足りない。スカートが、腿のところで跳ね上がるのがいいのだ。それが女のいる意味だ。結局のところ、うまく口説けたとしたら、またお決まりの場面があるばかりだ。女は下着を脱ぐ。そして、俺は勃起したものを女に入れようと最高に興奮しながらも、頭の片隅で考えるのだ。「あの、スカートが腿のところで跳ね上がっていた感じが、今はもう、ない」と。そうして、その女と付き合えば付き合うほど、失われた感覚が大きくなっていき、やがて、女への愛情が冷めていくのだ。なぜ俺はそんなことまで考えてしまうのだろう。前は、こんなことはなかった。ひとりの女とやりたいと思えば、その気持ちをずっと持ち続けて、熱に浮かされる自分を感じるのが心地よかった。だが、いまは違う。この気持ちはやっかいな病気のようだ。そして心は病気になりたがっている。こうして悩むこと自体、つぎにあの女に会ったとき、すぐに欲望を沸騰させられるように準備をしているだけなのかもしれない。やりたい。ほかの方法があればもっといいが、それしかないつまらない行為を。やりたい。陽一は思った。あまりに月並みで恥ずかしいが、つまり、俺は恋をしているのだ。この恥ずかしさもうれしいくらい。
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恋のはじめ・続あるいは前半

2023-12-02 00:15:46 | 創作
その女をはじめて見た時、口の中に甘酸っぱい唾液が込み上げてきた。上司である編集長のAと打ち合わせをしている時で、女は突然、Aのデスクの横に立っている僕とデスクについている彼のあいだに割って入った。その時、女の体臭がした。「いきなりくるんじゃないよ。馬鹿。打ち合わせ中だぞ」。Aは言った。非難してはいるが、本当に気分を害しているのではないことがはっきりわかる口調で。「すみませーん」。若い女だから許されている、ということを知り抜いています、ということを表明する儀式的な甘い口調。僕の顔は自然曇った。というのは、女が常に自分の価値を計算し、たくましく世の中を渡っていく、その姿勢、そしてそれが、結局その女のためでも誰のためでもなく、女がやがて子どもを産み、本能の満足を得るために組み込まれた姿勢であり、初めからできあがった回路に電気を流すのと同じことであり、そのことで誰が得するわけでもない、自然の摂理が成就されるだけなのだとわかる時には、いつも憂鬱になったから。しかし、その気分とは別に、僕自身の本能も動き出していた。なぜなら、その女の体臭が、たぶん、本人も気づかず、誰に向けるでもなく、自分という個体を、やがて滅び行く個体を生殖という再生行為で保とうとさせるために準備された動物のシステムが発したにおいが、人間の空しさを客観的に透視し、生物としては、マイナスの認識を得ているいまの僕の体の中に、理性による認識とはまったくべつの反応を呼び起こしていたから。



とてもまずいことになった、と陽一は思った。
俺はあの女とやりたいらしい。だが。
だが、という音のない言葉が、コーヒーを飲むためにわずかに開いた口からカップの中へ滑り込んだ。一口だけすすると、砂糖も入れていないのに甘い味がした。
ほらみろ。もう、周りの世界が変化し始めている。これから、もっとひどくなっていくぞ。この馬鹿。
心の中で自分を罵りながらも、陽一は、自分の唇がかすかに微笑んでいることを、それに、ひょっとすると、目も輝いているかもしれないことを知っていた。店にはほかに客がいなかった。それでも陽一は手放しで喜びの表情をしているのが恥ずかしくなって、どこにもいない誰かに向けて背中を曲げ、テーブルにひじを突いて右手で頭を抱え、悩んでいるような演技をして見せた。
もうわかっているはずじゃないか。いい年をして。しかも相手は自分よりかなり年下だし、ひょっとすると上司の愛人かもしれないというのに。

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方向が違うよ

2023-12-02 00:10:06 | 創作
1

「あなた、この人によく似てる」
「えっ? こんなデブタレントに」
「二重あごで苦しそうなところや肩の肉が丸く盛り上がったところなんてそっくりよ」
「この男は若いころからずっとデブだろ。でも、オレはもともとこんな体型だったわけじゃないよ。知ってるだろ、初めて会ったころ」
「だけど、いまはそっくりよ」
「方向がぜんぜん違うんだよ。オレはこの20年、やりたくない仕事についてストレスをためまくって食べすぎでこうなったんだ。いつか自分の思い通りやれてストレスがなくなれば、絶対元の体型に戻るよ。まあ、先のことはべつとしても、ずっと平気でデブだったこいつとはこれまでの方向がぜんぜん違うんだよ」
「でも、そっくりよ」


