麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第855回)

2025-03-29 10:26:25 | Weblog
3月29日

新潮文庫から、ヘミングウェイ「河を渡って木立の中へ」が出ました。まったく情報を持っていなかったのでびっくりしました。これまでずっと読みたいと思って、ネットや古本屋で何度か探したのですが、翻訳されたこと自体邦訳全集以外ではないみたいで、それを読もうにも高価すぎてとても買う気にはなれませんでした。昨日店頭で見てすぐ手に取り、買ってきました。すごくうれしい。ヘミングウェイのどんな本の解説にもこの作品は失敗作だと書いてありますが、そんなことどうでもいい。本人が完結させた最後の長編小説を読める。それだけですばらしいと思います。
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生活と意見 (第854回)

2025-03-15 10:45:55 | Weblog
3月15日

「風景をまきとる人」の中に「ピーナツ」という表記が出てきます。これは、もちろん、チャールズ・M・シュルツの作品のタイトルなのですが、おそらく「『ピーナッツ』ではないのか」と思われた方がけっこういらっしゃると思います。たしかに現在、日本語表記はすべて「ピーナッツ」です。が、私が中2のころ、初めて「おはようライナス君」を買ったときは、ツルコミックスという版元のシリーズで出ていて、日本語表記は「ピーナツ」でした。語り手の丸山は私より二歳年下ですが、彼が回想するならそれはツルコミックスであり、そうなら「ピーナッツ」ではなく「ピーナツ」だ、と考えてそうしました。どうでもいいような話ですがいちおう、書きました。ひさしぶりの更新がこんな内容ですみません。
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生活と意見 (第853回)

2025-02-15 09:32:38 | Weblog
2月15日

なんとなく、また、旺文社文庫で「暗夜行路」を読んでいます。漢字が少ないので読みやすいです。で、横滑りして、短編「赤西蠣太」をまた読みました。志賀直哉は、いま写真で見ると、昔の日本人にしてはハンサムだという印象を受けますが、おそらく、作家自身は西洋人風に毛深い(時任謙作は、自分の手が熊みたいでみにくい、ということに強いコンプレックスを持っています)ことやほりの深い顔について少なくともプラスの気持ちは持っていなかったのだと思います。その、容姿コンプレックスが生み出したと思われるのが「赤西蠣太」です。シンプルに言ってしまえば、醜い自分を作品によって救う、そんな自慰的行為のようにも感じられます。醜くても、朴訥で、豪胆で、正直であれば、それをわかってくれる美しい女は必ずいる。全編漫画仕立てのユーモアの中に、そんな醜男の夢が閉じ込められている……65歳の老人が読んで、気持ち悪い話ですが、また泣いてしまいました。
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風景をまきとる人 10

2025-01-05 08:07:57 | 創作
第13章



 僕は足田久美と、顔を合わす機会があると、その夜の予定を聞き、不都合がなければそのたびにホテルに行った。仕事の打ち合わせもホテルでした。
 泊まっていくときもあったが、だいたいは終電前に別れた。
 お互いに「部屋に行きたい」とは一度もいわなかった。彼女は東横沿線だったから行くのはやはり渋谷が多かった(当時の言葉でいえば「坂上がり」というやつだ)。ホテル代はいつもワリカンだった。そのうち僕は資金不足になったが、『D』ではけっこう自由に仮払いがもらえたから、その中から出しておき、冬のボーナスで精算しようと考えていた。
 それほど、僕は彼女に夢中だった。
 いや、正確にいうと彼女とのセックスに。
 彼女とのセックスには、タブーがなかった。といっても変な意味ではなく(変な意味も多少あるが)、順番とか、相手を満足させるには? といったようなことを考えずにそのとき思いついたことを始めるとすぐに受け入れてくれる――それは、彼女にもともとある傾向があったからだろうし、また、経験豊富だったからだろう――いい方はおかしいが僕にはとても自由な感じのするセックスだった。
 僕にはこんな経験は初めてだった。陽子とはそんなことはなかった。
 セックスそのものもそうだし、これが、「好き」というところから始まったのではなくて純粋に欲望から始まった関係だということも。



 久美とこんな関係になる前、僕は、ひまがあると、夜飲みに出かけたことは前に書いた。菊池さんがそうするのがいいといっていたからだ。
 そうして行った先々の店で、年齢も、やっている本の内容も違う先輩編集者や、フリーライターや、カメラマンにたくさん出くわした。それが勉強だと思っていた僕は、初め、よろこんで彼らの話に耳を傾けていた。
 いろいろな話を聞いたような気がする。たぶん、ためになる話もそこにはたくさんあったことだろう。
 しかし、僕が翌日、二日酔いの頭でいつも真っ先に思い出すのは、昨夜彼らが一番多用していたフレーズ、「あいつはバカだ! なにもわかっていない」だった。
 この「あいつ」の部分には、マスコミ媒体に登場するほとんどすべての人名が代入されたといっていいだろう。彼らはその「あいつ」が、「バカでなにもわかっていない」証拠を、とりわけ下半身のうわさを中心にして、無数にあげてみせることができた。それは、おそろしい情報量で、僕は、それを筆記するだけでも毎晩ひとつの図書館が建つに違いないと思ったほどだ。
 これほどの、他人についての情報量に比べると、彼らが自分自身について持っている情報量ははるかに少ないようだった。それは、すべて遠まわしの、あるいは直接の「自慢話」と呼ばれる種類の情報だった。それらは量は少ないが、ひと晩のうちに何度も何度も繰り返されるので、結局それに割かれる時間は、他人についての情報が披露される時間と同じか、むしろそれより多くさえなるのだった。
 そうして、よく聞いてみると、他人についての情報も、実は彼ら自身の正しさ、すばらしさを導き出すための参考資料として提出されていたのだとわかる。
 つまり、結局のところ、長い夜を徹して語られるのは、実はすべて彼らの自慢話であり、また、「わたしは正しい」という主張だけなのだった。
 学生時代の語学のテキストに、誰かの言葉で「あらゆる文学は自己弁護である」とあったのを僕は覚えていたが、そんなに遠慮することはない、と、よく思ったものだ。それよりこう言えばもっといいだろうと。つまり、「あらゆる発言は自慢話である」と。
 ――皮肉な調子で書いたが、要するに、ひと月もたつうちには、僕は飲み歩くのにうんざりしてしまったのだ。僕にはどこの店に行っても、ドアをあけた瞬間こちらを振り返って見る客の顔が、早川と新堂の二人の顔にしか見えなくなった。



 夜だけではない。
 昼間――つまり、『D』での仕事にも、僕は自分にとって三冊目になる号の準備にとりかかるころには、すでにうんざりしていた。
 もちろんその第一の理由は、忙しさだったろう。『ギャル通』のときよりなぜ大変になったかは前に書いたが、このころになると、自分ひとりで担当しているページにくわえ、二大特集(ひとつは「女」特集、もうひとつは「金」特集と呼ばれていた)にも、アシスタントとして関わるようになっていて、仕事量は前より増えていた。おかげで僕のスケジュール帳はほとんど分刻みで月曜から土曜(ときには日曜まで)まで、売れっ子タレントなみにびっしり埋まっていた。
 ためしに当時のメモで、ある一日を追ってみると、まず、午前中に新中野で劇作家の取材、そのあと四ツ谷まで戻ってスタジオで「ボーナス特集」の撮影補助を一時間。それから会社に戻り、「社内遊泳術」のラフ組みを仕上げて、千駄ヶ谷のデザインスタジオへ。ようやくここで食事をし、そのあと六本木に移動。スタジオでヌード撮影補助のあと夜八時半に帰社し、終電まで原稿待ちと校正、となっている。
 時期によっては、机についての作業と外での作業の量が逆転することもあるが、いずれにしても、ほぼ毎日これと同じ量の仕事が僕を待ち構えていたのだ。
これではいくら二十二歳(あと少しで二十三歳だったが)の若造でも、多少はバテずにいられないというものだ。しかも、これだけの量をこなしても、タレントのようにギャラが上がるわけではない。一カ月にたった二~三日、映画会社を回ってポジを借りてくるだけで、「けっこう大変なんだよ」とボヤいている新堂と同じ給料なのだ。これではうんざりしてしまうのも当然だったろう。
 だが、その忙しさ以上に僕をうんざりさせたのは、実は雑誌編集者という仕事の性質そのものだったかもしれない。たとえば、いま取り上げた一日の、スケジュールをこなしていく僕の頭の中をのぞいて見たとすると、朝には劇作家にサミュエル・ベケットの話を聞き、人間の不条理といった問題にしばし思いをはせる。しかし、四ツ谷のスタジオに入ったとたん、今度は、「二十七歳サラリーマンの平均賞与額」のデータの数字と、ボーナス期を狙って売り出される新製品の新しい機能に心奪われる。その一時間後には、「社内遊泳術」の大見出し小見出しをどうつけるのかで頭はいっぱいになり、またその一時間後には、『ギャル通』で撮って以来ひさしぶりに会うモデルの子と、コーヒーを飲みながら、その子の本職である「ぼったくり店」で最近起こった事件の話を聞く……。
 これを見ればわかってもらえると思うが、雑誌編集者に望まれる能力とは、頭の切り替えが早いこと、社交性のあること、そしてなによりも、ひとつのことにこだわりを持たず、とにかく前に進んでいけることだ。
まあ、ひと月に一日くらい、こういう日があるのならそれもいい。
僕にしても、当時は、頭の切り替えがそれほど遅いということもなかったかもしれないし、社交性もないわけではなかったろう(どちらもいまでは自信がないが)。
しかし、これが毎日、一週間、ひと月続くとなると別問題だ。
 やがて僕は、雑誌編集者とは、スポンジのようなものだと感じるようになった。色のついた水(企画のテーマ)を吸い取り、体を絞って振りながら読者に向けてその水をまき散らす。またつぎつぎにべつの色のついた水を吸い取っては同じことを繰り返す。あくまで「吸い取ってまき散らす」だけで、なにひとつ自分で消化するわけではない……そんなスポンジのようだと。
 そうして、こんなことを続けていれば、やがては、もともとの自分の色を失っていくだけでなく、最後には何を吸い込む弾力もなくなり、生地はぼろぼろに崩れていくことだろうと。
 ひと言でいえば、僕には向いていなかったのだ。
 なぜなら、世の中には、ただ変化を追っているだけで心の底から楽しめるという人々が存在するし、彼らは何千回吸い取り吐き出しても疲労などしないわけだから。
 そういう人々こそがこの仕事には向いているわけで、僕がうんざりしたのは、もともと適性がなかったからだ。
 そうして、それは当然のことだった。入社して、配属の変更があったときから、自分の悩みは、異動さえあれば解決すると思い込んでいた。でもよく考えてみれば、僕はもともと編集者志望だったわけではない。学生時代、音楽雑誌とマンガ誌以外ほとんど雑誌を買ったことがないし、その作り手になりたいと思ったこともない。ミニコミは「遊び」だからできたのだし、音楽に関することを仕事にする気はなかった(だってプロになってしまったら、自分の書きたいことを書くわけにはいかないだろうから)。ただ、就職活動がめんどくさくて、できれば朝が遅く、できればスーツを着なくていいような仕事につければいいと思っただけだ。
『D』に行きたい、というのも、早川や新堂からすれば自分たちと同じで、僕の「野心」のように見えたかもしれないが、それはただ『ギャル通』から逃げ出したかっただけで、僕はこの仕事に野心もなにも持っていなかった。

 ――ほかにもうんざりした理由はいくつかある。いちいち詳しくは書かないが、ひとつだけ例をあげると、それは『D』の編集者たちの中途半端なプライドの高さだ。いちおうすれすれの一般誌だとはいっても、『D』の一番の売り物も、結局のところは「裸」だった。ところが編集部内ではなぜか、それらのページはゲテモノ扱いされていて、そのほとんどを担当している副編の石和田さんなどは、部内では一段下の編集者に見られていた。
 フリー編集者のひとり、大岡さんは、大手出版社を辞めてきた人だったが、よく僕に、
「きみはエロ本をやってたんだって? よくできるね、あんなもの」
と言った。そのくせ、彼は自分の担当でもないグラビアの撮影に必ず顔を出して、呼ばれてもいない現場でモデルにひどく見下したような口を利き、その機嫌を損ねてはカメラマンや石和田さんを困らせていた。アルマーニだのグッチだのブランド品で身を固めた彼の口癖は、「感性」で、その言葉は、彼が記事を他人より遅れて完成させるまでに、彼の口から飛び出し続け、腐りかけたバナナみたいにたたき売りされるのだった。
 またデスクの神崎になると、もっとひどかった(面接のとき、右端にいたあの若い男だ)。彼は、大学も菊池さんの後輩に当たり、偏差値的にはこの会社にいるのがおかしいくらいの元エリートだった。彼は、ほかのページでは原稿チェックをそれこそ重箱の隅をつつくようにマメにやる立派なデスクだったが、ことグラビアのページになると、ほとんどポジに触りもしないで、すぐに入稿袋に放りこんだ。まるでそれが病原体だとでもいうように。
僕はときどき「サリーちゃんのパパ」に、こんな編集部の雰囲気についてグチったが、彼は、つねに眠そうな太い声で「ま、いいんじゃない」と言うだけだった。
『ギャル通』に戻りたいとは一度も思わなかったが、ここに来て僕は、あの秋元さんが、いつか自分の仕事について言っていた明快な言葉をよく思い出したものだった。
「俺たちの仕事? そりゃ、紙くずを作ることだな。紙くずを、紙くず払って読者が買う。で、その紙くずでオナニーして紙くずを使ってふき取る。で、使い終わったら両方とも紙くずとして捨てられる。んー」

 ――それでも僕がやめようと思わなかったのは、部屋に戻りたくなかったからかもしれない。外でいそがしく動き回ることで、陽子から逃げていたかったのかもしれない。ちょうど二年前、サークルにバイトに授業にといそがしく過ごすことで、就職の問題と向き合うのを避けていたのと同じように。
そうして、こういう環境の全部が、余計久美を求めさせた、と思う。この時期、ほかのすべてのことより久美が与えてくれるもののほうが、僕には比べ物にならないくらい大事なものだった。もちろん、僕は夜飲み歩いたりすることもなくなった。



 油尾についてひさしぶりに聞こえてきたうわさは、ひどいものだった。
 十一月初旬のある日、午後二時半ごろ、そんな半端な時間でもやっている平河町の定食屋にひとりで「やっこ定食」を食べに行ったとき、偶然野坂さんに会ってそこで話を聞くことになったのだ。
それによると、油尾は、いまやほとんど「会社に住んでいる」といっていい状態になっていた。
たしかに、僕が『ギャル通』にいるころから、仕事で遅くなったときや、翌日朝イチが入稿の締め切りだったりした場合、油尾はよく会社に泊まっていた。アルバイトだからという遠慮があったのだろうが、中沢さんがいいといっても、なかなかタクシーで深夜帰宅しようとはしなかったからだ。それでも、僕の知っているかぎりでは、週末には必ず家に帰ったし、校了後のひまな時期は、ちゃんと定時には帰っていたはずだった。ところが、最近では、週末も校了も関係なく、油尾は会社から出ようとしなくなったという。
 もちろん、彼の抱えている仕事量がかなりのものだったのは僕も認める。たった四人の編集部から僕が抜けて、そのぶんがほとんど彼の担当になったのだし、「下」のほかの編集部の人たちもあいかわらず彼に自分たちの仕事を手伝わせていたからだ。
だが、この点に関しては、僕が異動になってまもなく、九月の末ごろ、中沢さんと秋元さんは手を打った。二人は油尾のほかにもうひとりアルバイトをとることにしたのだ。ところが、雇われた夜間部大学生は、根性がなく――というより普通だったのだろう――三日で辞めてしまった。油尾を見て、ここにいても仕方ないと思ったのかもしれない。
 それでも、そのころはまだ、「住んでいる」ところまではいっていなかった。ただ、そのころから油尾は、以前は絶対そんなことは言わなかったのに、撮影でモデルの女の子に会うと「いいお尻してますねえ」とか、「おっぱいは何センチですか」などと出会い頭に聞き、ときには女の子に触わったりして、嫌がられていたらしい。そのことを中沢さんと秋元さんに注意されても、「僕は完璧な仕事人になるのです」と、わけのわからないことを言ってやめなかったという。
ちょうど、僕があのヤラセの撮影の打ち合わせで「下」に行ったのは、そんなときだったのだ。
 では、いつごろから「住んでいる」ようになったのかを聞いてみると、それはやはり、約一カ月前のあの撮影の日あたりからだった。
もちろん、「下」の全員が、あの撮影での「射精事件」のことを知っていた。それが、油尾のもともとおかしな頭に大きな打撃となったということは誰から見ても明らかだった。
 だが、そのことで彼に同情する人間はひとりもいなかった。
 彼らは、初めから油尾と足田久美がつき合い始めたことを、油尾の裏切りだと感じていた。中沢さんと秋元さんの二人はべつとして、彼らは、油尾が「バカ」だからこそ、どんなことをいってもやっても許したので、「バカ」が普通の男のように女を手に入れようとするのは、越権行為だと思ったわけだった。彼らが油尾をペットのように扱っていた、といったのは、その点から考えても当たっていた。――飼い主はペットが自分を咬もうものなら、今度は情け容赦なくそれを殺すこともするのだ。
 油尾が足田久美にひどいフラれ方をした、という情報は、彼らの復讐心を満たした。と、同時に、一部の、以前から足田久美に欲望を感じていたらしい人たちは、この事件の『射精』という点にだけ目をやり、自分たちも久美と現場で一緒になればそういうことが起きるのではないか、そういうことをしてくれるのではないかとおかしな期待をしたらしい。けれども、久美は二度とモデルをやろうとはいわなかったし、誰もそれを強く頼むわけにはいかなかった。彼らは久美の後ろに原葉さんがいるのを知っていたし、彼がどういう人間かも知っていたからだ。
端的にいえば、この事件で「下」の全員が、自分たちが思っていたとおりの結論を新たに手にしたというわけだった。つまり、油尾は頭がいかれていて、足田久美はヤリマンということだ。
「会社に住む」ようになってしばらくの間は、応接間のソファが、油尾専用のベッドになっていた。しかし、彼が起き出す時間には、すでに広告関係の客が来ていることもあったから、結局小林さんに追い出され、いまは四階の例の小道具兼衣装倉庫を仮眠室のように使っているということだった――『D』に来てから、僕はあのヤラセの撮影以外では、衣装倉庫に用事がなくなっていた。ギャランティも合わせると二十~五十万円もかけて『D』ではスタイリストを雇えたからだ。

 ――僕と久美のことは会社の誰にも気づかれなかった。
 久美のE出版でのほとんどの仕事は「下」の仕事で、「上」の人は彼女をあまり知らなかったと思う。同じく油尾のことも。また、「下」の人たちには、油尾と彼女のことが目をひいていたし、「下」には僕の動向など伝わるわけもなかったからだ。なにより、「下」の人たちは僕に興味がなかったと思う。
 油尾は、僕たちのことを知っていただろうか? それはわからない。
 久美があの撮影の日以来、油尾とほとんど話もしていないことは確かだった。『ギャル通』で久美が仕事をしていたページは、いまは油尾から取り上げられて、中沢さんと秋元さんが見ていたからだ。
 僕は久美のことで、油尾に対してそれほど罪悪感を持っていたわけではないが、なんとなく彼を避けていて、会社やその近所ですれ違うと、向こうがあいさつをすれば「ああ」と言って返す程度だった。
 


 野坂さんに油尾の話を聞いた数日後、僕は四時に、久美と原宿で待ち合わせをした。彼女がべつの出版社との打ち合わせで午後からその街にいたからだ(菊池さんには「資料集めに行って来ます」と嘘をついた)。
 その日は、彼女に会いに会社を出かけるまでに、二つの、あまり普通とはいえない出来事が立て続けに起こった。
 そのひとつ目は油尾とのことだ。仕事が一段落ついたので昼食に出かけようとドアを出たとき、油尾がちょうど衣装倉庫から出てくるのに僕は出くわした。カーテンの向こうから、例の黒いパーカーを着た彼がのそのそ這い出てきたとき、僕は一瞬、高校時代に読書感想文を書くために読んだ(課題図書の中で一番薄い本だったから選んだ)カフカの『変身』の、あの「虫」が出てきたのかと思った。
 まともに油尾と向き合ったのはほとんど一カ月ぶりだった。
「おはようございます」
「いままで寝てたの?」
 僕はエレベーターのドアに向かったたまま、左側から近づいてくるものにそう声をかけた。
「朝十時ころまで仕事をしていたので、中沢さんにお願いして仮眠をとらせてもらったのです」
 油尾との距離が縮まるとつんといやなにおいがした。
「それでは失礼します」
 油尾は僕の後ろをかすめ、階段のほうへ行こうとした。エレベーターはなかなか上がって来なかった。
「仕事人、あまり家に帰っていないんだって?」
 僕はその後ろ姿に言った。
「ええ。以前よりページも増えましたし……といってもそれは丸山さんのせいではなく、僕が責任を持つページが増えたので……グラビアも僕ひとりで二本持ってるんですよ」
 油尾は立ち止まって答えた。
「そうなんだ……」
 僕は少し皮肉を言ってみたくなった。
「修業は進んでるの? 自分の」
「いえ……」
 油尾は一瞬暗い表情をした。しかし、すぐに思い直した、というように僕を見て、
「そんなことはもうどうでもいいことです。僕は間違っていたのです」
と言った。
「前に丸山さんにもいわれましたよね。ただの夢の話だと。そのとおりだったんです。あんなこと考えるなんて本当にばかばかしい」
「『風景をまきとる人』と『にせものの女王』は?」僕は聞いた。
 油尾は、めずらしく、ははは、と大きな声で笑った。
「あんなもの! ただの妄想ですよ。八年間も誰とも会話をしないで、異常な暮らしをしてきたせいでそんな妄想を信じるようになっただけの話です。あれから、心理学の本で読んだのですが、神経症の患者は、幻聴や幻覚に悩まされるそうですね。僕もそれだったのですよ。……それより僕はいま、完璧な仕事人になりたいと思っているんですよ。どんな男でも必ず勃起できる完璧なエロ本を作る仕事人に。そうして本を売り、収益を上げて、自分にも還元してもらい、お金持ちになりたいのです。ほしいものがたくさんあるような気がするし、なによりも、僕は資本主義社会の中で自分を殺さないで生きている、つまりこの世界を肯定して生きているんです。ですからどこからどこまでもその肯定を貫き、肯定して徹底的に肯定して肯定……」
そこまで一気にまくし立てると急に油尾は咳き込み始めた。やがて、目を真っ赤に見開いて、その場に膝をついた。
「だいじょうぶ?」
 僕はやってきたエレベーターに乗り込んで、『開』のボタンを押したままでそう聞いた。いつか油尾がいっていた「発作」でも起こすのではないかとしばらく観察していたが、すぐに様子は落ち着いた。
「ええ。大丈夫です。本質的には僕はいつも大丈夫なのです。……どうも……ありがとう」
 油尾は膝立ちのまま、そう言ってこっちに頭を下げた。
「たまには帰って寝たほうがいいよ」
 僕はボタンから手を離した。
「ええ、ありがとうございます……」
 閉まる直前、扉のすき間から、立ち上がろうと片膝を起こした油尾の姿が見えた。
 ――たしかに、油尾は「異常な暮らし」のせいで「幻覚」を見てこの仕事を志望し、あの面接の日に僕と会うことになったのかもしれない。だが、僕の目には、それを自覚していると本人がいういまのほうが、なんだかあの日の油尾よりはるかに異常に見えた。



 もうひとつはその二時間後の出来事だ。
 電話の内線呼び出しが鳴った。僕は三時半には会社を出られるように、急いでラフレイアウトを考えているところだった。受話器を取ると、
「マルか?」
と、中沢さんの声が言った。
「三番、原さんなんだけど出てくれる? おまえと話したいって」
「原さんが?」
「うん。……おまえ何かやったのか」
「原葉さんに? なにも」
「そう。じゃ」
 三番を押して電話に出るまでのわずかの時間に、僕はものすごいスピードで心が緊張するのを感じた。わざと強くボタンを押して受話器を耳に当てた。
「なろー、なめんなよ。こら」
 全部の音節に濁点がつくほどの大声が飛び出した。
「もしもし、原さんですか」
「ですかじゃねえ! おまえが久美とやったのはわかってるんだ、この野郎」
 予想したのとまったく同じ展開になると不思議とその場では落ち着いて対応ができるものだ。僕は以前の夜中の電話を思い出していた。あのときも、彼は何かに酔っていたが、今日もそうに違いないと思った。それに、なんとなくだが、久美が僕のことを原葉さんに話していないのは確実だと直感した。原葉さんはただあてずっぽうに言っている、そう判断した。
「落ち着いてくださいよ。なんのことですか」
「おまえがやったんだろ? 久美からみんな聞いて……」
「やったってなにをですか」
 原葉さんは四文字言葉を三回叫んだ。
「そんなことあるわけないでしょう? 誰がそんなこといったんですか、まったく」
 僕は少し怒ってみせた。
「本人がいったんだよ」
「足田さんが、僕とそうしたと?」
「E出版の奴だっていうところまではわかってるんだよ! だがいままでの奴らじゃない。あいつらは俺のことを知っているからな。……新しい奴らの誰かだ。絶対に。おまえだろ? 丸山」
 まだばれていない。その尻尾をつかんだ。鎌をかけているだけだ。
「申し訳ありませんが、ちがいますよ」
 僕は小役人のように事務的に言った。
「おまえだ」
「原さん、俺、いま忙しいんですが」
「……本当か。本当に違うのか」
 原葉さんの声のトーンが、がくっと落ちたのがわかった。
「俺が原さんに嘘つくわけないでしょう?」
「じゃ誰だ? ソーロー野郎は」
「え」
「久美がいったんだ。そいつはソーローだったってな。ソーローはダメだよ。ソーローは」
 実をいうと僕にはそのひと言が一番ショックだったかもしれない。いや、でもこれだって、きっと彼の頭の中で作られたものだろう。
「とにかく俺は、最近ほとんど話もしたことがないですよ。足田さんと」
 原葉さんはしばらく黙っていた。
「原さん、俺、仕事が……」
「わーったよ。じゃあまたな、ソーロー」
 向こうで勝手に切った。僕は受話器をゆっくり置いた。
 菊池さんがわざわざ立ち上がってこっちへきた。
「誰から?」
「カメラマンの原葉さんです」
 僕は言った。
「なんかすごく怒鳴ってるみたいだったね。こっちまで聞こえたよ」
「原さん、酔っ払ってるんですよ。前にもあったんです」
「あの人もいろいろ、あるからな。長くやってるけど、いまひとつ大きくなれないカメラマンだし、ジレンマもあるんでしょう」
 菊池さんはその自分の解釈に満足したみたいだった。原葉さんとは、誘われれば飲みに行くし、話もするが、仕事では一度も彼を使ったことはない。彼はそういう人だった。



 僕は久美と二人で、原宿から明治通りをゆっくり渋谷のほうへ歩いた。僕は昼の出来事の話を切り出そうかどうしようか迷っていた。
 途中、レンガ色のビルの中にあるそば屋で軽く食事をしている間も、ずっとそのことを考えていて、いつものように会話ができなかった。
「今日、若いサラリーマンの人が、祐天寺のホームで近づいてきて、ナンパかなと思ったら、『パチンコの景品って当日限りですか?』って聞いてきたの。『違うと思います』って言ったら『どうもありがとう』ってそのまま行っちゃった。なんかおもしろいでしょ?」
 久美は言った。
「うん……」
「なんか今日変だよ、丸山さん。やめとく?」
「いや……いやだ」
「ふーん」
 店を出ると外はもう真っ暗だった。――いまは明治通りのこのあたりにも、店がたくさん並んでいるが、当時は店はおろか街灯すらほとんどなくて、「ここが原宿と渋谷の間?」と、びっくりするくらい暗い歩道が続いていた。人通りもうんと少なくて、へたをすると宮下公園の下でラーメン屋の屋台のオヤジの顔を見るまで、人間の顔に出会わないことさえあった。ほぼ並行して走っている青山通りがメインストリートだとすると、こちらは一本奥に入ったところにある『通学路』といった感じだった。
 僕たちは狭い歩道を手をつないで歩いた。誰も見る人もなかった。恵比寿の古着屋で買ったという大きな皮のハーフコートを着た久美は、時々僕のジャンパーのポケットに片手を入れてきて、中指で手のひらをくすぐった。
 渋谷の明かりがすぐそばに感じられるようになったころには、僕の頭の中には、もう欲望しか存在していなかった。

 いったん欲望を吐き出してしまうと、僕はまた、昼のことを思い出した。
 僕はより自分にとって気になることのほうを――つまり原葉さんのことを、久美と彼との関係のことは問わずに簡単に報告した。
「原さんが?……そう」
 あお向けに寝ている僕のすぐ横で、腹ばいになってタバコを吸いながら久美が言った。
「で、どういったの?」
「もちろん、ぜんぜん知らないっていったよ。たぶん、今日のことも覚えていないんじゃないかな、前もそうだったから」
「前も?」
 僕はいつかの深夜の電話のことを話した。
「そんなことがあったんだ」
 僕はほんの一瞬、なぜか久美の表情が子どものようにやわらかくなるのを見た。
「あ、俺、べつにそのことについて何も聞く気はないから」僕は言った。
「当然よ。わたしも話す気ないし。わたしも丸山さんに何も聞かないし。……あ、でもわたし、もちろんいってないよ、丸山さんのこと。だいたい原さんにはもう半年以上会ってもないし、話もしてないし」
 僕は、ふと言葉が足りなかったような気がして、
「そういっても、俺が久美ちゃんを本当に好きじゃないっていうことじゃないんだ。そりゃ、初めはそういう気持ちだけだったかもしれないけど……」
 「そういう気持ち」がどういう気持ちかは、久美に解説する必要はなかったろう。そのまま放っておかれたら、僕は油尾のように「愛している」とでも言い出しかねないところだった。だが、久美が止めてくれた。
「やめて。わたし、言葉なんてなにひとつ信じてないから。意味ないよ。わたしが信じてるのは……」
 久美は、まだ自然に回復するには何分かかかりそうな僕のペニスを握って、
「わたしに対していま硬くなっているっていう事実だけよ、フニャチン」
と言った。
「どこが?」
 そう言って、僕は二~三回、尻と太ももに力を入れてみた。すると、十度ほど頭をもたげた。それを見て二人で笑った。

 ホテルを出る少し前に、僕は油尾のことも話した。名前を聞いただけで彼女の顔は曇った。彼女は服を着たままベッドの端に座わり直し、バッグから折りたたんだ紙を取り出して僕に渡した。僕も腰かけた。
「これ、読んだ?」
 それは『ギャル通』の例の「メルヘンコーナー」の一ページだけを切り取ったものだった。僕は『D』にきてから、ほとんど「下」の本を見ていなかった。だから、そのページもいま初めて見た。裏側にはなつかしい「パンティプレゼント」の応募要項が印刷されている。

 ――少年は、ようやく修業を終えて騎士となり、ある夜、月の光で身を清めてから「風景をまきとる人」を待つ。彼は、以前と同じ方法で、風景のじゅうたんにまきとられ、「向こう側」へ入っていく。すると、二人の「大きな人」が現れて、彼を女王の部屋の前まで連れて行く……。
 それが、久美が教えてくれた前回のストーリーだった。
 
『メルヘンコーナー 第六回』

 騎士は女王の部屋の前に立って、上を見上げました。すると、そこには、
『いないし、いなかったし、これからもいない』
と、書いてあるではないですか……。
 その瞬間、ここまで騎士を連れてきたふたりが、大声で笑い始めました。
 驚いて見てみると、ひとりは小学校の同級生で優等生だった雪村くん、もうひとりはやはり、とても優秀だった林くんに変わっていました。
「女王は? 女王は?」
 騎士はふたりに問いかけました。
「そこに書いてあるだろう? そんなものは『いないし、いなかったし、これからもいない』んだよ」
 雪村くんが言いました。
「そんなバカな。あれほどはっきり、僕は女王を見たのに……」
「それは、きみのお話の中にだけいる人物なんだよ。きみは、世界中の人が一冊ずつ手に持っている本の中の、どのページにも登場しない。きみがいなくても、誰ひとり困らない。きみはそれを生まれたときから知っていて、ただ自分ひとりのためにこんなばかげたお話を作り出したんだよ」

 そのとおりでした。
 騎士は、自分がいつのまにか、鳥かごを大きくしたような檻の中にいて、止まり木の上に座っているのに気がつきました。下には三頭の虎がいて彼のほうを見上げ、恐ろしいうなり声を上げています。
 いまそばにいたはずの雪村くんと林くんは、檻の外に立って、こちらを見ておかしそうに笑っていました。そこには、ふたりに肩を抱かれるようにして、騎士の『思い姫』の姿も見えました。彼女は、ぺろっと舌を出し、にやりとしました。その顔は『にせものの女王』と、そっくり同じでした。 

                                 おわり

                  ☆メルヘンコーナーは、これで終わりです。



「とうとう敵役にされちゃった……わたし。まあ、当然だけどね」
 久美はそう言って唇だけで笑った。
「『いないし、いなかったし、これからもいない』か……そういえば、仕事人、『風景をまきとる人』が見えなくなったって言ってたな。夏ごろかな?」
 僕はその紙を手にしたまま言った。
「そうか……。たぶん、わたしのせいね、それは」
 そう言うと、久美はベッドの上に上体を倒してあお向けになった。
「今日なんて、神経症患者の妄想だったとまで自分でいってたし……」
「そう……」
「さっきもいったけど、いまは完璧な仕事人になるって張り切ってるみたいだよ」
 僕は、となりに座ったまま、彼女のほうを見ずに言った。
「それでいいんじゃないかな。誰でも子どものころから持っているおとぎ話は一度捨てなきゃいけないんだし。そこからまた自分の新しいお話を手に入れるしかないのよ、みんな。わたしが考えたとおりにはならなかったけど、これで油尾さんが変わっていくことは確かよ」
 久美は、寝転んだままで言った。
「仕事人は、いま、子どものころの自分を捨てようとしているっていうこと?」
 僕は紙から顔をずらして、ほんの一瞬、久美の顔を見おろした。
「そうよ」
 彼女は自信に満ちあふれているようで、きれいだった。だが、僕はいつものように彼女にもう一度触れようとは思わなかった。なぜだかわからないが、その紙の上の文字から目が離せなかった。「いないし、いなかったし、これからもいない」……。僕はそれがなにかの予言か呪文のような気がしてちょっと胸騒ぎがした。足先が冷たくなってきていた。



「忙しいから」という言い訳だけで、陽子と顔を合わさない日が二週間も続いた。そんなことはこれまで一度もなかったことだ。
 きっと、ひとりで僕の部屋で待っているのも退屈だったのだろう。初めの何日かはメモを残して、来たことだけ知らせていたが、そのメモもやがてなくなっていた。
 その日、久美と会ったあとで帰ってくると、マンションの廊下に線香のにおいが充満していた。寒さのせいもあるが、ふいに墓地にでも紛れ込んだような気がして僕はぞっとした。
 外から見上げたときにはカーテンが閉まっていてわからなかったが、ドアを開けると、めずらしく明かりがついていた。
「これ、なに?」
 部屋に入るなり、僕は陽子に聞いた。
「お帰りなさい。……隣のおじいさんの、田舎のお母さんが亡くなったんだって、しばらく前に。大家さんに会ったらそういってた」
「それで、こんな時間まで……。お経でも上げているのかな」
「そうみたい。……時々聞こえるから」
 僕は、隣の部屋のドアを見ながら、ひとり暮らしの老人が、母親の成仏を願って読経する姿を想像した。主役のじいさんがもともと役者であるだけに、ドラマのワンシーンのような月並みな絵しか浮かんでこなかったが、すぐ隣の、僕の部屋とつながった同じ床の上にその場面がいまあるのかと思うとあまりいい気持ちはしなかった。
 その夜、陽子はめずらしく、自分から僕にセックスを求めてきた。そうして、終わると、すごく冷静な声で言った。
「最近、量が少ないね」
 それは、飼い犬に「最近ご飯食べないね。どうして?」と、話しかけているみたいだった。




第14章



 カタストロフは、その数日後、何の前兆もなくやってきた。
 その日めずらしく「下」にいあわせた僕はその一部始終を見ることになった。
 昼過ぎにデスクの神崎に呼ばれて、
「今度の号の、カラー二ページの写真集のパブが飛んじゃって、なんとかしなくてはならなくなった。『ギャル通』で、余りポジを借りてきてくんない? 夕方まででいいから」と言われた。
 二ページなら三カットもあれば足りる――そのころにはもうすぐにそれくらいの判断ができるようになっていたが――そう考えて、三時ごろ気楽な気持ちで僕は「下」に降りて行った。
「お、上の人だ」
 野坂さんにいつものようにそう言われながら、僕は以前の自分の机に着いた。中沢さんと秋元さんは撮影に出かけていた。
この椅子に座っていたのはもう何年も昔のような気がする。すぐに油尾に頼んで余りポジを何人ぶんか出してもらい、ライトテーブルでどの子がかわいいか調べ始めた。
 二人目の子のポジを見ていたときだったと思う。視界の端っこでものすごい勢いでドアが開くのが見えた。反射的に顔を上げると、原葉さんが死人のように青い顔をして、こちらへ近づいてきた。ひと目で普通の精神状態ではないとわかる足取りで。しかし、表情はいつもと同じように薄ら笑いを浮かべていた。
 僕は彼がこちらへ来る四~五秒の間に、さまざまなことを考えた。
――やっぱりしゃべったんだな……そういう女だったんだ……手を出すべきじゃなかった……謝れば?……いや、しらを切り通して……ここにはいま男が十一人いる……斉藤さんはたしか柔道初段だったよな……初段なんて駄目か……もっと実用的に考えろ……なんで俺が「下」にいるってわかったんだろう……。
 たぶん、足が震えていたと思う。なんにしても殴られるのは仕方ない……そう覚悟をしたとき、僕は原葉さんが、椅子に座った油尾を蹴り飛ばすのを見た。
 油尾は途中まで椅子に乗ったまますべり、それから床にたたきつけられた。その椅子を机のほうへ蹴り上げて、原葉さんは油尾を追い、腹ばいになった油尾の腰へ両足で乗った。幾度かツイストをしてから乗ったまま右足を上げ後ろ頭を踏んだ。どこからかはわからないが鈍い音がした。それから原葉さんは体から降り、膝をついて油尾の髪の毛をつかんで無理やり仰向けにさせた。
「なろ。白痴のくせに」
 そう言って頭を床にたたきつけると、今度は馬乗りになり、握りこぶしで顔を何度か殴った。
 僕はただ呆然とそれを立ち上がって見ていた。
 ようやくライトテーブルの向こう側から斉藤さんと野坂さんがやってきて原葉さんをはがいじめにした。僕もその場へ行った。
「原さん、やめてください!」
 斉藤さんは何度もそう言って原葉さんをなだめようとした。
 原葉さんの顔は、やはり笑顔のままだった。
「おまえのような生まれてこなければよかったようなバカが女とやろうなんて思んじゃねえ」
 仰向けになったまま動かなくなった油尾を、自由になる靴の先でしゅっと蹴りつけながら原葉さんは叫んだ。
「死ね。なろ」
「マルちゃん、救急車。呼んで。早く」
 野坂さんが叫んだ。僕は机に戻り、一一九、一一九と自分の耳に聞こえるように言いながら番号を押した。一一〇番も一一九番もいままで一度も使ったことがなかった。いま初めて使っているなあ、と思いながら。



 救急車が来るまでにそれほど時間はかからなかった。
 野坂さんに上半身を抱きかかえられた油尾は、眠っているように見えた。額は割れて、外から何かに打ち抜かれたように一点から血がいく筋か流れ出ていた。
 野坂さんが、たぶんそんなものは役に立たないはずなのに、会社に常備してある救急箱を取りに行っている間、僕は代わりに油尾の体を支えていた。「下」の男たちはほとんど全員が原葉さんを取り押さえるのにかかりっきりになっていた。
 僕の気持ちは不思議なほど落ち着いていた。
 野坂さんが立ち上がって向こうへ消えたとき、油尾が目を開いた。そうして、ふだんとまったく変わらない口調で言った。
「丸山さん……僕はまた間違えるところでした。……『風景をまきとる人』はいましたよ。はっきり見えたんです、いま。彼らは僕が来るのを待っている。早く『にせものの女王』を退治して自分たちを自由にしてくれと。いま、僕に頼んできたんです。……僕は行きますよ。……丸山さん、久美さんに謝っていたと伝えてください……あれは復讐の動機で書かれたものです。それも『にせものの女王』の仕業だったのです、と……僕が女王を討ち取ったとき……いいですね、丸山さん……討ち取ったとき、世界の全部が入れ替わるはずです……丸山さんにはそれがわかるはずです。覚えていてください……僕は……」
「仕事人、あんまりしゃべんないほうが……」
 そのとき、びくんと体を震わせて、油尾は一瞬自分の力だけで上体を垂直に起こした。そして、目の前の虚空に向かって叫んだ。
「逃げまいぞ! ここな卑怯未練のたわけどもが。汝らに立ち向かうはただ一騎の騎士なるぞ!」
 だが、開いた口からはどろりとした血が出てきて、言葉は濁った。僕には「逃げる」「卑怯」だけがはっきりとわかって、自分のことを言われているのかと思ってどきっとした。だが、それはまったく違っていた。いまここに書いたのがその全文だが、それが、『ドン・キホーテ』の一節だということは、それからおよそ十年後に初めて知った。油尾が最後に叫んだのは、ドン・キホーテが、あの有名な場面で、風車に向かって述べた口上だった。



