麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第251回)

2010-11-27 16:15:55 | Weblog
11月27日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

近所の古本屋へ行ったら、「男おいどん」の文庫が1冊あったので買ってきて、何十年か振りに読みました。そうして、そのマンガの中に、自分のすべてが描かれていると思いました。ただ主人公と違うのは、なにもうまくいかず、誰にも愛されないけれども、彼には未来という時間があり、希望があって、私にはそれすらないこと。

主人公の部屋に以前住んでいた下宿人について、下宿のおばさんがいうセリフが身にしみます。

「いろいろあって とうとうどうにもならなかった人なんだよ」

まあこれも何かの罰と考えて死ぬまではなんとか耐えていくしかありません。



角川文庫から「芭蕉全句集」が出ました。ほかにも持っていますが、やはり買ってしまいました。誰がどう悪口を言おうが、大好きです。

笑うべしなくべし わが朝顔のしぼむとき

朝顔も俺の顔も時がたてば老いてしぼむのが当然。笑える事実。泣ける事実。



では、また来週。

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生活と意見 (第250回)

2010-11-20 22:23:25 | Weblog
11月20日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

何週間か前、初めて「伊豆の踊子」を読みました。
最初に買ったのは小学校6年のとき。なんのことだかさっぱりわからず(だいたい「踊子」がなんなのかわからない)、最初の1ページでやめました。その後、何十回も挑戦したのですが、どうもリズムが合わないというか、読み進められなくて、そのたび挫折しました。映画も一度も見たことがありません(どうでもいいですが、ついでに書けば、私は同じ年生まれの山口百恵をいいと感じたことが一度もありません。中学のころ、よく「おっさんに人気があるなんて気持ち悪い女。中学生を好きだというおっさんも気持ち悪いけど」と思っていました)。

今回は新潮文庫でなく、わざと今風のイラストの入った集英社文庫を買ってきました。そのおかげというわけでもないでしょうが、ゆっくり自然に読めて、とてもおもしろかったです。ただ、これが映画になるようなものなのかどうかはよくわかりません。また、自分にとってどうしてもなくてはならない小説かといわれると、まったくそうではないと思います。でも、名高いノーベル賞文学をちゃんと読めて、よかったです。

私は、日本文壇史のようなものにまったく興味がなく、誰が何派なのかとかまったくわからない。でも、川端康成が新感覚派と呼ばれていたことくらいは日本史で習って知っています。また、その仲間に横光利一がいたことも知っています。

横光利一の「春は馬車に乗って」を、半年ほど前に初めて読んで、とても感動しました。そうして今日、近所の本屋に行ったら、今流行りの、「カバーを若い女の子の写真にした著作権の切れた小説の文庫」で「別れ」をテーマにした短編集が出ていて、その中に、太宰治の「グッド・バイ」や鷗外の「普請中」といっしょに横光利一の「花園の思想」が入っているのを見つけました。立ち読みを始めたら、思わず引き込まれて買ってきて読みました。「春は馬車に乗って」の続編というか完結編というか、奥さんが亡くなったときのことを書いたものですが、「春は~」と同様、絶望的な悲しみの中になにか不思議な明るさのある作品で、やはりとても感動しました。いつか「旅愁」も読んでみようと思いました。



ご存知の方も多いでしょうが、
岩波文庫からも「失われた時を求めて」の新訳が出始めました。
なんてこと。新訳文庫と同じ全14冊で出るようです。すごい、を通り越して、ちょっと不気味な現象です。

訳者は、「プルースト全集」と、そのあと文庫化された「プルースト評論選」で「サント・ブーヴに反論する」を訳された吉川一義さんです(プロフィールはわかりません)。もちろん買ってきて読みました。新訳文庫と甲乙つけがたいと思いますが、どちらかというと、吉川さんの訳が好きです。新訳文庫の訳者は若く、私の苦手な「そのとき思ったのだけれど、」などという、「だけれど村上春樹節」を多用するので、読んでいると「プルーストを読むのに村上春樹は必要ない!」と、イライラがつのってくるからです。個人的すぎる意見ですみません。