2

「あなたの顔、この人に似てるわ」
「えっ? こんなハゲタレントに」
「両方の生え際が入り江みたいになっていて、真ん中が薄くなってマンガの湯気の表現みたいになってるとこなんてそっくりよ」
「この男は若いときからハゲだろ。でも、オレはここ1~2年なんだよ。もともとうちの家系にはハゲはいないんだよ。いまだってちょっと薄くなってるだけだし」
「だけど、見れば見るほど似てるわ」
「方向がぜんぜん違うんだよ。オレはこの20年、やりたくない仕事についてストレスをためまくってハゲたんだ。いつか自分の思い通りやれてストレスがなくなれば、自然、毛もはえるよ。まあ、先のことはべつとしても、ずっとハゲを売りにしてきたこいつとはこれまでの方向がぜんぜん違うんだよ」
「そう。でも、そっくりよ」


3

「あなたの言ってること、この人の言ってることに似てるわ」
「えっ? こんなバカタレントに」
「『ごはん食べたーい』とか『やりたーい』とか、すぐに言ってしまうんだって。そっくりじゃない」
「この男は本当のバカだよ。それしか本当に知らないんだ。だけどオレはそうじゃない。ある意味、わざとそう言ってるんだよ。作為的にね」
「だけど、言い方もそっくりよ」
「方向がぜんぜん違うんだよ。オレは若いとき、人間の存在理由について考えに考えて、もう少しで発狂するんじゃないかというところまでいった。そこから帰ってくるのに、作為的にバカになることを必要としたんだ。本能的な自己肯定という、生物としての基本まで失いそうになったから、そうすることで徐々にこの世に帰ってきたんだ。つまり知性の行き着く先から帰ってきたバカなんだよ、オレのバカは。ねっからのバカのこいつとは方向が違うんだ」
「そう。でも、バカはバカでしょ」

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もう一度読む世界史

2023-11-26 13:09:23 | 創作
「時間」は、根を引き抜いた時点で「枯れる」という時限爆弾をかかえた生き物が生み出したもの。時間が生まれたとき(へんな言い方だが)、食い物を確保するために意識が生まれ、意識はサルトルがいうように、つねに「なにものかについての意識」だった。それはほとんど「獲物」と同義だった。それだけが目的で意識の全部だった。だが、人間は言葉を生み出し、言葉は記録を生み出し、ある一時の観察を、その観察をしている自分とは別の時間の自分に提供することができるようになった。その記録を利用して、記録に従って自分の体を機械的に使役していれば向こう10年、食うには困らない。毎秒「獲物」という言葉と同義だった意識に「ひま」ができた。ひまになった意識は「なにものか」を求めてさまよう。「なにものか」がなければ空虚だからだ。たとえば直接「食う」に関係ないことでも観察しはじめる。執拗に観察をする。やがて観察している自分まで観察し始める。「俺はなんだろう」。一度この疑問にとらわれると自分にそれを説明しないではいられなくなる。まず「俺はどこにいるのか」を説明しなければいけない。どこにいるのかを説明するには世界地図が必要だ。だが、観察記録をかき集めても、世界は「暗黒地帯」だらけで、ここがどこなのか正確に言うことはできない。不安だ。息子にも「俺は自分がどこにいるのかもわからない」と正直に言ってしまっては威厳を保てない。「暗黒地帯」を説明するために「お話」が生まれる。神。悪霊。天国。地獄。自分の村は、神に選ばれた、天国に近い場所にある。お話を作っていくうちに自分の存在理由もわかったような気がしてくる。ところが隣の村の連中は別のお話で世界を説明しているようだ。そのお話の中ではうちの村は彼らの村より天国から遠いことになっている。そんなお話は許せない。そんなお話を語るやつらは皆殺しだ。神よ、力を。惨殺。強姦。惨殺。悪魔は滅びた。俺たちの世界地図は正しい。一時の平和。しかし、よく見ると隣の家のあいつの世界地図は俺と違うようだ。あいつの地図では俺があいつより劣ったものとして記録されている。そんなこと許せない。村のおきてがあるから殺しはしないがあらゆる手を使ってその地図が間違っていることを証明してやる。見ろ、俺の富を。見ろ、俺の女を。見ろ、俺の酒を。見ろ、俺の豪華な食事を。だが、隣の家の男からすれば、ガラクタの山、ただのブス、カエルの小便、象のウンコ。がんばったおかげで胃がいたい。ストレスかな。「ガンです」。マジ? 俺はなんのために生まれたのかな。永劫回帰。
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心に更地を持て