 驚いたことに、翌日油尾は死んだ(内臓破裂による出血性ショック死ということだった)。
 驚いたことに、というしかない。死がこんなに身近にあっけなくくるものだとは考えたこともなかったからだ。
 老人の死なら、死の知らせ自体はやはり急だったとしても、頭の隅でいつもその存在は年を取り続けているので、こんなふうには感じられない。
 自分とまったく同世代の、さっきまで自分の目の前にいた人間が、それと同じ状態になったといわれても、当時の僕にはよくわからなかった。
 殺人という事件そのものもそうだ。
 なぜならそれが行われたのは、僕の職場、編集部だったからだ。
 編集部は雑誌を作る場所だ。写真を見たり、原稿を書いたりする場所だ。
 僕は目の前ですべてを見ていたのに、編集部と、殺害現場という二つの言葉が頭の中でうまく結びつかないままでいた。
 うまくいえないが、ニュースにしても、映画にしても、それはもうこの目に入ってきた時点で、カメラによって切り取られている。その場所がどんなところでも、僕たちは初めからそこを殺害現場として見る。そこがべつの目的で建てられたものだとしても(もちろん殺人を目的に建てられたものなどないわけだが)、そこはまさに殺人という行為とだけ結び付けられた場所に見える。
 ところが僕は、編集部を、以前の習慣でしか見ることができなかった。以前の意味にしか。
 ようやく一日たって、新聞で「現場は、被害者の勤務していた……編集部で」という記事を読んだとき、初めてそれが殺害現場なのだと理解できた。



 ことの真相は、どうやらこんなふうだったらしい。
 誰もが知っているように、足田久美と原葉さんの関係は、もう二年ほど続いていた。それが、早川と新堂のいうような関係だったかどうかは知らない。
 だが、その関係は、このところうまくいっていなかった。理由は、原葉さんが新しく自分でスカウトした久美よりひとつ下のモデルにかまいきりだったからだ。久美は、このことで、原葉さんと距離を置こうとした。それがどういう感情から出たものだったかはわからない。あきれて本当に別れたいと思ったのか、それとも、そうすることで、原葉さんが自分を追いかけてくると思ったのか。
 いずれにしても、久美は原葉さんを避け始めた(油尾が「告白」をしたのがちょうどこのころのことだった)。原葉さんは自分に原因があるなどと考えずに、すぐに久美の新しい男関係を疑った(僕のような男には、このあたりの彼の心理はどうしてもつかみがたいものがある)。
 原葉さんは、もし新しい男ができたのなら、E出版の関係者だろうと、直観的に思ったらしい。最初、夜中に電話をしてきたのもそう思ったからだったろう。
 実は、彼が一番疑いを持ったのは、早川だった。それは、たんに、彼が今年の新人の中で最も女慣れしていてモテそうだと考えたからだ。
 原葉さんは、僕たちが知らないところで早川を呼び出し、自白させようともしたらしい。
 早川は、すぐに自分の潔白を表明し、代わりに油尾のことを話した。久美と油尾の二人がときどき会っていることを、まるで自分がどこかで目撃したかのように告げた。だが、初めのうち、原葉さんは、笑ってそれを否定した。
「いくらなんでもあの『バカ』に、久美が惚れるとは考えられない。それに、あの『バカ』が女を口説けるとも思わないしな」
 だが、真相はわからず、久美はあいかわらず原葉さんに会おうとしなかった。それで、今度は僕が疑われることになったのだ(それは実は正解だったわけだが)。二度目の電話を名指しで僕にかけてきたのは、その疑念がピークに達したときだったのだろう。
 あのあと、もう一度、原葉さんは早川を呼び出した。
 今度は早川は、例の『射精事件』のことをしゃべった。いったいどういうふうにしゃべったのか知らない。いつもやっていることを撮影でもやって二人でじゃれあっていた、とでもいったのだろうか。原葉さんは激昂した。よりによって「バカ」が真犯人だと知らされて。
「いやー、僕、殺されるかと思ったよー」
 早川はあとでそう言った。誰かに聞かれるたびに何度も。もちろん、井上さんにも尾ひれをつけて自分の冒険談を語ったことだろう。
 それがあの事件の前日の夜のことだった。おそらく、原葉さんは一睡もしないで自分の気持ちを高めてでもいたのだろう。あのときの真っ赤な目は、怒りのためだけではなかっただろう。

 原葉さんは、傷害致死の現行犯で逮捕された。
おまけに、家宅捜索を受けた自宅からは大麻が大量に出てきて、大麻取締法違反にも問われた。
油尾と久美には実質恋愛関係はなかったし、もともと久美と原葉さんも不倫関係なわけだから、原葉さんには油尾をたんなる思い込みでたたき殺したという以外の事実は何もなかった。いってみれば、殺したいから殺したのだ。当然、執行猶予はつかなかった。実刑何年だったかは覚えていないが、二つの罪を合わせた量刑はかなり重かったと思う。
 これらのことはすべて、かなりあとになってから、自分自身も参考人として取調べを受けた久美に聞いたことだ。



 油尾は社員ではなかったし、職場を離れて個人的に親しくしている同僚がいたわけでもないので、会社としては香典を包む以外、公的にはなにもしないことになった。ただその意思のある人が通夜にだけ顔を出した。
 結局、小林さん、中沢さん、秋元さん、それに僕と足田久美だけが南武線のHという小さな町の油尾の実家に行った。僕以外はちゃんとその場にふさわしい黒のスーツで来ていた。そんなものをもっていなかった僕は、リクルートスーツの上に、何年も着たことのなかった黒のダウンを羽織って、黒のネクタイだけキオスクで買って結び、なんとか体裁を整えた。
 玄関を上がってすぐの六畳が片付けられてそこに簡単な仏壇が作られ、棺が置かれていた。そのとき、僕は初めて、彼の義父と義母の姿を見た。年齢が同じくらいだからだろう、父親のほうは、僕の父親と似ていると思った。
 来るときはばらばらだったが、帰りは五人で駅まで歩いた。駅前に小さな商店街があった。「H銀座」と、アーチに出ていたので、一番後ろを歩いていた僕は、久美に、
「ここにも銀座があるよ」
と、話しかけたが、久美は何も答えなかった。

 武蔵小杉でとりあえず解散ということになった。僕は渋谷から乗り換えることにして、久美と東横線に乗った。二人とも何も話さなかった。
 久美は自分が降りるはずの駅をやり過ごした。それでも、僕はなにも聞かなかった。
 結局僕たちは、山手線に乗り換え、新宿で降りて歌舞伎町に行った。自覚していたわけではないが、ある意味、お祓いをするようなつもりだったかもしれない。僕は夜に飲み歩くのをやめてから、この町には足を踏み入れていなかったが、いまひさしぶりに派手なネオンや、酔っ払いや、客待ち顔の風俗嬢たちを見てなんだかほっとした。
 コマ劇場の手前の店で、ひとり1500円のしゃぶしゃぶ定食を食べ、ビールを少し飲んだ。
 会話はいつもの調子を取り戻したが、二人とも油尾のことは何も話さなかった。
 時間も考えずに、外に出て、映画館を見て回ると『バック・トゥ・ザ・フューチャー』という映画の先行オールナイトをやっていた。おもしろいかどうかも考えず、僕たちはその映画館に入った。赤い絨毯の上で、一時間ほど待った。
 何も期待していなかったので、映画はよけいおもしろかった。僕たちは思い切り笑い転げた。終わると、なお思い出し笑いをしながら外に出て、靖国通りで道の向こうとこちらに別れた。
 僕のほうが早くタクシーをつかまえた。乗り込む前、僕は向こう側の久美に大きく手を振った。久美は長い黒いコートの前を合わせ、うなずいた。
 


 マンションの前に着いたのは四時過ぎだったと思う。隣の老人も眠っていたのだろう。廊下には、このところずっとしみ付いていた線香のにおいはしなかった。ひょっとすると、油尾の通夜で吸い込んだにおいが免疫になっていて感じなかっただけかもしれないが。
 部屋の中は真っ暗だった。僕は忘れないように、さっき手渡された小さな塩の包みを取り出し、紙袋を破って体にふりかけてから入った。
 電気をつけて、上がり口にお茶の缶の入った袋を置き、奥へ進んだ。
 念のため、つぎの部屋の電気をつける前、ベッドの上を見た。布団はきちんとかけられていて誰もいる気配はなかった。
 そのまま奥へ行き、電気をつけた。何かが少しいつもと違っているような気がしたが、それがなんだかは最初わからなかった。
 カーペットの上に座り込み、テレビのリモコンを手にしたとき、ようやくわかった。
 陽子の姿見がなかった。
 眠気でぼんやりしていた頭が急にさえてきて、胸がどきどきし始めた。
 手に持ったリモコンの下には、ギターが転がっていたが、その弦の二フレットあたりに白い紙が載っていた。僕は直感的になにか不気味なものを感じた。まるで、ギターが死体で、その紙の下には閉じられた目があるとでもいうように。
 陽子の手紙だった。

 陽子はしばらく前から中村とつき合っていたらしい。詳しい経緯など聞きもしなかったが、聞いて答えをもらっても仕方のない話だ。
 手紙を読んだその日――つまり、通夜の翌日の日曜日――の夜、陽子から電話があった。
 どこからかけているのかはわからない。
 ただなんとなく、陽子の部屋――あの三人で住んでいた部屋――からではないことはわかった。
 陽子はいきなり怒ったような口調で、なぜ僕と別れたいのかをまくし立てた。こんなにしゃべる陽子をこれまで僕は見たことがなかった。
 僕は手紙を読む前、たぶん、僕がべつの女とつき合っている――正確には「つき合っている」とはいえないが――ことに感づいたのだと思ってどきどきしたのだが、彼女は手紙でも電話でもそのことには触れなかった。たぶん、自分の新しい恋愛関係と、僕と別れるというイベント(?)をこなすことだけで頭はいっぱいだったのだろう。
 陽子は実に的確に僕の欠点を並べてみせた。
 優柔不断で、何かを決めるときも、「これがいい」と言わずに「いいよ、べつに」と、必ず言ってしまうこと。自分のことは棚に上げて人の批評ばかりをすること。なにをやっても本気ではなく、いつも適当にやっているとうそぶくこと。
「一行何千万円のコピーライター? あなたがそんなものになれるわけがないじゃない? あなたは結局何もしない人よ。いつも安全なところにいて、人の批評ばかりして、自分が一番偉いと考えながらただ生きていくだけ。わかっていたけど、わからないようなふりをしてきたの。べつにあなたがお金持ちになりそうだと思ったから好きになったわけじゃないし、やさしくしてくれるならそれでいいと思ったのよ。でも、間違いだった。あなた、わたしに初めて会ったときのことも覚えてないでしょう? 最近だって、なんでときどきわたしがお酒を飲んで帰ってくるか、そんなことも考えたことがないでしょう?」
 そうだ。最初に会ったときのことはよく覚えていない。実は僕はどちらかというと、陽子と一緒に来た友だちのほうが気になっていたからだ。――酒を飲んで帰った? たしかに、一度気がついたが、それは会社で飲み会があったからだと陽子はいったはずだ。
 中村のことはもちろん、なかなか話そうとしなかったが、僕のほうから話を持っていくと、とうとう「そうよ」と言った。
「あなたはわたしを持っていることで満足している。でも、わたしを必要としていない。中村さんは違う。わたしでなければダメだといってくれるの。……中村さんはわたしをずっと見ていてくれた。わたしだけを。感動したわ、大学のころの話を聞いて」
 僕の頭の中で「感動」が「カンドー」といういつも仕事で使い慣れた表記に変換された。職業病だ。
 僕は、ショックを受けていた。ショックを受けていたが、受けながら頭の隅で、なぜだか陽子が演技をしているようだと感じていた。せりふではいろいろないい回しになって表現されているが、結局、彼女はいま、中村との新しい関係が楽しいこと、もっといえば新しいセックスが楽しくて夢中になっているということを全身で訴えているだけなのではないか。ときどき、涙声になって別れの悲しみを表現するのも、その楽しさに薬味を加えているだけなのではないか、と。
 僕は引き続き聞こえてくる僕への非難や中村への賛美をBGMに、べつのことを考えていた。

 たしかに僕は大学に四年間在籍し、卒業した。
 サークルに入り、目いっぱい動き回り、仲間と遊び、飲んだ。恋愛もした。授業はそれほどまじめに受けたとはいえないが、試験は友だちからもらったコピーと一夜漬けの勉強でのりきり、留年もしなかった。誰が見ても、また、あとで自分でそれを語るようになるにしても、「充実した学生生活」といっていい四年間だったはずだ。
 なのに、僕は、本音をいえば、大学にも仲間たちにもどこか白々しいものを感じることがあった。
 四年間のあと、僕の中に残っていたもの……それは、受験生のころ『赤本』を買ってきて、「学生生活」の項目を読み、十五秒ほど、これから過ごすかもしれない大学生活を想像したあとの感覚と、なにひとつ変わらないものだった。
 それを想像ですまそうが実際に体験しようが、僕には同じ価値しかなかったのだ。
 そうして、そのことを知っても、僕はいつものことだと思っただけだった。子どものころから、ずっとそうだったから。
 だって、あらゆるパターンの少年時代も青春も人生も恋愛も、これまですべて、すでに誰かによって経験されている。僕はただ、それをなぞっていくだけじゃないか……。
 つまり、巻末に解答のついた問題集を、わざと解答を見ないように解いていくだけ……それが僕にとっては生きるということの実感だった。
 そうして、死ぬ前に、答え合わせをし、「まあ、七十五点だからいいか……」と思いながら死んでいく。それが人生だ、と。
 もし、久美の言った「おとぎ話」が僕にもあるのだとしたら、こいつがそうだったのかもしれない。あまり楽しい「おとぎ話」ではないが。
 あのとき「現実教」を擁護したのも、べつに大金持ちになりたいとか、快楽をむさぼりたいとか思ったわけではない。そんな大変そうなことをこの僕が考えるわけがない。
 それはただ、最後の答え合わせをしたときに、何点かでも点数が多ければ、そのほうがいいかもしれないと思っただけのことだ。
 でも、と僕は思う。
 もしその「おとぎ話」を心の底から信じていたのなら、僕はもっとべつのことをやっていたはずではないのか。堅実に将来のことを考え、志望大学を選び、就職活動をし、手ごろな会社に入ることはできたのではないか。陽子のことも、迷うことはなく、そのまま結婚してしまってもよかったのではないか。どちらも答え合わせのとき、「生涯得点」を何点か上げる役には立ったはずだ。
 だが、僕はそうしなかった。なぜか……。
 それは僕が心のどこかで、べつの生き方を望んでいたからじゃないのか? 
 優柔不断? たしかにそうだ。なまけ者? そのとおりだ。だが、その根っこには早い時期に大人たちの現実を知ってしまい、ふてくされてしまった自分がいる。
 だって「世の中はもう変わりようがないし、そこで生きるしかないんだから」、だって「金がすべてなんだから」、だって「俺たちはサルなんだから」、だって「神はいないとわかったわけだし」、だって「老後の不安をなくすためには」……だって……だって……だって……。
 僕は大人たちが、この「だって」の堂々巡りの列にいるのを見た。そこで、たいして深く考えもせず、早いうちからその列にもぐりこんでみたのだ。
行列の中では、つねに退屈しのぎの小テストが行われていた。「金持ちかどうか」「女にモテるかどうか」「頭がいいかどうか」を競うためにだ。そのテストで少しいい点が取れれば、行列が堂々巡りであることなど誰も気にしない。
 死んだ人間は道端に放り出されている。その背中には彼の「生涯得点」を書いた紙が貼られている。だが、その数字が高かろうが低かろうが行列は気にしない。なぜなら彼はもう死んだ人間だからだ。そうして結局のところ誰にも気にされないその生涯得点の数字を少しでも上げられるよう、しかもなるべく楽をして上げられるように人々は知恵を絞る。自分の得点だけには意味があると信じて……。
 わざわざ生まれてきて、習得しなければいけないものがそれだった! 人生はさまざまな可能性を秘めた輝かしいもの、と授業では教えられたが、そんなものウソだ。人生とは、「生涯得点を少しでも上げなければ」という意味不明の焦燥に駆られながら、堂々巡りをすることだ。
 僕はふてくされた。そうして、こう言った。「だってそれが現実なんだから」。それまでただの見物人だった僕も、めでたく「だって」を唱える人々の仲間入りを果たしたわけだ。だって、だって、だって、すべて「だって」だ!
 それはある意味気持ちのいいものだった。なんにでも「だって」をつけて、堂々巡りを正当化するのは。堂々巡りに疑問を投げかけたりする人間には、「だって」を使って無駄なことは考えるな、と教えた。もちろん自分自身にも。
 インテリは、それを理論武装さえしてくれた。新堂が言ったように。「そのマゾヒズムが、僕たちに残された唯一の人間的生き方だ」と。
 ありがたい。堂々巡りばんざいだ!………………ええいっ。クソ。
 クソだ。新堂などクソだ。マゾヒズムなどクソだ。堂々巡りなどクソだ。「生涯得点」などクソだ。
 僕は列から抜け出したい。直線運動を始めたい。どこでもいいから、せめてどこかへたどりつけるように。自分の一歩が、ほんの数センチでも、巻末の解答にはない、誰も経験したことのないリアルな一歩だと感じられるように……。
 そうだ。それが僕の本音なのだ。たぶん……。
 だが、それにはどうしたらいいのか? 世界が堂々巡りの行列にしか見えない僕は? それに慣らされてしまったこの目は? 宝石を回すだけで、世界がべつの姿を現わす『青い鳥』の魔女の帽子でも手に入れるか? それとも新しい「おとぎ話」を? たとえば「風景をまきとる人」のような……。
 何を考えているんだ? あんな半狂人のうわ言を。でも、ひょっとしたら、堂々巡りの列から飛び出ることは、飛び出て直線運動を始めることは、狂人になることなのかもしれないじゃないか? それなら、やめたほうが。だって……。
 
 ――あとで考えれば、僕たちは俗にいう「つき合って三年目はヤバい」の三年目だったし、「学生時代の恋人とは卒業後すぐに別れるか、すぐに結婚するかのどっちかだ」という、とてもよくあるカップルの行く末パターンだったと思う。もちろん、だからといって、当人の痛みが和らいだわけではないが……。




第15章



 僕は十一月末日づけで会社を辞めた。油尾の件が原因ではない。また、陽子のことも直接の原因だとはいえない。ただ、雑誌の編集が自分の本当にやりたいことではない、とはっきりわかったからだ。
 あのとき、電話で陽子の声を聞きながら考えたことも、直接関係はなかった。あれは、油尾の死と、陽子との別れという、非日常的な事件が立て続けに起こったせいで、心理テストなんかでよくある「極限状況クエスチョン」みたいな感じに、僕の心が追い詰められ、この一年くらいのあいだに自分の中にたまっていた思いがでたらめに爆発しただけだ。
 ただ、僕はとりあえず、ひとつずつでもいいから「だって」を減らしたいとは思い始めていた。それから「現実教」の信者でもないのにそのことを標榜することも。
 出遅れたけれども、僕は、自分が本当に向き合わなければいけなかった「現実」に――つまり自分自身に、いまようやく向き合うことができたような気がした。
 そんなに早く辞めたのは、冬のボーナスをもらってからでは悪いと思ったからだ。社長と小林さんは僕を引き止めてくれたが、結局僕は押し切った。ありがたいことに、退職金代わりに、一カ月ぶんの給料をくれたので仮払いだけは精算することができた。
 これからなにをやるのかはまだなにも考えていなかったが、とりあえず今年いっぱいは、休むつもりだった。僕はまだ二十三歳になったばかりだったし、最悪はまた塾のアルバイトでもやれば食べていくくらい平気だろうと思った。

 クリスマスが近づいてくるとI教会のミサのことを思い出した。しばらく足を向けずにいた四ツ谷へ行き、教会の敷地へ入ると、ミサの整理券の告知があった。僕はなんとなく去年と同じように、二枚の券をもらって帰った。
 その夜、僕は足田久美に電話をした。
 久美に会ったのはあれから社内で一度だけで、彼女は打ち合わせ中だったから、あいさつを交わしただけだった。僕は久美にミサのことを話し、一緒に行こうと誘った。
 
 クリスマスイヴの夕方、四谷三丁目の、消防署の隣のビルの喫茶店で僕たちは待ち合わせをした。中沢さんがよく着ていたような、とっくりの白いセーターに黒の革パン革ジャンといった防寒ファッションで現れた久美は、前より少し大人っぽく見えた。
「何度か丸山さんに電話しようと思ったんだけど……まずいと思って。会社も辞めたのに『仕事のことでちょっと』なんて、彼女に言えないじゃない?」
「あ、うん。でも……」
 僕は陽子と別れたことを久美に告げた。
「うそ? まさか、わたしのせい?……そんなことないか」
 陽子のほうからそれを切り出されたこと、学生時代のサークルの先輩といまはつき合っていることも話した。
 僕も久美に電話をかけたいとは思っていた。が、いろいろ考えてやめてしまった。よくわからないのだが、久美と以前のような関係を続けるのは「逃げ」になるような気がしたからだ。男と女の違いがあるのかどうか知らないが、僕にはセックスは「おとぎ話」の代わりにはなれないような気がしたのだ。
「わたしが丸山さんにかけたいと思ってたのは、もちろん、会いたいっていうのもあったんだけど、それだけじゃなくてね……不思議なことがあったんだ」
 久美が言った。
「あの夜……朝かな? 丸山さんと別れて、家に帰ってからも、わたしすぐには眠れなかったのね。それで、七時くらいかな? タバコを買いに行こうと思って、マンションの玄関を出たら、油尾さんがいたの」
「え」
「それがさ、ぜんぜんいつもと変わらないような感じで道の真ん中あたりに立っててね、怖くもなんともないのよ。『油尾さん?』って、あとで考えたら変なんだけど、わたしもそういうふうに呼びかけたの。そしたら、にっこり笑ってふっといなくなっちゃった」
 最後の最後に、久美にひと言あいさつをしたかったのだろうか。幽霊なんてまったく信じないが、直前まで彼女と一緒にいた僕には、久美がそのとき何かに酔っていたとは思えなかった。



 僕たちは七時のミサに出た。
 久美は二年前の僕と陽子のように、人が多いのに驚いていた。
「『今日だけクリスチャン』になった人がほとんどなんだろうね、でも」
 係りの人間が、いったんその時間に集まっていた人全員を教会の前庭に並べてから、整理券を持っている僕たちは優先されて中に入っていった。
 たぶん、天井が高いせいで、外から見るよりも広々として、圧倒的だった。一年に一度、この時期にしかない冷気とにおいがここにはあって、僕はそれをかぎ、自分が一年前からずっとここにいたような不思議な気分になった。
 やがて、外人神父の聖書の朗読が始まった。彼は独特なアクセントで、マイクに向かって日本語で読んだ。

乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った
見るべき面影はなく
輝かしい風格も
好ましい容姿もない

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた
彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
………………
………………

 祈りの時間になり、僕たちは跪いた。久美の体勢が少し崩れて僕は肩でそれを支えた。そのまま久美はそばに寄って来て、僕たちは頬をくっつけた。久美と会うのは「逃げ」だと考えたのじゃなかったか? 仕方がない。僕は二十三歳だったのだから。
 たぶん、去年とは違う人だろうが、僕の隣の白いベールをかぶったおばさんが、僕たちを見咎めて眉間にしわを寄せた。

 ミサのあとは、本当はろうそくを持ってJ大学のキャンパス内から、教会の前庭までをひとめぐりするのだが、僕たちはそれをパスして、敷地の外へ出た。
 ライトアップされた教会と、つぎのミサに出るために庭に集まったたくさんの人々を時々振り返って見ながら、道路を渡り、土手の上に上がった。そうして教会には背を向けて、ベンチに腰を下ろすと二人でタバコを吸った。
 およそ一年前、このベンチに座って、面接試験までの時間つぶしをしたときのことを思い出した。
 あのときは、自分の将来が、ひとつの道のように決められていて、もうそこからは外れられないような気がしていた。
 大学を卒業した時点で遊びは終わり、いよいよ避けられない現実が迫ってきたと。
 だが、いまの僕は、もうそんなふうには感じていなかった。将来は道ではなく、どの方向にでも進める平面のようだと思った。まっすぐ進めとか、曲がれとか指示するものは何もない。それは、ある意味ひどく恐ろしいことのように思えた。
 一年もたたないうちに会社を辞めてしまって正解だったのだろうか? 陽子を手放してこれでよかったのだろうか?
 僕がそんな疑念にとらわれて弱気になったとき、背中から誰かに大声で呼ばれたような気がした。それは、教会の鐘の音だった。大きな、響き渡るその音に押されて、そのとき心の中にあったものは、全部前へ飛び出て行った。
「なにかいま揺れなかった? 地震みたいに、風景が」
 久美が言った。
「うん。……たぶん、入れ替わったんじゃないかな。世界の全部が、いま」
「なんだか油尾さんみたいな言い方だね……」
 僕たちはなにかの痕跡を探すように、空を見上げた。
 新しくなった世界の空は、まるでビロードのマントのように美しかった。

 (おしまい)
                           
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風景をまきとる人 09

2025-01-04 10:48:49 | 創作
第12章



 あの撮影から十日たった日の夕方、僕はエレベーターを降り、一階のドアを出ようとしたところで、足田久美と鉢合わせた。七時前だった。『D』の校了の直後で、その日はめずらしくその時間で帰れることになったのだ。あれ以来、彼女には会っていなかった。
「あ、丸山さん」
 ドアを押し開けた僕の顔を見て、久美は言った。外はもうまっ暗だった。
「こんにちわー、じゃない、わんばんこ」
 僕は大昔の深夜ラジオねたであいさつをし、彼女をドアから入れて、自分もビルの中に戻った。
「『乳頭の色は?』でしょ?」
 久美はすぐにそう返してきた。
「よく知ってるな」
「とーぜん。……これ、野坂さんに届けるだけだから、よかったらお茶飲もうよ」
 久美はイラストが入っているビニールのファイルを上げて僕に見せた。
「いいけど。腹は? へってない?」
 校了作業にかかりっきりで、僕は昼食もまともにとっていなかった。最近は、僕の帰りが遅いので、陽子は部屋に来ている日も夕食の用意はしないのが習慣になりつつあった。ここで久美に会わなくても、僕はひとりで何か食べに行くつもりだったのだ。
「へってるー。これ描いてて朝から何も食べてないんだ」
 いわれて思い出した、というように、久美は体を折り曲げ、前をとめずに着ていた薄茶のダッフルコートの上から胃のあたりを右手で押さえた。
「じゃ、メシ食おうよ」
「うん。じゃあ、ちょっとここで待ってて」
 仕事の打ち合わせでなら、これまでも何度か二人で会ったことはあるが、とくになんの用事もなく彼女と外で会う約束をしたのはそれが初めてだった。
 エレベーターのドアが開いて、ゴマ塩頭の篠宮さんが降りてきた。
「じゃ」
 そう言うと、久美は空になったエレベーターに入れ替わりに乗り込んだ。その場に残って動かない僕と箱の中の久美を、篠宮さんは交互に見ていたが、
「お疲れ様です」
と、僕が少し大きな声で言って、頭を下げると、
「あ、いや……お先」
 そう言って外へ出て行った。



 僕たちは新宿通りを歩いて、四谷三丁目の交差点にある安いステーキ屋に行った。二階のその店からは、道の向こうの風月堂の客席と、丸正バラエティブックスの看板の明かりがよく見えた。
 500円のグラスワインを飲みながら、この間の撮影の話をした。ただ、油尾のことは話題にしなかった。
「どうだった? わたし」
 フォークで突き刺した肉を口に入れる寸前で止めて、久美が言った。
「なにが?」
「写真見たでしょ。ルーペで。穴の開くほど」
 そのとおりだった。今回の撮影に関しては、『ギャル通』で使うものは、もちろん中沢さんがセレクトしたが(中沢さんに現像された写真を渡すとき、僕は自分がモデルの子と風呂に入っている部分は抜いておいた)、『D』で使用するカットは僕が選べた。僕は久美が言い当てたように、「上」のライトテーブルで、彼女が写っているカットを「穴の開くほど」見た。僕はいまでは彼女の胸のどのあたりにホクロがあるかも知っていた。そうして食べている最中も、モスグリーンのワンピースの上に透けて見える白のベストを重ね着した彼女の胸のあたりに、時々目が行くのを自分でも止められなかった。
「かわいかったよ。とくに看護婦さんのパターンが」
「そうじゃなくて、裸のほう。ストロボで『盗撮』した……」
 久美は、「盗撮」にアクセントをつけて言った。最後に撮ったあのカットが誌面では使われないことを彼女は知っていたのだ。たぶん、撮影中から。
「だって仕事だよ。知ってる人の裸なんて正視できないよ」
 僕は嘘をついた。
「そう」
 肉を刻んで口に運び、噛み砕いていると、口の中に欲望がたまってくるのがわかった。あのホクロをいますぐにでも目の前で見てみたいと思った。そう思うと右足に変な力が入って、急に膝から下だけが前へスリップした。ふくらはぎのあたりが、ちょうど彼女の足にくっつくような形になった。僕はそっと力を入れて、ふくらはぎを彼女の足に押し付けた。押されている間、彼女は自分の足を軽くつっぱり、そのあとで今度は押し返してきた。

 食事のあと、思いきってホテルに誘った。地下鉄の入り口のあたりで、だ。角の花屋の店先に明かりがついていてきれいだった。
「ステーキ食べてセックスか……中年のオジンみたいね、わたしたち」
 彼女は小さな円を描いて歩きながらそう言って笑った。
「いいよ。ひょっとしたら来るかもしれないけど……途中で」
「なにが?」
 僕は聞いた。たぶん、まぬけづらで。
「アレ。もう昨日くらいからちょっとおなか痛くなってるし、『やるんだ』とか思って緊張したりすると突然来るときがあるから」
「そう……」
「それに、半年処女だから、ちょっと心配……半分少女じゃないけど」
「オジン的ギャグだな」
「それで口説いてるつもりなの?」
「だって、いつも自分でおじさんだって……」
「帰ろ」
 久美は駅の階段を降りかけた。僕はその腕を強く握った。



「なんでわたしを誘ったの? たまってたから?」
 久美が言った。息が首筋にかかった。彼女は僕の体から降りた。
「違うよ」
 僕は上を向いたままで言った。彼女は僕の隣にうつぶせになった。
「わたしがすぐに裸になったり、誰とでもセックスする女だから?」
 それを冗談だと取っていいのかどうか僕にはわからなかった。が、わからないかぎりは、当然正攻法で行くべきだと思い直した。それで、迷いを知らせないように、なるべく急いで、
「違う違う。前からさ、いいなと思ってたんだよ」
と言った。
「うそだな」肘で上半身だけ持ち上げて、久美はタバコの箱に手を伸ばした。
「本当は丸山さん、わたしみたいな女、タイプじゃないでしょ?」
 僕は左手のてのひらで、不安定になった彼女の乳房を下から支えるようにして包んだ。
「そんなことないよ。タイプだよ」
「ふーん」彼女はタバコを吸い始めた。
「いちおういっとくけど」
 煙を吐きながら、久美が言う。
「わたし、丸山さんが考えてるような女じゃないよ。こないだだって、本当にみんなが困ってるみたいだから脱いだんだし……誰とでも寝るわけじゃないし……基準はちゃんとあるんだ、自分なりの」
「どういう基準?」
「いえない」

「なんにも聞かないんだね? わたしが……」
 しばらくして彼女が言った。僕は、コンクリートの打ちっ放しの壁で囲まれた狭い部屋の、斜めになった天井にあけられた小さな四角い窓から空を見ていた。ガラスが入れられているに違いないが、それを感じさせないほど、すんだ空が間近に見えた。透明度の高いガラスなんだろうな、と、そんなことを考えていた。それで、久美がなんと言ったのか、すぐにはわからなかった。――余談だが、高校生のとき、一番初めにつき合った同級生の女の子と初めての行為が終わったあと、なぜか僕の頭に浮かんできたのは「もっと物理を勉強すればよかったな」という、およそ場違いな考えだった。
「えっ」
「わたしがどういう人とつき合ってるかとかさ。……ま、それならそれでいいんだけど」
 久美はタバコを持ったままベッドから降りた。そうして、すぐそばに置かれたソファに、放り投げてあった備品のガウンを羽織って座り、足を組んだ。
 そうだ。そういうことを聞くのを僕は完全に忘れていた。もし、僕が自分でいったように、以前から彼女を好きで、その思いが叶ってここにいるのなら、当然聞くべきだったはずのことを。だが、今日のことはなによりも、彼女の体への強い欲望が原因だった。僕は彼女の恋人になることなど望んでもいなかったし、いま感じているのは、何かめずらしい料理を食べたくてしかたなくなり、それを食べ終えたといった満足感だった。僕は、彼女についてこの目で見たり(本人かどうかはわからないあの「ウラ本」も含めて)聞いたりしたことを、心のどこかではすべて真実だと思い、結局みんなが彼女に対して抱いているのと同じイメージしか、彼女に抱いていなかったのだろう。だから、そんなことは聞いてみるまでもない、とどこかで思っていたのだろう。
「だってさ。聞けば教えてくれる?」
 僕は、灰皿をとって久美の目の前に――ベッドの端に――置いた。それは、明らかに言い訳めいていた。
「ダメ。もう教えない」
 久美はそのとき、僕との距離のとり方を決めた、と思う。



「久美ちゃん、ひとつだけ聞いてもいい?」
 ベッドの端で、体の片側だけ起こして久美と向かい合いながら、僕は言った。間接照明を最低のレベルにしたままなので、仰角で見ている彼女の顔は暗くて表情がわからない。
「なに?」
「仕事人のことなんだけどさ……」
 その日、油尾の名前を出したのは、それが最初だった。食事をしているときは、その話をすることで場が白けてしまいそうな気がしたし、自分の欲望を自覚してからは、久美の胸のホクロのこと以外頭の中に何もなかった。
 いまはいまで、久美には僕がどういう気持ちで今日ここに誘ったかはすでに見抜かれていたし、そのせいで久美は僕に質問を禁止した。だが、そうでなくても、僕は原葉さんと彼女のことを聞きたいとは思わなかったし、ほかの、僕が知らない男(うわさどおりそういう男たちがいるとして)についてなどなおさら興味がなかった。
 ただ、油尾のことだけはべつだった。もちろん、単に、彼がちょっと前まで僕にとってとても身近な存在だったというのが第一の理由だ。だが、それ以上に、およそかけ離れたプロフィールを持つ油尾と足田久美の結びつきは、僕にとって当初からシュールな謎と感じられたし、そのあと二人がつき合い始めてからの油尾の変化、そうしてこの間の撮影での、大げさにいえばショッキングな別れの場面まで、いったい二人の関係はどうなっているのか、僕にはすべてが謎だったからだ。
「久美ちゃん、仕事人とは本当につき合ってたんだよね?」
 僕は、自分のタバコに火をつけてから言った。
「うん、まあ」
 久美は言った。
「仕事人のどこが好きだったの?」
「自分と似てるところかな」
 何カ月か前にも、彼女がそう言うのを聞いたことがある。そう、あの「拾い」のときだ。
「前にもそう言ってたよね。だけど、俺、そこがもうよくわかんないんだよね。久美ちゃんと仕事人に共通点なんてなにもないように見えるし、久美ちゃんはただ、好奇心で――たとえばエリマキトカゲとかウーパールーパーに興味を持つのと同じでさ――つき合っているのかと思ってたんだけど」
 僕は少し笑いながらそう言った。
「そんなこと、しないよ、わたしは。だって油尾さん、わたしを好きだってはっきりいってくれたでしょう?」
 そう言った久美の目が、一瞬ぎらっと光ったように見えた。
「ちゃんといってもらってうれしかったし、そんな人に好奇心だけからつき合ったりしないよ。断るならちゃんと断るし」
 タバコの煙がベッドの端を流れていく。僕は少し気まずい雰囲気にわざと気づかないふりをして言った。
「仕事人が久美ちゃんに告白したとき、久美ちゃんも仕事人の『風景をまきとる人』を見たとかいってたよね。そこが二人の共通点、なの?」
「見た、とはいってないよ、わたしは。わかるっていっただけで」
 久美は灰皿に灰を落とした。
「そうだっけ? だけど、仕事人のほうは久美ちゃんも見たことがあるはずだって決めつけてたよね……」僕は続けた。
「俺、ほんとのところ、ぜんぜんわからないんだけどさ。仕事人のいう『風景をまきとる人』とか『にせものの女王』ってなんなんだろうね? いつか飲み屋で酔っ払って、長い話を聞かされたことがあるし、『メルヘンコーナー』もいちおう前は読んでたけど、仕事人、自分であんな話を信じているのかな? あんなおとぎ話みたいなことを信じて本当に人間が生きられるのかな? しかもいい大人がさ。いくら子どものころ、ちょっと、その、知恵遅れだったとしてもさ」
久美は組んでいた足をほどいて前かがみになると、タバコを消した。それから両足をそろえたままでソファに深く座り直し、しばらく黙って考えているようだったが、やがて僕の質問には答えずに、こう言った。
「おとぎ話を持たずに生きている人はいない……。誰でも、自分におとぎ話を繰り返し聞かせているでしょう? 世界には自分が必要不可欠な存在なんだっていうおとぎ話を。毎日ね」
 その声はとてもまじめな調子だった。久美の両腿の間をじっと見つめていた僕ははっとして顔を上げた。
「えっ?」
「ストーリーはその人その人で違うけど、最後の一行は全部同じ、『……だからおまえは生きていてもいいんだよ。(おしまい)』っていうおとぎ話を。そのおとぎ話を自分に信じこませるために、いい成績をとろうとしたり、いい会社に入ろうとしてみたり、お金を儲けようとしてみたり、有名になろうとしてみたり……ある人は一億人を支配しようとしてみたり、何百万という人を殺してみたりしてね……。でも、そうする目的はたったひとつ。眠る前に、『……だからおまえは明日もいていいんだよ。(おしまい)』と自分におとぎ話を読んで聞かせることだけ。それで安心したいだけ。そのおとぎ話のストーリーが、油尾さんの場合は、『にせものの女王』と『風景をまきとる人』のお話なのよ」
 久美は膝から下を左右に開いて、両肘を腿の上に乗せ、両手の上にあごを乗せた。
「それは、自分の存在理由ってこと?」
 僕は両肘のすき間から胸元の暗がりにちらっと目をやりながら言った。
「そう」
「でも彼のは、本当の、まるで童話みたいな話じゃない? 仕事人のはさ。現実の中での話じゃないよ」
「何億人の信者を持つ宗教だって、童話みたいなおとぎ話だよ、そういうなら……」
 久美は言った。それから体をまっすぐ起こし、両腕を膝の上に投げ出した。
「たとえばキリスト教は――わたしの短大ってカトリック系だから、『キリスト教概論』は全学部必修になってたのね――『ぶどう園をめぐるお話』でしょ? 持ち主がぶどう園を管理人たちに預けてどこかへ出かけた。管理人は、ぶどう園をどうするのも自由な立場になった。だけど、いつ持ち主が帰ってくるかはわからない。彼が帰ってきたとき、正しくぶどう園を管理していた人はごほうびがもらえる。けれど、不正をはたらいていた人は、重い罰を受ける……持ち主は神で、管理人は人間。そういうお話」
「それは仕事人の話とは違うんじゃない?」
 僕はそれまでキリスト教がどういう宗教なのかはっきり知らなかったし(毎年クリスマスミサに行ったのはただ、その日をいつもとは違うように過ごしたかったからで、早い話、ディズニーランドに行くのと同じ感覚だった)、いま久美が言ったことが正しいのかどうかもわからなかった。だが、どちらにしても、それは、宗教独特の「勧善懲悪」のにおいがして、油尾の、荒唐無稽なおとぎ話とは似ていないような気がしたのだ。
「おんなじよ。ただ、油尾さんのお話には信者がひとりしかいないっていうだけで、まったくおんなじことよ」
 僕は、宗教の話を聞くとき、いつも心にわいてくる反感を感じた。たぶん、それはやっぱり「勧善懲悪」めいたものに対する反感だと思う。僕は、体を起こし、あぐらをかいた。
「でも、そういう宗教の信者たちだって、そんなこと信じてないんじゃないかな、いまは。宗教は、だいたいが、自然現象の原因をまだ人間がちゃんと説明できなかったころの迷信でしょ? 神にしてもさ。いまはほとんどの人がそんなこと、もう信じられないよ」
 そう言った僕は、もう久美の体のどこにも目を引かれなかった。僕自身も久美も服を着て、仕事場のデスクに向き合って座っているような気分だった。
「うん、たぶんね。でも少なくとも何割かの本当の信者にとっては、この世界は神のぶどう園以外のものではないし、ただぶどう園としてだけ世界は意味を持つのよ」
 僕は、だんだん冷静になってくる頭の中で、話の流れを反芻してみた。僕が知りたかったのは、油尾と久美の関係のことだったのに、なぜ、いま話がこんなところに入りこんだのかよくわからなくなっていたからだ。
「じゃあ、とにかく仕事人は、キリスト教徒が世界をぶどう園だと信じるのと同じように、『風景をまきとる人』や『にせものの女王』を信じているんだね? でも、そうだとしても、じゃあ、ぜんぜん宗教に関係ない――俺も含めて――多くの人が、そういうのと同レベルのおとぎ話を信じていて自分に読んで聞かせているっていうのはおかしくない? それは、自己実現の努力で、宗教とは関係ないことでしょう?」
「違わない。やっぱりみんな宗教を信じてるわ、思いっきり」
「どんな?」
「丸山さんの言葉でいえば『現実教』かな。その教えは『成功すれば幸せになれる』……もっといえば『お金があれば幸せになれる』……」
「それは宗教じゃなくて事実でしょ?」
 僕は少し乱暴に言った。
「事実って?」
「……客観的な、本当の、事実だよ」
「丸山さんのいう事実って、多数決のことだよ、ただの。言ったじゃない、世界はぶどう園でもあるのよ。丸山さんにとってはそうでなくても」
 そういうことか、と僕は思った。複眼と単眼では、同じ風景も違って見える。極端にいえばそういうことなのだろう。単眼の生物が多ければ、その見え方が「事実」になる。逆なら事実は逆になる……。
「だけど、金があったほうが人生を楽しめるんじゃないかな? やっぱり」
「世界がぶどう園に見える人には、いまは姿の見えない持ち主に対して、自分が正しい行いをしているという楽しさ以上の楽しさはないのよ」
「でもそんな持ち主が初めからいなかったら? 何にもならないかもしれないよ、その人の正しい行いは」
「じゃあ、『現実教』のほうはどう? お金があっても少しも幸せになれないとしたら? 十持っている人は二十に憧れる。二十持っている人は百に憧れる。でも、それは飢えているっていう点ではゼロの人と同じでしょ? どこまで行っても満足を与えてくれることはない。だけど、ぶどう園の持ち主に正しいことをしているという楽しさは、絶対的な楽しさ……誰かと比べて幸せだと思ったりする必要のない本当の楽しさよ。それに、ありえないけど、完全に満足いくほどたくさんのものを手に入れて長生きしたとしても、最後は死ぬのよ。ぶどう園を正しく守っても何にもならないとしたら、いくら持ち物を増やしても何にもならないことではどちらも同じじゃない?」
「だけど、いろいろな満足を得ることはできるよ。……少なくとも感覚的な」
 僕はただ反論したいからという理由だけでそんな反論を、しゃべりながら作り出していた。
「それならクスリをやってるのと同じね。クスリだって感覚的な満足はできるから」
「それは本当の満足じゃない」
 僕は子どものように、むきになってそう言った。
「また『本当』か……」
 久美は、ほおっとため息をついてから続けた。
「いまは生まれながらに『現実教』の信者になるように、世の中が作り上げられているからね。うまい具合に、誰でもある程度の成績が取れるような勉強のカリキュラムだとか、誰でもある程度の事務処理能力があれば給料がもらえる会社とかね。子どものころから、そんな能力の競い合いで、ある程度満足できる結果を出せた人は、自分が『現実教』の信者だとは気がつかない。でも、いろいろな理由で、早くからそういう『現実教』の中にいられなくなった人もいるのよ。……たとえば、油尾さんは子どものころ、ちょっと、かなり不幸だったでしょ? すごく不幸な体験をした子どもが、心の中にそれを体験していないべつの自分を作り上げるように、そういう体験が起こり得ない世界を、油尾さんは自分の中に作った。それが、『風景をまきとる人』の話になったのよ、きっと」
「でも、仕事人はそうだとしても、久美ちゃんは、その能力の競い合いの中では、満足できる結果を出してきた人なんじゃないの? 十分さ」
「わたしは、しかたなくそうしていたの。父親のためにね。そうすると父親が喜んだから。喜んでくれていると思ってたから。でも、満足感なんてぜんぜんなかったし……父親のほうもね……」
 久美はそこでいったん言葉を切り、
「絶対人の親になってはいけない人なんだ、あの人は」と、ひとり言のようにつけ加えた。
 僕はそのことには触れずに、自分の中で考えをまとめていた。
「じゃ、つまり、『現実教』の信者ではない、っていうところが、久美ちゃんと仕事人の共通点なんだね」
「そう。……でも、丸山さんだって、純粋な『現実教』の信者だとは思えないけど、わたしは」
 僕は驚いた。
「えっ、どうして?」
「だって、丸山さん、さっきからむきになって『現実教』を擁護してるでしょ? なにか、そうじゃないと思っている自分を必死で否定しようとしているみたいに……それに、わかんないけど、もしそうじゃなかったら、わたしも今日ここにいなかったような気がするんだけどね」



