麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第22回)

2006-07-02 00:00:56 | Weblog
7月1日

立ち寄ってくださって、ありがとうございます。


いなづまに悟らぬ人の尊さよ

 正確にはどういう表記かわかりませんが、これは、いまや「えんぴつで奥の細道」が評判の、芭蕉の句です。以前書きましたが、高校時代、私はこの句を読んで芭蕉を好きになり、大学に入ったらその研究をしたいと思っていました。(実際は、日本文学科にさえ進みませんでしたが)
 この句は、私が最初目にした本では(いまは手元にありません)、つぎのような意味だととらえられていました。
「稲妻が光り、雷鳴が響く夕立の中、多くの人が、恐れ、慌てふためき逃れて行く。そのかたわら、『私は何事も悟っているから平気なのだ』とうそぶき、のんびり構える聖人(しょうにん)もいる。しかし、聖人だから危害が及ばないということがあろうか。慌てふためく人と、聖人のどちらが尊いだろうか」
 悟っているという人にだって落雷はふりかかる。恐れて逃げた人たちのほうが偉いのではないか、というわけです。しかし、私は、この解釈をそのままには受け取れませんでした。もし、そうなら、「尊い」という強い言葉を使うでしょうか。
 たとえ、それが学問的に正しいとしても、私はこの句をそう解釈して感動したわけではありません。
 私にとっては、この句の意味はつぎのようなものです。
「稲妻が光り雷鳴が響く夕立の中、多くの人が、恐れ、慌てふためき逃げて行く。そのかたわら、『私は何事も悟っているから平気なのだ』といって人々をあざ笑い、じっとしている聖人がいる。しかし、どちらが本当に悟った人間なのだろうか。悟ろうとして思考だけの生活に入った時は、一度世界はまったく意味を失うが、悟り終われば、現象は以前より強烈な意味を持って帰ってくるという。また、起こることと起こることの差異も以前以上に明確に感じられ、それに対して純粋な反応をしてしまうようになるという。――人生が死で終わる以上、人生には最終目的はないのであり、目的に意味がないのなら、過程がすべてであり、過程をよく生きることが、つまりそのときそのときの現象や状況に純粋に反応して生きることが、なによりも大事なのではないか。そうならば、本当に悟っているのは聖人ではなく、稲妻に驚き恐れ、逃げ惑う人々のほうではないか。自覚はなくても彼らは、それを楽しんでいるのだ。稲妻に驚き恐れ逃げ惑うことを楽しむことで、人生を聖人より、よく生きているのだ。」
 散文で書くとこんな感じの気持ちが句には込められていると、私はいまでも思います。思想的には、芭蕉の到達点が、これだったのではないでしょうか。
 芭蕉=忍者説もあり、また、奥の細道にしても、パトロンから結構な金をかき集めて行ったリッチな旅だったというのが定説になっていますが、少なくとも芭蕉の中の思想家は、文章から受け取るままの、ストイックでしかも現実肯定のかっこいいじじいだったと思います。

では、また来週。
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