2023-11-26 12:58:26 | 創作
 幼稚園から高校まで一緒だった友だちが何十年ぶりかに訪ねてきた。20代のころの姿のままだ。「結婚した」と言う。それは知っていた。子どももいると聞いていた。きっと幸せなんだろうな、と皮肉な気持ちはなく思っていた。しかし、なにかそう告げる彼の表情が暗い。私と彼は坂道の上で話をしている。コンクリートの歩道が雨上がりのように黒く濡れ、夕暮れが迫っている。別れのあいさつはしないまま、彼は向きをかえて坂道をおり始める。猫背で小さい後ろ姿を見て、子どものころから見慣れた彼の印象を反芻する。すると突然目の前に身長が2メートルはある白人の若い男が現れて、身をかがめながら、真剣な表情とたどたどしい日本語で私に訴えかけてくる。どうやらその男の妹が、いま去っていく友人の妻だということらしい。それなのに、友人の母親は彼に冷たいのだという。「『心に更地を持て』ということわざは、私にもわかります」と、外国人が言う。「でも、おかあさんが一度も私に会いに来ないのはなぜですか。妹夫婦のところにも一度も行ったことがないのですよ。ひどい人です」。「心に更地を持て」なんてことわざがあったろうか。それにその言葉が彼の訴えていることとどういう関係があるのだろうか。私は考える。つながりとしてはあいまいだが、「心の中に不純物を入れない領域を持て」というようなことかと解釈する。だから、友人の母親は外国人になど会えないというのだろう、と思う。いつも「おばちゃん」と呼んでいたその姿が浮かぶ。やさしい人だったが、たしかにどこか芯の通った、昔気質の日本人という印象もある。友人はおばちゃんのことを心底愛していたと思う。そう考えると、彼の表情が暗かったことは理解できる。外国人はうるさく私につきまとい、外国語と日本語をまぜてしゃべりまくる。つばが飛んできそうなほど顔を近づけてきたので私は不快になり、後ろを向く。すると外国人は、有刺鉄線を巻いた何枚かの白い十字型の板で囲われた歩道横の空き地にひとまたぎで踏み入り、またひとまたぎで柵を越え、私の目の前に立ちふさがる。柵をまたぐとき、彼の身長が瞬間、3メートルにも巨大化したのを私は見た。「『心に更地を持て』ということはわかります。それにしても……」。彼は繰り返す。その調子が、「その言葉だけは発音にも使い方にも自信がある外国語なので、自然何度も使いたくなる」という使い方のようだと感じる。夕闇の中で、私はいまさらのように、外国人の女性と結婚した友人の大胆さを思いやる。いつもおとなしく保守的だった彼には考えられない大胆な行動だと。だが、すぐに、「いや」と思う。彼には大胆なところもあった。高校一年のとき、彼が中学の同級生に告白したということを、その同級生の女子本人から聞いたときは驚いた。彼の、彼女への気持ちを知らなかったからだ。ひょっとすると彼は、自分の保守的な部分を自覚すればするほど、それを打ち壊したいと思う気持ちも強い人間だったのかもしれない。そうして実際打ち壊す勇気もあったのだ。きっとそうだ。意欲的になればなるほど「本気でやってるわけじゃないよ」という態度を気取る人のように、さっきの彼の猫背と暗い表情は、大胆さと勝利の表明だったのだ。勇気がないのはこの私だった。彼は私を心から軽蔑するためにやってきたのだ。――外国人も坂道も消え、目覚めた私は自分がみじめだった。悲惨だった。
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目覚め