 まるで仕事の打ち合わせをしているようだ、と僕は思った。
 といっても、それは僕たちが二人とも事務的に話をしていたという意味ではない。僕のほうは宗教に対するいつもの反感を覚えたときから、おろかにも彼女に論争でもふっかけているような気分になってしまったが、久美はまったくそんなことを考えていたわけではなかったのだ。
前にも書いたが、久美との打ち合わせでは、いつも彼女が先に企画の全体をとらえていて、僕に質問をしてくれたり、先回りしてわざと間違った設定案を提出してくれたりして、僕はそれに答えたり、反論していくことで企画の核心が見えてくることが多かった。いまの話も、彼女はべつに宗教を擁護する立場で、僕をいい負かそうとしていたわけではなくて、僕が核心に近づけるように、意見を提出してくれていたのだということが、僕にはようやくわかったのだ。
 僕はなんとなく恥ずかしくなって、ベッドの上にうつぶせに倒れこんだ。それから、言葉にならないうなり声を上げながら、右手を伸ばして久美の膝に触れた。
「アタマ、どうかした?」
 久美が言った。
「なんちゃって」
 僕は横になったまま顔だけ上げて、右手で「片方なんちゃって」をきめてみた。たぶん、全部わかっているらしい久美の白い歯列が見えた。

 僕は新しいタバコに火をつけて、横になったまま吸った。そうして、ふとさっきの久美の話に質問が浮かんだので、くわえタバコのまま、右手を上げた。
「丸山くん」
 と、久美が僕に当てた。
「ぶどう園のお話だっていったよね? で、持ち主が神様で管理人が人間。じゃあキリストはどこに出てくるの? キリスト教ってイエス・キリストを神様として信じる宗教じゃないの?」
 そう言った僕の頭の中には、「神は」を「紙は」と同じイントネーションで発音する、年末のあの街頭演説(説教?)の声が浮かんで来た。
「ちがう」
 久美は強く言った。
「ちがうわ……キリストは、『もうすぐぶどう園の持ち主が帰ってくるから、そのときに備えて緊張していなさい』ってみんなに注意をしている人よ」
「神様じゃないの? なんでも願いをかなえてくれる」
「人間よ。彼は、みんなに自分と同じくらい緊張していなさいって呼びかけた人間よ。自分のようにしなさいって。でも誰もそれがわからなかった。いえ、わかっていたけど誰もそうはできなかった。だって、毎日二十四時間、姿を見たこともない持ち主が帰ってくるからというおとぎ話だけを信じて緊張していられる? 一分の祈りや、十分の懺悔じゃない、一日中よ。それを来る日も来る日も続けなさいって……。そんな、とうていできないようなことを大声でいう奴は、人間にとって、やっぱりわけのわからない存在でしょ? で、自分にわからないものを人間がどうすると思う?」
「たたき殺す?」
「うん。殺すか、祭り上げるかどっちかよね。彼はその両方の扱いを受けた。殺されて、死んだら祭り上げられて。でも、どっちにしても、人間として扱われなかった。隔離病棟に入れられたのよ、彼は。みんなはその病室の周りを花束や宝石で飾ってはいるけど、ほとんどそこを訪れる人はいないの。そしてほんのときどき、病室の窓に向かって、『全部許してね』ってひとこと言って、また駆け足で放蕩に明け暮れるために帰っていく……彼の顔も見ないでね」
「……隔離病棟? なんか『なかよし学級』みたいだな」
「なに?」
「いや、なんでもない」

 僕たちはしばらく話すのをやめた。僕はタバコを吸いながら、久美の右手をオモチャにして、にぎったり、手のひらを指先でくすぐったりした。
「ひょっとして久美ちゃん、クリスチャンなの?」
「もちろん違うわ」
 久美は僕の手を払いのけ、それを自分の腿の上に置いた。
「世界がぶどう園には見えないし、みんなと同じで『放蕩に明け暮れる』ほうよ。でも、キリストのことは好きなの。たぶん、不純な意味で。放蕩に明け暮れる自分を彼に見せつけて彼をこっちへ引きずり出したいと思っているのかもしれないけど」
「じゃあ、久美ちゃんのおとぎ話って何? クリスチャンでも、『現実教』でもないとしたら」
 僕はタバコを消して体を起こし、ベッドの端に久美と向かい合って座りなおすと、右手をゆっくりと前に進め始めた。
「わたしはどんなおとぎ話も信じない。それもおとぎ話のひとつなら、『どんなおとぎ話も信じない』というおとぎ話かな」
「どんな話も?」
「そう」
 久美は僕の右手を、膝のところまで引き戻しながら言った。
「でも、だれもおとぎ話を持たずに生きていくことはできないんだよね?」
「うん」
「だったら……」
 僕は右手をずらし、彼女の腿を内側から手のひらで包むようにした。
「おとぎ話を必要としないことが、ひとつだけある……」
 久美は僕の手の上から自分の手をあてがい、強く押しつけた。僕はそれにならって、指先に力を入れ、ぎゅっと内股の肉をつかんでみた。たぶん少し痛いはずだが、久美は僕の手をどけようとはしなかった。
「わからないけど……」
「早い話が……」
 彼女は、僕が指先の力を増したのにもまったく動じずに言った。
「セックスよ。それ以外、わたしは何も信じない。……セックスというと行為だけを指すみたいだからわたしは『欲情』っていう言葉のほうが好きだけど……。『欲情教』がわたしの信じるおとぎ話。あ、『きょう』は、『狂う』じゃないよ。まあ、どっちでもいいけど……。わたしはそれがわかったところで変わった……。少しずつだけど。油尾さんにもそれを教えてあげたかったんだけど、あの人には余計なお世話だったみたい……」
「なんで?」
 僕は少し怖くなって、手を放した。このとき、もし明るいところで見たら、久美の腿にはきっと僕の手形がついていたと思う。
「あの人は、変わりたくないのよ。自分のお話を捨てることをすごく恐れている。きっと、ライナスが、毛布を握りしめているのと同じだと思うけど」
『ピーナツ』は陽子の愛読書でもあったから、そのたとえはすぐにわかった。
「たぶんその世界の中には、直接じゃないけど、お母さんの思い出とか、幸せだった瞬間のにおいとかそういうものが一緒にパックされてるんだと思う。だから、捨てられないんだと思う」
 そう言うと、久美は膝の上に戻っていた僕の右手を、もう一度というようにさっきと同じ場所に持っていった。僕の心の中に、これまで女の子に対して感じたことのないような気持ちが生まれて、僕はちょっと音の出るくらい勢いよく、右手を打ちつけてからそこをつかんだ。
「それに、もしかしたら、男と女の違いもあるのかも……」
 久美は急に上半身を倒して、僕の肩に頭を乗せ、両腕を首に回した。僕は、右手を放すと、床に降りて久美を抱き上げ、ベッドの上に寝かせた。それから、ガウンを剥ぎ取って彼女の体を自分の体に押しつけた。しばらく離れていた体は瞬間ひんやりと冷たかったが、すぐにふたりの体温であたたまってきた。僕たちはそのまま動かずにいた。久美は、さっきからの、はっきりした冷静な声で、僕の耳元でしゃべり続けた。
「……欲情はレベルの低い感情じゃない。少なくとも女にとってはね。本当に夢中になって動物のようにしたあとには全部が……。たとえば喫茶店で二人でなにか会話をする。なんでもいい。わたしは、通りすぎる人をながめて『あの人の髪型、ヘン』とか『あのビルすごいね』とか『何で今日はこんなに人が多いんだろう』とか、窓から見て言う。そこで男は一生懸命仕事の話かなにかする。……そのわたしの言葉、わたしの飲んでるコーヒーカップ、わたしが座っているテーブル、そのお店、窓、わたしが見ている風景、そこを歩く人、男の言葉、その言葉の後ろにある仕事関係の人、その人たちの働くビル、机、テレビのニュース、椅子、電話、電話オペレーターの女の人、その人のいるビル、それが建っている町、その町のある都会、都会のある国、国のある世界、世界が浮かんでいる海……その全部が……世界中が『欲情』と同じ味、同じにおい、同じ性質、つまり、欲情そのものになるのよ。それがアメーバみたいに目から口から毛穴から体中に、脳の中にも充満して『わたしはいまこの人が好きだ』というひと言に変わるの。世界と、その言葉は同等なの。完全に。……わたしは片方では多数決のほうの現実の世界にいて、男の話に相づちを打ちながら『大変ねー』とか『そんな人殺せ、殺せ』とか言ってる。でも本当はそんなこと何も考えていない。その会話も自分自身ももうひとつの本当のことに触れているのが女にはわかってるんだ。真実に。おとぎ話も多数決の事実も関係ない真実にね。……誰かを好きになったら、女が手に入れないものはひとつもない。ひと粒の分子も原子も残さず全部愛情に変えることができる。でもそれを感じるには、変だと思うかもしんないしバカだと思うかもしれないけど、動物のようにすることが大事なのよ。それにはそうなれる男が必要よ。それ以外は遊びだわ。ストレス解消の買い物やコンプレックスを埋めるためだけの恋愛みたいに」
 その「男」とは、原葉さんのことだろうか、それともべつの誰かだろうか……。僕はただ、そうとだけ考えた。それ以外のことは、正直、僕にはよくわからなかった。僕の体には、また、この部屋に入ってきたときと同じような欲望が満ちてきていて、油尾のことも、『おとぎ話』のことも、キリストのことも全部どうでもいいことになりつつあった。僕は彼女が話している間中、自由なほうの手で彼女の体を確認していた。とくに、まだ触りなれていないその髪を。
「だからヌードモデルもやってみた?」
僕はなんとなくそう言ってみた。「欲情」と「裸」を単純に結びつけて。
「ぜんぜんカンケーないよ。そんなこと……」
久美は僕の肩から首をはずして、少し白けたように言った。
「丸山さんは幸せな人だよね」
「なんで?」
「しっかりした人に守られてるって感じよ」
「しっかりした人……」
「そう……彼女すごくしっかりした人でしょ?」
「そういえばそうかな」
「大切にしたほうがいいよ。こんなことしてないで」
「そうかな」
 僕ははずみでそう言った。
「あ、バカ。失礼なやつだなあ」
 久美は平手で軽く僕の胸を打った。
「ごめん、ごめん」
「でも、そのしっかり者の彼女だって女よ。わたしがさっき言ったことは彼女にだって当てはまるんだからね。女は、『欲情』のためならなんでもできるのよ。気をつけろよ」
彼女は僕のペニスをぎゅっと握った。
「なんで? わたしのことを好きでもないくせに」
「好きだよ」
「テキトーだなあ、丸山さんも……でも、まあ、わたしも同じなんだけどね。……まじめに好きだって言われたから、欲情できるってわけでもないし……そこが『欲情』のむずかしいところ……」
 下腹から、いままで感じたことのない感覚が何度かこみ上げてきた。
「動物のように?」
 僕は、知らん顔で僕の目をのぞきこんでいる彼女を見つめて言った。
「うん。……なんか、自分でいってて丸山さんの彼女にすっごい嫉妬感じてきちゃった……」

 ――この日の久美の話で、正確にいつ何が起こったとまではわからないが、彼女と油尾の関係がどんなふうなものだったのかはわかった。つまり、油尾は、「愛情以外では勃起できなくなること」を目指していたのに、結果は「愛情でだけ勃起できなかった」のだ……。また、もしこの日僕と久美が油尾について話したことで間違いがあるとすれば、それは、彼が「おとぎ話を信じたから『風景をまきとる人』が見えるようになった」のではなく、「見えてから、その意味を考えた」ということだったろう……。
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風景をまきとる人 08

2025-01-04 04:18:02 | 創作
第10章



 ここからは、僕の「油尾主水伝」も、より駆け足になっていくことだろう。
というのも、お盆進行も終わり九月に入ると、僕に予想もしなかった出来事が起き、そのせいでいままでのように、油尾をすぐ近くで見ていることができなくなったからだ。
 ある日、僕は前日撮影で使った衣装を倉庫に戻すために、五時ごろ「上」に上がっていった。と、階段を上りきったところで誰かに呼び止められた。見ると右手の、トイレのドアのところに『D』の編集長の菊池さんが立っていて、僕を手招きしている。礼をして近づいていくと、彼は、いきなり、
「きみ、ウチの編集部に来る気がありますか?」
と言った。僕は驚いたが、気がつくと、
「は、はい」
と、条件反射のようにすぐに答えていた。が、それでも足りないような気がして、
「行きたいです」
とつけ加えた。
「そう。じゃ、今日はどう? いそがしい? ……あ、そう。じゃ、仕事が終わったらちょっとつき合いませんか」
 菊池さんは、パブロフの犬よろしく縦に横に首を振りまくる僕に言った。
 そのあと、僕は「下」に戻って、いつもより熱心に仕事をこなしていった。ひょっとすると就職して以来、初めてこんなに熱心に仕事をしたかもしれない。その間も僕には『D』の誌面が頭にちらついて、もし『D』の編集部に入れたら、いったいどこを担当することになるんだろう、などと考えていた。
 そのとき、僕の目には「下」の光景――僕に指示をする中沢さん、秋元さん、『投稿王子』のパンティプレゼントの発送準備をしている油尾、ポジを切りながら焼きノリの髪の毛を震わせて笑っている野坂さん、お茶をすすりながら新聞を読んでいる小林さん、パイプ椅子を二つ連ねて横になっている斉藤さん等々――が、まるで、トレペの向こうで繰り広げられている芝居のようにぼんやりして見えた。
 八時前には、かたがついた。さっきは舞い上がっていて、待ち合わせのことなど何も聞かなかったので、どうしたらいいのかわからなかったが、とりあえず「上」に上がって菊池さんのところに行った。
「あ、もう終わったの? じゃ、ちょっとそこで待っててください」
と、菊池さんは、領収書の束を手にしたまま言った。編集部員は誰もいなかった。新堂も早川もとっくに帰ったあとだった(彼らはいつも定時に退社したから)。
僕は菊池さんのデスクの隣――石和田副編集長(つまり、「サリーちゃんのパパ」)の席――に腰掛けて、菊池さんが仕事を終えるのを待った。ここに来れたら……そう思いながら部屋を見回した。同じ会社なのだし、前にもいったように部屋の作りも「下」とまったく同じなのだが、僕にはまるで自分が、べつの出版社の面接でも受けに来ているような新鮮な気持ちがわいてきた。
 黒木が外から戻ってきて、僕の二つ隣の机(いまはそこが彼のデスクだった)の上から自分のバッグを取り上げると、僕の後ろを通り過ぎようとして、
「元気? お先」
と、笑いながら言って出て行った。僕は、彼に「はい」と、めずらしく何の含みも持たせずに答えることができた。
「よし、では行きましょうか」
 菊池さんは言った。



 菊池編集長に連れて行かれたのは、新宿ゴールデン街だった。僕は初めてその街に足を踏み入れた。Nというその店は、入った時点でカウンターはすでにぎゅう詰めで、巨体の彼と僕の座る余地はなさそうに見えた。それでもなんとか席を詰めてもらい、座った。そうして、十五分もたつと、今度は、あと何人かは詰めれば入りそうだと思えるくらい、この狭さに体がなじんでくるのが不思議だった。
 菊池編集長はウイスキーの水割りをちびちび飲みながら、僕のほうは見ずに途切れ途切れに質問をしてきた。
「きみはA大でしたっけ?」
「そうです」
「専攻は?」
「人文です」
「人文? A大の人文科ってなにをするところ?」
 僕は専攻を選ぶとき、なるべくいいかげんにやれそうなところを探した。人文科はゼミだけが必修で、その他の科目は、ほかの十七専攻の専門科目を規定単位ぶんだけ好きなように取ればよかった。だから、僕の履修した科目といえば、映画史、美術史、社会心理学などなど、何のまとまりもないもので、入社したときに提出した成績証明書は、まるで「市民公開講座」みたいなメニューだった。
 僕は本当は法学部に行きたかったんですよ……と、僕はいつものくだりを繰り返した。
「なるほどですね」
菊池編集長は言った。あとでわかったが、彼が、「なるほどですね」と言うときは、なにも聞いていないか、まったく話に興味がないかのどちらかだったのだ。
菊池さんが偏差値八十超えの国立大学出身だと知っている僕には、彼が僕の学歴についてなどあまり本気で聞いていないことはそのときもわかった。
「小林さんから、こないだちょっと打診があってね。きみが黒木のところに入ろうと思って来て、できなくて悩んでいるらしいってね。『ドルやん』はいますぐ復刊にはならないでしょうからね。ま、僕のところも去年ひとりやめてから編集部員の負担が増えて困っているし、きみに聞いてみていいようならやってみてもらおうかと思ってね」
 そうか。やはり小林さんには、僕がやる気を失っていると見えたのだろう。しかし、いつもどちらかというと、彼を単なるオジン扱いにして生意気な口を利いていた僕に、気を使ってくれていたというのはうれしかった。僕は申し訳ないような気がした。
「まあ、ウチの編集部は結構忙しいし、『ギャル通』みたいに楽はできないかもしれないけど、勉強にはなると思いますよ。いろいろね。来てみますか?」
「はい。ぜひお願いします」
「では、そういうことで乾杯しましょう」

 その夜はサークルの追い出しコンパ以来、これほど酔ったことはないというくらい酔っ払った。楽しかったからだ。
 僕は菊池さんとさまざまな話をした。音楽、映画、マンガ、小説、写真……。音楽については、彼は世代にふさわしくビートルズ=神様で、僕は正直いうとビートルズがあまり好きではなかったが、それでも、「ええ、ビートルズ、最高ですね」と、なんのためらいもなく言った。そのほかのどんな話にも、まるで新堂みたいに相づちを打った。
 当時は昭和元禄というか、とにかく世間には金があり、「食えるか食えないか」で悩んでいる人は少なかった。そうして表面的な経済力では差別化しにくくなった人々が、お互いを差別できるよう、さまざまな微妙な価値観が、学者や、作家や、ミュージシャンたちからたくさん提出されていた(そのほとんどが金の去ったいまでは消え去っているが)。人々はその一時的な、風のような価値観が、まるで人間の到達点に生まれた新しい宝石ででもあるかのようにそれを崇めたり、論じたりして暇をつぶしていた。
 ひと言でいえば、国全体が「いい気なもの」だったのだろう。
 そうして、その「いい気なもの」のまわりには、それにうまく乗っかって金を稼ぐコピーライターや、プロデューサー、イベント屋、つまり「自称・クリエイター」なるものが無数にいて、その溜まり場の片隅に菊池さんもいた。そうして僕もいまその片隅の片隅に引っかかれるかもしれなかったのだ。



 つぎの日昼食から帰ると、中沢さんに呼ばれた。
「菊池さんが、おまえをほしいってさ。おまえももちろん、その気だろ」
 中沢さんは、ライトテーブルに駆け寄った僕の顔を見ずに言った。
「……はい」
僕は、二日酔いでガンガン鳴っている頭に強烈に響く、そのハスキーな声を聞きながら言った。
「ん、いいよ。おーい、アブ」
 油尾がライトテーブルの向こうからこっちに来た。彼はいま、頼まれて『美少女ランド』のポジ切りを手伝っているところだった。
「丸ちゃんが『D』に行くことになったから。担当がまたちょっとふえるけど頼むな。丸ちゃん、自分のページの引継ぎだけよろしく。ちょっとお茶飲んでくるから、いまセレクトしたの、切っといて」
中沢さんはそう言うと立ち上がってドアのほうへ行った。
「はい、大丈夫です」
中沢さんの背中にそう言ってから、油尾は僕のほうへ向き直し、
「よかったですね。丸山さん。本当に」
と、言った。よれよれになった例のサマージャケットを今日も身につけている。
「僕、いいましたよね。そのうちきっとそうなるって」
そうだ。長い間忘れていたが、あの初めての撮影の日、Mで、油尾がそういったことを僕は思い出した。
「ああ、本当によかった」
油尾はもう一度しみじみした口調で言った。これでひと仕事終わったというように。



 週末まで『ギャル通』で仕事をした。そうしていくつかの企画を油尾に引き継ぎ、残りを中沢さんと秋元さんに頼んで、翌週から僕は『D』に行くことになった。
「下」での最後の日、ひとり居残ってあいかわらずライトテーブルに向かい、ルーペを覗き込んでいる秋元さんに最後のあいさつをした。――僕は先に帰っていい、と中沢さんにはいわれていた。なぜなら「もう、あんたはあたしたちの仲間じゃないからね」というのがその理由だった。だが、机の整理をしたりしているうちに遅くなったのだ。
「んー、まあがんばれ。それがおまえの望みだったんだろうからな」
 そう言うと秋元さんは、頭を上げた。
「おまえもいよいよ『上』の人だ」



「『ギャル通』のように楽じゃない」と、菊池さんが言ったとき、生意気にも僕は「それは菊池さんが『ギャル通』の仕事をしたことがないからだろう」と、思った。
 現に僕たちの編集部以上にグラビアの特写があるところは社内にはないと知っていたし、グラビアが少なければそんなに大変ではないだろうと考えていたのだ。
 ところが、現実は大違いだった。『D』は、たしかにグラビアの撮影は少ないが、そのぶん、取材や資料集めなどの作業は『ギャル通』の数倍はあったといっていいだろう。
 それはこういう理由だ。
 たとえば、『ギャル通』の場合、記事はヤラセの体験告白とか、お笑いネタばかりで、これは、ひとりのライターの創作といっていい。編集者としては、そのひとりと打ち合わせをすればすむ。もしかりに写真かイラストが必要だとしても、四ページの記事で、二~三人と仕事をすればいいことになる。
 ところが、『D』の記事だとそうはいかない。たった三ページほどの記事だとしても、まず、登場するコメンテーターは最低でも三人、多いときは五人くらいになる。この人たちはもちろん初対面の人(大学の先生やいわゆる「ハウトゥ本」の著者が多かった)で、まずはそのアポをとるだけでもひと苦労ある。
 そうして仮に三人のコメンテーターだとして、これを取材するのに多いときは三人のライターが動くので、これだけで六人とかかわりを持たなければならない。コメンテーターごとの写真が必要なら、カメラマンも三人という場合もある。
 まだある。ここで実際に取材に動くライターは、おおかたデータマンと呼ばれる人々で、最後にこのデータマンがあげてきた取材原稿をまとめて本文を書くアンカーがひとりいる。これだけで三ページに関わるのは十人ということになる。さらにイラストが必要ならもう一~二人。また、『ギャル通』のときは「下」の片隅に、机を持った年配の「社内デザイナー」がひとりいて、ほぼ一冊ぶんのレイアウトをしてくれていたのだが、『D』は企画ごとに違う外部デザイナーに発注しているので、ラフレイアウト入れや、上がりの受け取りのためにはそれぞれべつの場所へ出向かなければならない。
 初めて受け持った企画は「社内遊泳術」というページで、どうやって楽に会社内で出世していくか、というようなのんきな記事だった。でも、これには、ハガキをくれた読者への電話取材までくわわって、僕はたった四ページでおよそ二十人近くの人とかかわることになった。
 また、当時は「マネーブーム」で、財テクや投資の企画ははずせなかった。僕はその中の、ある著名人のコラムを一ページ受け持った。たかが一ページだが、これは株の話で、僕はそれまで株についてなにひとつ知識を持っていなかったから、その勉強もしなければならなくなった。
 こうして、たった二本の担当だったが、かかわる人数の多さと、不慣れなせいで、僕の体感仕事量は『ギャル通』のころの三倍にはなった。
そのうえ、自分の仕事を進めている間も、先輩編集者に頼まれれば、八幡山の大宅文庫に人物の資料を探しに行ったり、参考書を買いに行ったりしなければいけない。
――『D』の編集部は全部で六人だった。そのうち二人はフリー編集者で、僕以外の社員三人はそれぞれ編集長、副編集長、デスクという役つきだった。つまり、社員でヒラの編集部員は僕ひとりだったのだ。当然、フリーの二人も含めて全員が「先輩」だったから、僕は誰のお使いも引き受けなければならない立場だったわけだ。
先輩のお使いをしている間は、自分のページの作業は止ったままになる。そこで、その遅れを取り戻すためにはさらに仕事をしなければいけなかった。
 息抜きができたのは、表紙の撮影で食料買い出し用員としてかり出されたときくらいだったろう。当時アイドルのひとりだった女の子を実際に目にし、話をし、僕は少しのあいだ幸せを感じた。
 そのときは、六本木の、これまで使ったこともない大きなスタジオで、その大掛かりなライティングを見て驚いたものだ。

 僕は、もちろん、自分が『D』に行ったことを同級生たちに報告した。口先だけでもうらやましがる彼らの声を聞いてゴールデンウイークのときの溜飲が下がるような気がした。
 陽子もこの配属を喜んでくれた(長い研修期間が終わってようやく配属が決まった、と伝えたことはいうまでもない)。
 だが、それもすぐに嘆息に変わった。というのも、『ギャル通』のころ以上に忙しくなった僕は、真夜中にタクシーで帰宅することが多くなり、そのぶん出社も遅くなって、ほとんど陽子とすれ違いの生活になってしまったからだ。
 本当は七時くらいで上がれる日もあったのだが、用事がなくてもそういう日は、飲みに行った。
「とにかく、時間が空いたときは、いろいろな人に会って顔を広げること。それが一番大事な仕事だよ」
 そう、菊池さんに言われたからだ。



 三週間もたつと、僕の頭は完全に『D』だけにシフトされ、ほとんど「下」のことを忘れてしまった。
「下」にいるときは、「上」のことを常に意識しないではいられなかったのに、「上」にいると、いや『D』にいるとそれ以外のことはなにも見えなくなった。
 同じ会社だというのに、中沢さんにも秋元さんにもほとんど会うことはなかったし、野坂さんや斉藤さんなどは、もはや「あの人はいま?」の世界に入りそうだった。
また、以前はよく食事に行った、「上」の先輩である早川と新堂の二人は、『D』に来ると同時に僕を避け始めた。それは、この異動が決まったときに、すでに予想していたことだったので、べつに驚きはしなかったが。
家から直行で取材や打ち合わせに行き、いったん出社して原稿を整理すると、今度はデザイナーのところへ出かけていく。夕方帰ってきて、電話をかけまくり、また原稿を整理して、ひとりか、または手の空いた編集部の人と食事に行く。そのあと会社に戻って原稿を待つか、あるいはそのまま飲みに行く。
僕の日常は、こんなふうに、『ギャル通』のころとはすべてが変わってしまった。それは、本当に転職したのも同然だった。
 だから、その日の夕方、中沢さんがひょっこり『D』の編集部に顔を出したときには、それほど日もたっていないのに、「なつかしい」とさえ感じた。
「キクさんさー。こないだの話、そっちで経費見てくれるんならいいよー。こっちなんてちょっと焼肉食ったくらいで、小林さんにギャーギャーいわれるマルビ本だからさ。あ、丸ちゃん、元気?」
 中沢さんは、菊池さんに言ったあとで、僕に声をかけた。



二人が話していたのは、『D』と『ギャル通』で共同制作をするページのことだった。いわゆる「企画もの」と呼ばれるページの撮影のことで、今回はすべて投稿写真ふうのものを撮ることになっていた(つまり、「ヤラセ」だ)。
いまでは、当たり前すぎてその意味を知らない人はいないだろうが、当時は『投稿写真』という言葉自体がまだ新しかった。そうして、新しいジャンルは創成期が一番元気なのはなんでも同じで、『投稿写真』を扱う雑誌も、当時、元気だった(前にもいったように、実際は『投稿王子』の部数のほうが『D』よりも多かったのだ)。
また、新しいので、それに対する当局の規制もまだゆるくて、写真は過激になっていくいっぽうだった。
といっても、実際に「盗撮」や「ニャンニャン」(自分たちの行為を自分たちで撮ったもの)を撮って送ってくるのは限られた数のマニアだけだった。彼らは投稿謝礼(賞金)がほしくて送ってくる。だから同じ写真を何枚も焼き増ししてさまざまな雑誌に送り、荒稼ぎをする。それが行き渡ると、編集者もほかの雑誌をチェックして同じ投稿者の写真は使わないように注意をする。その結果、もともとの限られた出所だけでは新鮮なものが手に入らなくなる。そこで「ヤラセ」が始まる。
これまで『D』では、菊池編集長の個人的な人脈で、カメラマンも有名どころをそろえ(この人たちは自分のほうからはE出版になど出向いてこない人たちだった)、「下」のヌード写真とは一線を画してきたのだが、時代の流れには勝てず、今回初めてそういう『投稿』ふうのカットを使ってコーナーを作ることになったのだ。
「いいよ。じゃ、ウチでみるから。丸山くん、きみ、担当ね」
 菊池さんが言った。
「え」
「古巣の本との相乗りなんだから、きみが一番適任でしょ」
「でも、『社内遊泳術』の入稿もあるし、僕はまだ自分で撮影を仕切ったことがないし……」
 これ以上仕事が増えたら、と考えると僕は怖かった。
「できるよ。そんなの」
 菊池さんはこともなげに言った。
「ホイ決まり。じゃ、今週中に撮ってくれよ。仮払いもらってな」
 中沢さんが言った。
「仮払い?」
僕はまだ、自分で直接仮払いをもらったことがなかった。
「いくらですか」
「とりあえず五十万くらいでいいんじゃない?」
「五十万? それを俺が?」
 それは、僕の夏のボーナスより、はるかに多い金額だった。
「きみの小遣いじゃないよ」
 菊池さんは笑った。
「じゃ、マルちゃん、あとでカットだけ簡単に打ち合わせしよか。ひさしぶりに下に来いよ」
 中沢さんが帰り際に言った。
「いちおー、まだ覚えてるだろ? ウチの編集部の場所は」
「そんな」
 言いよどんだ僕の肩を中沢さんはぽんとたたいた。

 仕事が一段落したので、僕は下りていった。
「おっ。上の人だ」
と、入り口のあたりで井上さんと立ち話をしていた野坂さんに言われた。井上さんは、僕の姿を見ると、愛想笑いを浮かべて自分の席に帰った。
「おーっ」
と、遠くから中沢さんが叫ぶ。僕は手を振ってそれに応えた。
「どう? 楽しい?」
 野坂さんに聞かれて、
「まあ、楽しいです」
と、僕は言った。
「さっき聞いたんだけどさあ、その『D』と『ギャル通』の共同企画、ウチも絡んでいいかな? イラストルポでさ。うちの会社の本だとはいわないで、『ある投稿雑誌のヤラセ撮影レポート』つー感じでさ」
「いいでしょう? たぶん」
 僕は言った。
「中沢さんに聞いてみましょうよ」
 僕たちは一緒に、なつかしの『ギャル通』編集部へ向かった。中沢さんは野坂さんの提案にすぐにOKを出した。イラストルポ担当は足田久美だったので、僕はその場で電話をして、留守録に「電話ください」と、入れた。
「仕事人は?」
と、僕は聞いた。近くに姿が見えなかったからだ。その瞬間、中沢さんも野坂さんもなぜだか、ちょっと暗い表情になり、ふいに黙り込んだ。それから、中沢さんは、めずらしく低い声で、
「さあ、どこかそこら辺にいると思うけど……」
と言った。
 二人からは、あの春ごろの、まるで彼をペット扱いにしていたときのような愛情は少しも感じられなくなっていた。
「あいつ、最近、おかしいよ」
 野坂さんが言った。
「おかしいのは前からじゃないですか」
と、僕は笑って言ったが、
「いや。そういうんじゃないんだ」
野坂さんはそう言い、「じゃ、久美ちゃんとも連絡とって日程が決まったら教えてくれ」とつけくわえると、さっさと自分の編集部のほうに帰っていった。




第11章



「すみません」
 まるでリクルートスーツのような紺のスーツに身を包んだ、新人マネージャーの堀内さんが、これで五十回目くらいだろうか、そう言って頭を下げた。
ふだんでも何か困っているように見えるハの字型の眉は、いまやほとんどへの字型に近くなっている。
 午前十時半。僕たちがKに着いてから、すでに一時間がたとうとしている。
 今日の撮影は、モデル二人、カメラマンの河合、二誌の編集から僕と油尾(といっても油尾は今日はほとんど男優として働くことになっていた)、それから堀内さんと、イラストルポで参加の足田久美の合計七人になる予定だった。単体のグラビアの撮影よりは人数が多いので、僕は待ち合わせ場所をMではなくKにしてみた。こっちのほうが混まないし、長い時間席を占領していてもほとんどいやな顔をされることがないからだ。
 その代わりMに比べるとこちらはとてもきれいとはいえない。二十年くらいそのままではないかと思われる古ぼけたテーブルには、タバコの焼け焦げがいくつもついていたし、椅子は破れたところから詰め物がはみ出していた。ドアの近くの壁には、昔そこがトイレだったとすぐにわかる、洗面台と鏡がはがされたあとが茶色のしみになったまま残っていた。
 七人のうち、いまここにいる六人は、約束の九時半前後にちゃんと現れた。
 モデルの女の子の片方だけが来なかった。まあ、当時、モデルの遅刻なんてよくあったことだから、三十分くらいは誰も気にしていなかった。むしろ、みんなコーヒーを飲んで目をさますのにちょうどいい時間だったといえる。
 だが、そこから五分、十分とたつうちに心配になりだした。僕はそれまでに一度だけモデルの「ばっくれ」を経験したことがあった。しかし、そのときは秋元さんがいたから、べつにあせりもしなかった。ただ、「こういうこともあるんだな」と思っただけだ。
 今日は事情が違う。撮影を仕切らなければならないのは僕だった。彼女が来ない場合、いったいどうするのか。撮れるものだけ撮るのか、それとも今日の撮影自体を全部キャンセルすればいいのか、そんな判断さえつかない。
「すみません」
 堀内さんがまた、正面の僕に向かって頭を下げた。黄色いボディコンのワンピースを着て、彼の隣に座っているモデルの子(「吉岡きみこ」という芸名だった)もつられてそうした。だが、謝られてもしょうがない。
 最初のスタジオは、余裕を持って十一時からの予約にしたのだが、いまやもうそろそろここを出ないとまずい時間になっている。
「丸ちゃんさあ」モデルの右隣にいる河合が言った。
「いまからじゃどうかわかんないけど、Mに行ってみたら? ハーブ・プロのなんてったっけ? 木築さん、いるかもよ」
「そうだね」
 木築さんは、ひとりでモデルプロダクションをやっている人で、そのころMを自分の事務所代わりにしていた。パンチパーマとサングラスにちょび髭で、見かけはちょっと怖いが、僕たちに対してはやさしい、人あたりのいい性格で、モデルの信頼も厚かった。前のばっくれ事件のときも、秋元さんはすぐに木築さんに話をして、べつのモデルを一時間で手配してもらって解決したのだ。
 僕は席を立った。そうしてKを出ると、新宿通りの地下道を人の流れをよけながら横断して、はす向かいにあるMに向かった。
「いらっしゃいませ」
 顔なじみのウエイトレスが言った。
「ちょっと人を探すだけなので」
そう言って僕は、いつも木築さんがいる中二階席のほうへ上がってみた。ところが、こういうときにかぎって木築さんの姿は見えなかった。暗い気持ちでMを出る。地下道を歩いている女の子を誰でもいいからひっさらって行きたいような気持ちになる。
「いなかった」
Kに戻ってくると、テーブルの二~三メートル手前から僕は大声で河合にそう言った。
「しょうがないな。今日の撮影、女の子ひとりじゃ無理だし、流そうか。中沢さんたちがスタジオに入ったころ報告することにしてさ」河合は言った。
 中沢さんと秋元さんはその日、撮影で千葉に行っていた。この時間だと、まだスタジオに着いていないはずだ。いまなら、携帯電話で連絡を取り、指示をもらうのは簡単だろうが、当時は移動中に連絡を取るなんて不可能だった。
「俺、とりあえず菊池さんに聞いてみる」
僕は言った。が言ったものの、すぐには立ち上がらなかった。
こわかった。自分のミスではないにせよ、『D』に来てから初めての撮影が失敗に終わりそうだったからだ。菊池さんのことをまだ深く知っているとはいえないだけに、いったいどういわれるか考えるとそれがこわかった。
「そうか、今日、メインは『D』なんだよな……」
 河合が言った。
 僕は、腕組みをしたまま、しばらく電話をしようかどうか迷っていた。
「顔、出ないんでしょ?」
 河合の横でそれまで本を読んでいた足田久美が、腕を下ろして言った。――今朝一番にここに来ていたのは彼女だった。僕が九時半ぴったりに店に入ってくると、白いクルーハット(上が丸くてつばの狭い奴だ)と手に持った本でほとんど顔を隠すようにして座っている彼女を見つけた。久美は僕のほうをチラッと見ると「おっす」と右手を上げただけで、そのまま読書に戻った。二人だけだったのはほんの五分くらいだが、僕は彼女のじゃまをすまいと、なるべく話しかけないようにしていた。やがて、ひとり増え二人増え、いまいる六人がそろってからも、彼女はずっと本から顔を上げようとしなかった。
「えっ」
 全員が彼女を見た。
「目伏せしてくれるんなら、いいよ。出ても」
「マジ?」
 河合が聞いた。みんなが聞きたかったことを。
「うん」
「そうだ。ヌードは彼女がやってくれるから、そこは大丈夫だから」
 モデルの子の肩に手を置いて、河合が言う。
「いいよ。脱いでも」
 久美が言った。
「いいよ、いいよ。パンチラまでだよ。撮っても。顔はわかんないようにするし」
「久美ちゃん、本当、いいの?」
 僕は聞いた。久美は何度も同じことを聞くなというように頭をゆっくり縦に振った。
「決まったな。行こ」
 河合がそう言って跳ねるようにして椅子から立ち上がった。



 河合の車で方南通りをまっすぐ西へ僕たちは移動した。「運動会日和」とでも呼べそうないい天気だった。このぶんだとスタジオには二十分遅れくらいでなんとか入れそうだ。新人マネージャーはひとりぶんのギャラを受け取って(たぶん、合計一〇〇回くらいは頭を下げたあとで)逃げるように帰っていったので、僕たちは男三人、女二人の五人になった。おかげで、タクシーを一台追加する必要がなくなった。
 助手席でナビ役をやりながら、僕はすごくほっとしていた。足田久美は、後ろのシートの右端でやっぱり本を読んでいる。
「久美ちゃん、それ何の本?」
 僕は振り向いてそう聞いた。見えるのは、帽子と、紙のカバーをかけた文庫本、それからアーミージャケットの肩のあたりと、窮屈そうに組んだ脚を包むジーンズだけだ。彼女は本の向こうから、
「家畜人ヤプー」
と、答えた。
「小説? おもしろい?」
「まあまあ」
「俺も読んでみようかな」
 僕はその気もないのに言ってみた。
「丸山さんにはあまり関係のない本だと思う」
 久美は抑揚のない声でそう言った。
「そう? でも買ってみるよ」
「ダメだよ。いま絶版だから」
「そうなんだ」
 僕は姿勢を戻した。べつに会話の内容なんてなんでもよかった。僕は彼女に感謝していた。だから何か話しかけたかっただけだ。