でも、まあ思うのは、ある本について深い読書ができたときには、翻訳ものの場合、そのときの訳が自分にとって決定訳になるのは当然ということ。私にとってプルーストは(誤訳もあるらしいですが)やはり、井上究一郎訳しかないのでしょう。あの、センテンスの長い、ちょっと感傷的な、「まるで~のように。」で終わる文が多いあの感じ。あれが、私のプルーストなのでしょう。「カラマーゾフ」は池田健太郎訳以外なく、「罪と罰」は江川卓訳か小沼文彦訳、「悪霊」は小沼文彦訳、「白痴」は今回の河出の新訳というのと同じことです。

そうだ。新訳文庫から「ツァラトゥストラ」も出ましたね。買いました。でも、ダメです。私の年だと、これは笑ってしまう。これはツァラトゥストラではない。でも、今高校生がこれを読んで心をうちぬかれるのなら、それはとてもいいことでしょう。そういうのはもうどうしようもないことなので。そのこととは関係なく、「ツァラトゥストラ」もずっと読み返していますが、このごろは岩波文庫の訳が一番いいのかもしれないという気がしています。ただ、やはり第一部は、私にとって吉沢伝三郎訳以外ない。浪人のとき出会ったあの衝撃。「ハエたたきになるのは君の運命ではない!」。すっかり一匹のハエ男になった今もダリの時計みたいにふにゃふにゃになる心を支えてくれるのはツァラトゥストラだけです。



では、また来週。
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生活と意見 (第249回)

2010-11-13 01:27:07 | Weblog
11月13日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

しばらく自分の声でしゃべるのはやめようと思っていたのですが、今週は大事なお知らせがあるので、元に戻ります。

宮島径氏が、4年ぶりに写真展を開きます。タイトルは「日照時間」。今月26日からです。場所は新宿。詳しくは、ブックマークの一番上の「BATH+BIRTHDAY」に進んで見てください。

2人で(といっても私はいくつか昔の文章を宮島さんに使ってもらっただけですが)「世界のしくみ」という写真展をやってから、もう4年。その後、私がなにも作れない間に、宮島さんはゆっくりゆっくり自分の仕事を続け、今回の「日照時間」にまとめました。
「いやあ、暑くてなにもできない」
「寒くてなにもできない」
「ただの1枚もいいのが撮れない」
とボヤくことも多い氏ですが、最後にはきっとやり遂げる。あまりほめたくはないけど、その「最後にはやり遂げる」という姿勢を心の底から尊敬しています。

時間tで世界の雰囲気を微分したときの接線の傾き。
そいつを完全にとらえること。氏の写真の最上のものはいつもその目的を果たしています。
うらやましい。ぞくぞくする。くやしくて頭にくる。そうして、「自分の仕事をやらなければただのゼロ」だということを思いしらせてくれる。ゼロ。本当にそれがなければただのゼロだと。


ぜひ、見に行ってみてください。



では、また来週。

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生活と意見 (第248回)

2010-11-06 15:38:57 | Weblog

「ちんぽ」


 何年のときかわからん。じゃが1年のときはわしゃパーじゃったけえ、2年から6年のあいだのいつかじゃ。

 朝、おかきがむかえにきた。
「行こーで」
 そんときわしは便所でしゃがんどった。毎日これが大変いの。
 学校でうんこせよったら、みんなで水かけるし、1週間は言われるしの。よう家で出していかんと。
「行こーで」
「はようしんさい。柿元くんが待っとるよ」
 わかっちょる。くそばばあが。
 わしはぷりぷりして便所を出て、しびれた足にクツをはいた。
 外へ出るとおかきがバカづらで立っとった。
 道の向こうに村重じいさん(金持ち)の家の庭が見える。この道をまっすぐ5分行けば駅。途中でぶつかる道路を左に行くと、宮島に行って広島に行く。
「行こーで」
 おかきがまた言う。わかっとる。わかっとるわ。
「行くいや。ちんぽ」
 なんでちんぽとつけたんかはわからん。やけくそじゃろ。じゃが、自分で言うといてわしゃぶちおもろうなってしもうた。

 途中でわっせに会うた。
「おう、わっせ。ちんぽ」
 わしは言うた。
「なんかそりゃあ」
 わっせは、まあまじめいの。野球が好きでから。わしとは別の子ども会のすごいバッターなんよ。野球が好きなやつとかは、あんまりこういうのはわからんけえの。おかきもの。

