麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第489回)

2015-06-28 21:55:24 | Weblog
6月28日

「白鯨/上」読みました。いいですね、やはり。手軽に読める版ではベストだと思います。もちろん、原光訳は名訳ですが。今日、用事があって新宿に行き、ひさしぶりに紀伊国屋に行ったら、知らない版元から「スティーヴン・ヒーロー」の単行本が出ていてびっくり。さすが紀伊国屋ですね。三省堂には定期的に行っているのに、これまで見たこともありませんでした。しかし、私は筑摩世界文学大系の「ジョイスⅡ/オブライエン」を持っていて同作はそこに(別訳で)入っているし、なにしろ高いので買いはしませんでした。でも、やっぱりなにかうれしい。「全評論」(これも同「ジョイスⅠ」に別訳ですべて入っています)も単行本になったし、「さまよう人々」(「ジョイスⅠ」に別訳あり。おもしろい戯曲です)の単行本もわりと最近復刊されました。もうほとんど全作品が出たのだから翻訳全集を出せばいいのに、と思います。あまりに訳者や版元がばらばらで無理なのかもしれませんが。――そういえば、「白鯨」の書き方は、「ユリシーズ」の登場を予言しているようにも感じられます。両作とも、初めはリアリズム(ユリシーズは意識の流れ手法ですがこれもリアリズムといっていいはず)なのですが、途中から、戯曲、論文、主人公(白鯨では語り手)以外の人物の独白、新聞記事のパロディなどさまざまな形式が使われる。私たちにはなんでもないことですが、メルヴィルと同時代のホーソーンや、「タイピー」を読んで褒めたというワシントン・アーヴィングにはあまり理解できなかったろう、と思います。いや、アーヴィングの「ブレイス・ブリッジ邸」などは、そのこま切れのエッセイ的な書き方は「白鯨」と通じるところがあるのでそんなことはないか。むしろアーヴィングが「白鯨」を読んでいたとしたら、大げさで観念的な言い回しを使いすぎる点を非難したかもしれませんね。

なんにしろ今回「白鯨」を読んでいてとても気に入ったのは次の一節です。

「神よ、俺はなにごとでも完成したくない人間なのです。この本だって、全巻、下書きにすぎぬのだ――いや、下書きの下書きにすぎぬ。おお、時、力、金、忍耐!」
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生活と意見 (第488回)

2015-06-21 19:15:45 | Weblog
6月21日

目の調子が悪くて、あまりまとまった読書ができませんでした。耳はとうにやられ、目も元々ひどい近眼ですが、さらに腐ってきたようです。本格的な廃人になってきました。

角川文庫から昭和31年初版の「白鯨」が改版で出ました。ちらつく目で100ページ読みましたが、とてもいい訳です。この作品の訳についてもいろいろ適当に書いてきたのですが、これは本当におすすめできます。この作品の訳のむずかしさは、「わかりやすくしようとすると訳文が長くなりがち」「船員の語りなのにまるで学者が書いているように硬い調子になりやすい」という二点にあります。最近の、講談社文芸文庫のものは前者にひっかかり、岩波文庫は後者にひっかかります。この角川訳はその両方の欠点を免れています。訳者の、イシュメールという語り手の設定が絶妙で、いまの言葉でいえばブレがない。これは埋もれていた名訳だと思います。これまで挫折したかたはぜひ試してみてください。
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生活と意見 (第487回)

2015-06-14 21:46:04 | Weblog
6月14日

長いこと、冒頭の、茶屋のばばあの語りの途中で挫折してきた「草迷宮」を読了しました。ラップ現象など数々の怪異の後、とうとう目の前に姿を現した化け物に、主人公が「は、は、はじめまして」とあいさつするところなどユーモアもたっぷりの小説。童話のようだと思いました。夢幻劇的な構成は「青い鳥」あたりと近いのかもしれません。もうひとつ「朱日記」を読みました。「夜叉ヶ池」同様、「自然界には人間の知らない神々の物語があり、そのやり取り(おもに神同士の恋)の結果が突然の災害の原因となっている」という解釈。と、書いてみれば、これも童話。そうしてもちろん、理想主義者は童話を書くものと決まっています。――いま読んでいる作品群は、おもに岩波の「鏡花小説・戯曲選」の第5巻と6巻の「怪異編1・2」にそっています。二冊は以前近所の古本屋で一冊300円で手に入れたもの。とりあえずここに入っているものだけは読もうと思っています。

近年、Bmが好きになりました。EmをキーとしたときのBm。若い時はC→D7→Emという(極端にいえばド→レ→ミ)わかりやすいコード進行が好きだったのですが、いまはそれが毒々しく下品に感じられる。C→Bm→Emのせつなさがたまりません。Emが心の中にすでにあるのにBmでずっとためらっている感じ。ああ。しかし、最近さらにもっとあいまいでせつない感じの進行を見つけました。Am→Bm→Emです。つまり、発端の「ド」すらラとミの中に埋没し、ぼんやりとにじんでいる。そうしてBmに進んでもいつまでも後ろ向きの感じが続いていく。ここまでくれば最後のEmは実際には弾かれなくてもいいのかもしれません。たぶんこれが私の発見した「老い」の雰囲気だと思います。
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生活と意見 (第486回)

2015-06-07 20:27:51 | Weblog
6月7日

なぜか泉鏡花「春昼」「春昼後刻」「きぬぎぬ川」「化鳥」を読みました。わからないところもたくさんありますが、根っこは理解できたと思います。どれもすごくおもしろかったです。以前鏡花について書いたことを修正する必要は感じません。というか、自分の思った通りの人だと再確認しました。ホフマンと似ている、というのもあらためて思いました。――ほんの少しは自分の仕事も進めています。それ以外の時間は完全な無。
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