 モデルの子を足田久美との間に置いて、油尾は両手で握りこぶしを作ってひざの上に置き、目を閉じている。会社で最後に会ったときよりも、その顔色はひどく青ざめている――ような気がした。さすがに寒くなったのか、足田久美に選んでもらったというサマージャケットではなく、今日はそれ以上に見慣れた、あの黒いビニールのパーカーを着ている。
 そういえば、今朝からまだ足田久美と油尾はひと言も会話をしていなかった。僕が「下」にいたころには、べつの雑誌の打ち合わせで来ても、久美は必ず油尾のところまでやって来て二人で話をし、油尾はそのたびよく顔を赤らめてうれしそうにしていたものだったが(もっとも、それはおおかた、初夏のころまでの記憶だった)。
 しかし、ひと月近く前、「上」の人になってからは、僕は慣れない仕事に忙殺されていたし、早川と新堂とはほとんど口を利くこともなくなって、油尾と足田久美がどうなったかなんて情報すら入ってこなくなっていた。
 久美は、少なくとも僕に対しては、以前と変わらない振舞い方をしていた。仕事でたまに「上」に来ると、僕を相手にでもふざけ散らした。
 ……ひとつだけ気になることがあった。それは、僕が風邪で倒れたライターの代わりに徹夜でテープ起こしをしていたときのことだ。
 会社には電話は四回線あって、一~二番は「上」、三~四番は「下」にかかったとき点滅した。そういえば「下」にいたころ、一~二番の電話も僕たちが取って応対したことがけっこうある。「上」には編集者がほとんどいないときもあるし、早川と新堂は、雑談に夢中になっている間、なかなか電話に出ようとしなかったからだ。
 夜中の二時過ぎだったと思う。三番が点滅した。この時間にかかってくる電話は、変態の常連が多くて、たとえば、たまたま泊まりこんでいる女のスタッフが出たりすると、延々といやらしい言葉を叫んだり、相手かまわず、本当かうそかわからない自分のセックスの話をし始める。
 油尾は仕事で泊まりになると、そういう電話をとって一時間もまともに受け答えをしていたものだ。もちろん、僕はそんなことはしなかった。相手が常連だとわかるとすぐに切った。このときも、またそういう電話に違いないと思った。それに「下」には、泊まりこんだりする人が「上」に比べると多かったから、誰かが出るだろうと思っていたのだが、その日はたまたま誰もいないみたいで、いつまでも点滅が続いていた。
「上」も僕ひとりだったので、仕方なく受話器を取った。僕は社名も告げず、「はい」と、わざと不機嫌な声で出た。
「なんだー、おまえだれだ?」
 原葉さんの声だった。
「あ、すみません。原葉さん。丸山です」
「マルか。おまえ、えらくえばってんじゃねーか。なろ。『D』に行ったからってえばんな。くそガキめ……」
 原葉さんは完全に酔っ払っているようだった。
「そんなこと……何か御用ですか? 下はもう誰もいないみたいですけど」
「御用ですかだと。なろ。くそ……そこに、マリ……久美はいるのか?」
「久美? 足田久美さんですか」
「そう、マリ……久美だ……」
「いませんよ。いるわけないでしょう? こんな時間に。俺だけですよ」
 しばらく沈黙があったあと、
「おまえじゃないんだろうな、マル」
と、重い声で原葉さんが言った。
「なにがですか?」
「久美が困ってるんだとよ。いやな奴に追い回されて……相談してきたんだよ。俺に」
「知りませんよ。俺は」
「おまえ、あの女はな、まともじゃないんだよ。よく聞いとけ。おら。……あの女はな」
 原葉さんは突然何か大声で叫んだ。音が割れたので僕は耳を離した。「いかれてるな、原さん」と、舌打ちしてから仕方なくまた受話器を耳に当てた。
「警察に。警察に電話しようかな――ぁ。俺の頭はいまここにあっておまえと話しているけどな。本当は俺の頭はさっきからずーっと落ち続けているんだよ。それが俺にははっきりとわかっている。ずーっと落ちていく。だから電話を握ってても頭はここじゃない。ははははははっ。久美にいえ。頭を支えろ。頭を支えてくれ。頼む……マル? 俺が嫌いか?」
「原さん、申し訳ありませんが仕事が」
 原葉さんは、また何か叫んだ。僕は受話器を放り投げて切った。その夜はもう電話はなかった。
 僕がその電話以上に驚いたのは、原葉さんが、そのときのことをまったく覚えていないらしいことだった。二~三日後、エレベーターで一緒になったとき、原葉さんはいつもとまったく変わらずに、
「お、マルちゃん、今度『D』の仕事もくれよー。頼むよ」
と、冗談とも本気ともわからない調子で言ってきた。
 このことで、僕には、前々から聞いていた原葉さんと足田久美のうわさは完全に事実だとわかった。だが、同時に、あのとき原葉さんが疑っていたうわさがなんなのかは、まったくわからなかった。誰がいったいどんなうわさをほかにしているのか。足田久美をしつこく追いまわしている男? どう考えてもそれが油尾のことだとは僕には思えなかった。



 今回のページは投稿写真の二大テーマ、「盗撮」と「ニャンニャン」の両方で構成することになっていた。
そのうち、中沢さんとの打ち合わせではっきり決まっていたのは、「盗撮」では、病院のカットを入れるということだけだった。ほかのシチュエーションは、「現場でおいおい考えて撮るように」が、中沢さんと菊池さんの命令だった(菊池さんは『投稿写真』についてあまりよく知らなかったので、ほとんど「おまかせ」だった)。
方南町のそのスタジオは天窓から撮影のできるめずらしいところで、今日の撮影には好都合だった。
 だだっ広いフローリングのスタジオの隅に、僕たちは病院の診察室のセットを作った。映画やドラマのように、カメラが引きで全体をとらえても診察室だとわかるような立派なものではない。だが、「盗撮」というコンセプトで撮るのに細部まで再現する必要も予算もない。
 配役は、油尾が医者、足田久美が看護婦で、上を脱ぐ患者役がモデルの女の子だ。
 河合はまず、ベランダに出て、窓ガラス越しにカメラを構えた。彼が何を言ってもこちらには聞こえないので、僕はそれを聞きにベランダに出て、入ってきて三人にポーズの指示をする。
 白衣を着た油尾は、どう見てもまず真っ先に自分を治療したほうがいいといった感じのイカれた医者に見えたが、足田久美の看護婦ははまり役で、河合は、
「いいよ。久美ちゃん。『エッチな看護婦さん』もついでに撮りたくなるなあ」
と、ベタぼめだ。それには僕も同感だった。いつも人目を驚かすような原色の服や、色がおとなしいときには、アクセサリーをごちゃごちゃにつけていたりして、「今日も派手だな」という全体の印象しか捉えていなかった僕は、白一色の薄い布に包まれている彼女が別人のように見えた。何かひどくまじめな印象を受ける。もっとも、こんな格好をすればどんな女の子でも多少はそう見えるだろうが。
「そーお? こんなのどう?」
 河合のおだてに乗って、久美は短めのスカートの端を両手で持ってひらひらさせる。中身はいつもの彼女だ(彼女はそのコスチュームが気に入ったようで、つぎの撮影場所までとうとうそのままの格好でいた)。
 患者の女の子が上を脱いで椅子に座り、聴診器を当てられているところを、病院の窓から盗撮した――という設定で撮影開始。結局写っているのは、モデルの子の裸の上半身と、油尾の背中と腕、それから患者の後ろに立っている足田久美の首から腰の辺りだけだ。同じシチュエーションを天窓からも撮って(カメラマンが屋根裏に入り込んで撮ったというかなり無理のある設定になるが、絵的には変化が出ておもしろい)、ここでの撮影は終わりだ。たったこれだけのカットだが、セットをばらしてすべて片付け終えたときには、正午はとっくに過ぎていた。



 午後はスタジオではなく、世田谷のマンションで撮ることになっていた。当初は、移動の途中でファミレスにでも寄って、これからの段取りを打ち合わせしながら食事をするつもりだったが、河合が反対した。
「初めて行くとこだし、光の入り方とかわかんないからちょっと怖いんだよ。日も夏に比べたらかなり短くなってるし」
 たしかに、ストロボをたいて盗撮をする馬鹿はいないだろう。そのマンションでも盗撮ふうのカットを撮ろうと思えば、自然光が使えるうちに撮り終えなければならない。そうなると、一度も使ったことのない場所では、あらかじめ段取りを考えたりするのは難しい。河合の意見に従うことにして、昼食はマンションから出前をとろうということになった。

 二階建ての大きな一軒家のすべての部屋を、ワンフロアの上に置き直した――それくらい広いマンションだった。
 菊池編集長から、ここを使うようにと指示されたのだが、部屋の持ち主の男は、そのころちょっと人気のあった女のタレントとここで一緒に住んでいるということだった。二人はいま、海外に遊びに行っており、そのあいだ友人が部屋を管理し、ときどき撮影に貸し出していたのだ。
 当然だが、これまで使ったことのあるマンションスタジオとは違って、生活感がそのままにじみ出ていた。猫も一匹いた。
 管理人の若い男(二十歳前後だろう)にあいさつをし、部屋のカギを受け取ると、彼は「夕方には戻りますので」と言い残し、バイクでどこかへ出かけて行った。
『大臣』という宅配専門店の弁当を取ることにして注文をすませ、僕たちはそれぞれの準備にかかった。
 河合はカメラ、僕はその手伝い、モデルの子は着替え、足田久美もようやく看護婦姿をやめて撮影用の普段着に着替えた。編集とはいっても、今日はほぼ男優としてかりだされて来た油尾だけは、なにも準備することがないので、その間ずっと猫と遊んでいた。
 だだっ広いリビングは、日当たりはあまりよくなくて、ひんやりとしていた。ベージュのカーペットの上に、緑色の、六畳の部屋にはとても入りきらないくらい広い、足の短い正方形のテーブルが置かれている。ひと通り準備を終えたみんなが、そのテーブルの思い思いの場所に座り、コンビニで買ってきたスナック菓子をつまんだり、コーラやウーロン茶を飲んだりしてくつろいでいるところへ出前が届いた。弁当を運んできた中年の男は、撮影の機材と二人の女の子を見て、僕たちに好奇心を抱いたらしかった。代金を受け取ると、何度もこっちを振り返り、にやにやしながらドアを閉めた。
モデルの子がバッグからカセットテープを出してきて、かけてほしいといったので、その部屋にあったラジカセでかけた。シンディ・ローパーのファーストだ。
 女の子二人はすっかり仲良くなっていて、おかずを交換しながらわいわいと食べ始めた。
 その向かい側で、僕は河合と段取りの打ち合わせをしながら食べた。僕たちの横で、油尾は猫を膝に抱いて自分の弁当から時々食べさせていた。
「あんまりやんないほうがいいんじゃない」
 突然、久美の大きな声がした。油尾のほうには顔も向けず、大きなひとり言のようにそう言ったのだ。それが、今日、二人の個人的なやり取りを見た最初だった。
 油尾はなにもいわずに箸を置き、猫を放した。猫はカーペットに下ろされると、もう油尾のことを忘れたようで、迷わず河合のほうに直進してきて、ニャーオと鳴いた。
「マルちゃん、ごめん。これ、どけてくれる? 嫌いなんだ、俺」
 河合がその動く毛玉をよけながら言った。



 リビングのほかに、部屋は三つあった。その全部が細長い裏庭に面した大きな窓を持ち、明るかった。さらに都合のいいことに、庭は植え込みと壁で囲まれていて外からは見えないようになっていた。
 一番大きな部屋は寝室で、あとの二つは同じ広さだった。どうやらここに住んでいる二人がそれぞれの個室として使っているようで、内装や小物まで男用と女用にくっきり色分けされていた。僕たちはまず、女用の部屋でモデルの子を使って「隣の家のお姉さんの着替えを盗み撮りしました」という設定のカットを撮った。続けて、男用の部屋とリビングで、僕と足田久美、油尾とモデルの子が二組のカップルになり、軽くいちゃついているようなカットを男の目線で撮った。つまり、河合が、僕や油尾の背後霊のような位置からシャッターを切って、だ。このシチュエーションではヌードはなかったが、僕もまったく久美の体に触れないわけにはいかなかった。
 みんなで大笑いしながら――といっても、なにか苦行僧のような顔でもくもくと河合の指示に従う油尾だけは除いて――撮影は進んでいった。
僕は足田久美のスカートをめくったり、彼女に襲いかかるふりをしたりしているうちに、なんとなくおかしな気分になってくるのを感じた。欲情したというわけではない。ただ、ここにいるのは若い同年代の男と女で、もし仕事という枠がなければ、僕たちはグループで乱痴気騒ぎをしている変な集団という以外のなにものでもない、と思ったからだ。
なにか非日常的な雰囲気が、僕を少しハイな気分にしたのだろう。つぎのカットで、モデルの子を被写体にして「風呂場のぞき」を撮っているとき、河合に、
「マルちゃんも一緒に入ってみて」
と言われたときには、思わず「いいよ」と言っていた。



 日が落ちてきた。僕たちは少し疲れて、テーブルの周りで休んでいた。電気をつけていない部屋に、紫色のタバコの煙がのぼっていく。足田久美とモデルの子、それと僕の吸っているタバコだ。けだるそうなみんなの表情を河合が意味もなく撮っている。僕はウーロン茶を飲みながら、さっき勢いに乗って風呂に入ったカットは絶対使わないようにしようなどと考えていた。
「なんかもうひとつ足んないな……『D』のほうは全部で八ページだよね」
 河合が雰囲気に合わない仕事口調で言った。
「着替えでしょ、風呂場でしょ、で病院と……あとひとつなにか」
「ねー、新婚さん覗きっていうのは?」
 足田久美がそう言って立ち上がると、キッチンのほうへ行った。そうして、戻ってくると、テーブルに向かって膝立ちになり、ひまわりの絵の描いてあるエプロンを体に当てて、垂らした。
「じゃーん。さっき見てかわいいと思ったんだ」
「お、いいね。たぶん庭のほうからまだ寝室も撮れるし、ドア開けてりゃ台所も筒抜けだし。もうすぐ自然光だめだし、時間もないし、それいこ!」
 河合が叫んだ。
「誰がだんな様になってくれるの?」
 足田久美は、エプロンのひもを後ろ手に結びながら言った。
「んー、マルちゃんはさっきの『風呂ニャン』で顔出るしな。目伏せ入れてもわかっちゃうから、やっぱここはアブちゃんしかないでしょ!」
 河合が言った。部屋の隅に影法師のように座っていた油尾の頭が揺れた。たしかに今日撮ったカットでは、油尾はまだ顔を出していない。医者役では、ただ白衣と聴診器を当てている手が写っているだけだし、さっきのカップルのカットでも、結局フィルムに写っているのは相手役の女の子で、油尾が登場しているのはほとんど腕から先の部分だけだ。
「今日も、わたしじゃいやなの? 油尾さん」
 久美は、そう言って少しにらむように油尾のほうを見た。「今日も」の「も」に、少なくとも僕たちは心当たりがなかった。
「そんなこというのはやめてください……やったほうがいいですよね」
 油尾は僕と河合を見た。
「うん」
 河合は一瞬目をそらしたが、すぐ、思い直したようにまっすぐ油尾を見て、
「だってもう、いろんなとこに出まくってるじゃない? 同じでしょ。たいしたことないよ。ほれ。もっと明るく明るく」と言った。
 僕には、彼が男優そのものを嫌がっているわけではなく、相手が久美だから迷っているのだと、なんとなくわかっていた。
「わかりました。やります」
 油尾は言った。
「じゃ、わたし脱ぐね」
 ほとんど同時に久美が言った。
「えーっ」
 僕と河合の声が重なった。
「脱がないでいいの?」
「そりゃ、脱いでもらったほうがリアルになるけど」
「じゃ!」
 久美は立ち上がった。



 ほとんど光のなくなりかけた寝室のベッドの上に、足田久美の白い肌が、まるで蛍光塗料を塗られたように浮かび上がっている。台所で一カット撮ったあと、自然光がなくなるぎりぎりまで、寝室の窓の外から油尾と久美の二人を「盗撮」していた河合は、いまは部屋の中まで入り込んで撮り続けている。
「そんなに近づいて撮ったら盗撮にならないよ」
と、僕は笑って言ったが、
「いいから」
とだけ言って、河合はシャッターを押し続ける。
「そこで動かないで。そうそう。一・五秒くらいそのままでいてくれる?」
 油尾は、久美の上に斜めにかぶさるようにして重なっている。二人の腰から下には夏用の薄い掛け布団がかかっている。
 モデルの女の子はリビングでテレビを見ている。「蛍光灯をつけないで」と、河合に言われたので暗いままの部屋の中で。一秒ごとに光を失っていくマンションの中で、僕の背後でだけ、テレビの画面がさまざまな色に変わるのを、開け放った寝室のドアのところに立っている僕は感じている。モーターがフィルムを巻き上げる音がした。
「あ、ごめん。フィルムチェンジ。ちょっと待って」
 河合はそう言うと、僕の横をすり抜けて出て行った。
「もう腕立て伏せしなくていいよ」
 久美が言った。油尾が肘を伸ばして久美の上で両腕を突っ張るのが見えた。
「この人、なるべくわたしに触らないようにしてるのよ。わたしのことが嫌いだから」
 久美が頭をそらして僕に向かって言った。僕は笑おうとしたが、のどが張り付くように乾いていて、声は出なかった。
 河合が戻ってきた。
「ちょっとストロボでも撮っとく」
 そう言った彼に、僕はもう、「そのカットはいらない」とは言わなかった。
 河合はベッドに上がり、二人に跨るようにして撮り始めた。今日初めてのストロボが目に痛い。
「今度は止まってないで動いてくれる? 自然に。本当にやってるような感じで」
 どうやら、いままで窓側の隅にいたらしい猫が、ストロボの光に驚いて二人の頭あたりに逃げてきた。
「ほらー、何か話して。本当の恋人同士って設定で撮りたいからさあ」
「油尾さん、猫好き?」
 久美が言った。
「……好きです」
「犬とどっちが好き?」
「犬も好きです。動物はみんな好きです」
 ストロボが止まった。
「なんかさー、もうちょっと色っぽい会話、できない?」
 仁王立ちになったまま河合が言うのが聞こえる。
「だめだめ、だって……」
一度咳払いしてから僕は言った。
「仕事人、童貞だもん。だよね、仕事人」
 意識はしていなかったが、その言い方には油尾への軽い嫉妬が含まれていたかもしれない。というのも、そのとき僕は、足田久美に初めて欲望を感じていたからだ。さっき、消えかかる自然光の中に浮かんだ彼女の体はぞくっとするくらいきれいだった。
 鎖骨の辺りのくぼみ、ちょうどいい助走距離でゆっくり高く乳首まで上っていく曲線。なによりいつも「細い」という印象しか持っていなかった彼女の、意外に豊かな胸。それが、モデルの子に対してはとっくに感じなくなっている、女の体のなまなましさを僕に感じさせた。
 僕はいつの間にか、仕事を忘れてただ彼女の体に見入っていたのだ。
 ストロボに変わってからは、その光が消えていく寸前、ピンク色の乳首がはっきり見えた。僕には、もう冗談をいったり笑ったりする余裕はなくなっていた。
「意地悪な人のことは気にしないで。会話が写るわけじゃないんだから。ほら、右手、こう髪に当てて」
 久美が油尾の手を誘導していくのが、コマ落ちの映画のように暗闇の中に断続的に浮かぶ。
「こうですか?」
「銅像の頭なでてるんじゃないんだから、もっと軽く」
 そこからは二人ともまた無言になった。河合も、ベッドの上で前かがみになったり、そうかと思うと急にベッドの下に下りてしゃがんだりと無言のまま夢中で撮り続けている。猫はとうとう部屋から出て行ってしまったようだ。
 なんだか不思議な気分だった。ふだんよく知っている二人の――しかも久美の言葉を借りれば、いちおう「両想い」で、どの程度までかは知らないがつき合っている二人の、擬似セックスをながめる……しかもこれは仕事だ。
 いつのまにか僕の耳には足田久美のあえぎ声のようなものと、油尾の息遣いが聞こえている。久美のつけている化粧品のにおいが部屋に広がり始めた。裸の体のにおいと混じったそのにおいは、肺から内臓を通って、僕の内股を刺激した。
「もうすぐ終わるからね」
 僕はわざと後ろを振り返って、テレビを見ているモデルの女の子に声をかけた。



 リビングに明かりをつけた。とたんに「団らん」という言葉が似合う部屋の風景が浮かびあがる。さっきまでここで行われていたことは、もう何も思い出せない。仕事は終わったのだ。片付けて帰るだけだ。テレビでは『夕焼けロンちゃん』のロングおじさんが、ちょうど「バイ、バーイ」のあいさつをしているところで、モデルの子は、ブラウン管に向かって腕を突き出し、そのポーズを真似している。
 足田久美はシャワーを浴びるといってバスルームへ行った。河合は機材を片付け始めた。僕はしばらくそれを手伝ってから、まだ暗いままの寝室に行ってみた。油尾が出てこなかったからだ。
「どうかした? 仕事人」
 声をかけてみたが、油尾はベッドにうつぶせになったまま起き上がろうとしなかった。薄い掛け布団が尻の上に載っているのがかすかに見える。
「なんてことを」
 油尾は言った。敷布団がスピーカーのコーンの役目をして声は鈍く低く響いた。
「なんてことをあの人はしたんだろう……」
 そのとき初めて気づいたが、どうやら油尾は泣いているようだった。声を押し殺してしゃくりあげ、肩を震わせて。僕はなんといって声をかけたらいいのかわからなくなった。いったい何が起こったというのだろう?
バスローブをひっかけた久美がこっちにやってきた。
「仕事人がちょっと変なんだよ」
 僕は言った。
「そう」
 久美はそっけなく言って、ターバンのように頭に巻いたバスタオルをほどいた。長い髪が中から躍り出た。
「油尾さんも早くシャワー浴びたら? パンツも簡単に洗わないと、乾いたらガビガビになるでしょ」
 久美は暗がりに向かってそう言うと、リビングのほうへ行った。やがて油尾は無言で起き上がり、前かがみの姿勢でバスルームのほうにかけていった。その背中を見送ってから僕もリビングへ戻った。
「どうしたの? アブちゃん」
 機材のバッグを車に積み終えて戻ってきた河合が、テーブルのところにきて言った。
 久美はバスローブのままモデルの後ろでメイクを直していたが、コンパクトから顔をずらして、僕たちのほうを見ると、言った。
「シャセーしたのよ」
「うそ」
河合と僕は同時に叫んだ。モデルの子も久美のほうを振り返った。
「アブちゃん、ソーローだったの?」
 河合が言った。
「ううん……あの人、わたしのこと愛してるとかいうくせに立たないから、わたしがしてあげたのよ。手で。でも、やっぱりダメだった。で、小さいまま出しちゃったのよ」
河合も僕もしばらく言葉を失った。二人で顔を見合わせたまま。ようやく河合が、
「いいなー、久美ちゃん、俺もして」
と、甘えるように言った。そういう方向に持っていく――笑ってギャグにする――しかないと考えたのだろう。
「ダメだよ」
 久美はまじめな声で言った。
「なんで?」
「河合さん、わたしのこと愛してないから」
「やっぱりー!」
 河合は夏の「拾い」のときの女子高生のまねをした。僕たちは手を打って笑った。久美だけを除いて。

10

バスルームからトランクス一枚のかっこうで出てきた油尾の顔色は、朝見たとき以上にひどく青ざめていた。そうして、放心したような足取りで、ときどきつまずきながらこっちに入ってきたが、みんなが帰り支度を終えているのを見ると、急いでリビングの隅っこに行き、脱ぎ捨ててあった自分の服を身につけた。それから僕たちのほうを振り返り、
「すみません」
と言った。
僕たちはなにも言わなかった。なるべく油尾のほうへ目をやらないようにし、テレビのニュースに注意を引かれているフリをしていた。
「感想は?」
 久美が言った。油尾は無言のまま、悲しそうな顔で久美のほうを見た。
「なんかあるでしょ、感想が」
 久美が繰り返した。
「……僕は、あなたを愛しています」
 油尾は、小さな声でやっとそれだけ言った。
「愛してる? 軽々しくそんなこといわないでよ」
 久美が大声で言った。
「愛してるんなら自分の一〇〇パーセントを使ってわたしを幸せにすれば? 仕事ではどんな女にも勃起するくせに、それはべつの自分だとでもいうつもり? 心の中で『悪い』と思いながらでも、そう思わないでも、立ってることには違いないでしょ? だったら、油尾さんはもともとそういうふうにできてるんだよ、『にせものの女王』なんかのせいじゃなく……。そういうふうにできているものを、自分でやめようと思ったりするのは無意味だよ。油尾さんは、あの子たちをほしがってるのよ。本当は修業なんかじゃなく、あの子たちとやりたくてこの業界に入ってきただけなんじゃないの? 正直にいいなさいよ」
油尾は立たされた生徒のように、その場にじっとしていたが、もう一度顔を上げて、
「僕……僕は久美さんを愛しています。初めて会ったときから……いまも」
と、つぶやいた。
「まだそんなこと言うんなら、今日の快感をよく覚えておいて。これっきり油尾さんとは二人で会ったりしないし。だから、今日のことを死ぬまでずっと覚えてて思い出しオナニーでもすれば? バイバイ」
 久美は立ち上がった。
「わかりました。……でも久美さん、ひとつだけ、聞いてください」
 油尾はそっちへ近寄りながら訴えかけるように言った。
「あの人とは別れてください。お願いします。もちろん、僕のためではなく、久美さんのために」
「うるさい」
 久美はまだ触れてもいない油尾の体を振り払うように右手を振った。それから僕たちのほうへ向き直し、
「丸山さん、悪いけど、わたし、歩いて駅まで帰る。河合さんお疲れさま……キミちゃん、またね」
 そう声をかけると、ひとりで玄関に向かった。
 僕は撮影を仕切っている人間としてなにかいわなければいけないような気がして、すぐに彼女のあとを追ったが、結局、「お疲れさま」と声をかける以外、言葉が見つからなかった。
「ごめんね、丸山さん……」
 玄関に下りて白いハイヒールをはくと、足田久美は振り返って僕に言った。さっき油尾に怒鳴ったときの顔とは別人のように、その表情は暗く悲しげだった。
そのとき、ドアが開いて、ヘルメットを手にしたこの部屋の管理人が入ってきた。
「お疲れさまです。終わりましたか?」
 その姿を見ると、僕の頭はすぐに切り替わって、この男に払うスタジオ代を取りに行かなければという考えに支配された。
 そのすきに、久美は玄関を出て行った。

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風景をまきとる人 07

2025-01-03 10:51:10 | 創作
第8章



 道路側の壁のほとんどがガラス張りになった店のカウンター席から、ほぼ真正面に原宿駅の駅舎が見えている。表参道のほうから巨大なレフ板で光を当てたみたいに、白い部分はオーバーぎみに、茶色の部分はほとんど紫色に近い色に。その後ろに見える明治神宮の木立は、まるで緑色の絵の具を節約して描いた絵のようだ。駅舎同様、葉っぱの一枚一枚が光に侵食されてしまっている。
 今朝、ロケの日並みの時間に部屋を出てきたとき、僕は不思議な光景を見たことを思い出した。
 山手通りの歩道を降りて行くと、向こうから大きな白いレフ板がのぼってくる……。たぶん、まだ寝ぼけていたのだろう。そう見えたのは、方南通り沿いのバス停から学校のほうへ坂を上がってくる女子高の生徒たちだった。その、白いセーラー服の群れが僕にはそんなふうに見えたのだ。いつのまにか、仕事のリズムが夜型になってしまい、僕は彼女たちの衣替えが終わったことにも気づかなかったのだ。
 白のベールをまとったような駅舎の入り口は、ちょうど学校の下駄箱あたりのようにほの暗い。土のにおいがしそうな暗さだ。
 その暗がりの中をサラリーマンやOLや学生たちがたくさん行き来する。
 いつもなら、こんなとき「大変だな、おたがい」と、サラリーマンのほうに注意が行くはずだが、今日は、さっきから学生の姿ばかりを目で追っている自分に気づく。始業時間は過ぎているだろうに、こんな時間に何をやっているんだ? まだ土曜だぞ。創立記念日? 何かの行事の代休? でも、六月半ばに行事なんてあったろうか。
「のんきなガキどもめ」
 心の中だけで言ったつもりだったが、耳にそう言った自分の声が聞こえたので、僕は驚いて店内を見回した。こちらのほうでも、「のんきなガキども」が増殖している最中だった。いまこの店の客の平均年齢を出したら、僕より五つか六つ下になることは間違いない。
 僕はほおっとため息をつき、視線を駅舎のほうに戻した。それから両手でカップを持ち上げてコーヒーをひと口飲み、そのまま肘をすべらせて、テーブルの上に前かがみになった。
 今日は、この「のんきなガキども」を相手に、下手をすると一日中この街にいなければならなくなるかもしれないのだ。
 
 二日前、撮影が一段落したので、僕にとって三冊目になる『ギャル通』の記事ページの企画会議が開かれた。
 まあ、会議といっても、おなじみのメンバー四人で昼飯を食べながら、適当に話をするだけなのだが。僕にとってひとつうれしいのは、このときだけ、少し高めのランチをおごってもらえることだった。その日は、入社初日に社長や小林さんと行った中華料理屋に行った。
 パターンの決まっている連載ものについては、「おいおいライターとテーマを決めて進めていく」ということですぐに話は終わった(このとおり、とてもアバウトな企画会議なのだ)。
『ギャル通』の記事ページの八割は、告白ものを中心とするエロねただったが、その全部が、いつのまにか油尾の担当になっていた。べつに僕は自分からやりたくないといった覚えはない。ただ、最初の企画会議のとき、そういう企画のタイトルを中沢さんが読み上げるたびに、油尾が「僕、やります」と、自分で立候補してきたのでそうなっただけだ。僕のほうは残りの二割、おもに流行ねたとお笑いねたを担当していた。どう考えても僕のほうが楽だったが(油尾はほかの編集部の手伝いもしていたわけだから)僕は彼に対しても、中沢さんと秋元さんに対しても悪いともなんとも思っていなかった。
「今回さあ、広告が四ページ落ちるらしいんだよ。だからもうひとつ、何かやんなきゃいけないんだけど」
 進行や予算の管理などを受け持っている秋元さんが、手元のノートを見て言った。
 僕は皿に残ったカシューナッツを箸でつつきながら、顔を上げないようにしていた。
「発売日は七月の末だからテーマは夏にちなんだものがいいんだけどな。んー」
 当たり前のことだが、雑誌はその準備にかかってから実際に本が出るまでに時間の開きがある。月刊誌なら、一カ月から二カ月。つまり、春には夏の企画、夏には秋冬の企画にかかることになる。
 今回ほとんど撮り終えてしまったグラビアも、モデルのイメージカットで使った衣装は完全に夏物だったし、背景はすべてオープンだった。
「こう、外の雰囲気が出るようなやつで、予算があんまりかからないもの」
「『拾い』かな、やっぱり」
 背もたれに左腕を回してタバコを吸っていた中沢さんが言った。
「そうだね。丸ちゃん、おまえちょっと竹下行ってさ、女子高生つかまえてスケベな話聞いてきてよ」
 秋元さんが言った。
「えっ?」
 つまんでいたカシューナッツが、皿の外に飛び出した。
「僕、やります」
 油尾が名乗り出た。いつものパターンだったので、これで僕はやらなくてすみそうだと思っていると、
「いや。アブじゃダメだな。いくら最近着る物が少しイマっぽくなったっていっても、アブが声をかけたら、宗教の勧誘かなんかと間違えられるよ。それにおまえ、モデルの子にさえいまだにスケベな話のひとつも聞けないじゃないか。ダメダメ。丸ちゃん、いいな」
と、中沢さんが言った。
「でも」
 ナンパなんてしたことがないし、ガキは嫌いだし、おまけに『ギャル通』なんかでは出てくれる子がいるわけが……。
「もろなエロねたじゃないだろー? おまえ、ほかの本に行っても突撃インタビューなんて絶対あるんだよ。やってみな。なんだったら久美を連れてけばいいからさ。あいつがいれば女の子もしゃべるかもしんないし。いいよな。アブ。久美借りて」
 中沢さんは油尾のほうを見た。
「なぜ僕に聞くのですか?」
 油尾が驚いた顔で聞いた。
「だっておまえ、久美とつき合ってるんだろ?」
「久美さんは……僕の所有物ではありません」
「そうなんだ? じゃ、決まりな」

 しばらくするとカメラマンの河合が現れた。ラグビーのユニフォームみたいなグレーと紺の太い横じまのTシャツを着て、カメラを裸のまま首から下げ、大きなカメラバッグを肩にかけている。
「おおっす」
 僕は自分と同世代の人間を見てほっとした。河合は僕よりひとつ下で、まだ独立して一年の新人カメラマンだった。モノクロページにあった新人の女の子(いちおうアイドル候補生たち)の紹介ページと、『お笑い写真館』というページで仕事をしてもらっていて、担当の僕とはかなり親しくなっていた。
「ガキばっかりだね」
 隣に座るなり、駅舎のほうにカメラを向けてピントを合わせ始めた河合に、僕は言った。
「いいじゃん。明るくて。あ、あの子、かわいいなあ」
 ファインダーをのぞいたまま河合が言う。
「若い奴らに興味あるんだ?」
 僕は新しいタバコに火をつけながら言った。
「えー、なんで? 丸ちゃん若い子嫌いなの?」
 河合はほんの一瞬、カメラから目を離してこっちを見た。
「バカっぽすぎるよ」
「いいじゃない、バカで。『ギャル通』がおりこうな本だとは思えないよ」
「俺、『ギャル通』がやりたくて来たわけじゃないから」
「でも、仕事だよ」
「そりゃ、わかってるけどさあ」
 僕の気分がのっていないということにようやく気づいたらしい。河合はカメラをテーブルの上に置いてメニューを見始めた。
「河合くん、結構慣れてるっていったよね、『拾い』」
 僕は言った。
「うん。だって、なんも実績のないカメラマンが業界にもぐりこもうと思ったら、こういうところから入るしかないじゃない?」
「将来のためか。偉いな。いいよね、自分のやりたいことがはっきりしてて」
「丸ちゃんもそうなんじゃないの? 編集やりたかったから入ったんじゃないの?」
「どうなのかな。わかんないんだよね。とにかく就職活動が面倒で……」
と、いつもの話を始めそうになったとき、
「あ、来た来た。久美ちゅわーん」
と、河合が叫び声を上げた。
 見ると、足田久美が、ガラスの向こうからこっちを見ていた。聞こえるはずもないのに河合は彼女に向かって「久美ちゅわん」を繰り返した。まるでこの街の雰囲気が彼にも伝染したようだった。

「だーっ。聞いてよ。もうあったまきた」
 足田久美は、昔の「がま口」をそのまま大きくしたような黒いバッグをテーブルの上に放り投げて、言った。
「なになになに」
 僕との間にひとつ席を空けようとして立ち上がった河合が、久美の顔をのぞきこむ。
「オジンだよ、もーっ。朝からさわってくんじゃねーつの」
「痴漢か」
 僕は言った。久美はうなずいた。
「だから国鉄のラッシュとかいやなんだよね」
「ごめん。朝早くから」
 足田久美を午前中に見たのはその日が初めてだったと思う。
「丸山さんが謝ることじゃないよ。ちょっと待ってね。いま気分切り替えるから」
 久美はそう言うと、僕たちの間の椅子に座って、ふーっと長い息を吐いた。
「でも、久美ちゃんに手を出すなんて、勇気あるジジイだよね、そいつも」
 河合が笑いながら言った。
「どういう意味よ?」
「だって……あれ? 久美ちゃん、なんか今日違わない? いつもと」
 河合の言葉に、僕もあらためて彼女を見た。いわれてみると、確かにいつもと少し印象が違うような気がした。ブルーのノースリーブのワンピースに、白いカーディガンを袖を通さずに羽織り、胸元その他にアクセサリーもなくて、左腕には細い革のベルトの腕時計をつけているだけ。爪にも色がついていないし、口元にもいつものようなけばけばしい色が載っていない。
「だからだよ。フツーの女子大生とかに見えたんだよ」
 そう言った河合を久美は肘でつついた。
「今日はホステス役だからね。信用できそうなお姉さんがいいかなと思ってコンサバしてみました」
「コンサバ?」
 僕は聞いた。
「カンサーバティブ」
 久美が「サー」にアクセントをつけて発音した。反射的に訳語が出てきた。
「『保守的な』?」
「さすが元受験生」
「保守的なわりには……」河合が足もとを見て言った。
「なんで裸足で銀のスニーカーなの?」
「うるさい。おだまり」
 久美は言った。



 足田久美に会うのは久しぶりだった。
 あいかわらず、僕は彼女に個人的な興味はほとんどわいてこなかった。だが、彼女についての情報は自然耳に入ってきた。もちろん、出所は早川と新堂だ。
 二人は、仕事人・油尾があの「告白」をしてからというもの、以前にもまして久美の話題を出してくるようになった。
 彼らの話によると、彼女は大手からマイナーまで、出入りする先々の編集者と寝て仕事を取っているということだった。その数は二桁をとうに超えているらしい。しかも、不倫がその大半で(彼女の言葉でいえば『不倫ごっこ』なのだろうが)、中には彼女が原因で家庭が崩壊した男も何人かいるらしい。彼女は相手の離婚が成立すると男を捨て、捨てた男を友人のように扱って仕事だけは切れないようにしているということだった。
 それに、どこでそういう話を仕入れたのかは知らないが、彼女は某有名作家のひとり娘で、本当はまったく仕事をする必要などない「お嬢様」なのだが、ファザコンのせいで家出をして、ひとり暮らしをしている。高校時代には、N社の全国模試で、一位になったこともあるらしい……そんな話までが出た。
 だが、僕はそれらをただ聞き流しているだけだった。足田久美に家庭を崩壊させられる男なんて当時の僕にはまったく理解できなかったし、何度もいうようだが、本人にそれほど興味がなかったからだ。
 興味があったのは、あの告白以来、久美が、たしかにときどき油尾と個人的に会っているらしいという話と、前々から聞いていた、彼女と原葉さんのうわさだけだった。もちろん、それにしても、両方の男が僕の身近な存在だったからというだけの話だが。
 あとのほうのうわさについては、早川が言う「その決定的な証拠」も、しばらく前に見せられた。
 その日、昼食のとき、早川と新堂は、僕を会社から少し離れた店に連れて行った。イタメシ屋だったが、『ギャル通』編集部行きつけの、会社のすぐそばの店よりは気取っていて値段も高かった。なんにしても、ここまで来れば、会社の誰かと鉢合わせする可能性はなさそうだった。
「これ」
 ウエイトレスが水を置いて僕たちのテーブルを離れると、早川が、僕のほうに一冊の薄っぺらい本を差し出した。ひと目でわかったが、それは「ウラ本」だった。
 そのころになると、僕にも少しはデザインの知識がついてきていて、書店で雑誌などを見ると、「へたな表紙だなあ」とか「すごくいいな」とか感想くらいは持てるようになっていたが、そんな素人に毛が生えたような僕から見ても、その表紙のデザインはひどいものだった。上三分の一は、シアン(ブルー)のベタで、そこにイエローのベタで『マクドのマリア』というタイトルが、極太明朝体で入っている。その下には、ファーストフードの制服に似せた衣装を着たモデルの女の全身写真が、不安定な入り方をしている。タイトルを見て思ったのは「関西の本か?」ということだけだ。
「これが?」
 僕は二人の顔を見た。
「まあ見てみなよ」
 いわれるままに、テーブルの下に隠して、僕はぱらぱらとページをめくった。「ウラ本」の内容など詳しく説明する必要はないだろう。そこには、男と女の、ヤラセではない行為の写真が収められていた。もちろん、修整もなしだ。
 僕はまだわからずに、二人を見た。
「それ、足田久美だよ」早川が言った。
 僕はちょっと驚いた。
「まさか」
「ほんと」
 僕はもう一度、今度はゆっくりとページをめくった。モデルの髪は短くて、印象はかなり違っていたが、いわれてみればどこか彼女に似ているような気もした。ただ、僕は彼女に「すごく細い女」というイメージを持っていたので、それにしては、写真の女は胸などが豊か過ぎるような気もした。
「似てるような気もするけど」
「本物だって。正真正銘の」
 新堂はいつものように、なぜか満足げな表情でにやついてタバコを吸っている。
「男のほうは原さんだよ」
「えっ」
 そのほうが余計、僕を驚かせた。
「レリーズが見えるでしょ。男の手のところに。ハメ撮りだよ」
 しかし、いくら見てみても、男の顔はうまく女の体の陰になっていたり、写真が切れていたりして確認することはできなかった。
 僕は本を閉じてテーブルの下から早川に返した。ひとりの客が僕たちの前を通ってトイレに行ったから。
「ほんとかな?」
 僕は水を飲んでから言った。
「ほんとだよ」
 新堂が言ってふーっと長く煙を吐いた。
 僕はまだ半信半疑だった。
「これ、仕事人に見せたらどうなるかな?」
 早川が言った。悪事をたくらむときも、きらっとのぞく歯は「さわやかサーファー」を演出している。
「まあ、大変でしょうね」
 新堂も含み笑いで言った。いつものことだが、その笑いをグーで殴ってやめさせたいような気がする。――井上さんを早川に持っていかれた恨みも、お得意の「マゾヒズム」の快感に昇華してしまったのだろうかこいつは、と僕は思った。そのくせ、早川がいないところでは、「まあ、いちおうどんな雑誌でも文化的産物なんだから、それにしては早川はちょっと軽いっていうか……アーパーすぎるよね」などと言ったものだが。
 それでも、僕も同じことを考えないわけにはいかなかった。油尾がこれを見たら? そうだ。どうなるだろう? うわさには聞いていても、その二人のことをこうしてモロに見てしまったら……。それに第一こういう本に出ている女だと知ったら……。それでも油尾は足田久美を好きでいられるのだろうか。
「もっとほかにもあるらしいんだな」
早川が言った。
「原さんと足田久美は、SとMの関係らしいんだよ。もちろん、原葉さんがSね。そいでさー」
 早川はお得意のささやくような声で続けた。
「C社のSM雑誌とかに二人で出ているらしいんだな。残念ながらだいぶ前のことで手に入らないんだけどさ。それに、原さん、自分のウラビデオのレーベル持ってて、その中でも足田久美と二人で出てるんだって」
「本当に?」
 そう言いながら、僕の頭には、あの民宿での撮影のとき、原葉さんの車の荷台にあった、『鬼畜本舗』のビデオのことが浮かんできた。
「ほかにも何人かM役のモデルの女の子抱えてて、そのひとりが僕の知り合いのカメラマンに話したらしいんだ。あの人、撮影中も本気で血が出るまで女の子を殴ったりするらしいよ。だから結構怖がられてるんだよ」
 僕は、原葉さんの、いつも笑っているような顔を思い出した。