2007-05-06 20:23:05 | 創作
 叫び声をあげて、その自分の声に驚いて目を覚ますのが、僕の最近の習慣だ。誰かと口論する夢ばかり見る。実際の生活では、一日中誰とも会話を交わさずにいることが多いので、おそらくその反動なのだろう。十月のある日の午後、僕はいつものように大声で叫び、目を覚ました。夢の中で、僕は叔母と口論していた。叔母は冷静に僕を批判した。僕は頭に血が上り、自分自身に敬語を使って叔母に反論した。それは、明らかに文法的に誤っていたので、僕は言ったあとでひどく気になった。案の定、叔母は僕の痛いところを突いてきた。「インテリを気取っているくせに、自分に敬語なんか使って」。叔母は僕にそう言った。僕はおろおろした。心の中で僕はつぶやいた。「あんたの知能程度に合わせようとして無理してむずかしい言葉を使わずに話している僕の苦労がわからないのか」。しかし、そんなことを察してくれる叔母ではないことを知っている僕は絶望的な気分になった。「そのうえ僕は、僕という人間が世界にとってまったく無用であるというあんた方の価値観を自分でも持っているからこそ、あんたのバカさかげんを直接的に非難することはやめようと思っているのに」。僕は心の中でまた言った。叔母は僕を軽蔑した表情で、腕を組んで立っている。その表情は美しい。僕は自分がひどく醜いことを思い出した。「僕は醜いのだ。結局は、醜い者は美しい者に勝てない」。僕は心の中で何度もそう繰り返した。が、同時に「違う、違う、違う」という声が頭の中で響いた。「違う、違う、僕はあんたのように子どもを生むために生まれてきたんじゃない。僕はもっと高いこと(と、夢の中の僕は言葉にした)をするために生まれてきたんだ!」。信じられないほど力のこもった、大きな声で僕は叫んだ。目覚めると心臓が機関銃のような速さで血を吐き出していた。次に耳鳴りが頭を貫いた。僕は一瞬、自分がいつもの部屋にいるのを忘れていた。自分が23歳であることも忘れていた。だが、「こんなところで僕はなにをしているんだろう」とつぶやいたときには、それは半分演技になっていた。僕はほこりっぽい汚れたかけ布団を両足で蹴り上げ、上半身を起こした。テレビのほうへ右手を伸ばし、スイッチを押した。昨日と同じような日常的な音が頭に流れ込んでくる。見慣れたタレントの顔が画面に映し出される。外へ出れば、どんな人間をも軽蔑し、世界中に嫌悪を感じるこの僕が、本当のところ、このタレントの顔を見てほっとしている。いまのはただの悪夢で、現実には今日もこの世界にいられるのだと考えて。けれど、それも一瞬のことだ。10秒後には、僕はもう評論家になっている。こいつももうだめだ。とか、下らない、とか。テレビを前にひとり言を言うのだ。そして結局毎日こんなことを繰り返すしかない自分自身を思うとき、僕は悲しくなる。けれども、悲しくなった自分をも僕は「なんてね」と、茶化してしまう。頭がつぶれるような感じがして、口からは動物の鳴き声みたいな笑いがもれる。「考えなければならないことはなにもない」「とくに考えなければならないことなどありはしない」と、自分で自分の気持ちを楽にしてやろうとする。実際何度もそうつぶやいていると、僕の気持ちは軽くなる。人間の心の構造はカンタンだ。少なくとも僕は単純なメカニズムしか持っていない。僕は「あーあ」と言いながら再び横になる。背骨の下のほうで、ボキっと音がする。左腕を壁に沿って伸ばし、手のひらを壁にくっつける。ひんやりした感触が体中に伝わっていく。冷えた手のひらを、閉じたまぶたの上にあてる。すると、尻のほうから震えが起こる。それをわざとがまんせずに受け入れる。歯がガチガチ鳴る。誰も見ていないのに「黄熱病にかかった患者」の芝居をやる。助けを求める表情をしてうなる。最後に目をむいて息絶える。ひとり芝居をした後は必ずひどく恥ずかしくなるから、自分への照れ隠しのために、僕は起き上がってタバコを吸い始める。煙を吐いていると、だんだん自分がいつもの皮肉屋に戻るのがわかる。僕は自分を世界一偉大な人間だと想像し始める。そうして、その想像上の人物(どこが偉大なのか、具体的にはなにもわからないのだが)の視点で「ふん!」と、何に対してではなく憤慨し、世界への軽蔑を表明する。冷笑。冷笑、冷笑、冷笑。と、つぶやく。それがいつの間にか、ショーレイ、ショーレイになり、小学生のころの朝礼の時間を思い出してお腹が痛くなった。
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酒宴