 教室に入るとすぐ一郎を探した。一郎は後ろのほうで窓のカーテンを体に巻いて無重力状態を楽しんどった。
「おはよう。ちんぽ」
 一郎にはそのひと言でよかった。すぐにカーテンを脱ぎ捨てた。目が輝いた。
「今日もやるか。ちんぽ」
「当たり前じゃ。ちんぽ」
 ちんぽちんぽ言い交わすわしらを見て、くらもとちよこはいつものように目と目のあいだにしわを寄せた。
「あんたら、そんとな下品なこと言いんさんな。吉田くんは麻里布くんにつられとるんじゃろ」
 くらもとちよこから見れば一郎はええとこのボンボンでわしは貧乏人のガキ。一郎とわしが仲がええのはたまたまで、わしが下品なのは生まれつきじゃけしょうがないが、一郎はわしの悪影響を受けとるいうんがくらもとちよこの考えじゃ。そりゃ当たっとる。わしは下品が生まれつき。それでええんじゃ。ちんぽ。
「うるさいのー。ちんぽ」
 一郎がくらもとちよこに言った。世界一大事なのは友情じゃ。

 授業中もがまんできんかった。先生がなにか言うたびにわしは隣の席の一郎と顔を見合わせ、小さい声で「ちんぽ」とつけ加えた。こんなにおもしろいことはなかったのー。まあ、新しい遊びのときはいつもそう思うんじゃが。わしらはずっと言葉の最後に「ちんぽ」をつけて話した。どうでもええ話が「ちんぽ」をつけるだけでぶちおもしろい話になったで。

 この遊びは、言葉をさかさまに言う「さかさま遊び」より、受け入れられんかった。そりゃ、男子みんながわしらのようじゃないけえの。誰に対してか知らんがかっこつけるやつもようけおるしの。とくに先生の息子とかはの。バカのくせに下品なことは言わんのいや。アホが。ちんぽ。

 一郎が「今日もやるか」言いよったのは、放課後の葉っぱレースでの。笹の葉を折り曲げて作った舟がどこまで行くんか、追いかけて行くのいや。まあレースいうても勝敗より、とにかく遠くまで行けれはそれでええいうわけいや。橋に入ったとき、出てくるかどうかどきどきしての。出てきたら、そいつがすごい軍艦みたいに見えたで。

 わしらは砂山町のところで川に下りて舟を浮かべて追いかけた。その日は舟の調子がようて、ちゅうか、川の流れがよかったんじゃろうの、舟はどこまでも行って、とうとう町の東側の、コンクリートで両脇を固めて、細く深くなったところまで行った。そこから川は工場の脇を通り、海に注ぎ込む。それはもう、「川」じゃなかった。「なんとか用水」みたいな感じで、いつもここまでくると、もうつまらんかった。そこは広島のほうへ行く道路の下をくぐったところで、舟がここまで来た日には、いつも一郎はそこから、本当はわしとはぜんぜん別の方角にある自分の家に帰っていったんじゃ。

 一日中ちんぽ言いよったら、次の日はちょっとくたびれたの。じゃが、くらもとちよこに対する意地のようなもんもあって、わしは下品をつらぬかんといけんような気がして、やっぱり「ちんぽ」をつけてしゃべった。一郎もそうじゃった、と思う。じゃが、わしらがちんぽ言いよったんは、そんな、誰かに対して意地をはるためじゃったんかの? ほんまは違うじゃろ。ただ、ぶちおもしろかっただけじゃったのに。なんで、なんでもこうなるんかの。

 3日目、笹舟レースは、わっせの家のあたりで、2人の舟が橋から出てこなくなったけえ、そこで終わった。
「ダメじゃったの。ちんぽ」
 わしは言った。
「うん。あの……」
 一郎が言った。
「はあ(もう)ちんぽ言うのやめようで」
「うん」
 わしは言った。

 製材所で電気のこぎりが木を切りよる音がした。
 それと直角の方向には、工場のぶちでかいエントツが、煙を吐きよった。
 わしらはぶちええ子じゃった。

 
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