 似てるといえば似てるかな……。
 僕はこのときも、ひさしぶりに実物の足田久美を見ながら、ぼんやりそう思った程度だった。そんなことよりも、今日、これから消化しなければならない仕事のほうが気になって仕方なかった。
「何ページだっけ? 今日」
 久美が言った。
「いちおう、四ページ」
 僕は右手の親指を折って彼女に示しながら言った。
「一ページにひと組だとしたら四組、おもしろい子たちがいたらそれを二ページにするとして、最低三組は取んなきゃね。それにつかまえた子たちが全員こっちのほしいことしゃべってくれるかどうかわかんないし」
「……そうだね」
 彼女はいつものようにてきぱきと話を進めてくれる。なるほどなるほど。編集の僕はうなずいてばかりだ。それくらいは当然考えておかなければいけないはずなのに、何組取ればいいかなんて、さっきまでぜんぜん考えていなかったのだ。
「天気はどうかな」
「だいじょうぶ。俺、天気予報いつも聞いてるから、仕事上」河合が言った。
「暑くなるまでにやっつけたいよね。できれば」
「行こか」
 久美が言った。
「お茶飲まなくていい? 久美ちゃん」
「いい。先に仕事しよ」
 彼女はそう言って僕のぶんの水を飲んだ。
 声をかけるのは足田久美、写真はもちろん河合で、僕はカメラバッグとレフ板を持ってアシスタントになるという配役が決定して、僕たちは竹下へ向かった。



 なんとか午後二時前に仕事を終えた。僕たちは「なにか食べられてコーヒーが飲めて、若い子が少ないとこ」という久美のリクエストに合わせて、竹下通りの入り口からすぐ右へ路地を入った突き当たりにある「ドンキー」という喫茶店に行った。以前、あてずっぽうで入っていったら、意外なことに静かで、ほとんど学生はいなくて、いつでも食事ができるこの店を見つけたのだ。セットメニューがウリで、おもにサンドイッチだったが、どれを頼んでも、小さなゆでたジャガイモが丸ごと一個ついてくるのだった。
 僕たちは椅子に倒れこむように腰かけて、ほっと息をついた。頭の中に、さっきまで話を聞いていた女子高生たちの声が響き続けている。

――その子に、『家でも毎日してるの?』って聞いたら『前は毎日やってたけど、いまはたま~に』――やっぱり中学じゃないかな。よく、廊下なんかに使用済みのコンドーさんとか落っこってたよ。――やっぱ、顔かな。中身は全然関係ないみたいね。かっこいい男の子だと、すぐにヤリマン。思わず出てしまった。――センセーは手が早いよ~。体育の先生なんてすごいスケベ。『髪の毛さわってごらん。気持ちいいんだよ』とか言って手を握って、そんで、その手を自分のアソコに触らせてね。でも、かわいいの。――友だちに裕子って子がいるんだけど、その子は学校の帰りに車でナンパされたのね。なんか急にヤクザ風に脅されてむりやりやられてしまったんだって。駐車場で。――指を入れられた。――まさかあ。三人にひとりくらいだよ。――でも、処女なのに飲んじゃったとかいう子いるよね。で、ポテトチップの味がした、とかいうんだよね。

「いまの高校生ってさ、なんていうか、サバけてるよね」
 注文を終えてタバコに火をつけると、久美が言った。僕にはその言葉が意外に聞こえた。河合もそうだったのだろう、
「久美ちゃんだって、けっこうすごかったんじゃないの? 高校のころ」と言った。
「ぜんっ、ぜん」
 足田久美は、目を閉じながら力を込めて首を横に振った。
「わたしなんてすごい奥手だったよ。化粧とかも、初めてしたのって短大に入ってからだし。さっきの、最後のあの二人、あれよりもっとまじめっぽかったよ」
 取材では、三組のグループをつかまえた。最初の二つのグループはハデ目で、四人と五人という大人数のせいもあって、こちらがほしいことをたくさんしゃべってくれた。最後のひと組は、当時でもかなりおとなしい感じの二人組で、エロねたは何も聞き出せなかったが、なぞなぞを教えてくれた。それから、自分たちの周りだけで流行っていると前置きして、こんなことも。「なにを聞かれても『やっぱりーっ!』って、こう指を立てて。たとえば、お母さんにしかられても、やっぱりーっ!」

「大人を見てても、『あ、この人もセックスしてるんだ』とか『あのきれいなお姉さんもセックスしてるんだ』とか考えて、それだけで『世の中って信じらんない』とか思ってたくらい。あんなに赤裸々にそういうことをいうなんて考えらんなかったな」
 足田久美は言った。
「でも彼氏はいたんでしょ」
 河合が言う。
「いたけど、高三になってからだよ」
 久美は、椅子に斜めに腰掛けて煙を吐き出した。
「高一のころなんて、わたし、石川啄木に恋をしてたのね」
「いしかわたくぼくぅ?」
 河合が、腹痛を起こしたツッパリのように顔全体を歪ませて言った。
「そ。東海の小島の磯の、の啄木」
「短歌が好きだったの?」
 僕は言った。
「短歌が好きっていうか、石川啄木その人が好きだったの。毎日ラブレター書いてたんだ」
「啄木に?」
「うん。それで、なんか放浪とかにもあこがれて家出したこともあるんだ。でも、実際は家の庭で、飼い犬と一緒にひと晩犬小屋で寝てただけなんだけどね。かわいいでしょ」

 河合がトイレに立った。
「……大手だったらこんな仕事ないよね」
 僕は、自分でも知らないうちにそんなことをつぶやいていた。
「どうだろう? まあでも、専門のライターさんに頼んじゃうかもね」
 久美は言った。
「そうだよね……。やっぱり大きい会社の奴ってすごい?」僕は言った。そこに変な興味も含まれている口調になったので、
「仕事ができる?」
と、あわててつけ加えた。
「仕事のことはよくわかんないけど、本とか漫画とか、あまり詳しくない人とかが多いよね。あ、漫画誌の人は違うだろうけど、知らないから」
彼女は有名無名を問わず男性グラフ誌を主な仕事場にしていた。
「その……そういう編集の奴ともよく話したりする?」
 話をするどころではないと、うわさには聞いてるけど……と、心の中で続けた。
「ご飯とかよくおごってもらったりするよ」
 久美は言った。
「けっこういいとこなんだろうな、店とか……。いいよな、大手は」
「なにが?」
「いや、いろいろ有利だなと思ってさ。経費なんかも」
「でも、あんまりいいって思う人がいないよ。なんか、頭の上に『S社』とか、ハタ坊みたいに旗立ててる人が多い? って感じで。よく学生のころもいたでしょ? 聞いてもないのに大学の名前とかいう奴。ちょっとそういう感じかな。丸山さん、大手に行きたかったの?」
「そりゃ、行けたらね」
 学歴、コネ、成績、どれをとっても無理だ。そのうえ本人にやる気がなかったのだから。
「そう。でもわたしはE出版、いい会社だと思うけどなあ。いい人多いし」
 河合がトイレから帰ってくるのとほとんど同時に、食事が運ばれてきた。
「久美ちゃんさあ、ほんとにアブちゃんとつき合ってんの?」
河合は、皮をむいたジャガイモに塩を振りかけながら言った。足田久美は、両手をイスの後ろに置いてから、深く座り直して、
「うん。清い男女交際してる」
と、言った。
「こないだ仕事人、いきなりサマージャケットなんか着てきて、あれも久美ちゃんでしょ」
 僕は言った。
「うん……」
「髪型も。美容院につれてったんでしょ? あれ」
「そうなんだけどね。……でもおせっかいだったかもしんない」
 そう言うと、彼女はちょっと顔を曇らせた。
 油尾が、ある日突然、当時流行っていた、両サイドと後ろを刈り上げて前髪を立たせた髪型に、ブルーのサマージャケットという、エセ・玉置浩二ばりの格好で出社してきたときは、「下」の人たち全員がどよめいた。
「おまえ……どうかしたのか?」
 中沢さんは、まるで地球最後の日がきたというような悲しげな顔で、聞いた。
「何も聞かないでください」
 油尾は、顔を真っ赤にしてそう言った。
「久美に選んでもらったのか?」
「ええそうです。しかし、何も聞かないでください」
 油尾は、神妙な顔つきで言った。

「まあ、よっぽどうれしかったんだろうね。あのままずっとあの服着てるし、そのまま泊まったりしてるくらいだからね」
 僕は言った。
「そうなんだ?」
 久美は、紙のおしぼりで手を拭きながら、困惑したような顔をした。
「二人でいて共通の話題とかってあるの?」
 僕はホットドッグを噛み切りながら、聞いた。
「ああ、それは、けっこうあるよ。それに、いわなくても油尾さんがなに考えてるかはだいたいわかるし。似てるからね、わたしたち」
「久美ちゃんと仕事人が?」
 河合が驚いて言った。
「うん」
「でも、アブちゃんはクラいし、久美ちゃんは明るいじゃない?」
 河合がそう言うと、久美は、左手にトーストを持ったまま、右手の人差し指を立てて、メトロノームのように左右に振ってみせた。
「わたし、その分け方、認めないんだ。明るいって自分でいってて、村八分にされないように用心してるクラい奴がいっぱいいるじゃない? シベリアの農村の冬みたいに暗いくせに自分じゃ春の公園通りが似合うと思ってる奴。死んで。って感じ? それにわたしは明るくないよ、そういういい方するんなら。どっちかっていうと暗いよ。『北の宿から』みたいなもの引きずってる女かもしれないし」
僕たちは笑った。
「うそだね。暗い人が『コスプレ人生相談』なんかする?」
 河合が言った。それは、『投稿王子』の企画で、足田久美が毎回、アニメキャラクターの衣装を着て登場し、読者の、ほとんどがどうしようもない下半身の悩みに適当に答えるというお笑いのページだった。写真は河合が撮っていた。
「それは、いいかげんだから。いいかげんと明るいは違うよ。それにいいかげんにやってて本人それで結構悩んでるかもよ」
 久美は言った。
「違うな。ぜったい」
 河合は強く言った。もちろん、河合自身はほめ言葉のつもりで言っているのだ。
久美はこのとき、あとで考えれば、頭を仕事用に切り替えたのだと思う。
「明るいっ?」
と、いつもの笑顔で言った。
「うん」
「やっぱりー!」
 久美は、さっきの一番地味だったふたり組に教えてもらったポーズをした。
「さ、食べたらもういっちょ!」
「ウソだろ?」
 僕と河合は言った。
「ダメだよ。まだ三組なんだから。最後の子たちは一ページ使えないし。せめてもうひと組取らなきゃ」
 久美はそう言うと、音を立ててトーストを噛み砕いた。





第9章



 生まれて初めて、夏休みのない夏が来た。
 去年まで、ニュースで「大型連休」と聞いても、「たかが一週間で何が大型なんだ?」と思ったものだが、高校までは一カ月、大学生になってからは約二カ月の休みがあったこの時期に、その年僕が取れたのは、正味二日の休みだった。
 いちおう日付でいうなら三日間だが、最初の一日はほとんど眠っていたのだ。というのも、その日家に帰ったのは朝の六時過ぎだったからだ。
 編集者が通常のスケジュールで仕事をしていたのでは、雑誌の発売日に間に合わなくなる時期が三つある。ひとつは正月前、つぎにゴールデンウイーク前、そしてお盆前だ。当然のことだが、印刷会社はこの時期普通の休みを取る。だが、それに合わせて、雑誌の発売日が遅くなるわけではない。と、どうなるか? もちろん、入稿の締め切りが早まるのだ。
 いつもなら、一冊の雑誌を校了してしまえば、少なくとも三日間は、のんびりできる日がやってくる。ところが、この三つの時期の前にはそれが吹っ飛んでしまう。
 それどころか、『ギャル通』のように特写の多い雑誌だと、つぎの号の準備を始めるころから、もうひとつ先の号のことまで考え、七本ではなく、十四本の撮影をおよそ一カ月の間に終わらせるようにスケジュールを組まなければいけない。単純に考えても、一時的にいつもの倍の仕事量になるのだ。
 モデルやカメラマンの都合などで、月号の順番どおりに撮影を組めるわけではないので、慣れないと、いったいいま自分は何月号の撮影をしているのかわからなくなってしまうこともある。
 本格的なお盆進行を前に、七月に入ると『ギャル通』は、そんなふうに同時に二冊進行しているような感じになって、僕は毎日パニック状態だった(本当はゴールデンウイークのときもそうなっていたはずなのだろうが、あのときは知らない間に中沢さんと秋元さんがフォローしてくれていたのだろう)。
 七月の末に出来上がった雑誌のページを、机についてゆっくり開くことができたのは、八月の上旬も終わろうとするころだった。
 そうして八月に発売される号の最後の入稿が、僕にとってのお盆休み初日の朝になったのだ。
 午前四時ころ、A二判の大きな封筒に原稿を入れ終わった。僕は、いつものように、これを入り口近くの、印刷会社の名前別に設けられた段ボール箱に入れてしまえば、帰れると思った。ところが、
「お疲れさん」のひと言のあと、
「今日、もう大新日印刷さん、休みに入ってっから取りに来れないし、担当もいないからタクシー便も出せない。おまえ、届けにいってきて」
と、中沢さんが僕に言った。
「届ける? いまから板橋までですか?」
 僕はびっくりして聞いた。
「うん」
「どうやって?」
「ま、車だな」
「僕、始発を待って電車で行ってきます」
 例によって、油尾が志願した。
「いや。丸ちゃん、おまえ行ってきて。おまえんち、山手通り沿いだよな。なら、とにかくずーっとまっすぐだし、着くまで寝てりゃいいんだからさ。それにアブはメルヘンコーナーの原稿だけ後送になってるだろ? 休み明け朝イチに向こうが仕事にかかれるように、書いて休み中にファックスで入稿しとくように」
「中沢さんに読んでいただかなくていいのですか?」
 油尾は言った。
「バカ。あたしは休む。丸ちゃん、頼んだよ」
 五時前に会社の前からタクシーに乗った。そこから板橋で折り返して、山手通りを家に戻ってくるまで一時間半くらいは経っていたらしい。だが、僕の意識があったのは合計で五分くらいだった。
「着きましたよ」
と、運転手に言われて目を覚まし、原稿を大新日印刷の守衛室に渡して車に戻り、つぎに起こされたときは、もう女子高の正門の前だった。



 短い休みが明けるとすぐ、校正の仕事が待っていた。一日目は会社のほうに出稿物が来たが、二日目からは「まにあわないんです」(大新日印刷営業部・加藤氏談)ということで、こちらから印刷会社に出向くことになった。初めての出張校正だ。
 前の年も暑かったが、その年はとくに夜がひどくて、熱帯夜の連続記録を毎日更新していた。その朝も、僕は寝不足のまま板橋へ向かった。
「まにあわないんです」と言ったわりには出稿までにはえらく時間がかかった。十時から四人で「出張校正室」につめていたが、昼近くなっても校正刷りは一ページも出てこなかった。
 ちょうど十二時になるかならないかに、ようやくドアが開いたと思ったら、加藤さんではなく、若いスーツ姿の男が、弁当箱を四つ抱えて入ってきた。彼は、それを重ねたまま机の上に置き、
「どうぞ」
とだけ言うと、すぐに消えた。
 中沢さんと秋元さんは、
「しょうがないな。メシにするか」
と言った。
 僕と油尾で弁当を配ったが、
「いいよ。あたしたちは外行って食ってくるから、おまえたちもいまのうちに食べといて」
 そう言うと、二人は出て行ってしまった。たぶん、もういままで何十回もこういう弁当を食べて飽き飽きしているのだろう。
「いいよね。編集長は」
 僕は冷たくなったごはんをかきこみながら、卓球台のように薄くて広い机の斜め向こう(入口側の奥)にいる油尾に言った。聞こえないはずはないのに、何の反応もなかった。
「俺も外で食いたかったな。こんなとこで食うより」
 この部屋にいるうちに慣れてしまったペーパーボンドのにおいが、食事をしているとまた、強く感じられてきた。まるでシンナーをおかずにまぶしながら食べているような気分だ。ここは地下の三階で、僕たちの部屋のほかにも数え切れないほどの部屋があった。一度トイレに立ったとき見てみたが、ドアの横に下げられた札には、誰でも知っている大部数の週刊誌や月刊誌の名前などがずらりと並んでいた。
 僕が食べ終えて、お茶をすすり始めても、油尾は弁当を横に置いたまま手もつけずに座っていた。
「仕事人、食べないの?」
 僕はタバコを口にくわえて言った。さびついた椅子の背もたれがきいっと音を立てた。たぶん、僕の声より、その音に反応したのだろう。一瞬、体をびくんとふるわせて、彼は顔を上げたが、
「……あ。……ええ、いまはほしくないのです」
 それだけ言うとまた目線を落とした。なんとなくいつもと様子が違うと感じたのは、その日はそれが初めてだった。
 出張校正というのがどれほど大変なのかまったく予想できなかったし、今日はとりあえず戒厳令下のようなつもりで出かけてきたので、最初は緊張していて油尾のことなど気にする余裕がなかった。そのあと「待ち」の態勢になると、今度はずっとうとうとしていて自分自身のことさえよくわからなくなってしまった。中沢さんも秋元さんもそうだったと思う。この二時間、僕たちの口から出たのは、「暑ーい」、「眠ーい」、「遅ーい」という、ほとんど寝言のような言葉だけだった。



 油尾は、このところ「のっている」ように見えた。それはただ服装や髪型が変わったからというだけではなく、何の仕事をしていても、実際に楽しそうだった。撮影中の「勃起しました」は、あいかわらずだったが、モデルとも少しは会話をするようになったし、ときどきは僕たちに、自分から冗談をいったりするようにもなった(もっともそれは、あの『手淫せん棒液』式の、一瞬みんなが固まってしまうような恐ろしいギャグではあったが)。
この変化が、足田久美との「清い男女交際」の成果であるのは明らかだった。いったいそれがどういうつき合いなのか、誰もはっきりとわかっていたわけではないとしても。
 例の『メルヘンコーナー』も、彼なりに絶好調だった。
 ――第一回目に登場した少年は、『風景をまきとる人』に風景と一緒にまきとられ、その裏側へ行く。そこで『大きな人』たちから、彼らが『にせものの女王』に奴隷として支配されていることを告げられる。『にせものの女王』は『悲しみ』の食べすぎでぶくぶくに太り、身動きが取れなくなった部屋の中で、無数のモニターに映し出される人間たちの悲惨な毎日を眺めている。その画面から『悲しみ』を収集してくるのは、女王に仕える黄色スズメバチに似た昆虫だ。女王は、モニターを見ながら、その虫に『悲しみ』を注がせたグラスを立て続けに飲みほす。少年はその姿を垣間見て、『にせものの女王』を倒す騎士になる決心をする。そのためには、一度、にせものの世界に戻って、騎士になる修業をしなければならない。少年は風景の裏側から帰ってくる。そうして修業を始める前に、自分の『思い姫』にそのことを告げる。『思い姫』は、あまりに危険なその冒険を止めようと、涙を流して少年に訴えるが、少年は「敵を倒し、世界に幸せが戻ってくるその日にはまた再会して愛を確かめよう」と言う。ここから、当然、二人の別れが描かれなければならないはずだが、この二カ月、少年は『思い姫』のところにとどまって、なかなか修業に出かけようとはしなかった。二人は小さいころの思い出話をし、自分たちがさまざまなことについて同じ感じ方をしていたことを確かめ合い、感激し続けているのだった……。

 いまになれば、このころすでに油尾の中では、なにかが壊れかけていたのかもしれない、という気もする。その変化はあまりに急だったし、よく見れば、どこか無理があることに気づいたはずだ。油尾は、七月にお盆進行に入ってからは、ますます会社に泊まることが多くなって「仕事漬け」状態になっていたし、それはだんだん度を超えて「仕事ハイ」とでもいった異様な雰囲気を彼の風貌につけ加えていった。一時的に刈り上げられていた髪は、以前のようにぼさぼさに戻り、足田久美に選んでもらったという一張羅のサマージャケットは、二十四時間体から離れることのないせいで、もともとのブルーの色がとうに褪せて、いまやドブネズミ色のタオルのように彼の体に巻きついていた。
 だが、それがどんなに異様で、異常であったとしても、彼が「のっていた」ことは確かだった。少なくとも、この休みの前までは、そうだったはずだ。
 それが、今日は、うって変わって、この部屋の暗さに溶け込むように静かだった。休み中に、なにかあったのだろうか、と僕は思った。あったとすれば、足田久美との間に決まっているだろうが……。
 それとも、僕への反発だろうか。ここ何カ月か、会社にいるときには、僕は早川と新堂と三人でつるみ、昼食もいつも一緒に食べていて、同じ部署の油尾には 一度も声をかけたことがない。そのことを油尾は、実はいつも気にしていて、まさにいま、彼の独自の「リズム」にしたがって、その僕への嫌悪感が爆発寸前のところまできているとでもいうのだろうか。
「上にジュースの販売機あったよね? ちょっと行ってくる。仕事人、何もいらない?」
 僕はタバコを消して立ち上がった。
「はい」
 ドアを出ようとしたとき、ピラミッドの玄室のような(つまり、死体置き場みたいな)この場所には似合わない、パタパタとけたたましい足音が聞こえ、加藤さんが現れた。演出かもしれないが、肩で息をしながら、A二判のパンパンに膨れ上がった封筒を両手で抱きかかえている。僕はその厚みのある体に、もう一度部屋の中へ押し戻されてしまった。
「お待たせしましたあ」
 加藤さんは紙袋を卓球台の上に、どすんと、放り投げるようにして置いた。
「全部出ましたよ。全部。あれぇ、編集長と秋元さんは?」
「メシです」
 袋の中から校正刷りの束を引き出しながら僕は言った。強いインクのにおいが、鼻先からペーパーボンドのにおいを吹き払った。油尾が無言で、ゆっくり立ち上がった。
「こまるなあ、二人とも。間に合うのかなあ。現場を待たせてあるのに」
 加藤さんは眉間にしわを寄せて、うなり声を上げた。僕は「俺たちも二時間、ただ待ってたんだけどなあ」と思ったが、そうは言わず、加藤さんに肩をすくめて見せた。「しょうがないじゃないですか。僕たちは新米でよくわかりませーん」という意味だ。
「とにかく、現場は待ってますからね。戻ったら、すぐ内線にかけてと伝えてください」
 加藤さんはそう言うと、またパタパタと出て行った。



 僕と油尾は五部ずつ出てきた校正刷りを、折ごとに分けて重ねていった。いつものことだが、グラビアのページにはこのまま出してしまうわけにはいかない要修整箇所がいくつかあるのがすぐにわかった。
 こんなとき、油尾は仕事人の名にふさわしく、ロボットのようにすばやく作業をしたものだったが(彼は「エロ」に直接関係ない作業だと、なんでもきびきびとやってのけた)今日は何度となく単純なミスを繰り返して、いつものようにははかどらなかった。
「……だめです」
 ふいに、油尾が校正刷りの束を手から落とした。そうして立ったまま、両手をテーブルの上についた。
「どうしたの?」
 僕は少し驚いて油尾の顔をのぞきこんだ。あまり風呂に入らないうえに、一日中ほとんど冷房のきいた空気の中で過ごしているせいで、ぼさぼさの髪の毛はつやを失い、オープンの撮影で日に焼けた肌はかさかさに乾いている。
「すみません。今日は仕事をするのがつらいのです」
 僕はいつかの電話のことを思い出した。それで、
「また、あれ? 空が青いから?」
と、笑いながら言った。
「いえ、今日はそうではないのです……」
 油尾は、曲がった背中をさらに低く落としながらつぶやくように言った。
「彼女と何かあった?」
 僕はそう聞いた。たぶん、皮肉っぽい口調になっていたはずだ。
実際のところ、僕は、足田久美が油尾と本気でつき合っているとは思っていなかった。だから、二人の間になにか「彼氏・彼女」のような関係が起こりうるはずもないと高をくくっていた。久美は、ただ好奇心から、彼と時々会っているのだろう――そう思っていたのだ。そうしてその好奇心の根っこには、あの知的障害児の同級生にやさしくしようとした「親切グループ」の女子と同じように、広い意味での同情のようなものがあるだけだろうと。
「いいえ。あの人は、僕の彼女ではありません」
 油尾は自分でそう言った。
「じゃ、どうしたの?」
「いえ、大丈夫です。ここにこれたのですから。すみません」
 油尾は落とした校正刷りを拾い上げ、作業に戻った。あいかわらずペースは上がらなかったが、僕たちは何とかそのうち区分けを終えた。グラビアのページは先に僕たちが見ても意味がないので(編集長の責任で修整を入れるわけだから)僕と油尾は、それぞれの担当の一色ページから読み始めた。中沢さんも秋元さんも帰ってくる気配はなかった。
 休みの直前に入稿したぶんも出てきていた。実際にはまだあれから三~四日経っただけなのに、こうして活字になってみると、なんだか僕はかなり昔のネームを読んでいるような気がした。
「丸山さん」
 油尾が言った。僕はちょうどはみ出したネームを何行削ればいいのか数えているところだったので右手を上げ、数え終わってから、
「なに?」
と聞いた。すると油尾は、卓球台の向こうから、僕をまっすぐ見て言った。
「女の人を尊敬しながら勃起するにはどうしたらいいのでしょうか?」 
「え」
「愛しているということは、同時に相手を尊敬することですよね。しかし、尊敬しながら、というのは、尊敬の気持ちを持ったまま、勃起するにはどうしたらいいのでしょうか?」
「んー」
僕は思わず秋元さんのような声をあげ、赤ペンを置いて腕を組んだ。
「どうしたらって、そんなこと考えながらやったことないよ。どうしたの? 仕事人……久美ちゃんと、もうそんなところまでいったんだ?」
 予想外の展開に、僕はほんの少し、想像力を刺激された。
「いえ……それは、わかりません。しかし……」油尾の耳がさっと赤くなった。
僕はふと思いついて、こう言った。
「やるときは欲望のままに、で、そのほかの時間は相手を尊敬することに専念すれば、それが愛情なんじゃないか」
 油尾はしばらく電池が切れたように動かなくなり、考えこんでいるようだったが、やがて顔を上げ、
「でも、それだと『取引き』になりませんか。欲望を受け入れてくれる代償に尊敬するという」と言った。
「でも、愛は代償を求めないものでしょう?」
いつもながら、その言葉はこの場所にまったく似合わないセリフだった。僕の手元では校正刷りの上のイラストの女の子が、裸で足を広げ、「カモ~ン」と呼びかけている。いったいここはどこなんだ? と、僕は心の中でつぶやいた。
「ほかの人はこの問題をどうやって解決しているのでしょうか? この世のものとも思われない共感の瞬間、お互いをお互い以上に理解できる者はない、と完全に感じ取れる至上の一瞬が訪れたとき、つまり相手への尊敬が頂点に達するとき、ほかの人たちは自然に勃起も始まるのでしょうか?」
 油尾は、僕をにらみつけるようにじっと見て、そう言った。彼がいったような一瞬が訪れたことも、だからそんな一瞬に勃起が始まったこともない僕は、なにか非難されているような気がして時々目をそらさずにはいられなかった。だが、よく考えてみると、油尾は二つのものをごっちゃに考えているという気がしたので、僕は言った。
「いや、たぶん、そんなことはないんじゃない? それはプラトニックというか、純愛というか……とにかく、女の子のことをそんなふうに思ってしまったら、きっと勃起はしないんじゃないかな、もう。少なくとも俺はそうだと思うけど」
「それなら、初めから、愛している相手とはセックスできないということになるんじゃないですか? そんなバカな! それでは僕の修業は無意味だということになる!」
 油尾はそう叫んで、両手のひらで机の上の校正刷りをばんと弾いた。いつもおとなしい彼のそんな姿を見て、僕は驚いた。なにかよほどショックを受けるようなことがあったに違いないと思ったが、それがどんなことなのかは想像がつかなかった。
「仕事人は、もともと愛情でだけ勃起するようになりたいんじゃなくて、ようするに、インポになることを望んでるんじゃないの? 誰にも立たなくなることをさ」
 僕は、話の流れから思いついた結論を言った。
 油尾は急に黙ってしまった。僕はいまの件について、もうほかになにも意見が浮かばなかったので、校正作業に戻った。そろそろ中沢さんと秋元さんも帰ってくるころだろう。
 仕事人・油尾はいつまでたっても仕事に取りかかる様子がなかった。べつに注意をするような立場ではないが、ひと言いったほうがいいかもしれない、と僕が考えていると、油尾はまた顔をあげて、「もうひとつ聞いてもいいでしょうか?」と言った。
「いいけど、きっとまた俺にはわかんないと思うよ。それに、そろそろ中沢さんたちが帰ってくるころだよ」と、僕は言った。
「なに?」
「自分を傷つけ悩ませるものを愛し続けることが人間に可能でしょうか?」
 油尾はそう聞いてきた。やっぱり、また愛か、と僕は思った。
「いったいなんの話?」
「たとえばそういう誰かを、です」
「足田久美に傷つけられたの?」
 僕は単刀直入に聞いた。結局フラれて悩んでいたのか、と思ったからだ。
「いいえ、僕のことではなくて、たとえばです」
 油尾は、視線を落として言った。それが本当なら、おそらく足田久美のことなのだろうが、彼女を傷つけ悩ませる誰かなんて僕が知るわけはなかった。
「まあ、あるんじゃないの? 誰にだってちょっとマゾ的なところはあるだろうし。正直、俺はないけどね、ぜんぜん。そうだ。演歌とかってみんなそういう歌ばっかりじゃない? そんなに傷ついて悩むようならやめればいいのにさ。『それでも待ってます』みたいなさ。どろどろしたのが好きだって奴は結構多いのかもしれないね。その傷の痛みで生きてることを確かめるとか? でなきゃあんなジャンル、いまだに残ってるわけないよね」
 僕は、まさか自分が成人するまで演歌が生き延びるなんて、子どものころには思ってもみなかった。
「でも、まあ、それも逆向きのナルかもね」
「ナル?」
「ナルシシズム。だから、そうやって耐えている自分が好きってことでしょ。それも快感だっていう……。俺、そこも嫌いなんだな、演歌はだいたい……」
「それによって自分が破滅させられるかもしれなくても? ですか」
 油尾は言った。僕は自説を披露するのに夢中でよく聞こえなかった。
「……破滅? うん、破滅でもなんでも。そういうのが好きな奴は破滅も快感なんだよ、きっと」
「そんなことが……」
 油尾は、テーブルの上に両手を組み合わせて置き、その上に額を置いた。
「……彼らが、僕の目の前に現れなくなったんです……」
 そのままの姿勢で油尾がつぶやいた。
「僕は最近、『大きな人』が見えないんですよ。……それに、ビルはビルに見えて、木は木に見えるんです……」
 僕はあの春の飲み会以来、こんなうわ言のような発言をする油尾を初めて見た。しかも、今日、油尾は酔っているわけでもない。
「それ、ただ、普通になってきただけなんじゃない? それでいいんじゃないのかな。それが本当なら」と、僕は言った。
 たぶん、僕のその言葉は彼の耳には入らなかったのに違いない。油尾は顔を上げ、向かい側の壁の、ほとんど天井に近いあたりにある大きなしみに向かって話し始めた。
「しかし、このままでは、僕が僕と呼んでいるものは、すごくあいまいなものになる……。僕が僕でなくなるのなら、僕はもうどうやって生きていけばいいのかわからない。誰を愛することもできない。そうでしょう? 『僕はあなたを愛する』の『僕』がなくなるわけですから。もうそう言うことはできなくなる……でも、あれがただの幻だったなら、『にせものの女王』もいないことになる……そして『にせものの女王』がいないのなら、人間は本当に自分たちで、好んで悲しみを作り出していることになる。そうなら、世界はどこまでも悲惨なままということになる……」

 そのとき、秋元さんが入ってきた。
「お、出たのか。……全部?」
 秋元さんは、封筒と僕たちの手元の校正刷りを見てそう言った。中沢さんは出稿の具合を聞きに、直接加藤さんのところへ行ったらしい。僕は、取り分けておいたカラーのグラビアの校正刷りの山を、秋元さんに渡した。
 秋元さんは、油尾の隣に腰掛け、ダイヤルのない内線電話で加藤さんと話してから、グラビアの校正を始めた。
「おまえら、さっき俺が入ってきたとき、なに話してたんだ? んー」
「それは……」
 僕は、油尾のほうをチラッと見てから言った。
「仕事人が、女を尊敬しながら立たせるにはどうしたらいいかと聞いてきたので、わからない、というような話をですねえ……」
「おまえさ」
 秋元さんはダーマートで陰毛に消しを入れる手を休めて、油尾のほうを向いて言った。
「いくら頭で考えても何にもならんぜ。早いとこどっかで一発やってきな。それからまた考えてみろよ。そのときになっても、おまえがいま言っているようなことが気になるとすればだけどな……」
 笑いながら、僕も油尾のほうを見た。だが、いつもと違って油尾は、僕たちがそこにいないかのように、さっきの壁のしみを見つめて動こうともしなかった。

 ★

 この年の夏を思い出していたら、いま、頭の中にひとつの風景が浮かんできた。それは、土曜か日曜の午後の麹町だ。僕は何の用事で会社を出てきたのか、横断歩道のところで額の汗をぬぐいながら、番町のほうへ渡る信号が変わるのを待っている。見渡す限り、新宿通りには車が一台も走っていないし、その瞬間人も歩いていなかった。半蔵門の方向を見ると、陽炎が揺れていて、僕は自分が海の底にいるような気がした。そうして、そう思うと本当に潮の香りがそこらじゅうに漂っているような気がしてきた。ビルも道路も空気も、ただ真っ白い……オフィス街の死んだようなかんかん照りの午後……。

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風景をまきとる人 06

2025-01-02 15:54:44 | 創作
第6章



 ゴールデンウイークの初日(入社以来初めての三連休だった)に、ひさびさにサークルの同級生たちと飲んだとき、僕は一週間前に出来上がった『ギャルっ子通信』を持っていった。
 場所は、大学近くの居酒屋で、ランク的には「中の下」ということになった。というのも、そのとき集まった五人のうち自宅通勤のひとりを除くと、みんな学生時代より貧乏だったからだ。
 初任給が入ったばかりだったが、まず僕は、手取り的には去年までのアルバイト代のほうがよかったし、メーカーに就職して大阪に配属された山下という男(実家は埼玉)は、今回の帰省の交通費を引くと好きなレコードも自由に買えないとボヤいていた。また、これまで十分な仕送りと、アルバイト代の両方でリッチにやってきた二人は、いきなりの数万円ダウンに、精神的にもダメージを受けていた。
 それでもみんなぱっと見は、二カ月ちょっと前の『追い出しコンパ』のときと変わらないように見えた。スーツを着てきたのは自宅通勤の森尾だけで、そのことが初めみんなの非難を浴びたが、よく見ると、非難しているほうも、以前着なれていたはずの服がどこか体になじんでいないように見えた。たんに髪型のせいかもしれないが。
 乾杯のあと、すぐに苦労話が始まった。僕は学生時代いつもそうだったように、話が一段落するまで聞き役に回った。山下が、ときどきにわか関西弁を使うのが妙に耳障りだった。
 一杯目のジョッキやグラスが空になるころ、パターンどおりに誰かが僕に話を振ってきた。
「おまえはどうなんだよ? 丸山」
 僕はバッグから『ギャルっ子通信』を取り出して、みんなの目の前に置いた。
「こういうものを作っておる」
「うおおーっ」
という声が上がってしばらくの間、回し読みが始まった。
「お、この子、最近べつの名前でなんかのグラビアに出てたよ」
「すげー」
「この子はビニ本で見たことがある」
 ひょっとすると、僕より彼らのほうがよほどこの手の本に詳しいのではないか……と思っていると、
「で、おまえはどことどこをやってるの?」
と聞かれた。
 僕は自分が現場に立ち会ったグラビアページと、入稿作業に加わった記事ページをひとつひとつ指差していった。
「これ、おまえ、書いたの?」
『日本一のサイテー男』のページを見て誰かが言った。
「いや、それはライターが……リードは俺だけど」
「じゃ、これは?」
「いや、グラビアのキャッチは全部編集長と副編集長が……」
「ふーん」
 ひととおり同じように説明し終えると、
「じゃ、おまえ、なんでいつもそんなにいそがしがってんの? 何回電話しても、陽子が出て、まだ帰ってないなんていうしさ。何がどういそがしいんだ?」
と、言われた。
「そうだな。なんで、かな?」
 このとき、僕は編集者の仕事を他人に説明するのは難しいものだと思った。自分で原稿を書くわけでもなく、写真を撮るわけでもない。イラストを描くわけでもないし、デザインはデザイナー任せ。もちろん、印刷や製本などの手伝いをするわけでもない。それなのに、毎日やらなければいけないことは山積みなのだ。
「まあ、ときどきならエエけどね、こういう本も。でも、ずっとこれじゃ飽きるよね」
 山下がぽつりと言った。
「自分が会いたいと思うミュージシャンとか作家とかそういう人に取材できるんならあれやけど……」
 もちろん、そうだ。いわれなくてもそれは誰より僕が毎日感じていることだ。
「E出版って『D』も出してるんだよな、たしか」
「うん」
「『D』ならエエのにな」
 今日は、自分の仕事をみんなにはっきり見せて笑ってもらい、そうして自分でも笑い飛ばしてしまおうと思って、『ギャル通』を持ってきたのだが、完全に逆効果になってしまった。僕には、みんなの中でも自分が一番損な、まずい職業選択をしたような気がしてきた。こんなふうに同級生に引け目を感じたのは初めてだった。
 僕が就職の問題になかなか手をつけようとしなかったとき、
「おまえのことは心配してないよ。おまえには俺たちとは違ったところがあるから」
と、彼らが言ったのは、たしかに自分たちがすでに内定を手にしているという優越感から出た言葉だったろう。だが、完全にそれだけだとはいえなかったはずだ。
 イベントなどでは、表立ってみんなを先導するというタイプではないが、僕の作るミニコミ誌、僕の書く原稿、僕のつけるキャッチが、みんなの関心と感嘆を集めていたことは間違いないことだった。
 それにくわえて、女性経験の少ない学生が多いことで有名な僕たちの大学で、早くから陽子と半同棲のような生活を始めたことも、ひそかにみんなの羨望を集めていたことを僕は知っていた。
 子どものころからそうだったように、それがわかっていたからこそ、僕は彼らの前で「俺は兄貴の残りカスだから」というポーズをとることができたのだ。
 僕は誰にもコンプレックスなど感じたことはなかった。むしろ、みんなのことを心の中で「おとなしくサラリーマンになるくらいしかない連中だからな」と思っていたくらいだ。
 だが、いまや形勢は完全に逆転して、僕は彼らに見下されつつあるのだった。「しっぺ返し」がここでも始まった――と僕は思ったものだ。
 そうして、このときも、僕は就職活動をまともにやらなかった自分のことは責めないで、すべてを配属のせいにした。黒木の本がなくなっていなければ……『ギャル通』になど配属にならなければ……と。
 気がつくと僕はみんなに、菊池編集長とはかなり親しくなっていて気に入られているから近いうちに『D』に異動になるに違いないというような嘘をついていた。そういったあとで、まるで自分が早川にでもなったような気がして惨めだった。
「ふーん。それならいいな。だっておまえいってないんだろ? この本になったって陽子に」
 当然だ。いえるわけがない。
「陽子といえば、おまえたちうまくいってるの? べつになんも知らないけど。ただ、中村さんさ、まだ陽子のことあきらめてないみたいだよ」森尾が言った。
「中村さんが?」
 僕はまるで昔話の登場人物の名前を聞くような気がした。

 前の週の土曜日、『ベスト・ヒット・USA』を見たあと、僕たちは、山手通りのすぐ向かいにあるファミレスに食事をしにいった。めずらしく陽子のほうが僕より仕事が遅かった夜だ。
 陽子はこのとき、あとで考えるといつもよりはしゃいでいた。どちらかというとおとなしめの彼女にしてはめずらしかったが、僕はただ「今日と明日一緒にいられるのがうれしいんだな」と、いつものように自分にいいほうに解釈して、それ以上考えなかった。
 彼女が帰ってくるのを何も食べずに待っていたので、僕は頼んだスパゲティが来るとすぐにぱくついた。陽子の頼んだものはまだ来ていなかった。
 なにか冷たいものでも頼もうと考えてメニューに手を伸ばしたとき、陽子がテーブルに両肘をついてあごを載せ、その格好で僕が食べているのを見守っていたらしいことに気づいた。今度店員が近くに来たらコーラを頼むことに決めて、僕はタバコに火をつけた。最初の煙を吐き出した僕に陽子が言った。
「わたし、アパートを引き払ってもいいかな?」
 それは、いつかは必ず出るはずのひと言だった。想像のうえでは僕はもう何回となくその言葉を聞いていた。
 そのときも、まだ、僕たちは基本的にお互い独立会計で生活していた。しかし、家賃ひとつとってみても、陽子と二人で分担するほうが、はるかに楽になることはわかっていたし(僕の月々の収入は減っていたから)、なによりいまでもほとんど一緒に住んでいるようなものだったのだから、陽子の提案は当然のことだった。だが、
「いいかな?」
と、陽子が繰り返し聞いてきたとき、僕は即答せずに、
「淳ちゃんとしい子さんはどうするの?」
と、たずねていた。
 その一瞬で、陽子の表情はすっと暗くなった。唇は笑ったままの形をとどめていたが、それはただ、心の動きの早さについていけなくて置き去りにされただけなのがわかった。
「しばらく二人でやってみるって……二人ともお給料、そんなに悪くないみたいだし、なんとかなるだろうって」
 陽子はひどく事務的に答えた。
「いいの?」
「いいよ。もちろん……」
 僕はようやくそれだけ言った。陽子は両腕をテーブルの下に垂らして、目線を店の中に泳がせ始めた。陽子が失望したのがよくわかった。
僕は当然、すぐに「いいよ」というべきだったのだ。前にもいったように、僕は陽子とずっと一緒にいてもいいと思っていた。彼女は、誰に会わせても恥ずかしくない女だったし(それは誰に会わせても、その人が「かわいいね」とお世辞を言うのにそれほど無理をしなくていいという意味だ)、料理、洗濯、掃除もすべてそつなくこなしてくれたので、僕はもっと感謝しなくてはいけないくらいだったと思う。
 それなのに、いずれはそういわれるとわかっていたひと言を聞いたとき、またしても、あの面接試験のころの、なにかにせっつかれるような圧迫感を思い出してしまったのだ。これでまた、未来がひとつ決められていく……といったような。
 陽子はそれ以来、そのことを口にしなくなった。
 これは、どう考えてもよくない兆候だった。もし僕が、彼女を必要としているなら、そのまま放っておくべき問題ではなかったはずだ。
 だが、結局僕は彼女が何もいわなくなったのをいいことに、また結論をあいまいなままにした。それでも、心の中では「陽子が僕から離れていくことはないだろう」と、うぬぼれたまま。