2006-10-22 16:03:10 | 創作
 人間の悲惨さは、彼が自分の悲惨さを、子どもが風船につけられたヒモを握りしめるのと同じように、しっかりつかんで放さないことにある。人間は悲惨さを愛している。なぜなら悲惨さにこそリアリティがあるからである。悲惨さに身を投じることで、彼はリアリティを得ようとする。悲惨にがんじがらめにされることで、彼は「不自由」という快楽を手に入れるのだ。「自由」ほど彼らをおびえさせるものはない。なぜなら「自由」には、リアリティがないからである。リアリティのないものを彼は恐怖する。彼らの言葉で言えば、「自由」は現実ではないからである。しかし、宇宙の知る唯一の現実とは「自由」であり、宇宙にはリアリティなど存在しない。リアリティのないことが宇宙のリアリティであり、人間の言うリアリティは幻にすぎない。――私はそんなことを考えながら、夜中の2時に部屋を出て、街灯の中に紫色の霧が浮かぶ都市を歩き始めた。ゆるやかな坂道をのぼり、向こうに高層ビルの照明が見える交差点まで来た。私は月を見たいと思ったが、今夜は彼は非番であるらしかった。あるいは私自身が彼だったのかもしれない。というのも、その夜、私にはふだん聞きなれない、さまざまなものたちの話し声が聞こえたからである。闇は獣のように生き生きしていた。広い道路をはさんで、ビルがビルにささやきかけていた。「こんなマネをいつまで続けるのだろうか」と。私は彼らに「もういいよ」と言った。すると彼らは一瞬のうちに薄いベニヤ板に戻り、後ろへ倒れた。つぎに「夜」のひとり言が聞こえた。「昼は不潔だ」。彼はそう言ったようだった。「そのとおりだ」と私は言った。私たちの共感を祝して、彼は自分の体をうす紫色に透き通らせた。「よけいなことを言うのは誰か」と、ふいに大きな声が響いた。「いまは、酒盛りの最中だ。卑小な人間のくせに、風景を許すのは誰か。じゃまをするな」。私は悲しくなってこう言った。「どうして俺を仲間はずれにするのか。俺は人間の仲間ではないのに」。大きな声の主は笑った。「たしかにお前は人間の仲間ではない。が、われわれの仲間でもない。お前も酒のサカナにすぎない」。私は再び悲惨さのリアリティにとりかこまれた。「夜」は急に、不幸に陥った友人を無視するように、私を見捨てた。ビルは知らん顔をして建っていた。一分のスキもなくリアリティを取り戻した風景は、もう私とは無関係なものとなっていた。私は霧の中をつまずきながら、悲惨さのほうへ戻っていった。
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立て札

2006-07-16 00:12:50 | 創作
 私は、闇の寝床の中で休息していた。それは、心地よい眠りだった。私はずっとずっと眠り続けたので、最後には眠るということが私を表わし、つまり私という者から眠るという性質を取るとなにも残らないというところまで……私は、眠りと、闇と同化していたのである。しかし、やがて誰かが私を起こした。気がついてみると、私はまぶしい光の中へ放り出されていた。私の目の前には、一本の道が、ずっとまっすぐ続いている。私は一歩踏み出した。その一歩だけで私はひどく疲れてしまった。しばらくその場で休息していた私は後ろを振り向いてぎょっとした。さっき歩いた道はもう無くなって、底知れぬ虚無が口を開けていた。私は試しにもう一歩進んでから振り向いてみた。と、どうだろう、虚無は私の歩幅だけ広がっているではないか! 私は、とにかく前に進まなければならないようだった。疲労を感じながら道を行くと、ひとりの男が立っていた。黒い、だぶだぶの布にすっぽりと身を包んだ小さな男だった。私は私が誰だか知らなかったので、その男にたずねた。「私はいったい誰です?」男は低い声でこう答えた。「おまえは、鳥だ」「鳥である私はどうすればいいのです?」私は聞いた。「生まれなさい」男がそう言ったとき、私は生まれた。餌を食べ、成長し、卵を産み、死んだ。すると私は、再びあの道の上にいた。そこには、あの小男が立っていた。私は先に教えられたことを忘れていたので、男にたずねた。「私はいったい誰です?」すると男は、「おまえは亀だ」と言う。「亀である私はどうすればいいのです?」「生まれなさい」私は生まれた。餌を食べ、成長し、卵を産み、そして死んだ。私は生まれるたびに前のことを忘れたので、その後、幾千もの生き物となったけれど、以前自分が何か別のものであったという気持ちになることもなかった。しかし、幾千回目かに、まぶしい道の上に戻ってきたとき、重い疲れが私にのしかかっているのに気づいた。私は自分がさまざまな生き物として生を送ったことを思い出した。「今度は何になるのです?」私はあの男に聞いた。「人間に――」と、男は言った。私は疲れていた。「いったい何のために私は生まれるのです?」それは、私の、男に対する初めての反抗であった。「生まれ出るときに、立て札が見えるだろう。そこに答えが書いてある」男は言った。――いま私は母親の子宮の中にいる。目の前に立て札があって何か書いてある。男の言った答えだ。しかし、私は人間になったばかりで字なんか読めない。誰か読んで意味を教えてくれないか? こういう形の文字だ……「徒労」……なんと読むのだ? どういう意味なのだ?
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雪道を、向こうから自転車で来るじいさんよ

