10月12日
新潮文庫から、なんとサリンジャーの新刊が出ました。「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年」です。生きている間に、新潮文庫のサリンジャーが四冊になるなんて想像もしなかったこと。すごい。もちろん、単行本として出たときに買いましたが、今回もすぐに買いました。「ハプワース~」をまた読みました。もちろん、全部が理解できたとはとても思えないし、全部に共感できたともいえませんが、読むたび、この作品が少しずつ好きになっていきます。
誰でもそうだと思うのですが、この、とっつきにくい作品を読んでいて最初にひっかかってしまうのは、7歳のシーモアの性欲についての記述です。初読のときは思わず眉をしかめて一度本を手放しました。いくらシーモアが早熟すぎる天才でもこれはないだろう、と感じたから。でも、自分の子供のころをよくよく思い出してみれば、ここで直接いうのは恥ずかしいのでいいませんが、たしかにときどき猛烈な性欲を感じることがありました。年を取っていつのまにかそのことを忘れていたんですね。平凡な自分にしてそうだったのだから、シーモアにとってはこれは自然なのかもしれない。だんだんそう感じるようになりました。また、後半の、シーモアの読書希望リストですが、ここにドストエフスキーが一冊も入っていないことに以前はどうも納得できないものを感じていました。ですが、「エズミに捧ぐ」にカラマーゾフの引用があるのを見ても、作者はドストエフスキーを嫌いではないはず。ここは、7歳の特殊な登場人物の選んだものとして除外されたことに大きな意味はないと考えることにしよう。そう思いました。
むしろ、この作品の中のシーモアのセリフ、「煙草一本に火をつけることさえ、宇宙の芸術的許可が気前よく与えられなければ不可能なんだよ」が、「悪霊」のステパン・ヴェルホーベンスキーのセリフ、「ただひとつ、美がなければ、人類は生存しえないのだぞ、なぜならば、美がなければ、この世においてすることがまったく何ひとつなくなってしまうからだ!」と完全に呼応しているところを見れば、シーモア自身が、もう1人のドストエフスキーなのかもしれません。彼らは続けてこう叫ぶのです。「君たちはこのことを知っているのか、げらげら笑う者どもよ。私は一歩たりとも引かないぞ!」と。地上で最も美しい男、ドン・キホーテのように。
新潮文庫から、なんとサリンジャーの新刊が出ました。「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年」です。生きている間に、新潮文庫のサリンジャーが四冊になるなんて想像もしなかったこと。すごい。もちろん、単行本として出たときに買いましたが、今回もすぐに買いました。「ハプワース~」をまた読みました。もちろん、全部が理解できたとはとても思えないし、全部に共感できたともいえませんが、読むたび、この作品が少しずつ好きになっていきます。
誰でもそうだと思うのですが、この、とっつきにくい作品を読んでいて最初にひっかかってしまうのは、7歳のシーモアの性欲についての記述です。初読のときは思わず眉をしかめて一度本を手放しました。いくらシーモアが早熟すぎる天才でもこれはないだろう、と感じたから。でも、自分の子供のころをよくよく思い出してみれば、ここで直接いうのは恥ずかしいのでいいませんが、たしかにときどき猛烈な性欲を感じることがありました。年を取っていつのまにかそのことを忘れていたんですね。平凡な自分にしてそうだったのだから、シーモアにとってはこれは自然なのかもしれない。だんだんそう感じるようになりました。また、後半の、シーモアの読書希望リストですが、ここにドストエフスキーが一冊も入っていないことに以前はどうも納得できないものを感じていました。ですが、「エズミに捧ぐ」にカラマーゾフの引用があるのを見ても、作者はドストエフスキーを嫌いではないはず。ここは、7歳の特殊な登場人物の選んだものとして除外されたことに大きな意味はないと考えることにしよう。そう思いました。
むしろ、この作品の中のシーモアのセリフ、「煙草一本に火をつけることさえ、宇宙の芸術的許可が気前よく与えられなければ不可能なんだよ」が、「悪霊」のステパン・ヴェルホーベンスキーのセリフ、「ただひとつ、美がなければ、人類は生存しえないのだぞ、なぜならば、美がなければ、この世においてすることがまったく何ひとつなくなってしまうからだ!」と完全に呼応しているところを見れば、シーモア自身が、もう1人のドストエフスキーなのかもしれません。彼らは続けてこう叫ぶのです。「君たちはこのことを知っているのか、げらげら笑う者どもよ。私は一歩たりとも引かないぞ!」と。地上で最も美しい男、ドン・キホーテのように。