 だから、この日に中村の話が出たときも、僕はそれを、いま現在の問題として気にするよりも、むしろ、彼に勝利した過去の思い出のほうに気を取られて、思わずにんまりしてしまったくらいだった。そのとき初めて知ったが、中村は中堅の文具メーカーで企画の仕事をしているようだった。あとで、そのことを陽子にいったら「知らなかったの?」と言われたが。
「今日は徹夜で飲むか」
と、店に入ったころには言っていた同級生たちも、十時前には「そろそろ……」と言い始めていた。
 自然につき合っているつもりだったが、誰にとってもこの「自然」が、自然でなくなりつつあったのだと思う。たぶん、おのおのにとって、いまは自分の職場が新しい「自然」になりつつあり、思いがそこに向かっていたのだろう。
 僕もそうだった。
 陽子のことにしても、学生時代ならきっとこんな中途半端なままにはしなかったはずだ。学生時代なら、感情のやり取りや、価値観のぶつけ合いなどを生活の全部にすることができた。昔から「学生貴族」というような言葉があるが、これは比喩ではなく本当のことだ。生活費を稼ぐために多くの時間を割く必要のない貴族は、繊細な感情のやり取りと、微妙な価値観を競うことだけで生きていける。学生にもそれと似たところがある。アルバイトはしょせんアルバイトで、社会人にとっての仕事のような深刻さとは無縁だし、いちおう授業を受けるという仕事もあるが、受身でこなせてしまえることは、たいしてじゃまにならない。大事なのは、恋愛と自分のセンスだけだ。
 だが、いま職場という、受身ではこなしていけないもうひとつの世界ができてしまうと、まったく事情は変わってしまった。
 正直な話、陽子との気まずさも、仕事に出かけると僕は簡単に忘れてしまえた。
 とくに、まだ新人だった僕には、新しい環境に適応するために費やされる時間が、どうしても多くなってしまいがちだった。それで、本来は主役であるはずの日常の個人生活の中に、時間的にも、精神的にも、仕事の問題がはみ出してくることのほうが多くなった。
 すると、今度はその問題があることを自分への言い訳にして、なお日常の個人的な問題を無視しようとするのだった。――なんのことはない。会社でのストレスを家に持ち帰って、家のことは何も考えようとしない正しい日本のサラリーマンに僕もなりつつあったというだけの話だろう。
 おそらく同級生全員が多かれ少なかれ同じような悩みを抱えていたに違いない。
 その会社にしかない独特の雰囲気、その会社でしかわからない不愉快な出来事……その、本当はみんながいま一番関心を持っていること――それを吐き出せるのはもうこの場所ではないのだ。
 それがみんなを疲れさせたのだと思う。
「校歌でも歌って別れるか」
 およそ僕たちには縁遠いそんな提案を誰かがしたのも、すでに、そういう漠然としたばかばかしいところにしか、共通のものがなくなったという証拠だったろう。
 もちろん、僕たちは実際に校歌を歌ったりはしなかったが。
 みんなと別れると、僕はひと仕事終わったくらいの疲れを感じていた。地下鉄の中で眠くて眠くて仕方なかった。



 そのころの僕にとって、「日常の個人生活の中にはみ出してくる仕事上の問題」で、一番大きいものといえば、それは、なんといっても配属の問題だった。
 僕の「配属」に対する不満は、いまや編集部だけにとどまらず、「下」全体にさえ向けられる嫌悪感を生み出していた。そうして、それにはこのひと月の間に、より会社の内部事情がわかってきたということも関係があったと思う。
 前にもいったとおり、E出版では、「下」が「上」を支えていた。経費などの面でも「下」には「上」より制限があったし、肉体的にも「下」の仕事のほうが大変なように見えた。
 が、僕にわかってきたのは、そんな外面的なことだけではではなく、「下」に漂うある独特の雰囲気についてだった。
 聞いてみると、「下」の人々が学歴の面で「上」の人々に劣っているということもなかったし、仕事のキャリアが違っていたというわけでもない。
『投稿王子』(面接のときの、黄色いメガネに口ひげの阿川さんが編集長だった)などは、実質『D』の二倍の部数を刷っていて、利益もたくさん上げていた。それなのに、阿川さんはいま以上の予算を会社に要求するでもなく(それは『D』の約半分の予算だった)、もっといろいろなことができる雑誌を新しく持たせてくれと要求するわけでもなかった。
 その下で副編をやっている野坂さんにしても、会社の創成期からいる人で、どう見ても有能な人材だったと思うが、なぜか自分で自分の限界を決めてしまっているようで、「下」にいることで満足してしまっていた。
 僕にはそうなるのが「下」の空気のせいだと思えた。
 この、よどんだような空気が漂う場所で毎日毎日ただ新しいモデルに出会い、ヌードを撮り、記事のほうではいい加減なエロねたを入れ込んでいればいいというこの感じ。それが長い間に当たり前になって、もっといろいろなことをやりたいという気持ちを殺してしまうのだ――。当時の僕はそう思っていた。そうして心の中で「下」の人をひとくくりにして「僕は『下』に合う人間じゃない」などと考えたりした。
 わかってもらえると思うが、こんな僕を早川と新堂は諸手を上げて歓迎した。
 井上さんとのことを考えると、早川に対してほんの少し「クソッ」と思わないでもなかったが(あの飲み会の夜以来二人がつき合い始めたのは明らかだった)、僕は会社の外で彼らと集まって「下」や会社の悪口をいうことが多くなった。
 そうして、そんなことをするたびにますます「下」が、そしてそこに僕を置いたままにしている会社が嫌いになっていった。
こんな気分でいるということは、中沢さんと秋元さんにはバレバレだったに違いない。それでもちゃんと仕事を教えてくれたし、コミュニケーションもとろうとしてくれたが、僕のほうでバリアを張って接しているうちに、自然、二人も僕との間に距離を置くようになっていった。

 こんな僕とは反対に、油尾は、中沢さんにも秋元さんにもかわいがられていた。
 といっても、このひと月の間に本人が変わったというわけではない。
 油尾は、あいかわらず撮影中には、
「すみません。勃起しました」
 を繰り返していたし、ポジ切りのときはポジ袋をねちょねちょにし、とうとう秋元さんに手袋着用を命じられた。どうやらバイト料で(引かれるものが少ないので手取りは僕たちとさほど変わらない額だった)、白黒テレビは買ったらしいが、いまだに電話はつけていなかった。
 例によって、キャッチコピーなどは、僕以上に何回となく書き直しをさせられていたし、また、ライターの書いた原稿にわからない言葉があると――それがまた、「カマセ」とか「ケバい」などの誰でも知っているような言葉なのだが――すぐに僕たちに質問をして自分が納得のいくまで聞き返した。
 中沢さんも秋元さんも、そんな油尾を「アホ」「バカ」呼ばわりしていたが、本当は二人がだんだん彼を好きになり、編集部に欠かせない存在だと考えるようになっていくのが僕にはわかっていた。
『ギャル通』の編集部だけではなかった。驚いたことに、このひと月の間に、「下」のほぼ全員が、油尾をまるで自分たちのペットのように扱うまでになっていったのだ。
 彼らも、表面上はすべて、彼をバカ扱いにしてはいた。彼がどんな質問にもバカ正直に答えたり、社会生活一般について小学生のように無知だったり、なんでも人にいわれたことをすぐに信じてしまう――そういう性質をからかうといった形だ。
「下」の総大将・小林さんは、お茶の時間になると習慣的に油尾のところへやってきて、
「勃起しているかい?」
とたずね、油尾が、
「はい」
と答えるとうれしそうに笑った。
「きみはいったい、オナニーをするのかい?」
 ある日、小林さんにそう聞かれた油尾は、
「いえ、いまはしないのです」
と、答えた。
「そうか。修業中なんだな」
「はい」
「しかし、以前はしてたんだろ?」
「はい」
「ちなみに何回くらいだい? 一日」
「はい。一番多いときは十五回くらいでしょうか」
「すごい!」
 いつのまにか二人のそばに来ていた野坂さんが大声を上げる。
「すごい。性豪油尾だな」
 話はすぐに広まって、二~三日は『十五回クン』が彼のあだ名になった。
 またあるときは、やはり小林さんが、油尾が精算のためにまわした領収書を持ってきて言った。
「油尾くん、これはなんに使ったお金だい?」
「食事代と書いたのではいけませんでしたか? 撮影のときにみんなの食べたお弁当代なのですが。メンバーも書いて……」
「きみはこのモデルの子とやったのか?」
 油尾は目を丸くして固まった。
「いいえ」
「きみはやらない子にも昼飯を食わせるのかい?」
「い、いけないのですか」
 ここまで黙って聞いていた中沢さんが、たまらず、
「小林さん、うちのアブをあんまりいじめないでよ」
と言う。
「ははははっ」
 小林さんは大声で笑った。これは、つい最近まで油尾が「経費を精算する」ということを知らなくて、バイト代の振込みの前に中沢さんに注意され、「電車代とかはもらえるものなのですか?」と言ったのを、小林さんがもっとからかってやろうとしたのだった。
「なんでも本気にするんだからな、油尾くんは」
 またしても、いつのまにかそばに来ていた野坂さんが言う。
「こないだもウチの木内がふざけて『びっくりしたー。雪が降ってるよ、外』って言いながら帰ってきたら、すぐに『本当ですか』って飛び出していきましたからね」
 最初は、中沢さん、秋元さん、小林さん、野坂さんくらいが「油尾を囲む会」(?)のメンバーだった。しかし、油尾がほかの編集部からの頼まれ仕事もするようになって事態は変わった。
 もともと、油尾は「下」の、ただひとりのアルバイトだったから、いちおう、『ギャル通』のスタッフにはなっていたが、手が空いているときは、どこの編集部が使ってもいい存在ではあった。中沢さんも秋元さんも、頼まれれば、よほど忙しいときでない限りダメとはいえなかった。
 ポジ切りはいうまでもない。撮影衣装の整理やパンティの発送といった「手を汚さずにはすまない仕事」が、このときとばかり油尾に振られた。そうして油尾はこれらの仕事をいわれるままにこなしていった。
「パンティの発送」とは、撮影でモデルが身につけたものを読者プレゼントにすることで、一枚一枚ビニール袋で包んでそれを封筒に入れ、宛名を書き、たまったら郵便局へもって行き発送する。どこの編集部でも一番嫌がられる仕事で、中には何カ月ぶんも送らないまま、ダンボールの箱の中に投げ込んでいる編集部もあった。
 油尾は自分の机の横にそういうダンボールの箱を運んできて作業をした。ときどきページの穴埋め用のポジを『ギャル通』まで借りに来ていた早川は、そんな油尾をからかって、
「気持ち悪くない? もらった奴がそれをどうやって使うのか考えたらさー。ヘンタイばっかりだよ」
と言ったりした。油尾は、
「僕はパンティそのものはほしくないですが、でも、そういう人の気持ちもわかりますから」と言う。
「やっぱりヘンタイなんだ?」
「ええ、そう思います」

 ほかの編集部からの頼まれ仕事はこれだけにとどまらなかった。油尾は「男優」としても、「下」で引っ張りだこになったのだ。
『ギャル通』は、単体のヌードか、レズものの女の子二人のヌードがほとんどだった。
 が、当時流行っていた『ハウ・トゥー・SEX』もので売っていたほかの二~三誌では、男女の絡み写真が中心で「男優」は不可欠な存在だった。しかし、「アダルトビデオ」というジャンルがまだ生まれていなかった当時は、「ビデオ男優」という職業も存在しなかったし、コンスタントに男優を供給してくれるプロダクションもなかった。結局は劇団員の貧しい大学生とか、ダンサー志望のフリーターなどがかり出されてくる場合が多かったが、スケジュールが合わなかったり、経費を安く上げたいといった事情があるときは編集者がやることもまれではなかった。
 実際、秋元さん、野坂さんをはじめ、「下」のほとんど全員が経験者だった。
 しかし、もともと限られた面子では、お互いの雑誌に交代で何度も繰り返し登場するうちに、いくら目伏せ(写真の目のところに入るスミベタの帯)をしても、同じ男だと完全にばれるようになる。そこで、新人の編集者が入ると通過儀礼のようにこの役をやらされていたらしい。
 油尾は今度もいやな顔ひとつせず、それらの仕事を引き受けた。そこで、ひと月のうちに二誌に油尾の写真が出ることになった(『ギャル通』の、「新郎」としての小さな写真を入れれば三誌だ)。
 ひとつは、『投稿王子』に載った、顔はまったく写らない「ヤラセの投稿写真」で、盗撮写真風の荒れた粒子の中にほんの少し手や背中が見えるもの。もうひとつは、これもよくある「体位四十八手」で、ページを細かく割ったひとコマひとコマに、さまざまな体位でモデルの女の子と絡んだ油尾がまるでトカゲのように写っていた。
 
 これらの仕事を頼んだほかの編集部の人たちも、初めはおそるおそるだったようだ。通過儀礼とはいっても強制はできないから「いやだ」と言われればそれまでだし、「『ギャル通』が忙しいので」と言い訳さえすればそれを押してまで頼みはしなかったはずだ(男優については、僕もそれをやらされる可能性はあった。だが、もちろん誰も僕には頼んでこなかったし、万が一誰かに強要でもされたなら、その瞬間に僕は会社を辞めていたろう)。
 だが、油尾はいわれた仕事をすべて引き受け、注文どおりにやってのけた。そのなんでも屋的なところがみんなの目に留まったせいと、「主水」という名前のせいで、このころから「仕事人」と呼ばれるようになったのだと思う。
 仕事を一緒にやれば、当然誰でも親しくなる。とくに、撮影の現場などは共同作業が多いし、さらに「裸を扱っている」という一種独特の連帯感のような意識もあって、人と人との距離が縮まりやすい(あの民宿での撮影の帰り、日向カナが僕にいきなりあんなことをしたのにも、この連帯感のようなものが微妙に関係しているかもしれない。もっとも、あれ以後二度と同じようなことは起こらなかったが)。
 こうして、ほかの編集部の人たちも彼を仲間だと認識していったようだった。
 男優として登場した撮影でも、油尾は例によって「勃起しました」を連発し、撮影を何度も中断させ、そのことはあとでみんなの笑い話になった。

「油尾を囲む会」の輪は次第に大きくなっていき、いまでは、中沢さん、秋元さん、小林さんなどが口火を切って編集部周辺で油尾と話し始めると(三人とも声がとても大きかったので「下」のどこにいても聞こえた)、そのときにせっぱつまった入稿を抱えていない編集部の人間は『ギャル通』のほうにやってきて、小さな集会が始まるまでになった。
 これはたぶん、小林さんのような年配の人にとって、とくにうれしいことだったに違いない。社長の側近ということで、若い人たちにはけむたがられている彼が、ひとりの「バカ」を媒介に、若い人たちとコミュニケーションを取れる場所ができたのだから。

 僕は「下」のこういう変化を軽蔑しながら見ていた。
 こんな高校中退の「レゲエ」で変人のアルバイトが、まるでペットかアイドルのように祭り上げられているのは、この「下」そのものがおかしいからだ。おかしな環境の中で起こっているおかしなことだ、と。
 それには多少嫉妬の気持ちがあったかもしれない。こちらはちゃんと大学を卒業して正社員として入ってきたのに……そういう気持ちが。
 だが、当時の僕はそんな気持ちを自分で認めるはずもなかった。
「こんな狂ったことも、『D』にさえ行ければすべて関係なくなるのに」
 こんな思いが、僕を余計「下」から遠ざけた。

 油尾自身は、こういう輪の中にいてどう思っていたのだろう?
 実は、僕は、油尾がわざとバカを装い、みんなの受けを狙っているのではないかとまで疑ってみたことがある。もしそうなら、さぞかし、内心では得意になっているだろう、と。しかし、ある朝、油尾は公衆電話から会社に電話をしてきて「休みたい」と言った。
 中沢さんも秋元さんも現場直行でいなかったから、僕がそれを受けたのだ。
「体調でも悪いの?」
と、聞くと、違うと言って、こう言った。
「今日は、空が青いので、どうしても仕事をすることができません。ほかに理由はないのですが……。大変申し訳ありません」
 たった一度だけのことだったが、それは、あいかわらず彼が、ただ自分の「リズム」にだけ従って生きているということの証拠のように思えた。
 仕事の量が増えた油尾は、そのころからときどき会社に泊まって仕事をするようになり、それにつれてさらにやせていき、着ている物もなお汚れていった。
 いまになって「油尾を囲む会」の雰囲気を思い出すと、輪の外からの眺めは、ロバか羊のような草食動物が肉食動物に囲まれている――そんなふうだったようにも思えるのだ。
「それで、どうだい? 修業のほうは? もうやたらと勃起はしなくなったかい?」
 赤ら顔の小林さんが言う。
「いいえ。それが、まったくダメなのです」
 そう答えた油尾を囲んで大きな笑い声が響く。しかし、当の本人は机の隅をじっと見つめている……。




第7章



 ゴールデンウイークが終わって何日かたった。
 その日も、僕はもうすでに習慣になっていた早川と新堂と三人での昼食をゆっくりすませたあと、二人と別れて「下」へ戻ってきた。
『ギャル通』編集部は中沢さんをはじめ誰も姿が見えなかった。僕が出かけるとき中沢さんが座っていたライトテーブルの上には、まだ切り出していないスリーブ状態の写真が山のように積まれていた。
 その日は、午後イチに足田久美がきて記事ページの打ち合わせをすることになっていた。
 僕は自分の席に着いてその打ち合わせのためにアイデアを出そうとしたが、なんだかぼんやりして考えがまとまらなかった。
 軽い五月病だったのかもしれない。
 三連休の初日は、前に書いたように、ひどい気分のまま終わった。だが、翌日陽子が来て、そのあとひさしぶりに二日間、二人でのんびり過ごせたとき、僕の中で学生時代のリズムがいくらかよみがえってくるのを感じた(たった二日で学生時代のリズムが戻るなんて……若かったのだ)。そんな気分で思い浮かべると、会社も仕事もまるで他人事のように思えた。自分が「配属」について悩んでいることも、そのときは、小さな、本当につまらないことに思えた。
 つぎの日、そんな気分を引きずったまま出社すると、会社がなじみのないところに思えてあわてた。
そのあとは徐々に休み前までの現実感が戻ってくるのを感じたが、この日はまだそれが中途半端で、仕事と自分の距離が縮まらなかったのだ。
「うわ! おまえ、これなに?」
 いきなり後ろから、中沢さんの大声が聞こえた。僕はびっくりして声のするほうを振り返ってみた。
 中沢さんは、暗室(応接室の隣だ)の前で一枚のレイアウト用紙を両手で広げて持ち、覗き込んでいた。暗室のカーテンの奥から油尾が現れた。拡大器のライトの熱のせいだろう、顔が赤くなっている。
 何人かの人が、「始まった」という感じで、二人のところに駆け寄った。僕もなんとなく立ち上がってそちらへ行ってみた。
 中沢さんはレイアウト用紙を、近くの机の上に広げてみんなに見せた。
 そこには鉛筆で、怪物と怪物の格闘シーンが「ヘタウマ」風タッチで描かれていた。僕は子どものころ見た『サンダ対ガイラ』という怪獣映画を思い出した。
「たしかにていねいに取れとはいったよ。でもさ、ここまでやることはないんだよ」
 中沢さんが油尾に言う。
「すみません」
 集まった人たちが笑った。
 このとき油尾がやっていたのは、「アタリ取り」と呼ばれるもので、三十五ミリのフィルムに写っている被写体をどれくらい拡大して使うのか、どの部分をカットするのかを、拡大器を使ってレイアウト用紙の上に指示する作業だ。本来はデザイナーの仕事だが、手が詰まっているときには、デザイナーは「ここに写真を入れる」という枠組みだけを対角線で指定して、アタリを編集者が取ることもある。
 要は、印刷の技術者に、どこに何パーセントの拡大率で写真が入るかということがわかればいいので、普通はレイアウト用紙の上にスライド上映のように映した写真の、人物の輪郭線を軽くなぞるだけで足りる。ところが油尾は、それをまるで絵を写すように細部まで描きこんでしまったのだ。モデルの顔のしわや鼻毛まで。このときの写真は「レズもの」で、油尾が写し取ったのは女の子二人が絡んでいるカットだった。
「すみません」
「もういいよ。つぎから気をつけな。よっしや、じゃ、続けて」
「はい」
 油尾はレイアウト用紙を手に暗室に戻った。これで見世物は終わり……そう考えてみんなが散っていこうとしたとき、ドアが開いて、足田久美が入ってきた。  今日は、一見パンクバンドの追っかけみたいな格好をしている。
「こんちわあ」
「おー」
 中沢さんは右手を上げた。
 久美の顔を見てようやく、僕は自分の仕事のことを思い出した。アイデアはまだなにも出ていなかった。



「ちょっと考えてみたんですけど」
 僕と向かい合って座ると、いきなり久美がそう切り出してきた。
「女殺し油の地獄ってどうですか?」
 胸元がV字に切れ込んだ真っ黒なTシャツに、星とか月とかのイラストの入った、大きなスカーフみたいな黒い布を腰に巻きつけ(もちろん、本当はそういうスカートだったのだろうが)、メタル色のタイツをはいた――おまけに、手には指先をカットした黒い手袋、足先には銀色のハイヒール――彼女から出た言葉は、すぐに、洋楽を日本で売るときにつける、「やりすぎ」のタイトルを連想させた。『悪魔とドライブ』とか『地獄からの使者』といったあれだ。
「油の地獄って? SM?」
「違いますよ。近松門左衛門の『女殺油地獄』。知りません?」
 真ん中で分けて垂らした髪を後ろへやりながら、久美が言った。そのてっぺんには銀色の大きなリボンをつけている。いわれてみると、遠い昔、受験のころに日本史の「傾向と対策」にそんなことが書いてあったような気もした。
「前回が『サイテー男』で軽かったから、今度はどろどろの重いテーマがいいかなと思って。不倫とか心中とか、あと近親相姦とか」
「不倫か……」
 当時ちょうど『金曜日の妻たちへ』という不倫をテーマにしたドラマが中年女性に受けていた。
「『金妻』とか、そういう感じならいいかもしれないな」
 僕は言った。
「金妻? ちがうちがう。あんなの本当の不倫じゃないよ。ただの不倫ごっこでしょ? だいたい倫理のない国に不倫なんてあるわけないし……。そういうんじゃなくて、もう見つかったらはりつけ獄門、市中引き回しみたいなね。命かけてるようなやつ。わたし、いちおう国文だったし、好きだったから読んだんだけど、西鶴の『好色五人女』とかもタイトルとはぜんぜん違ってて、実はすごくいじらしい女の話だって知ってます? 八百屋お七とか。……お七の町が火事になって、いまでもそういう災害とか起こると学校の体育館とかにみんなが避難して雑魚寝したりするでしょ? 昔はそれがお寺なんだけど、そういう特異なシチュエーションの中で、お七は恋をする。で、そのうち復旧工事が終わって日常が戻ってきて、またみんな自分の家に帰っていくんだけど、お七はそのときのことが忘れられない。それで『あのときと同じになれば……』と思って放火するのよ。それで死刑。すごくいじらしくないですか? これって」
「そういう話なんだ」
 僕はそれまで、『好色物』とは、日本版『エマニエル夫人』のような小説なのだろうと漠然と思っていたのだ。いちおう文学部の出身なのにはずかしい話だが、僕はいわゆる文学書をほとんど読まずに卒業してしまったのだ。
「それに」
 彼女は続けた。
「何の話だったかは覚えてないけど、やっぱり西鶴かなにかに、男が、夜這いする女を間違える話があって、それまで二人とも相手のことをなんとも思っていなかったのに、『こうなったからには』って最後は心中までするの。カンドーしません? そういうの。『こうなったからには』ですよ? それって真実だよね。すごく。いまの若い人たちって考えすぎだよね。損か得かとかさ。おばさんが思うに」
「二十一歳のおばさん?」
「おばさんだよ。じゅうぶん。もう」
 久美はふいに疲れたような表情をした。いつもの「ぶりっ子」と同じ、彼女の演技のひとつだろうが。
「でもさ、どう思います? 昔、姦通した女って、みんなの見てる前で牛に股裂きされたんですよ。こう、両足に縄をつけられて……ぞくぞくしません? そういうの。まあ、ヨーロッパの拷問もすごいとは思うけど……。それ自体もすごいけど、そうなるかもしれないのがわかりながらするセックスもすごいと思いません? いま、そんなすごいことないでしょ? なんでもただ『ごっこ』になっちゃって。自分のこと、すごい変態だって見せようとする人でも、『死刑になるよ』って言われたら、誰もやる勇気なんてないよね、きっと、いまの人は。わたし、そういうの集めてみたいんですよ今回」
 なんだか濃いテーマだなと思ったが、僕のほうには何のアイデアもなかったし、『ギャル通』の記事なんてなんでもいいんだし、という投げやりな気持ちもあって、僕はそれで行きましょう、と言った。
「じゃ、二~三日中にネタ集めの報告入れます。では」
 久美は、いったん立ち上がって、
「あ、そういえば、『ギャル通』で新しく始まった『メルヘンコーナー』って誰が書いてるんですか?」
と言ってまた腰かけた。
「ああ、あれは仕事人が……」
 僕は暗室のほうを見て言った。
「油尾さん? そうなんだ?」
 振り返って油尾を探すその姿を見て、僕は、前回イラストの上がりを、足田久美の住む祐天寺まで取りに行ったときのことを思い出した。そのとき彼女は、「油尾さんってどういう人なんですか」と聞いてきた。いまよりもっと仕事に慣れていなくて、彼女とも他人行儀だった僕は、あわてて「なにかまずいことでもしましたか」と、聞き直した。
「ううん、そうじゃないけど、なんか変わってる人ですよね」と、彼女は言った。
僕は、最初面接で会ったときのことや、仕事を始めてから知るようになった油尾のことを少ししゃべった。
「へー、中沢さんにかわいがられているんだ。めずらしいですね。お母さん、人の好き嫌いが激しいのに」
 たしかにそうだ。
「イラストの説明とかがすごく長いの。だいたい編集さんなんて、ネームのコピー持ってきて、マーカーかなんかで印つけて、この辺を描いて、とかいうでしょ? 野坂さんなんて、スペースはこれ。ネーム読んで適当に描いて、とかね。それが、油尾さんの場合、ずーっと怖い顔して考えこんでたあとで、今度は顔を真っ赤にしながら言うのよ。『いや、この場合、男のキャラクターは裸のほうがいいかもしれませんよね。それで性器が潜望鏡になっている……おもしろくないですか?』って。油尾さん見てるほうがおもしろいんですよ」



「おーい。アブーっ」
 そのとき、ライトテーブルのところから中沢さんが油尾を呼んだ。
「アタリ終わったら、早くポジ切ってくれ」
「はい。わかりました」
 カーテンの向こうでくぐもった声が答えた。
 中沢さんが、油尾に向けてそう言ったことはわかっているが、それは、すぐ後ろにいる僕にも「おまえも早く打ち合わせを終えて切れ」と、暗に命令していることはたしかだった。
 足田久美は、その声に反応して立ち上がり、中沢さんのところへ行った。
「うわ。すごい。モロだ。えぐいー」
 中沢さんの肩越しに写真を見て久美は言った。
「ばか。おまえはいつも自分で見てるだろ」
「えー? お母さん、表現が下品ーっ。そんないやらしいもの自分で見るわけないわ。それに、仕事してるときは、けっこう男の目になっちゃうからね。『ほれほれ、これがいいのか? ほしいんだろ?』とかね」
「おっさんか、おまえは?」
「そ。おっさんでおばさん」
「じゃ、あたしはどうなんだよー」
「でも、おかあさんは若いもん。考え方とか、わたしより絶対若いよ」
 アタリを取り終わったレイアウト用紙を、賞状をささげ持つようにして持って、油尾がこっちに戻ってきた。例によって油尾の手の汗とあぶらで、レイアウト用紙の端っこは波を打って曲がっていた。
「あ、油尾さん、こんちは。イラストの打ち合わせどうしようか」
 戻ってきた油尾に、足田久美が呼びかけた。
「すみません。いますぐ準備します」
 ほほを紅潮させたままで油尾は言った。
「中沢さん、すみません、先に足田さんとイラストの打ち合わせをしてもいいでしょうか」
「しゃーねーな。早くな」
 中沢さんはルーペをのぞいたままで言った。
「すみません」
 二人は、油尾の席のほうに行った。僕は気乗りのしないまま立ち上がり、中沢さんの横に座った。
「油尾さん、『メルヘンコーナー』って油尾さんが書いてるんだって?」
「読んでいただいたのですか」
 ポジ切りを始めた僕の背中のほうから二人の会話が聞こえる。
「うん。すごくおもしろかったです。っていうか、すごくよくわかったの。なにか子どものころにいいたくていえなかったことを油尾さんにいってもらった……そんな感じ」
「本当ですかっ」
 油尾の声は、これから泣き出すのではないか、というくらいに急に詰まった。
「僕……僕、うれしいです。あなたが読んでくださったら、必ずわかっていただけるとは思ったのですが。僕はいま、たぶん、生まれて三回目くらいに大きく感動しています。その前の二回とは……」
「なんだなんだ」
 何かをかぎつけたみたいに、さっきまで姿の見えなかった野坂さんがこっちへ来た。
「とうとう告白したのか? 仕事人」
 肩越しに振り返ると、野坂さんは右手を油尾の肩に置いてそう言った。
「なに? 野坂さん」
 秋元さんの椅子に座った久美が聞いた。僕は、またライトテーブルのほうに向き直した。
 野坂さんと一緒に食事に行っていたらしい秋元さんがこっちに戻ってきて、「んー」と、いつものようにうなりながら、僕の隣に腰を下ろした。
「いや、アブはさあ、おまえのことが好きなんだよ。な?」
「本当なの? 油尾さん」
「僕は……」
 僕は、「久美さんにはいわないでください」と言った、あの最悪の夜の油尾の顔を思い出した。
「本当です。僕はあなたが好きです。初めてお会いしたときから」
「すごーい! お父さん、お母さん、聞いた?」
「うん……」
「聞こえたよ。バカ。んー」
「何年ぶりかな、そんなこといわれたの。わたしのどこが好きですか? 顔? それともこの体? ちょっと胸は小さいけど」
 足田久美は、言った。
「いえ、容姿ではありません」
 油尾ははっきり言った。
「僕が久美さんを好きだということは、久美さんを正しく理解できるのは僕しかいないということを久美さんにわかってもらいたいという願いです」
「わたしを正しく理解する……」
「おいおい」
 野坂さんが言った。
「そりゃ、ちょっと失礼なんじゃないか、久美ちゃんに対して」
「なぜですか? 僕は何か失礼なことをいいましたか」
 油尾は、あせったような声で聞いた。
「容姿じゃないなんて、おまえ、自分の好きな子にいうなよ」
「しかし、容姿を好きだということは、欲望を感じると告げていることになりませんか?」
「なーんだ、おまえ、じゃ、ただ友だちみたいに好きだっていいたいだけか。そうかそうか」それならわかる、といった口調で野坂さんが言った。
「いいえ、違います」
「じゃ、なんなんだよ」
「僕は、久美さんに欲望を感じているのではありません。愛しているのです」
「愛……」
 僕は、ライトテーブルの上にバラバラ死体のように散乱した、修整前のヌードのポジを見ながら、「ここはどこ? わたしは誰?」とつぶやいた。
「わたしを正しく理解するって、どういうこと。わたし、まだ油尾さんと三回しか会ってないよね。わたしのどこを見てそんなこというかな?」
 足田久美は急にまじめな声で言った。
「僕にはわかるんです。あなたはあなた以外の人にひどく気を使っている。しかもそれをぜんぜん知られないように、いつも水をにごらせ、本当の意図がわからないようにしてしまう。それは、あなたが後ろめたさを感じているからです。それも、あなたが何か悪いことをしたからじゃない。あなたは自分が幸福に生まれついているのを知っている。あなたはそれが後ろめたいのです。なぜなら、幸福に生まれついた人は、ほとんどいないのですからね。あなたは他人の卑小な性格や復讐心などが、すぐにはっきりと見えてしまう。それは、あなたが初めから丘の上に生まれた人だからです。下で起こるどんな出来事も、あなたには手に取るようにわかってしまう。その真実の動機まで。あなたはそれを見て哀れみを感じている。けれども、あなたはそういう自分を好きではない。見てしまう自分を裁かずにいられない。だから、わざと、利己主義者になりきろうとし、人からもそう見られようとしている」
「おっかのうえ、ひっなげしのはなでぇ……」
 足田久美が突然、甘えたような声で歌い始めた。
「はーい、アグネスです」
「また、水をにごらせようとしましたね」
 油尾が言った。
「たぶん……いえ、絶対、あなたも『風景をまきとる人』を見ているはずです。僕には、初めてお会いしたときにそれがわかりましたよ。あなたは『にせものの女王』の存在にも気づいている。この世界は、『にせものの女王』の悲しみが形を変えて作り出したにせものの世界だと。多くの人がただ復讐心にかられて、人を傷つけ、自分を傷つけているのも、本当には彼ら自身のせいではなくて、『にせものの女王』のせいだということを。だからあなたは哀れみを感じ、すべてを受け入れて愛そうとしている」
「油尾さんのいってること、むずかしくって、聖子、わかんなーい。……でもありがと。好きだっていわれたの、何年ぶりかなあ。いまいったことは、きっと油尾さん自身のことでしょ」
「もちろん、ちがいます。しかし、ある意味では同じともいえるのです。つまり、あなたは丘の上に生まれ、僕は地下の穴倉の中で生まれた。あなたは世界を見下ろしているのですが、僕は世界を見上げながら生きてきたからです。正反対なのですが、見下ろす高さと、見上げる高さが同じくらいだともいえるのです。僕はあなたのように、哀れみを感じはしません。だって、僕は『なかよし学級』の生徒だったのですからね。もともと何かが足りない僕には、人を哀れんだりする権利はないのですから。ただ、僕には見えてしまうことがやりきれないほど苦痛でした。それで、僕はもう、誰の復讐心を見ることもなく過ごしたいと考えて、長い間、あまり人を見なくてもすみそうな仕事を選んで、ひとりで暮らしていたのです」
『くじらの腹』の話か、と僕は思った。
「しかし、僕は、それが不純な生き方だと気づいたのです。なぜなら、それは、復讐を肯定も否定もせず、それと出会わないように逃げ回っているだけで、その実、僕はその存在を認めていることになるからです。僕は、それらの不幸の原因が自分で見えているのに、それを人に告げ知らせる勇気がなかったのです。でも僕は決心しました。僕はそこから出て大声でそれをみんなに知らせようと。……いまはまだその修業の段階に過ぎませんが」
 油尾は、それまでより少し大きな声で、続けた。
「あなたは僕とは正反対です。僕は目をそらしていればいいと思った。けれども、あなたは会う人会う人に自分を与えようとしている。でも、僕が逃げ出したのも、あなたがすべてを与えようとしているのも、どちらもそれではいけないやり方なのです。僕たちは『風景をまきとる人』のメッセージを告げ知らせ、悲しみの数を減らし、女王を弱らせ、女王を倒し、世界が本当の自由を取り戻せるようにしなければならないのですから」
「なにいってんだかわかんないけど……」
 野坂さんの声がした。
「要するに恥ずかしいんだろ? おまえ。つき合ってくださいっていえないんだろ、正直に。それにしても遠まわしすぎるぞ、なんだか」
「いいえ……そんなこと」
「そうだよ。それに、きみはまだ修業中なんじゃないのかい? いつもきみがいうことによると。それとも、もう撮影に行っても、写真を見ても、勃起しなくなったのかい?」
 いつの間にかそこに来ていたらしい小林さんの声がした。
「それは……」
「のべつまくなし、勃起してますよ。こないだウチで男優を頼んだときも。ちゃんと家で一発抜いてこいっていったんですけどね」
 野坂さんが言った。
「パンティも大好きなんだよね」今度は、斉藤さんの声が聞こえた。
「いつも、ものすごくいとおしそうに一枚一枚眺めながら、ビニールに入れてるもんね」
 僕は、そっちを振り向いた。三人の男に囲まれて、油尾は黙ってうつむいている。足田久美は、なにか油尾に話しかけようと右手を上げ、口を開きかけたが、途中でやめてしまった。
「アブーっ、いつまでくっちゃべってるんだよ? 打ち合わせ終わったのか?」
 中沢さんが振り返って言った。その声は直に僕の耳に響いた。
「だいじょうぶよ、おかーさん。だいたいわかってるから」
 久美はそう答えて立ち上がった。それから秋元さんのデスクに椅子をしまいこむと、油尾だけを見て言った。
「……とにかく、わたしも油尾さんのことが好きよ。これで『両想い』ですね。今度デートでもしましょうか。それとも『交換日記』でもしますか」

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風景をまきとる人 05

2025-01-01 10:01:21 | 創作
第5章



「よーっ。おそいよ」
 ドアを開けるなり、そう叫んだのは早川だ。
 その週の土曜日は、以前から話の出ていた「会社の若い人たちだけでの飲み会」の日に当たっていた。僕と油尾は、ネームの書き直しなどがあって、荒木町のその店に到着したときには、もう九時を少し回っていた。――あとで考えれば、「お酒が飲めないので」と言って来ようとしなかった油尾を無理やり一緒に連れてきたのが、僕にとって、最悪の夜の始まりだった。
 新堂から聞いた店の名前で、普通の居酒屋でないことは予想がついていたが、そこはいわゆるカラオケスナックだった。入ってすぐは、三~四人が一度に立って歌えるくらいのがらんとしたスペース(ステージと呼べるほどではない)になっていて、右がカウンター席(その端っこにはカラオケのモニター)、正面と左の壁沿いには小さなテーブルがそれぞれ四つずつ並んでいた。
 客は僕たち以外ではサラリーマンのグループがひとつあるきりで、壁の一部が鏡張りになった正面のテーブル席を二つのグループがちょうど半分ずつ占領していた。
 僕はすぐに、左端のテーブルの一番奥に井上さんがいるのに気づいた。隣には新堂が座り、その隣に早川、もうひとつのテーブルには見覚えのない男が二人いた。その二人とは垂直の向きに――つまり、サラリーマングループに背を向けて――『投稿王子』編集部によく出入りしているライターの女の人が、ひとり掛けのサイコロみたいな椅子に座わって、タバコを吸っていた。
「アブちゃんも来たんだー。浅倉、寄って寄って」
 早川は、僕と油尾を、浅倉という男と自分の間に入れようとして言った。
 席に着くと、ウエイターがおしぼりとグラスを二つ持ってきてくれた。僕は井上さんに軽く会釈をしてから、隣のテーブルの三人にもそうした。
 向こうのサラリーマングループはカラオケの歌本をのぞきこんでいて、いまにも誰か歌いだしそうだった。
「みんな知ってるよね。丸山くんとアブちゃん」
 早川が僕たちのお披露目をした。
「アブちゃん、あいかわらず暗いよー。何でそんなにきょろきょろしてんの? 霊でもいる? この店」
 たしかに、油尾は入ってくるなり妙にそわそわして、席に着いてからも、店の端から端までを何度も繰り返し見回していた。
「すみません……しかし、僕、こういうところに初めて来たものですから」
 油尾はそう言っておしぼりで手を拭き、そのあとでごしごしと顔全体を拭いた。
「初めて? ホントに? まさかお酒を飲んだことがないってことはないよね」
「ええ。甘酒なら飲みましたよ。子どものころ。家の近所の神社で、お正月に」
「それだけ?」
「はい」
「マジ? マジマジ?」
 今日だけのことではなかった。ランチでときどき中沢さんや秋元さんに連れて行かれる安いイタメシ屋や中華料理屋でも、油尾はよくめずらしそうに店内を眺めた。そうして、ひととおり全体を把握すると、「はなやかですねえ」と言ったりするのだった。『くじらの腹』という前のアルバイト先でも、厨房にこもりっきりで、店内に足を踏み入れたことはほとんどなかったらしい。また、魚――魚介類全般――がダメな油尾は、あるとき一度だけ連れて行かれたすし屋で、たまごとかんぴょう巻だけをとても満足そうに食べていた。いったいいままでどこで何を食べて生きてきたのか、と僕は思ったものだ。
 テーブルの上のボトルには銀色の文字で「E出版 シンドウ・ハヤカワ」と書いてある。早川は油尾のために水割りを作り始めた。僕は自分で、かなり薄めの一杯を作った。
「乾杯しよ。とりあえず」
 早川の掛け声でみんなはグラスを合わせた。
 油尾は、早川から渡されたグラスに、鼻をくっつけるようにしてにおいをかいだあと、粉薬を水で流し込むような表情で、ぐっと飲み込んだ。そうして、すぐに咳き込んだ。早川が「だいじょーぶ?」といつもの感情のこもらない声で聞き、油尾は「ええ……大丈夫です」と、咳と咳の間に切れ切れに答えた。
「こないだ、俺たちがあいさつ回りしたとき、いましたっけ?」
 ひと口飲んでから、僕は、浅倉という男ともうひとりの男に言った。
「いや、俺たちは別室だから」
 うなじのところで後ろにバウンドするほど髪を長く伸ばした浅倉は、ボソッと答えた。顔は細長くて、彫りが深いが、目は小さく奥まっていて、気弱な印象だった。
 E出版では、グラフ誌だけでなく、いわゆる活版の官能小説誌も一冊出していて、その編集部は平河町のマンションの一室にあった。そういえば、初日に社長がそんなことをいっていたような気もしたが、あのときは自分の配属のことに気を取られていてよく聞いていなかったのだ。
 浅倉は眉毛が隠れるくらい前髪も伸ばしていて、その髪型は左端のライターの女の人とペアだった。逆に森田と名乗った浅倉の隣の男は、ほとんど坊主刈りにした頭に、黒ぶちのめがねをかけたスポーツマンタイプの男で、ここにいる僕たちの中でも一番「エロ雑誌」には不釣合いな印象だった。
 定番の自己紹介ということになり、僕たちは順番に、配属先、出身大学、出身地と年齢をいい合った。
 新堂、早川、僕は同い年、浅倉は二つ上で油尾と一緒、森田は三つ上だった。
 びっくりしたのは、年上に違いないと思っていたライターの女の人(田口さんといった)が、井上さんと同じで、僕や早川より三つも年下だったことだ。油尾と浅倉以外は全員、東京の出身だった。
 とても無口な印象の森田が、自己紹介が終わると、誰よりも先に、
「じゃ、みなさんは『サンダーバード』を知っていますか?」
と言った。
「当然でしょう」の声が新堂からあがり、みんなうなずいた。あの油尾でさえかすかにうなずいた。
 最初はありがちなパターンだと思った。初対面のときには、「なつかしネタ」か「受験ネタ」で共感を探り合うというのが、僕たちの定石だったから。
だが、これは戦いのゴングだったのだ。森田は、それからさまざまなアニメや特撮のタイトルを挙げ始め、
「これはみなさん、若いから知らないでしょう?」
と挑みかかり、そのたび新堂が「知ってますよ」とか「常識でしょう」とやり返す。作品名は次第にマニアックになり、マイナー海外ものに入っていった。『大魔王シャザーン』『フライマン』『巨象マヤ』あたりまでは、なんとかほかのみんなもこの戦いに参加していたが、途中から黙り込んでしまった。僕たちには、これがもう「共感を探りあう」やり取りではなく、「おたく」特有の戦いだとわかったからだ。最後には完全に新堂と森田の一騎打ちになった。
「じゃあ『幽霊城のドボチョン一家』は?」
 五分もたったころ、森田が苦悩の表情でしばらくうつむいていたあとで言った。
「幽霊城? それ、アニメですか」
 新堂がそう言ったとき、森田の顔が急に晴れ晴れとした。
「そうですよ」
「そんな番組、ないですよ」
 新堂は言い切った。
「ありましたって。新堂くんは若いから知らないんですよ」
「ちがいますよ。森田さん、それ、夢で見たんじゃないですか」
 その発言は森田の『おたく』としてのプライドを傷つけると同時に、さらに刺激したようだった。森田はそれが何曜日のなんチャンネルで放映され、全部で何話だったかまで、まるで論文に引用したテキストの典拠を読み上げるみたいにしゃべった。
 新堂がむっとしたのがわかった。
「ハイハイハイ。もういいよ」
 たぶん、こういう話題には一番縁も興味もない早川が、二人の視線がぶつかり合っていまにも煙が出そうになっているあたりに腕を突き出して、両手をぽんとたたいた。
「本当なんです」
 森田はまだ食い下がった。
「そー」
 早川はまた、いつもの、高い「ミ」で、軽くあしらった。
 イントロが流れ始めて、サラリーマングループのひとりが立ち上がり、前に出てチェッカーズを歌い始めた。