2006-07-08 21:39:27 | 創作
雪道を、向こうから自転車で来るじいさんよ。
あんたの顔は、転ばないように注意集中してるせいで、年のわりに引き締まり、悲壮感さえ漂う。

たぶん、西新宿四丁目か、中野区弥生町の自宅から、数分前、
あんたはふきげんな女房に見送られ、
わずかばかりの冬の午後を、
隣町の信之介じいさんと将棋を指すことで、
男のロマンに費やすため、
出かけてきたのだろう。

雪は今日は降っていない。
昨日までの積もった固まりは、歩道の両側に寄せられて、
あんたと俺は、裂けた海から現れた土地のような、
狭いアスファルトの帯の上で、
向こうとこちら、
まるで対決するようなかっこうで向かい合ったのだ。

あんたは、ユリシーズのように男の旅を夢見て、
あぶない氷結した道を、悲壮な顔でやってくる。

あんたは英雄だ。
小春日和に、危険な自転車にまたがり、
信之介と勝負を決めようとしているあんたの目は、ドラマを見ている。

だが、じいさん。
俺にはあんたが、
あんたのドラマと同様、
じゃまだ。

あんたはなんのためにわざわざ自転車に乗るのか?
どうしてそこまで自分のドラマに酔えるのか?

あんたが本当の英雄でも、
俺にとっては変わらない。

英雄のじいさんよ。
せっぱつまった顔をしたあんたは、
この細い道じゃ、じゃまなんだ。

俺は英雄になど用事はない。

本当の本当には、
生きる意味もなく、
本当の本当には、
向かう場所もない。

ただ、
俺は、
生きているのが、わりと好きなんだ。

さっき、ハトと、ゴミを奪い合っていたカラス。
俺がにらみつけると、わずらわしそうに舞い上がったカラス。
そんなものも好きだし、
よく知っている建物の壁に、
雪で濡れた跡があるのを、ながめるのも好きだ。
ゆっくりゆっくり歩きながら、
そういうものたちに心を絡みつかせて、
生きていきたいだけなんだ。

じいさん。
英雄になるなら、
もっと若いときじゃなきゃだめだよ。
あんたの年になるまで生きていてはいけない。
俺の年でももういけない。

じいさん。
信之介と勝負するのはやめて、
俺と一緒に、
小春日和の西新宿五丁目の風景に、
心を絡みつかせながらゆっくり歩こうよ。
自転車を降りてさ。
でなきゃ……

ほら、こけた。

俺はかなしいよ。

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ある夢 (短編 17)

2006-06-03 21:22:29 | 創作

 一

 都会を歩いていた。冬のようだった。
 空はなぜか黄色く濁り、道には車が一台も通らず、時間は永遠に腰を上げそうにない。
 動物園の門が見える。僕は門を抜けて中に入ってゆく。と、僕は理科室のような部屋にいる。目の前には、赤い光が、そして黒人が多くいる。誰かの声。
――これから、おまえに映画を見せてやろう。ただし、この映画は、お前がこれまで見てきたのとは違う。この映画は始まった瞬間から、見ているものをストーリーに参加させるのだ。
――もう、そろそろ始まる!
 今度は、黒人たちはいっせいにそう叫んだ。