 
 そこからは、早川が、お得意の会社ネタに話を振り替えた。
 驚いたことに、浅倉と森田はもう勤めて二年以上になるのに、いまだにアルバイト待遇だった。
 新入社員としての自分の待遇が、彼らと比べてそれほどよかったとは思わないが、二年も官能小説の編集部なんかにいて、しかもボーナスも保障もなにもないなんてよくやっていられるな、と僕は思ったものだ。
「会社もひどいね」
 僕は二人を直接責めなくていいように、そう言ってみた。
「しかたないよ。俺、ほかになんにもできないし……」
 浅倉が言った。
「無理だよ。俺、大学も出てないし。森田も同じだけど……。逆にこんな会社で社員になろうなんて思ってないし」
「それは俺も同じ」
 早川が同意した。それは、「こんな会社に新入社員で入ってきた」僕と新堂への皮肉だったろう。浅倉と森田にいわれるのはまだいい。だが、早川は入社試験に落ちてアルバイトで拾われたんじゃなかったか? 第一、そんなにいやならなぜ彼らは辞めないのか? 簡単なことだ。彼らは、いや、彼らのほうこそ実はこの会社を愛しているからだ。
 僕は、学生時代にもそういうもののいい方をする人間を何人も見てきた。たとえばクラブの中で実力を認められないと、クラブ全体のことを「最低だ」と彼らはいつも吐き捨てるようにいう。「どうしようもないクラブだよ」と。だが、こういうタイプこそ、いったん認められると、誰よりも忠誠心を持つ組織の一員になり、「やる気のない奴はやめろ」などと言うようになるものだ。彼らはただ「俺にはこんなに才能があるのに(部長は、キャプテンは)なぜわかってくれないんだろう」と苦悩しているのだ。
 そこからは、会社と、会社の上の人間の悪口大会が始まった。早川は、待ってましたとばかり、ほとんどの上司を槍玉にあげた。新堂は、その言葉に賛同していたが、それはまた、べつの動機からだ。新堂は、僕と同じで、会社に対してというよりも自分の配属に不満を持っていた。彼も本当は『D』に行きたかったのだ。
 編集長たちには、ひとりかもしくは複数の愛人がいて、それがまた、みんなの非難の的になった。あのゴマ塩頭の篠宮さんにもいると聞いて、僕は軽いショックを受けた。黒木はとくに女ぐせが悪いので有名で、『アイドルやんやん』の復刊の見込みがないいま、ほとんど会社のお荷物になっているということも僕は初めて知った。
 ひとしきり、上の人の愛人話で盛り上がると、今度は自分たちの話に移っていった。
 早川は、「いま彼女がいないんだあ」と言い、新堂は「まあいちおう」と言ったが、事実は逆であるだろうことは誰の目にも明らかだった。
 注目の井上さんは、「遠距離」の彼氏がいるということだったが、これも本当かどうかはわからない。それは、考えようによれば、新しく知り合う男を拒否するでもなく、すぐに受け入れるでもないという絶好の受け答えだったろう。
 早川と新堂は、すかさず彼女にプライベートについての質問を浴びせ始めた。

 ここにきて、ようやく今夜の飲み会の本当の姿がむき出しになったといえる。早川と新堂が、ことさら積極的にこの会をやろうとした理由はひとつだけ――つまり、二人とも井上さんを口説く機会を狙っていたのだ。
 僕は、だんだんと、二人の、井上さんへの接近があらわになってくるにつれて、こんなときいつもそうなるように気分が冷め切って、とりあえず徹底的に聞き役に回ることにした。大学のころのコンパでも、欲望むき出しで前に出て行く奴らを見るといつもそうなったように。
 それに、井上さんと話す機会が多かろうが少なかろうが、そんなことは彼女と本当の距離を縮められるかどうかにそれほど関係ない。ひと言も話をしていない相手でも、解散したときに彼女がその男と一緒にいないとはいい切れない。陽子との初めも、僕はコンパでは、ほとんど彼女と口を利かなかったものだ……。
 サラリーマングループの二人目が『モニカ』を歌い始めた。手拍子を打っていれば話さなくてすんだので、僕は、モニターに出る歌詞を読みながら、熱心に手をたたいた。
 歌が終わると、僕たちのグループは(早川も新堂も、だらりと伸ばした舌を一瞬収めて)全員拍手をした。井上さんが、トイレに立った。彼女を出してあげるのに、僕たちは立ち上がらなければならなかった。そこで、席順が動いた。今度は油尾が一番奥に行き、そのつぎが僕、新堂、早川と続いて、浅倉たちのテーブルはそのままだった。井上さんが帰ってくると、早川はごく自然に自分の計画を実行に移した。彼は、さっき僕たちにそうしたように、彼女を自分と浅倉の間に入れた。新堂の目が、早川を一瞬にらみつけるのを僕は見た。



「見た? B大学の奴のニュース?」
 しばらく沈黙が続いたあと、新堂がふいに言った。
「ああ。イッキだろ? バカだよな。本人もそうだけど、新歓コンパなんかで死なれたら、まわりもたまんないよね」
 早川が言った。
 何日か前、ある私立大学の学生が新入生歓迎コンパでイッキ飲みを繰り返したあげく、急性アルコール中毒で死亡したというニュースが流れていた。
「バカな話だよな。ようやく受験勉強しなくてよくなったっていうのに」
「でもさあ、そこに僕たちの空虚さがあると思わない?」
 新堂は、セーラムの箱から一本取り出しながらそう言った。
「空虚?」
「うん……だいたい僕たちはさ」
 新堂はタバコに火をつけた。
「何もない世代じゃない? 戦争は、親たちが子どものころの話だし、学生運動なんかも小学生のころに終わっちゃってたしさ。かといっていまの子どもたちみたいに校内暴力とかイジメがあったわけでもないしさ」
 僕は、大学一年のころ、アマチュアバンドの演奏をよく聴き歩いたりしたものだが、吉祥寺の小さなライブハウスで、『絶対零度』というバンドが、「なんにもなーい」と、繰り返し叫び続けていたのをふと思い出した。
「イジメはあったよ。僕たちのころも」早川が言った。
「だけど、いまほどひどくはなかったでしょ? まだ。先生に怒られればやめたしさ。校内暴力とかにしても、僕たちのころはさ、そういうことやる奴にもまだ理由が必要だっていうのはあったよ。先生がすごく陰険だとか、ひいきがすごいとかさ。いまはそういう理由もなしにただ暴れてるよね……たぶん、それがかっこいいという感じなんだろうけど。二年前、中学生の家庭教師をやってたときに、その生徒がいってた。教室の窓ガラスとかは全部割れてるし、毎日のように二階や三階の窓から机とか椅子とかが落ちてきて、こわくてグラウンドを歩けないって。もう完全に学校は崩壊してるよね。いまは」
「いいんじゃない? どんどんやれば」
 浅倉がひと言いった。新堂はちょっと意外そうな顔で浅倉のほうを見た。
「まあ、彼らのほうが素直といえばそうかもしれないけどね。僕たちだって、大人なんてまったく信じていなかったし、基本的には同じなのかもしれない。だけど、僕たちは行動の面では、もっと内向している。先生に反発するにしても、どこか『先生もいろいろ大変だよな』とか思って手加減するとかさ。親に対してもね。僕たちはなんで受験勉強なんかやってるのかはよくわかんない。でもそれはたぶん、大人たちも、『そういう世の中だから』くらいしか考えていなくて、本当は同じようにわけわかんないんだろうな、と思うと『まあいいか』ってなっちゃう。それで、おとなしく勉強はしてさ、『あ、俺、偏差値七十だよ。また勉強しちゃったよ、俺のバカ』みたいなさ。自分で自分のことを笑っちゃう……なんかそういう感じがあるよね。結局、大人たちから見れば、おとなしいいい子ってことになるんだろうけど。僕たちが暴力を本気で使ったのは、あの金属バットくらいだよね。昔『コインロッカー・ベイビーズ』とかいう小説があったけど、僕たちは『金属バットベイビーズ』だよね、無理やりいえば。ベイビーズじゃなくてボーイズか」
 五年前に起きたその予備校生による殺人事件の加害者は、僕や新堂より二つ上――油尾や浅倉と同い年だった。
「あれは、僕たちが、大人にもなるべく気を使ってことを起こさないようにしているのに、それをいいことにねちねち説教を続けてさ、がまんが限界に達したんだよね。僕たちの暴力の出方は、そういう形しかない。そこにいかない場合は、全部自分を笑っちゃうほうにいくんだよ。だから、イッキ飲みで死んだやつとかもさ、いまごろいってると思うんだ。『バカだなー俺。受験も終わったのに。でもどうせ受験もなんだかよくわかんなかったし、世の中もよくわかんなかったから、まあいいか』とかね」
「だけどさー、ツッパリとか暴走族とか、暴力的な奴はいっぱいいたよ。僕たちのころも」
 早川が、新堂の吐き出した煙を手で払いのけながら言った。他人事のような口ぶりだが、彼がそのどちらか(あるいは両方)であった可能性も高いだろう、と僕は思った。が、新堂は、そういう可能性については考えなかったようだ。
「それは、いたけどさ。あいつらはいつの時代にもいる、ただのイラついたサルだよ。性欲の過剰さを発散しているだけのオスザル。ウチの本の読者みたいなさ。世代には関係ないよ。まあ、いまはそういう奴がヒーローみたいになってて、その後ろにマネする奴らが従っているだけなんだろうね。『みんなで渡れば怖くない』式で。昔なら先生に反抗なんてする勇気もなかったような奴らがね」
 その暴力的な「オスザル」たちを目の前にしたら、彼はこんな立派なせりふをいえる勇気はないだろうが、と僕は思った。
 新堂は、自分の話していることが、みんなの注意を引いているのを意識して、慎重に灰皿の中に灰を落とした――もちろん、本当に話を聞いていてほしいのは、いまや早川という壁にはばまれ、はなればなれになってしまった「かぐや姫」(これは僕たちが高校生のころ流行っていた『ラブアタック』というテレビ番組のマドンナの呼び名だ)、井上さんただひとりだったろうが(ついでにいえば、新堂は『プロポーズ大作戦』なら、まちがいなく『5番』のキャラだったろう)。
「僕たちは、ああいう行為では世の中が変わらないのを知っている。上の世代のことはよくは知らないけど、とにかく、彼らは負けたんだっていうことは知っている。どうやったって世の中変わらなかったんだっていう結果だけは知っている……あの人たちがシラケ世代なら、僕たちはシラけてるのが最初から当たり前の空気の中で育った。いってみれば、初めから挫折してるんだよ、僕たちは」
 新堂のいっていることの主旨は、僕にもよくわかった。それは、あまり自分の考えを口にしない僕たちの世代の、「いわずもがな」的な共通の気分を代弁しているともいえた。いや、というより、僕たちがそういう気分を理由に、自分たちがなにもことを起こさない言い訳にしてきたことだけはたしかだと思う。
 だが、いま新堂がこんな話を始めたのは、その言葉で、「何もない世代の悲しみ」を訴えたかったからではない。早川との「かぐや姫」争奪戦のためで、彼の場合、容姿ではとても勝てないから、自分のお得意の「インテリジェンスあふれる」話(少なくとも本人はそう思っているはずだ)で、戦おうとしているのだ。だが、僕には、それこそオスザルとオスザルによるメスザルの奪い合いとしか見えなかった。
「いい? 人間は何千年もかけて、結局自分たちが完全なサルだということを証明できただけなんだよ。いまは、読もうと思ったら誰でも、いくらでも歴史の本を読めるよね。で、こう考えるわけさ、進歩的な二十世紀の人間として、『偉大な人間の歴史』という本を前に。『人間がどれくらいすばらしくなったか見てみよう』と。でも、そこにあるのは、人間の果てしない権力闘争と、愚行の記録だらけだ。戦争をしていないときはなにをしているかというと、どこの国でも乱痴気騒ぎ。つまり、シェイクスピアが『トロイラスとクレシダ』で言ってるとおり、『人間の間で本当に流行るのは、戦争とセックスだけだ』という事実なんだ。で、思うわけさ。――哲学も、法学も、医学も、神学も底の底まで究めてきた。ところがこの俺は、まったく賢くなっていない。阿呆のままだ、とね。これは、ゲーテの『ファウスト』の嘆きだけどさ」
 新堂は、そう言って井上さんのほうをちらっと見た。
「だからいまは、『人間はサルなんだ、それ以上のものではない』ということを自覚しながら愚行をし、そのマゾヒズムを楽しむっていうのが、唯一可能な人間的行為なわけさ。いまのガキみたいに自覚なしにサルなわけではなくてね。……お勉強もいわれればきちんとやる。自分が母親のいいなりになっているという快感のもとに。母親に本当に権威を感じて守るんじゃなく、自分をわざと縛る。まあゲームだよね、ひとつの。儀式といってもいいかもしれない。いま、アイドルなんかにしても、それを支える『おたく』にしても、すでに失われたアイドルの処女性だとかを、片方は演じて、片方はだまされて信じたフリをして、昔の宗教的儀式を形だけ継承してるみたいになってるよね。それも時代のマゾヒズムだよね」
「どうでもいいよそんなこと。あと十四年たったら人類は滅びるって」
 浅倉がグラスを飲み干して、吐き捨てるように言った。
「空から大王が現れてか?」
森田が笑った。当時、1999年7月に、人類は滅びるというノストラダムスの予言がもてはやされていた。
「だって、こんな腐りきった世界なんてなくなったほうがいいんだよ。一度。絶対」
 浅倉は言った。
「そう考えながら、官能小説の編集をする……」
 目を細めて(人類の悲惨な未来をながめて……とでもいうつもりだろうか)、新堂は、タバコを消した。
「これもマゾヒズム。つまり、僕がいってることと同じさ。浅倉氏も、最も人間的な行為に生きているわけさ」
 さらに絶望は深まった――という表情で、新堂は目を閉じた。その横顔がもう少し美しければ、井上さんや、ほかのみんなに対しても効果があったかもしれない。いや、少なくとも新堂自身が、自分で愚行だと知りながらいまここにいて、早川と張り合っているのなら、それはそれでたいしたものだと、僕は認めたろう。
「人間ももう終わりだな……」
 早川がぽつんと言った。
 それは、これまでの誰の発言よりも意外なひと言だったので、みんなが早川を見た。その表情は、ただその顔が美しいという理由だけで、新堂の何倍も深刻そうに見えた。すると、彼は急に両腕を上げ、まっすぐそろえた指先を頭のてっぺんにくっつけて、
「なーんちゃって」
と言った。
 僕をふくめてそこから左側の、新堂を除いた全員が笑った。それは、まさに僕たちにふさわしいまとめ方だった。僕たちは話題が「マジ」な方向に行こうとすると、すぐにこんなふうなところへ落とし込んで「オチ」をつけようとする。それは、新堂が言った「マゾヒズム」のせいかもしれないし、あるいは、すぐ上の世代が、「青春とはなんだ?」(僕たちが小学生から中学生だった七十年前後にはそういうタイトルのテレビドラマがやたらとあったのだが)式の、むき出しの議論をする暑苦しい場面をたくさん見すぎて、そういう一見深刻そうな話に拒絶反応を示すようになったのかもしれない。――まあ、理由なんてなんでもいい。すべては、「なーんちゃって」なのだから。
「早川さん、タレントだったら誰に似てるっていわれる?」
 ライターの田口さんが、その笑いを引きずったまま早川に話しかけた。その、こびたような声から、僕は、たぶん彼女はこの会の初めからこのときを待っていたのだろう、と思った。
早川はその声を聞くと、軽く飛び上がるようにして座り直して体ごと彼女のほうに向け、
「『シブがき隊』のヤッくんって、よくいわれるけど」
と言った。
「えーっ」という声と「わかるわかる」という声が入り混じった。
「僕自身はモッくんのほうに似てると思うんだけどさー」
「それはうぬぼれだろー。いくらなんでも」
 浅倉が笑いながら言った。
 それからは、早川から向こうの席は、お互い誰に似ているか、という話題で一挙に盛り上がった。自分のことを「中森明菜似」と言い放った井上さんは、みんなに非難されながらも、ひとりだけ「そうかもしんないよー」と擁護に回った早川に体をくっつけるようにして、これまで見たことがないくらい大声で笑っていた。浅倉も森田も少し酔いが回ったらしく、本来の陽気な酔っ払いになってきていて、いよいよこれからが本番といった感じだった。そんな中でひとり、新堂だけは、皮肉をこめたニヤニヤ笑いを浮かべながら、すでに効果も観客もなくなった「絶望感に浸るポーズ」をとり続けてグラスを傾けていた。 
 彼は、もう自分の弾を撃ちつくしてしまったのだ。おそらく大学時代のコンパでもいつもこうだったのだろう。



「それはちがいますよ、新堂さん、浅倉さん。それこそ、『にせものの女王』の策略なんですよ」
 そのとき、これまでひと言も声を出さなかった僕の右隣の男が言った。大きな声だったので、みんなが一瞬こちらを見た。
 僕たちには、油尾の言う「それ」が、いったいなんのことなのか誰にもわからなかった。
 どうやら、彼は自分の「リズム」にしたがって、さっきまでの新堂や浅倉の話について考え、ようやくいまになってなにか意見をいおうとしていたらしいのだ。
「『にせものの女王』? それ、なんの話? 誰かの新しい予言?」
 早川が、首だけこちらに向けたまま、からかうように言った。
 新堂は新堂で、「深遠な絶望感に浸っている俺をじゃまするのはどこのどいつだ?」というように、声のするほうへ顔を上げ、油尾だと知ると、「バカが」という表情ですぐに目をそらした。
「そんな苦しそうな、悲しそうな考えが浮かぶのは、すべて『にせものの女王』のせいなんですよ」
 油尾は言った。見ると、いつのまにか手元のグラスは空になっていた。たぶん、このときすでにかなり酔っていたのだと思う。
「だから、それはなんなんだよ?」
 新堂が、はき捨てるように言った。
「はっきり説明しますか?」
「いいから早くいえよ」
 新堂は、あっというまに油尾を無視して元の話に帰っていった左側の人々を、ちらっと眺めてから言った。
「ああ、でも、僕はこれをいってしまったら、女王に殺されるかもしれない! まだ修業も完成していないのに。でも、僕はいま、それをいいたくてたまらない!」
 油尾はいきなり調子のはずれた大声を出した。
「酔っ払ってるよ、この人」
 早川が油尾を指差してみんなの顔を眺め回した。浅倉と森田は、驚きを隠せない顔で油尾を見た。井上さんと僕は、やれやれといった顔で一瞬目線を合わせた。
 油尾は、かまわずに話し始めた。
「僕たちは、毎日、いえ、一秒ごとに、世界にウソをつかれています。僕たちの見ている風景は、大きなじゅうたんに描かれたただのへたくそな絵で、それを現実だと感じているだけなのです。風景には裏側がある。『にせものの女王』は……」
 油尾はちょっと息を詰まらせた。
「『にせものの女王』は、その風景の裏側にいて、僕たち人間が、苦しんだり悲しんだり憎悪にかられて他人に復讐したりするのを眺めています。女王にとっては、人間のそういう悲しい感情や考えが食料なんです。僕たちが、そういう感情を抱けば抱くほど、女王はそれを食べて太り、さらに力を増していくのです。新堂さんがいったように、自分をいじめるようなことを考えたり、浅倉さんがいったように世界は滅びたほうがいいと考えるなんて、それこそ女王の思うつぼです!」
 油尾は氷だけになったグラスからひと口(たぶん氷の溶けた水を)飲んで続けた。
「『にせものの女王』は、もともと干からびた死骸だったのです……宇宙の外側に最も近い、つまり宇宙のはずれの星で、彼女は生まれ、気の遠くなるような時間をたったひとりで過ごしたのです。そうしてそれはたしかにつらいことだったに違いないのです。そのつらさを忘れようと、彼女は、自分のことを本物の女王だと空想して、数え切れないほどのお話を作っては、自分にそれを聞かせたのです。やがて彼女は死んだのですが、あまりに悲しかったので、自分が死んだことにも気づかなかったのです。干からびた死骸のまま、彼女は自分の作ったお話の入っている箱とともに宇宙を漂い続け、また気の遠くなるほどの時間を過ごしたあとで、僕たちの世界にたどり着いたのです。そのころ世界には、あらゆる生き物たちと一緒に、神がいました。神は、妖精のような目に見えないものではなく、ちゃんと僕たちと同じように、生活をしていたのですよ。ただ、彼らは、巨人族で、その体の大きさと不死であることから、神と呼ばれていただけなのです。そのころ、生き物はみんな幸福でした。といっても、誰も『わたしは幸福だ』などと言ったりはしませんでした。そういう言葉が必要なかったからです。そうして、もちろん『不幸』という言葉もなかったのです。いまと同じように、人間や動物は、寿命とともに死んでいきましたが、誰も悲しむこともありませんでした。なぜなら、世界には、まだ『悲しみ』がなかったからです。『にせものの女王』は、これを見て、恐ろしい嫉妬にかられました。自分が知らない感情をいやというほど享受しているこの生き物たちにです。そこで、女王は初めひっそりと、この世界に降りてきて、まず、みんなが寝静まっている間に、世界中の風景をにせものと入れ替え、それから自分の悲しいお話を箱の中から解き放ったのです。とたんに、生き物たちの夢の中に悲しい考えが浮かびました。そうしてみんなに悲しみが行き渡ったころ、女王は、泣きながら眠っている神々の夢の中に現れて、こう言いました。『その悲しみを忘れたかったら、わたしのために休みなく働くのです』と。神々は、悲しみを忘れられるならと、女王の奴隷になることを承諾しました。つぎに目覚めたとき、すべての生き物たちはもう、『にせものの女王』の悲しいお話の中でしか生きることができなくなっていました。そうして、そのとき以来、誰にもそれがただのお話だと気づかれないようにするために、僕たちにここを『本物の世界』だと信じこませるために、女王の奴隷となった神々はにせものの風景を作り続けているのです」
「それって『なかよし学級』で習ったお話?」
 油尾の話が途切れると、すかさず早川が言った。
「いいえ、『なかよし学級』では教えてくれませんでしたよ。それに、これは『お話』ではありません。真実です」
 油尾が言った。
「『なかよし学級』って?」
 そう言った油尾のほうをちらちら見ながら、浅倉が早川に聞いた。
「絵本を読んだり、輪投げをしたりするところだよ、勉強の代わりに。そうでしょ? 僕たちの学校にはあったよ。油尾さんは、小学校のころそこにいたんだよ。ねえ?」
「ええ、そうです」
「それってどういう……」
と言いかけた浅倉に、森田が耳打ちをしているのが見えた。浅倉はうなずきながらもう一度油尾の顔をしげしげと見た。
「それで、ニンジンを食べたらウサギになれると思っていたんだよね」
 早川は言った。油尾はうなずいた。「ええ、そのとおりです」
「でも、まあ出てこられたわけだ。彼は。それより、いまの話をいちおう聞かせてもらおうじゃないの? 僕たちのいったことが、その女王のせいだと彼はいったんだよ。それは僕が自由意志ではなく誰かに操作されながら生きてるっていうこと? 油尾さんは何か宗教にでも入ってるの? でも、僕はそんなこと、認められないな」
 そう言った新堂は、「バカ」を相手に、再び自分の点数を上げるチャンスが来たとでも考えていたのだろう。しかし、油尾は、ちょっと黙っていたあとで、今度はこんなことを言い始めた。
「『なかよし学級』から戻ってきてすぐ、僕は担任の先生に、とても恐ろしいことを聞きました。それは、『人間は誰でもみんな死ぬ』ということです」
「すごい! これこそ絶対当たる予言だよ、おい」
 早川がはやし立てた。みんなが笑った。
「……笑わないでください。ええ、僕にはわかっていますよ。僕には何かみなさんより足りないところがあることは。だから、僕は自分だけが、その話を聞いてそんなに驚いたのだとそのときも思いましたよ。でも、それは、僕にはとても大きな事件だったのです。……父の死は、僕にとってはほとんど現実とはいえませんでした。気がついたときには母と二人だったので、ただ、『僕には父がいない』と思っただけで、前にあったものが無くなったという感じはしなかったからです。僕にとっては、ザリガニや金魚やセミの死のほうがまだ身近な死でした。けれども、僕はその死が自分に関係のあるものだとは、そのときまでまったく知らなかったのです。……本の中で『おじいさんは死んでしまいました』と書かれていれば、悲しくて泣きはしましたが、心の奥では『でも、このおじいさんは初めから死ぬような性質を持っていたのだから仕方ない』と考えていたのです。それなのに先生はこともなげに、『人間はみんな年を取って死んでしまうのです』と言いました。僕はものすごいショックを受けて、椅子から転げ落ちそうになりました。――このことはしかし、僕の平衡感覚が関係しているのかもしれません。というのも、僕は子どものころもいまもブランコにちゃんと乗ることができないからです――だって、死んでしまうのなら、いくら勉強してもしょうがないじゃないですか? いえ、そもそも、死んでしまうのなら生きていてもしょうがないじゃないですか? 僕はこんな恐ろしい事実を聞いて、みんなはどう堪えているのだろうと思い、まわりを見回しました。でも、みんなはいつもとまったく同じで、先生の話は聞こえなかったかのようにふざけたりおしゃべりしたりしていました」
「当然だろう。三年生にもなってそんなこと知らない奴なんていないよ」
 早川が言った。みんながまた、小さな声で笑った。
「……自分が死ぬ、ということ以上にショックだったのは、母が死ぬと考えたときでした。それはもう絶望的な感じがしましたよ。息もできないほどの恐ろしさなのです。僕はそれがあまりに恐ろしかったので、こう考えることで、その日を乗り切らなければなりませんでした。つまり、先生は『これまではそうだった』という話をしたので、『これからもそうだ』と言ったわけじゃない。僕が大人になるころには必ず死なない薬ができて、母も僕も死にはしないのだ、と。そう考えると、すーっと気が楽になり、いつもの現実が戻ってきました。そこで僕は、その考えにもっと現実感が持てるように、『もし、誰もその薬を作れなかったら、僕が作るのだから』と考えました。『作れるようにやってみる』ではなくて、『作る』のです。そう決めたところで、すべては完全に元通りになりました。と同時に、このとき僕には、勉強することがとてもいいことで、前よりももっと大事なことだと思われたのです。それからは、僕は将来死なない薬を作るために、一生懸命勉強しましたよ」
「ノーベル賞だな。『なかよし学級』からノーベル賞受賞者が出るわけだ」
 新堂はそう言うとかん高い声で笑った。油尾は続けた。
「おかげで、四年生、五年生と成績はゆっくり伸びていきました。母はとても喜んでくれました。僕は母に自分がなぜ勉強をしたくなったかはいいませんでした。それは、母に向かって、どういう意味でも死という言葉を使いたくなかったからです。けれども……母は僕が五年生のときに倒れました。そして六年生のとき病院で亡くなりました。この現実は、でも、『人間はみんな死ぬ』と聞いて母の死を想像したときよりは、恐ろしくも悲しくもありませんでした。ただ、僕は誰かにひどく裏切られたような気持ちになり、生まれて初めてといえるくらい大きな怒りに駆られました。……六年生の終わりにおじさんのところへひきとられることになりこっちに来たころには、僕はもう、勉強もなにもまったくやる気がなくなっていました。そのうえ、ちょうどそのころから、僕にはものすごく激しい、いやらしい欲望が芽生え始めていて、毎日そのことで悩んでいました。今度こそその欲望に負けまいと思っても、毎日、それも一日に何度も負けてしまうのです。そして欲望に負けてしまったあとでは、言葉にできないほどの嫌悪感に襲われ、自分を軽蔑せずにはいられませんでした。その嫌悪感と、母が亡くなってから僕にとりつくようになった怒りとで、僕はすっかり変わってしまいました」
 油尾がそう話しているあいだに、早川から向こうでは、カラオケの歌本が持ち出され、誰が何を歌うかという話題でまた盛り上がり始めた。
「欲望っていったって、俺たちだってその欲望の結果、生まれてきたんじゃないの? 自然なことだろ? それが自分なんだからいやらしいも何も……」
 僕は言った。
「そんなバカな。父と母はお互い唯一の人として出会い、愛し合っていたのです。僕は欲望の結果ではありません。丸山さんだってそんな存在であるわけがないでしょう?」
 油尾は僕のほうに顔を向けて言った。
「どうだか」
 僕は、父親と母親がどうして一緒になったのかなんて聞いたこともないし、考えたこともなかった。まあ、もしかりに油尾のいってることが正しいとして、兄は愛情の結果だったかもしれないが、僕はどうだろう? 
「それで? 『にせものの女王』の話は? なにがどうつながるんだよ。そんな身の上話と」
 新堂がせかした。みんなの前で再び点数を上げられるかもしれないという期待は、もはや完全に打ち砕かれて、彼はいらだっていた。
「全部関係があるのですよ。全部……。僕にそんな欲望がとりついたのも怒りに駆られたのも全部『にせものの女王』のせいなのですから。……自分が醜悪な欲望と怒りに駆られたからでしょう。僕は他人の心の中にも、暗い欲望や利己心が渦巻いているのが見えるようになりました。とりわけ、僕は多くの人の心の中に、復讐の炎がひときわ大きく燃えているのを見ました。ある人は父親に、ある人は母親に、先生に、友だちに、十分に愛されなかったというだけで世界に復讐をしようとしている。また、ある人は自分の容姿がよくないというだけで、そうしようとしている。また、たくさんの点で恵まれている人も、そういう人はそういう人で、もっと自分を評価してくれないといって世界に復讐しようとしている。そうして、一番いけないのは、自分以外のものに復讐をしない人は自分自身に復讐しようとしている……。僕はそれが見え始めたころ、本当に驚きましたよ。子どものころは、ぜんぜんそれに気がつかなかったからです。思い出してみると、僕のようになにひとつすぐれた持ち物のない人間でも、人から復讐されることがありました。僕には当時それがなぜなのかわからなかったのですが、いまになって、彼らは僕が何も持っていないのに、ひとりで平和そうな顔をしているから憎悪したのだとわかったのです。つまり、彼らは『おまえも人と同じように復讐心を持て』と言っていたのです」



「要するにいじめられたけど、それに気づかなかったんだろ? いるよね。そういういじめがいのない奴」
 新堂が言った。
「僕にはだんだんと世界が、復讐心と欲望の実践される汚らしい舞台だと感じられてきました。それは、さっき浅倉さんがいったのとそっくり同じ感じだと思います」
 油尾は言った。しかし、浅倉はさっきそんなことをいったのだろうか? だいたい、油尾がいま「世界」と呼んでいるものと新堂や浅倉が言った「世界」は、同じものなのだろうか、と僕は思った。
「……この舞台はいったい何のためにあるのでしょうか? いえ、そもそも意味などあるのでしょうか? そのころ僕はよく、こんなイメージにとらわれました。宇宙がひとつの大きな機械だとしたら、僕たちはその中の小さな部品で、生きていることで小さな歯車をひとつ回す。すると僕たちにはわからないべつの歯車が回り、また先の歯車を回す。でも、その行き着く先の、最後の歯車のやっている仕事が、宇宙の外側に向かって白いハンカチを振ることだけだとしたら? このイメージがふっと頭の中に浮かぶと、僕は何をしていてもとたんにやる気を失い、それが授業中でも、テスト中でも、誰かとの会話中でも、すぐにそれをやめてその場から立ち去りました。僕はひとりで、歩いたり電車を乗り継いだりして、がむしゃらに動き回りました。けれども、どこまで行っても、風景が、道の上に落ちて灰色になったアイスクリームのようにどろどろとした固まりとしか見えないのです。理由もないのにいつも吐き気がしました。こんな時期が中学を卒業するころまで続きました。もちろん、高校へなど進学できるような成績ではなかったのですが、おじさんは、亡くなった父への義理だけで、僕を私立の高校に入れてくれたのです」
新堂が、油尾の話にはもうあまり注意を向けていないのがわかった。なぜなら、いまや早川と井上さんは、二人でデュエットをしようと相談していて、その曲を選んでいる最中だったからだ。新堂のすぐ隣で二人は頬をくっつけあうようにして歌本を見ていた。新堂は横目で二人のほうをじっと見ていた。油尾は続けた。
「高校に入ってすぐのころ、僕は最初の発作に襲われました。そうして、子どものころにはしょっちゅう僕の目の前に現れていて、ここ何年間か姿を見かけずにいた『大きな人たち』をまた見かけるようになったのです」
「大きな人? 巨人のこと? それはパタゴニアの伝説かなんか関係あるの? それとも、ガルガンチュワみたいな話? ギリシャ神話、いや、中国の盤古かな」
 新堂は、大きな声でそう言った。だが、歌本に見入っている「かぐや姫」は、顔すら上げようとしなかった。僕は、あの校正刷りにあった『風景をまきとる人』のネームを思い出した。
「僕が最初に彼らのうちのひとりに会ったのは、幼稚園のときです。僕は、このあいだ衣装倉庫の整理のときいったように、幼稚園を抜け出して帰ったりして入園したその年に退園させられたのですが、ある日、お話の時間に教室を抜け出して、園舎の裏庭へ行ったことがあります。そこには洗濯物が干してあって、便所のにおいがしました。太陽がまぶしく照っていて、僕には自分が世界と二人きりなのがわかりました。そのとき、僕は洗濯物に注意を奪われた拍子に、足元にあったコンクリートのブロックにつまずいたのです。僕はとっさに両腕を伸ばしました。けれども、そこで急に時間が止まり、僕は自分の頭の中に話しかけてくる声を聞いたのです。『おまえはそこで倒れて、鼻と膝をすりむくことになっている』。その声ははっきりとそう言いました。見ると、雲の中にとても大きな人間の顔があって、その人がこちらを見下ろしていました。僕はすぐに『そう決まっているのなら仕方がない』と思い、突き出していた両腕を引っ込めたのです。すると時間が元通りに流れ始めて、僕はその場に倒れました。そうして『大きな人』が言ったとおり、鼻と膝を思い切りすりむいたのです。……それ以来、僕は何度も『大きな人たち』を見ました。ある人は三日月を支え持ち、ある人は夜の中にこちらに背中を向けてしゃがんでいました。僕には学校の同級生や先生や、町で見かける人たちより、彼らのほうがずっと身近な存在だったのです。けれども彼らがいったい何をしているのかはそのころの僕にはわかりませんでした。そうして、ちょうど『なかよし学級』から戻ったころを最後に、彼らは僕の前から姿を消してしまっていたのです」
 早川と井上さんが立って、モニターの前に行った。新堂はその姿を目で追った。イントロが流れると、浅倉や森田が手拍子を打ち始めた。『ふたりの愛ランド』だ。
 僕は二杯目のグラスを飲み干した。
「その彼らが、高校で初めての発作が起こったころ、また、僕の前に現れたのです。ある夕暮れに僕が駅から家に向かって歩いていると、急に、長い間忘れていた気配がして、僕は空を見上げました。そのとき、群青色の空が、すーっとカッターで切れ目を入れたみたいに縦に切れて、その向こうからいきなり『大きな人』の顔がのぞいたのです。彼は僕のほうをじっと見つめて『みんな、ウソだ』とひと言いって風景の向こう側へ消えてしまいました。……それからは、子どものころと同じように、彼らはしょっちゅう僕の前に現れてその存在を知らせるようになりました。丸山さんが読まれた、あの『風景をまきとる人』も彼らのうちのひとりなのです。僕は、今度は、彼らが何かをいいたくて姿を見せるのだということがはっきりわかりました。……彼らは僕に『にせものの女王』の存在を告げ知らせていたのです。この世界が『にせものの女王』の悲しみが形を変えたにせものの世界だと。彼らこそ、『にせものの女王』の奴隷にされてしまったもともとの神々なのです。彼らは、僕たち人間が女王のために悲しみを作り出すように、その舞台となるにせものの風景を用意させられているのです。そして、いまや神々は、自分たちの仕事に疲れ果てています。彼らは、誰かが、風景の裏側に入って行き、女王を討ち取るのを待っているんです」
 新堂は、このときまで、まだいちおう油尾の話にも耳を傾けているようだったが、とうとうがまんできなくなって向こうを向いた。歌い終わって帰ってくる二人を迎え、今度こそ逆の席順で座らせようと、用意を始めたのだ。
 どうやら、これで、話の聞き手は僕だけになったようだった。
「僕は一度夢の中で、直接『にせものの女王』に会ったことがあるんです。それまでは、女王の存在をはっきりとは知らなかったのです。それは、僕が高校を辞める直前のことです。夢の中で僕は、小学生のころのように、雪村くんに付き添われて夜の街を歩いていました。ふと気づくと、動物園の門の前あたりで、僕は雪村くんを見失ってしまいました。彼が、夜の動物園に消えていったことは間違いありません。それで、僕は門をくぐりぬけて、中に入ったのです。すると、いきなり『大きな人』が二人、両側から僕の腕をぎゅっと捕まえて、僕を女王のところへ連行したのです。女王は、暗い部屋の中に、真紅のぎらぎらと光るドレスを着、老婆の正体を隠して、玉座に座っていました。僕は知らぬ間に女王の前にひざまずき、その膝に頭をうずめていました。女王は、たぶん本当はしわだらけの手で、僕の髪をなでました。僕はその顔を見ようと、頭を上げましたが、どんな角度から見ても、女王の顔の向こうには光源があって、はっきり見極めることができませんでした。女王は、そのとき、こう言いました。『おまえの悲しい演技はよかった』と。それは、僕が知らない間に、女王のために悲しみを作り出したことへの賛辞だったのです。そう言われた瞬間、僕の頭の中に、女王がこれまでたどってきた長いひとりぼっちの生涯がはっきり見えました。なんのために女王が僕たちの世界に居つき、それ以来、この世界がどう変わったのかということも。僕は、このとき、女王に、彼女が『にせものの女王』であること、もし本物であるなら、自分以外のものをながめたり、彼らに悲しい演技をさせたりする必要はどこにもない。そうすることが必要なのは、おまえそのものが悲しい存在だからだ、と言ってやろうとしました。そのとき、女王は一瞬、憎しみに満ちた顔をあらわにして僕をにらみつけました。それは、ヘビのような老婆のような醜い顔で、僕は恐怖で気を失ってしまいました。気がつくと、僕は草も木も生えていない採石場のような場所で、鳥かごをそのまま大きくしたような檻の中にいました。檻にはちょうど中ほどの高さのところに止まり木が渡してあり、僕はそこに腰かけていました。下には、黄色と黒の毛並みの鮮やかな虎が三頭いて、僕のほうを見上げてうなり声を上げながら、檻の中を歩き回っていました。空は真っ青で、昼が近いという気がしました。僕は女王に負け、裁かれたのだと知りました。その理由もわかっていました。それは、僕がほんの一瞬、彼女への憎悪とともに、彼女への欲望を感じたからなのです。女王はそのすきに僕を囚われの身におとしめたのです……」
 こいつは夢と現実をごちゃ混ぜにして生きているんだろうか……そのとき僕はそう思った。ひょっとすると、油尾のあの放心したような表情は、ほかの人間と「リズム」が違うからというだけではなく、彼が夢遊病者のように、他人とはまるで違うものを目の前に見ながら生きているせいかもしれない、と。
 いずれにしても、そのころになると、僕のほうも、かなり濃くなってしまった三杯目のグラスに口をつけようとしているところで、自分自身が夢と区別のつかないあいまいな世界の入り口に差し掛かっていたことは間違いない。
 早川と井上さんがこっちへ帰ってきた。新堂は拍手をしながら腰をスライドさせ、僕の隣から離れると、浅倉の横に座った。そうして、自分と僕のあいだに、二人を入れた。これで、作戦通り、井上さんを新堂と早川がはさむ形になった。
「じゃ、なに? 面接のときいってたのはその夢の中の女を打ち倒すってことなの? そのために騎士だっけ、騎士になるってことなの? そういう夢物語なの? 現実じゃなくてさ」
 僕は、油尾の話で呼び起こされた、半年前の記憶をたどってそう言った。
「現実ですよ。『にせものの女王』は、風景の裏側に本当にいるんですよ」
「じゃ、いったいどうやって『にせものの女王』に近づくんだよ? また夢で会うのを待つしかないんだろ」
「いいえ。風景にまきとられるか、風景の切れ端から風景の裏側に入って、です」
「どうやって?」
「それは、『大きな人』たちが失敗した瞬間に、です。……丸山さんも感じたことがあるはずです。彼らが失敗した瞬間を。ある一瞬が、場所や季節はぜんぜん違うのに、たとえば何年か前のべつの場所での時間とまったく同じものだとわかる。それから、ふと振り向いたときの闇の質が、子どものころの押入れの中の闇の質とまったく同じだとわかる、そんな瞬間を。彼らはそんなとき、失敗しているんですよ。その仕事に疲れ果てて、『にせものの世界』のつじつまあわせに失敗してしまったんです。そういう瞬間ですよ、風景の裏側へ入れるのは。……よく見ると、風景の切れ端が、カーテンみたいにひらひら揺れているんですよ」
「俺は、スカートがひらひら揺れているほうが好きだけど……。まあ、いいや、じゃ、それを倒せたら、いったい何がどうなるっていうの? いってる自分がバカバカしいけどさ。はは」
 僕は言った。
「世界の全部が、本物と入れ替わるんですよ。そうして、本当の自由がよみがえるんです。そうすれば誰も他人に対して悪いことをしようとは思わないし、他人を傷つける人はいなくなるのです。もちろん、自分自身を傷つける人も」
「戦争も犯罪もなくなる?」
「そうです」
「じゃ、エロ本もなくなる?」
 僕は笑った。
「ええ。男の人と女の人のあいだには、ただひとりの人と本当の愛情で結ばれる関係があるだけになります」
「そこで、愛情でだけ勃起するわけだ……アブさんは」
「ええ、そうです」
「足田久美に」
「……丸山さん、僕が久美さんを好きだということを、絶対に久美さんにいわないでくださいね……お願いします」
 油尾は言った。
「二人でなに話しこんでるんだよっ。『あみん』でも歌う?」
 いきなり、早川が僕たちのほうへ歌本を差し出して言った。
「油尾くんが予言したとおり、人間はみんな死ぬんだよ。だから楽しまなくちゃ損じゃない? 楽しもうよ、ね」



「おい、もうつぎ行こうぜ。ディスコ行こ、ディスコ」
 浅倉が大声でそう繰り返している。おーっという声があがり、みんなはこの店を出る準備を始めた。
あれから、僕たちは歌を歌い、新しいボトルを開け、わけのわからない話に大笑いして、最後には、女をめぐるライバル関係も、会社に対する考え方の違いも、おたくのプライドも、時代のマゾヒズムも乗り越えて、「ウイ・アー・ザ・ワールド」状態になっていた。
 僕は、右側で死んだように眠っている油尾を起こしにかかった。あのとき、話したいだけ話したあと、油尾は急に話し始めたときと同じように、一度だけ、
「ああ。もうしゃべってしまった! 僕はきっとあの女に殺されるに違いない!」
と、叫ぶと、がくんと首を垂れてそのまま眠ってしまったのだ。
 僕たちは店を出た。くねくねした細い道をねり歩いているうちに、外苑東通りに出た。「エリマキラーメン」の赤提灯が通りの向こうに見えた(当時店はいまとは道を隔てた反対側にあった)。
みんなは、そのまま六本木に行くといってタクシーに乗った。僕は、油尾がどうしても電車で帰ると言い張ったので、いちおうそれを見届けてから、追いかけて行くことにし、その場に残った。
そこで、僕はあることに気づいた。いま、タクシーは確かに一台で発車した。酔っ払ってはいてもそれは間違いない。なぜだ? 僕たちを除いて人数は六人のはずだ。一台で乗り切れるはずはないが……。そう、つまり、二人の姿がなかったのだ。早川と井上さんの……。
僕はその事実を知ると、急にがっかりして、みんなのあとを追う気力がなくなった。新堂と違うのは、僕はいちおうそれが、ただオスザルとしての落胆だと自覚はしている点だった……。といっても、それこそ意味のないことだが。
「あ、丸山さん。いまあそこに『大きな人』がいましたよ」
 新宿通りに向かって歩いていると、僕のすぐ後ろを揺れながら歩いていた油尾が言った。
 僕は彼の目線の先を見た。だが、そこには、丸正バラエティブックスのビルの向こうに、雲ひとつない夜空が広がっているだけだった。「なにも見えないよ」と、文句を言いながら振り向いた僕の目の前で、ふいに油尾は道にうずくまり、げえげえと吐き始めた。

 油尾は雑司が谷に住んでいるといった。鬼子母神の近くだそうだ。僕はワリカンでタクシーに乗ろうといったが、油尾は固辞して、地下鉄に乗った。僕も仕方なく丸の内線に乗り、新宿からタクシーで帰った。
 入社以来、最悪の夜だった。

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風景をまきとる人 04

2024-12-31 08:27:42 | 創作
(第3章つづき)

14

 帰りは原葉さんが運転してくれた。だから、来るときとは逆で、後ろの席では、僕と油尾が、日向カナをはさんで座るような形になった。僕は右側、油尾は来るときと同じ左側だ。車が坂道をおり始めるとすぐに、僕は眠ってしまった。
 気がつくと、もう高速に上がっていた。車内は暗く、静かだった。ときどき、高速道路特有の規則正しさで、タイヤが、ドッ、ドッと音を立てる。一瞬自分がどこにいるのかわからなかったが、原葉さんの頭が見え、中沢さんの横顔が見えて、自分が仕事の帰りなのがわかった。民宿を出るころにまた降り始めた雨粒が窓ガラスに貼り付き、水銀のようにゆがんで不思議な模様を作っていた。そのまま、夢うつつでいる僕の耳に、中沢さんと原葉さんの小さな話し声が聞こえてきた。
「……認めたくはないけどさ、あのバカは高校やめたころの俺に似ているのかもしれない……だから腹が立つのかな」
「原さんとアブが?」
「いっとくけど、二十四歳まで童貞だったわけじゃないぜ、もちろん。ただ、高校のころは赤面症でね、野郎の前ではつっぱりまくってたからよけい女が苦手でさあ」
「そんな色黒じゃ赤くなったってわかんないでしょ。ハハハ」
「白かったんだよそのころは。これは運送屋やってるときにこうなったんだよ。いまだって足とかはさ」
「いいよ。見せなくて。危ないから。でもそうだったんだね、それでカメラを握ったんだ」
「なんで」
「だから、カメラを武器にしてさ」
「違うよ。だって俺、もともとは風景カメラマンになりたかったんだぜ」
「そうなんだ……意外ーっ。それがいまでは裸専門。女の子の扱いにも慣れちゃって『あ、はじめまして……はい、くわえて』だもんな」
「人をケダモノみたいに……」
「だってそうじゃん」
 
「そういや、原さん、また引越ししたんだって?」
「うん」
「去年越したばっかしじゃなかったっけ?」
「女房のためだよ。今度のところはさ、隅田川の花火大会が部屋の中から丸見えなんだよ」
「そのためだけに引っ越したの?」
「そう」
「愛妻家なんだな、見かけによらず」
 中沢さんは笑った。
「ところで原さんさ、……ちゃんのこと、どうするつもりなの?」
 ユミとかクミとか言ったように聞こえた。
「べつにい……」
「あたしはあの子が好きだからさあ。いい子だし……やっぱ、ケガとかはさ」
「うるせーな」
 なんだか別人のように大きな声で原葉さんが言った。
「あんたには関係ないだろ」
 その声で油尾が目を覚ましたらしい。
「すみません、僕、眠ってしまって」
 くぐもった声が、左側から聞こえた。
「鼻血は止まったのか? 役立たず」
「寝てていいよあんたは」
「いえ、もう大丈夫です。何かすることはありますか?」
「窓から飛び降りろ」
 原葉さんが言った。
「僕、本当にそうしたほうがいいですか?」
「そうだっていってるだろ」
 つぎの瞬間、急に外の音がリアルになり、冷たい空気が流れ込んできた。とっさに体を起こすと油尾が左側の窓からいきなり上半身を外に突き出そうとしていた。
「バカ! 冗談がわかんないのか。いいから早く中に入れ」
 中沢さんが言った。
 油尾はゆっくり体を中に入れ、窓を閉めた。
「何考えてるんだ、バカ。二度とやんなよ。おまえがケガしたら全部あたしの責任になるんだからね。ったく。……原さんも気をつけてよ。こいつなんでも本気にするんだからさ」
「今日、一番よかったぞ、いまの働きが」
 原葉さんは笑って言った。その声を聞いて、僕もなんとなくおかしくなって笑った。僕にはいま見た光景が、現実なのか夢なのかよくわからなかった。――僕はまた、意識を失った。

 どれくらいたったときだろうか。なにか腿のあたりに熱を感じて目を覚ました。車内はさっきより明るくなっていた。見ると、いつのまにか隣の日向カナが僕のほうに倒れこみ、膝の上で眠っていた。起こさないようにと思って注意していたが、彼女はどうやら眠ってはいなかったらしく、僕が起きたのを知ると、車の揺れに合わせて頭をだんだん股間のほうへずらしてきた。最初は、油尾のことが嫌で、なるべくそっち側をよけたいからそうしているのかと思ったが、それどころではなくなってきた。そんな気はぜんぜんなかったが、寝起きの僕のペニスは、ジーパンの上からの温かい刺激を受けて少し硬くなってきた。それを知って、彼女は今度は唇を開いて輪郭をなぞるようにする。
 車はとっくに高速を降りて、新宿がもう目の前だった。
「おまえら、ホテルの前で降りるか」
 中沢さんが前を向いたまま言った。
「え?」
「カナちゃんとおまえだよ。いいよ、降りても。どうせ今日は仕事もできないし」
「そんな」
 日向カナが目を閉じたまま笑っている。
「俺は……。カナちゃん、新宿の駅でいいんだよね」
「いーよ」
 彼女は目を開いて頭を上げると、不機嫌そうにそう答えた。そうして、紀伊国屋の手前あたりで車から降りると、まるで誘拐犯に釈放されたとでもいうように足早に人ごみの中へ消えていった。
「ソリマンするとさー、なんかちくちくむずむずして、やりたくなるらしいんだよな。おしかったね、丸ちゃん」
 車が走り出すと中沢さんが言った。
「俺はべつに……」
「ま、でもいちおういっとくけど、モデルには気をつけな。ビョーキ持ってる子もいるからな」
「そうそう。俺なんか、すごいのいっぱい見たよ……」
 それから、中沢さんと原葉さんは、かなりグロテスクな話を始めた。聞いてるうちに、股間が痛くなってきた。
 そうやって二人が僕を冷やかしているあいだも、反対側の席の油尾は、窓から少し顔をのぞかせてぼんやり外をながめていた。雨でぐしょ濡れになったティッシュを鼻に詰めたまま。

 帰ってくると、マンションの下で、二階に住んでいる大家さんの奥さんが、近所の人と立ち話をしていた。奥さんは孫娘を抱いていて、僕が「ただいま」と言うと、
「ほーら、おにいちゃんに『こんばんは』は?」
と、三歳くらいのその女の子を腹話術の人形のように操って言った。女の子は、小さな声でコンバンハ、と言った。
「こんばんは」
 僕は、そう答えて玄関のほうへ向かった。
「知らない女の人を裸にしてお仕事している、悪いお兄ちゃんでちゅよ」
と、心の中でつぶやきながら。
 その夜、僕は陽子とセックスをした。日向カナに刺激されたほとぼりが残っていて二回射精した。実をいうと、それは陽子とのかなりひさしぶりのセックスだった。




第4章



 それからさらに一週間、雨は降り続いた。同じく、僕たちの撮影も。日曜以外(当時はまだ週休二日制ではなかったから)ほとんど毎日だ。
 ありがたいことに、遠出のロケはあの一本だけで、あとは二十三区内のスタジオや、ホテル、公園などが仕事場だったが、ようやくスケジュールボードの自分の欄から「撮影」の二文字が消せたときは、とりあえず、これで出かけなくていいと思ってほっとしたものだ。
 「セーラー服もの」のヌード二本、「OL制服もの」のヌード一本、女の子二人が絡む、いわゆる「レズもの」一本、「女子高生水着」一本、「のぞきのヤラセもの」一本。くわえて日向カナのヌード。
 合計七本の特写(撮り下ろし)があったことになる(そのうちの二本は、僕と油尾が編集部に入る前に、すでに撮り終わっていた)。当時の平均を知っているわけではないが、一〇〇ページちょっとのグラフ誌で七本は多いほうだろう。が、そのときは、多いか少ないかもわからないので、早川や新堂の部署でも同じようなものなのだろうと思っていた。
 ところがそうではなかったのだ。『ギャルっ子通信』は、E出版で作られる八冊ほどの定期刊行グラフ誌(および増刊)の中で、グラビアを撮り下ろすのが一番多い雑誌だったのだ。では、ほかの雑誌はどうしているのかといえば、自分たちでは一~二本撮り下ろすだけで、あとは『ギャル通』で撮った写真のあまりを使って埋めていたのだ(当時は、カメラマンもモデルプロダクションも、写真の再使用についてうるさく言わなかった)。なんのことはない。『ギャルっ子通信』編集部は、『D』という看板雑誌を出すために稼ぎを上げる「エロ本セクション」の中でも最下層のセクション、つまり、E出版の『おしん』だったのだ。僕と油尾が都内を駆け回っている間、早川や新堂は、あの衣装倉庫の整理のときのようなペースで適当に仕事をし、雑談に花を咲かせていたというわけだ。
 この編集部にアルバイトがいつかないわけがよくわかった。社員の僕でさえ、自分が編集部員なのかカメラマンのアシスタント兼運転手なのかわからないような一週間だったのだ。「編集を覚えたい」と考えて入ってくるバイトは、たぶんこの肉体労働の洗礼を受け、いやになってしまうのに違いない。
しかし油尾は例外だった。あれから彼も一日も休まずよく働いた。あのあともう一度だけ原葉さんとの仕事があったが、最初ほど二人が気まずい感じにはならなかった。まあ、それは「箱スタ」の仕事で、勝手のわかったスタジオマンがつきっきりだったせいもあるだろうが。
 ほかの撮影は、みんな原葉さんより若いカメラマンで、油尾のことをどちらかというとおもしろがっていた。
 僕は、ひとつ年下の河合という北海道出身の新人カメラマンと仲よくなった。

 こうして、出ずっぱりの一週間が終わると、今度は会社からほとんど出られない一週間がやってきた。
「編集」の「集める」が終わって、「編む」がやってきたのだ。撮ってきた写真を選び(もちろん、中沢さんと秋元さんが選ぶわけだが)、ラフレイアウトを組み、入稿する。で、そのあいまには、今回からほとんど僕と油尾の二人に振り分けられた記事ページの打ち合わせをしなければならない。
 昨日まで、移動して撮影、また移動して撮影、というような生活で、「一日でもいいから内勤がないかな」と思っていたものだが、いまは、皮肉にも最後の撮影の翌日から(およそ二週間ぶりに)晴れ上がった空を窓から見上げて「一時間でもいいから外に出たい……」と、つぶやいているのだった。



「じゃあ丸山さん、これからもよろしくお願いします。で、明日また電話するね」
 足田久美は、そう言ってタバコを消すと、軽く僕の腕に触れてから立ち上がり、
「お父さん、お母さん。じゃあまた」
と、ライトテーブルについて作業している秋元さんと中沢さんにもそう呼びかけた。
「俺はおまえみたいな女を娘に持った覚えはねえ」
 背中を丸め、ルーペを覗き込んだままで秋元さんが言った。
「ひどーい。わたしはこんなにお父さんのこと好きなのにー」
 足田久美は両腕を胸の前でクロスさせ、自分の肩をぎゅっと抱きしめるようにして言った。

 いままで僕たちは、例の「日本一のサイテー男」のページの打ち合わせをしていたのだった(油尾がテレビを持っていないせいで、結局僕の担当になったのだ)。
 足田久美にはその日初めて会った。僕たちが四人全員で「下」の真ん中に置かれた巨大なライトテーブルについていたときだ。
「なんだろうね、おまえの肩書は? んー、つまり、ライター兼漫画家兼モデルの足田久美さん。いくつだっけ? 二十歳? あー、二十一か」
 秋元さんにそう紹介されたのは十五分前だ。
「モデルはもうやってないって、お父さん」
 足田久美は、「つっこみ」を入れるように、右ひじを立てて秋元さんの背中にぶつかって離れた。
「あーそー」
 秋元さんはそう言うと、僕と油尾のことを簡単に紹介してくれた。そうして僕以外の三人はあいさつだけするとすぐにライトテーブルでの作業に戻ってしまった。
 僕は自分の席に帰り、中沢さんの椅子に座った足田久美と向き合った。
 彼女は座るなり、手に持っていたショートホープの箱から一本取り出して吸い始め、足を組んだ。胸の大きく開いたヒョウ柄のミニのワンピースに、Gジャンという格好だが、そのジャンパーの背中にも、ヒョウの顔のイラストと、そのまわりを丸く囲むようにワンピースと同じ柄の布が縫いつけてあった。スカートからきれいに伸びた脚は、赤いレッグウォーマーをはいている部分以外は「ナマ脚」で、その先はオレンジ色のスニーカーで終わっていた。――晴れてはいるが、気温はまだ冬並みの今日みたいな日に、この格好で電車に乗ってきたのなら、さぞ寒かったろう、と僕は思ったものだ。
長く伸ばした髪は肩の辺りで束ねられ――そのころの女の子にはめずらしく、彼女はいつも額を全部出していた――いまは右胸のほうに向かって自然に垂らされていた。その髪の流れの起点を左右で支えている張り出しぎみの耳には、直径八センチくらいはある白い「耳輪」がぶらさげられていて、丸くて小さい顔を引き立てていた。眉は当時の流行りで太めに描いてあり、その下の大きな瞳はまつげが長く、ちょっと早川に似ていて眠いような二重だった。その目の周りだけだとおっとりした感じに見えるのに、真っ赤に塗られた厚めの唇は口角が下がっている――それは、原葉さんとは正反対だった――せいで、顔全体の印象は、いつもどこか「ぶーたれている」ように見えた。
 記事ページの打ち合わせをどうやるのか誰も教えてくれなかったので、僕はとりあえず前号を出して同じコーナーを開き、今回のテーマを伝えた。
 彼女は、こっちが新人だからといってバカにするような様子も見せずに、僕の話を聞いていた。そうして聞き終わると、いくつか質問をした。それは、あとで考えると、決めなければならない要点をずばっと突いたもので、おかげで僕はそれに答えることで、このページがいくつの材料からできていて、どういう作業が必要なのかわかった。
 とりあえずデータ原稿集めに動いてもらうことにして、締め切りなどは翌日電話で決めるということになった。
 打ち合わせが終わったころ、早川と新堂が、どこからともなく現れてこっちに近づいてきた。前にいったように、二人の部署は僕たちのところよりひまなので、彼らは上司がいないときは、雑談相手を求めてよく社内をうろついていた。
「あ、早川さんと……新堂さん」
 その姿を見て足田久美が言った。
「どーもー」
 早川の口元から白い歯がのぞいた。
「早川さんのイラストはあさってまでよね。新堂さんは、もうちょっと待ってくださいね」
「いえいえ、僕のほうはモノクロだから、そんなに気にしてくださらなくていいですよ」
 新堂は、両手をすり合わせながら、やけにていねいに言った。
「久美ちゃん、今日彼氏と一緒?」
 早川が言った。
「彼氏って?」
「またー、とぼけて。原葉さん」
「だから彼氏じゃないですって。原さんに迷惑ですよ。家庭があるんだから」
「そー」
 ――と、ここで、彼女は立ち上がり、僕たちにあいさつをしたわけだ。



 僕が彼女と秋元さんのやり取りを聞きながらライトテーブルのほうを見ると、さっきまで姿の見えなかった原葉さんが、中沢さんの後ろに立ってポジを覗き込んでいた。
「あ、原さんも来てたんだ。ひょっとして帰るとこ? だったら乗せてってよ」
 その姿を見て、足田久美は原葉さんのほうへ近づいていった。
「はん」
 原葉さんはいつもの笑ったままの顔でそう言うと、黙ってドアのほうへ歩き始めた。足田久美はその五十センチ後ろをついて行った。早川が、もう耳打ちする必要はないのに手を添えて僕に言った。
「白々しい演技しやがって。あれ、完全にデキてるよ」
「だろうね」
 僕は言った。そうか、車で来たのならあの格好もわかる……と単純に思っただけだ。彼女に個人的に興味もなかったし、僕は今日の仕事をこなすことだけで頭の中はパニック状態だったから。
「久美ちゃんはヤリマンだよ」
「なんでそんなことわかんの?」
 僕がたずねると、早川は「何でそんなことをわざわざ聞き返すんだろう」というような表情をした。
「わかるよ、そんなの」
「ヤバい本にも出てたんだろ。サイテーだよな。ブリッコしやがって」
 新堂が言った。さっきまでの彼女への態度が嘘のようだった。
「ヤバい本?」
 ちょっとその先が聞いてみたかったが、そのときライトテーブルのところにいる秋元さんに呼ばれた。
「おーい。打ち合わせ終わったんなら早く来てこいつ切ってくれ。んー」
 その声と同時に、早川と新堂は散っていった。
「土曜、来るでしょ? じゃあ、そのとき」
 早川は、最後にまた、僕の耳に手を当てて言った。
 


「おまえ、油尾つーだけあって、ほんとにアブラっぽいなー。んー」
 秋元さんが、油尾の手元に重ねられたポジ袋を見てうなり声を上げる。ルーペを覗き込んでいるその頭は、横から見るとフィルムの黒い山の中に埋まっているように見える。
「早く切ってくれ」
 僕がライトテーブルに戻ると、中沢さんは言った。
「あ、はい」
 僕は中沢さんの隣の丸椅子に座った。これで、ライトテーブルの一辺は、いま、『ギャルっ子通信』編集部の四人に、中沢さん、僕、秋元さん、油尾という順番で占領された。
 ――ここで、僕にとって初めての直属の上司となった二人について、補足的に書いておく。中沢さんは自分の経歴について直接僕たちに語ったことはほとんどないが、どうやら七十年安保のころには、いわゆる女性闘士だったらしい。一度結婚して離婚したとか、結婚はしていないが子どもがいるとか、いろいろなことをいう人がいたが、真相は知らない。油尾や早川と同じように最初アルバイトでE出版に入り、そのうち社員になった。すでに描写したとおり(それがうまく伝わっていればだが)、普段の行動や言動にはかなりせっかちで大ざっぱなところがあり、早川や新堂は、「デリカシーのかけらもない女」と呼んで毛嫌いしていた。僕もそれに異議をはさむ気はないが、男ばかりのこの業界でやっていくにはそういうふうに構えるしかなかった、という面もなくはないと思う。愛読書は(というかいつも机の上に置いてあるのは)『萩原朔太郎詩集』で、ほかにミヒャエル・エンデも好きだといっていたような気がする。
 秋元さんは中沢さんより二~三歳年下で、アルバイトから社員になった経歴は中沢さんと同じだが、政治とは無関係だった。若いころは映画を作るのが夢で、現在の奥さんのヒモをやりながら脚本を書いていたということだった。あるとき、給料の話をしていて、その話の流れで、秋元さんの若いころの収入について聞いたことがある。「おまえの年のころの俺の年収? んー」秋元さんはちょっと考えたあとで、「多い年で八万円かな」と言った。この仕事を始めたのは最初の子どもが生まれて定収入が必要になったからだそうだ。

 四人の間にはセレクトされる前のポジと、切り出される前のポジがうず高く積まれている。実際に使うのはたった十カットほどなのに、候補といえば、十倍は軽くあるのだ。
「秋元さん、すみません、聞いてもいいでしょうか?」
うんざりしながら、手作業を続けているとき、油尾が言った。
「んー、なんだよ」
 ルーペを覗き込んだまま、秋元さんは言った。その低い声が、ライトテーブルのガラスの板の表をふるわせた。
「この写真と、この写真は、どう違うんですか?」
 油尾は、切り出してポジ袋に入れた二枚の写真を、秋元さんに手渡して言った。いちおうその質問は、「ポジのセレクト基準」という仕事に関することで、自分にも関係なくはなさそうだったから、僕も二人のほうへ耳を傾けた。たしかにポジを切りながら「こんなのどっちでも同じじゃないのか」と思うことがよくあったからだ。
 秋元さんは受け取ると、自分の手元の空いた場所に並べて置いて、ルーペでさっと見た。それから、
「バーカ、おまえ、ぜんぜん違うだろうが。こっちは女の足が膝のところで切れてて、こっちは足首まで入ってる。で、こっちの顔は横向きだけど、こっちは上を向いて目つむってるだろ」
と、一枚一枚指差しながら言った。
「ああ、なるほど」
 油尾は頭をずらして、二枚を見比べてから言った。
「どっちがいいのですか?」
「そりゃ、あとで全体の流れ考えないといえないけど、ま、基本的にはスケベなほうだな」
 二枚のポジを油尾に返しながら秋元さんは言った。
「どちらがよりスケベな写真なんですか? この場合『スケベ』という定義はなんですか」
 油尾は聞いた。
「定義? んなもんないよ。勃起できるかどうかだよ」
「ならば、僕、どれもそうなるんですが……」
「だーっ。もういいから、早く切ってくれ」
 秋元さんはかぶりを振りながら言った。「わざわざ注意して聞くほどの会話じゃなかったな」と、僕は思ったものだ。

「秋元さん」
 しばらくすると、また油尾が言った。
「なんだ? また、どの写真がスケベかっつー話か」
 いまや、作業に熱中している中沢さんと秋元さんは、すごいスピードで写真をチェックし、ダーマートで印をつけていく。フィルムのシートの上をルーペが移動するたび、僕の両側でカチャ、カチャっという音がする。
「いいえ」
「じゃなんだ? 勃起したのか」
 カチャ。カチャ。
「いいえ……あの、足田久美さんはどんな人ですか?」
「んー、なんで?」
 カチャ。カチャ。
「ほれたのか?」
「はい」
 …………。
 ルーペの音が止まった。秋元さんは顔を上げて、
「バカ。いま会ったばっかしじゃねーか。おまえ、惚れっぽいのか?」
と言った。
「いえ。女の人を好きになったのは生まれて初めてです」
 油尾が言った。
「なんだアブ、おまえ久美のことが気に入ったのか?」
 中沢さんが僕を飛び越して、話に参加して来た。
「へーっ」
 いままで、僕たちから見るとライトテーブルの左岸で作業をしていた野坂さんまでが椅子をすべらせて、油尾のすぐそばにやってきた。
「意外な趣味だな。油尾くんはもっと古風な女の子が好きかと思った」
 野坂さんは言った。
「まあ、あの子が古風かどうかはべつとして……」
 秋元さんは作業に戻りながら、言った。
「おまえにゃあの子の相手は無理だよ。やめとけ」
「そーだよ。第一、あたしとの関係はどうなるんだよ」
 中沢さんが言った。
「ハハハハハ」
 野坂さんが、焼きのりの髪を揺らしながら全身で笑った。
「冗談でも、ありがとうございます」
 油尾は急に立ち上がって、中沢さんに礼をした。僕は、
「足田さんのことが気に入ったんなら、俺と担当替わる?」
と言ってみた。
「こら!」
 とたんに中沢さんに怒られた。僕は、「あんな派手な女のどこがいいんだろう?」と思った。変人の好みはわからない。僕にはタイプはない、といったが、まず、派手な女とタバコを吸う女は、初めから対象外だった。
 油尾は腰を下ろすと仕事に戻ろうとしたが、すぐに手を止めて、
「しかし、久美さんはどういう人なのですか?」
と、また、秋元さんに話しかけた。
「いったろ。文章とかイラストとか書いてて昔はモデルもちょっとやっていた」
 秋元さんはダーマートの皮をむきながら言った。
「そういうことではないんです。あの人はなぜあんなに他人に気を使っているのですか。それに、とてもつらそうに見えるのはなぜですか?」
「久美ちゃんが気を使ってるって? つらそう? アーパー度一〇〇%のあの子が? んなこといったら、本人驚くんじゃない?」
と、野坂さんが言ったが、油尾は秋元さんのほうだけを見ている。秋元さんは、むきとった皮を、後ろにある僕のデスクのゴミ箱に放り投げてから言った。
「んー。まあ、おまえ。みんながみんなおまえみたいに子どものままつーか、ホーケーのまま大きくなっているわけじゃないんだ。いろんな事情があるんだよ。まあ、なんにしても、おまえと久美じゃ、離乳食食ってる赤ん坊がいきなりすし食うみたいなもんで無理だよ、無理」



 その日の夕方、応接室は、ドラマ『スチュワーデス物語』ふうにいうと、秋元教官専用の小さな教官室のようになっていた。ここは、広告部の打ち合わせの場所にもなれば、泊まり込む編集者の寝室にもなる。また、企画を煮詰めたり、原稿を書いたりするときに、先輩編集者の中にはここに「篭城」する人も多かった。いまは、いってみれば、コピー塾の教官室で、秋元さんは表紙のデザインを考えながら、ここで僕たちのコピーの採点と講評をしていた。「ドジでのろまなカメ」の生徒役はもちろん、僕と油尾だ。
 最初秋元さんに、
「丸ちゃんとアブさあ、表紙に打つコピー、二人で二十本ずつ考えてよ」
と言われたときは、正直いって「エロ本のコピーくらい簡単だ」と思った。僕は自分の机で、「濡れる」とか、「びんびん」とか、「もっこり」とか、その他ありとあらゆるその手の言葉を使い、五分くらいで二十本書いて秋元さんのところへ持っていった。秋元さんは、さっとペラ(200字詰め原稿用紙)に目を通し、
「いまいちだな」
とだけ言った。すんなりOKが出ると思っていた僕は軽いショックを受けた。
「どういうふうに変えればいいですか」
 僕は言った。少し反抗的な口調になった。
「んー、なんていうかさ……。マルちゃん、うちの本ちゃんと全部読んだ?」
 秋元さんはソファから、疑わしそうな表情で、立っている僕の顔を見上げた。
「もちろん」
と、僕は答えたが、嘘だった。『アイドルやんやん』や『D』はいちおう家に持って帰ったが、『ギャル通』は持って帰るどころか、会社にいてもそんなに目を通していなかった。秋元さんは、それを知っていたのだろう。
「『アイドルやんやん』が復刊になれば、行くことが決まってるといっても、いまはおまえも『ギャル通』の編集なんだから、ちゃんと読んでくれよ。それにな、まだおまえにはわかんないと思うけど、雑誌は、基本的な作り方はどれも同じなんだぞ。どんな雑誌にも、それぞれの個性があるし、性格がある。それに合わせたキャッチを考えるのは、大事な仕事なんだよ。それが『ギャル通』でもさ」
「はい。わかりました」
と、僕は言ったが、そのとき秋元さんのいったことがわかったのは、かなりあとになってからだった。このときは、「じゃあ、『文藝春秋』と『ギャル通』が同じなのか」と心の中で反論しながら応接室を出て、席に戻った。向かいの机では、油尾が、ニーチェの原書かなにか読んでいるような難しい顔をしてコピーを考えていた。
 机について、ペラに向かってはみたものの、僕はもうエロ言葉ばかり考えたりすることに飽き飽きして、何もいいアイデアが浮かばなかった。それでも、適当に言葉を組み合わせていると、そのうち本数だけはそろった。「どうせまた没になるんだろう」と思って持っていこうかどうしようか迷っていると、油尾が立ち上がった。彼はそれが秋元教官への一回目のトライだった。
「できたの?」
 僕は聞いた。
「はい。たぶんだめだとは思いますが」
僕は油尾の後ろについて秋元さんのところへ行った。まずは油尾が紙を手渡した。僕ものぞきこんで見てみた。そこには、たった一行だけ、
『手淫せん棒液』
と、書かれていた。
「んー、なんだこれ?」
 秋元さんは首をひねってその字をながめた。
「手淫は手淫です。つまり、自慰です。せん、は『しない』です。棒はペニスです。液は精液です」
 油尾はひとつひとつ説明した。
「んなこたわかるけど、だからなんなんだよ?」
 秋元さんは言った。
「『ギャル通』のコピーをすべて読んだのですが、なにかべつの言葉にかけてある使い方がたくさんあって、それで……『朱印船貿易』にかけたのですが……だめですか?」
「だめですかって、おまえ、突然こんなもん読まされてもなんのことかわかんないだろ、読者は」
「すみません」油尾は頭を垂れた。
 秋元さんはしばらく、なにか考えていたが、
「んー、たとえば、これを使うなら、もうひとつこれに関係したものを出してだな、『勘合符』にひっかけて看護婦という言葉を使うとか……」
「なるほど」油尾が小さく叫んだ。
「すばらしいです」
「でもだめだ。一発でわかんなきゃ、キャッチの意味はねえ。マルは?」
 僕は自分の持ってきたペラを渡した。秋元さんの顔が曇るのがわかった。
「おまえら、そこにすわんな」
僕は油尾と並んで、ソファに腰かけた。
「なんていえばいいかなー。まあ、ひと言でいうと、おまえら硬すぎるんだよ。いや、硬すぎるっていうかなー。んー、なんていうか、エロ本っていうことに先入観を持ちすぎなんだよ。『ギャル通』はなー、エロ本つっても、かわいいエロ本なわけ。だから、体験告白のページひとつとっても、あの女を強姦しました、で捨てました、なんていうんじゃなくて、『強姦しようとしたら、その子も実は僕のこと好きでぇ、来月その子と結婚します』とかさ。そりゃまあ極端だけど、でもそういうノリなわけ。だから、スケベはスケベなんだけどさあ、ちょっとちがうんだよ。マルちゃんも油尾も。んー」
 秋元さんは頭をかきむしった。
「読んでる奴らはおまえたちとおんなじくらいの年なんだし、おまえらの普段の生活から出たような言葉がいいんだよ。マルちゃん、最近いつセックスした?」
「へ?」
「恥ずかしがってる場合じゃないぞー。俺たちゃプロなんだよ。自分をさらけ出していかないとなんもできんぞ」
「えーと……先週の日曜日ですね」
「彼女は感じてたか?」
「へっ?」
「どうなんだ?」
「いえ……たぶん感じてなかったと思います。なんでかっていうと、俺、寝ちゃったんですよ。途中で。先週撮影ばっかりで毎日朝早かったから……夜は遅いし」
 僕は、「勤務時間も規定とはぜんぜん違うんですね、この会社は」という皮肉をこめて言ったつもりだったが、秋元さんは最後までは聞いていなかったようだ。さらに頭をかきむしりながら、
「途中か……。でも、いちおう、入れたんだろ?」と言った。
「ええ……たぶん、ちょっとは」
「んー、あ、なんか、んー」
 秋元さんはもうこっちを見ていなかった。必死にペラを見つめ、まるで俳句かなにかの達人がインスピレーションが降りてくる瞬間を待っているようだ。やがて、それは降りてきたらしく、さらりと一筆書いた。
「これでどうだ?」
 僕たちは、その手元を見た。そこには秋元さん特有の丸文字で、
『やたっ! 3センチ挿入!』
と、書いてあった。
「すばらしい表現です」
 油尾は感動したような表情で秋元さんを見つめた。秋元さんの顔にはとても満足げな表情が浮かんでいた。僕はそんな二人をどこか遠いところから眺めているような気分になった。没になった自分のコピーと、これのどこがどう違うのか僕にはわからなかったし、こんなことを考えるのが仕事なら、これからも自分の考えたものは全没になったほうがむしろ名誉だと思ったものだ。



 そのとき、僕たちは応接室の外から、中沢さんに呼ばれた。食事に出ていたはずだが、僕たちがここにこもっている間に帰ってきていたのだろう。三人で出て行くと、大新日印刷の加藤さん(営業部・三十六歳)のどっしりした分厚い体が中沢さんの隣に見えて、僕たちに気づくと、こちらに礼をした。彼はたったいま、グラビアのページの校正刷りを持ってきてくれたところだった。
 モノクロページはまだ企画段階で、ほとんど何も入稿されていなかったが、製版にその四倍の手間がかかるカラーグラビアのページだけは、進行の具合もこんなに早かったのだ。とくに『ギャル通』のような雑誌の場合、修整箇所がたくさん出るので、最低二回は校正刷りを出してもらわなければいけない。そのぶん、より進行が早まるわけだった。
「なんか、今回、ネームのとこなんですけどね、僕なんかが見ても、これでいいのかなっていう箇所があって……」
 加藤さんは、メガネのレンズの上に直接マジックで描いたような大きな目をパチパチさせながら、そう言って、僕たちの前にA二判の校正刷りを三枚、引き出して広げた。
 それは、僕と油尾が編集部に入る前に撮影が終わっていたグラビアで、いくつかまだ修整が必要なところはあったが、一見どこもおかしくはなかった。僕は、三十五ミリの写真がこんなふうになるのか、と、なによりもそのことに驚いていた。裁ち切りになっていないページは、出来上がった雑誌よりも写真が大きく見えた。
「なんだ、これは?」
 全体を見ていた僕とは逆に、さっきから紙に顔を近づけて見ていた中沢さんと秋元さんが、声を合わせて言った。
僕も二人が食い入るようにして見ているその部分を見た。そうして、びっくりせずにはいられなかった。というのも、そのヌードグラビアの(OLのスーツを着た髪の長いモデルが、オフィスのセットの中で服を脱ぎ、さまざまな備品と戯れる……といった展開の)ページの上に、こんな文章が乗っかっていたからだ。


「風景をまきとる人」


少年はその日も遅くまで起きていました。
どうしても「夜」がどこへ行くのかをこの目で見届けたかったからです。
いつもそうやってがんばって目を見開いているのでしたが、
ふと気がつくと、もう朝で、
「夜」はあとかたもなく姿を消しています。

ところが、とうとう少年は、今夜、
「夜」が飛び去るところを見たのです。

さっき、「夜」が空からはがれて、
ひらひらと飛び始めたので、
少年は窓から外に飛び出して、一目散に追いかけました。
――きっと、「夜」はお墓に向かうのに違いない。
少年はそう思いました。
――遠い遠い世界の外れに「夜たちのお墓」がある。そこには、「一番初めの夜」から「昨日の夜」までが、みな折り重なって死んでいる。「今夜」はいま、その上に自分のなきがらを横たえに行くつもりだ。ビロードのマントの海のような「お墓」の上に。

けれども、「夜」は、ものすごい速さで飛んでいくので、とても追いつけません。
ふと気がつくと、少年は見知らぬ町の坂道の途中で迷子になってしまいました。
道の両側にはとても背の高い木が向こうまでずっと同じように並んでいて
まるで二本の長い腕が伸びているようなその影の先に、
大きな丸い月がのっかっています。

――変だな。
少年は思いました。知らない町にいるはずなのに、なぜかいま、
自分の家の押入れの中にでもいるようなのんびりした気持ちがしたからです。
そのとき、少年のうしろで、なにかかさこそと音がしました。
ふりむいてみましたが、そこには誰もいません。
けれども、少し歩くと、また同じような音が聞こえました。
それで、今度は、心の中で、「僕はふりむかないぞ」といいながら、
ゆっくり後ろをふりむきました。そのとたん、
――ひきょうもの!
という大きな声が、そこらじゅうに響き渡りました。
その声の主は、少年のうしろの風景をじゅうたんをまきとるようにまきとっている大きな人でした。
――見られたからには許しておけぬ。
大きな人はそう言うと、仕事の手を早め、
風景のじゅうたんの中に少年をまきとってしまいました。

                                     おわり

「なんだ、こりゃ? アブ」
 秋元さんが言った。
「秋元さんが、昨日、あとで直せるからなんでもいいとおっしゃったので……すみません。写真と合っていませんね」
 油尾が顔を赤らめて言った。
「合ってないとかいう問題じゃねーだろ。たしかに何でもいいとはいったよ。いったけどさあ。んー」
 秋元さんは腕組みをして、もう一度そのネームが印刷された紙に顔を近づけた。
「まさか、あれがそのままここに印刷されるとは思わなかったので……」
 油尾は、この失敗が取り返しのつかないものと思い始めたのか、その顔はだんだん青ざめてくるようだった。
「まあ、いいんじゃない? アブにとっちゃ初めての入稿だし」
 中沢さんが、いつもの口調で言った。
「それより、おもしろいから、『アブちゃんのメルヘンコーナー』つーのを作ろうよ。一ページ」
「また、中沢さんの思いつきが始まったー」
 秋元さんは校正刷りから顔を上げ、眉間にしわを寄せて中沢さんを見た。横で聞いていた加藤さんが口に手を当てて、ははは、と笑った。
「いいのいいの。アブ、おまえに一ページやるから好きなこと書いていいぞ」
「でも」
「こんなの、『ギャル通』の読者が読みますか? 怒るんじゃないかなあ」
と、僕は言ってみた。
「うるせー。あたしがいいつってんだからいいんだよ。ウチの記事なんて読んでる奴はいないんだし」
「編集長がそういうこと言わないでよー、中沢さんもー」
 秋元さんが言った。
「ごめーん。でも、いいじゃん。とにかく一ページ、おまえやんな」
「は、はい……」
 油尾は言った。顔色はまだ元に戻っていなかった。
 ――そんな同人誌みたいなノリでいいのか、とそのとき僕は思ったが、部数三万部以下のエログラフ誌にはそういう雑誌なりの自由さがあるのだ、とあとでわかった。必要不可欠なエロ情報さえ入れておけばあとは何を入れてもかまわないという自由さが。
こうして『ギャルっ子通信』のモノクロページには、『メルヘンコーナー』というなんとも場違いな一ページが誕生することになったのだった。
 
コメント
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