 巨大な大理石の球の中から、目のつりあがった中国人か韓国人の女が飛び出してくる。彼女たちは、三人のようでもあり、四人であるのかもしれない。皆けばけばしく艶のある長い袖の衣装をつけ、そのまばゆい光沢は狂気を感じさせた。僕はその場を逃げ出した。
 走ると、血の泉がそこらかしこに湧き出ている。その間を通る凸凹の道は、僕を冷たくあしらう。気がついてみると、僕は、どこか暗い部屋の中で女の膝に顔を埋めていた。女の顔は見覚えのない顔で、それでいて懐かしい、美しい、美しい顔だった。
――美しい……美しい。
 うわごとのように僕は繰り返す。女は浮き出るような鮮やかなピンクの衣に身を包んでいて、右手で僕の頭を撫でている。女が言う。
――あなたは幸せでしたね。
――なんのことですか? それに、あなたはいったい誰です?
――私は「絶対者の女」です。あなたは幸せでした。あなたは私に気に入られたのです。
――気に入られた? 僕が……。僕は……いえない。適切な言葉をどこかに忘れてきたらしいのです。気を悪くしないでください。うまくいえないのですが……僕は、あなたになりたい。
――そう。ここにいる以上、あなたは私です。私はあなたを気に入ったのだから。
――僕を……。誰かほかにもここに来た人がいるのですか?
――誰もがここに来ました。そして映画を見て……けれど、皆、私の気に入らなかったのです。
――それはなぜです? どうして? どういう行動を映画の中でとればあなたに気に入られるのです?
――べつに。なんの決まりも基準もありません。すべて私の気まぐれなんですもの。
――では、あなたに気に入られなかった人はどうしたのです?
――私の命令で、虎に食べられてしまいました。
――虎に食べられた? 多くの人が……彼女に気に入られなかったために……僕は彼女に気に入られ、こうして膝に顔を埋めている……。

 二

 ふと気づくと、僕は友だちふたりと一緒に歩道を歩いている。ふたり――KとYは、妙にニヤニヤ笑いながら、いそがしく口を動かし、僕のほうをときどき横目で見る。けれど、彼らが何をしゃべっているのか、僕には少しも聞こえない。ふたりは、僕より先へどんどん歩いていく。少しずつ彼らと僕の距離が開き、そのうちKとYの姿は動物園の門の中へ消えてしまった。門までかけってゆき、中を見ると、ふたりがすばやく物陰に隠れる気配がした。
――ふん! 僕があそこを通りかかったら、ふたりでおどかすつもりだな……
 僕はそう考え、そっと彼らの隠れたコンクリートの建物に近づいた。壁の陰から、僕が顔をのぞかせると、目の前にはふたりの人間がいた。当然のように思えるだろうが、実はそうではない。そのふたりとは、KとYではなく、見知らぬ白人男だったのだ。そのうちの一人が、僕を見たとたん、叫んだ。
――こいつ、いつの間に脱走しやがった!
 僕は、気の遠くなるのを感じながら、昔――それはたぶん僕が0歳以前のころだろうが――自分が囚人だったのを思い出した。

 三

 檻の中にいた。鳥かごをそのまま大きくしたようなその檻の、中くらいの高さのところに板が渡してあり、僕はその板に腰かけて、ポカンと口を開けていた。
 下には虎が三頭見える。まだ虎は檻の中には入っていない。
 檻の外にはYがいて、僕にいろいろと慰めの言葉をかけている。そんなことより、僕は時間を気にしている。空腹であることから判断しても、もう正午は過ぎたはずだ。虎たちもそろそろ腹を空かしているだろう。
 案の定、一頭の虎が、僕をにらみながら檻の中に入ってきた。猫のように、冷たい金属製の檻にじゃれつきながらも、絶えず僕のほうをうかがっている。
 僕はというと、Yの言葉をひとことも漏らさず聞き取ろうとしている。そうすることによって虎を意識しなくなり、そうすれば虎が消えるだろうと思っている。

 四

「結局、主人公は、『絶対者の女』に裏切られたんだね」
 夢の中の僕は言った。
「いや、違う。彼は女が自分を気に入ったということを知ってしまい、それを知ったうえで、もう一度映画に参加したんだ。選ばれることの快楽をもう一度味わうためにね。けれど、今度はうまくいかない。女に気に入られようという意識が働き、それで逆に、女の気分を損ねてしまったのさ」
 夢の中でも、Yは、いつものように聡明である。
 一、二、三のストーリーは、実は、夢の中のYが持っていたピンク色の表紙の本の内容である。
 そのとき、夢の中の僕は、白と黒のストライプの表紙の本を持っていたのだが、それが、なんだかひどくつまらない本なので、少し恥ずかしかったのを覚えている。

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