8月26日
立ち寄ってくださって、ありがとうございます。
なんとなく、自分の中で、にわかに中国ブームが起きていて、岩波少年文庫で「水滸伝」を読みました。以前、金聖嘆の逐語訳(つまり70回本)で挫折しましたが、今度はこの120回本の抄訳を読み終わりました。
挫折したときは、まだ主人公の宋江が登場しませんでした。「須磨源氏」的に何度も同じところで挫折したので、魯智深や林沖(正しくは「さんずい」ではなく「にすい」)についてはとても身近に感じていたのですが、彼らは実は脇役で、おもだった人物は中盤から出始めるのです(もちろん読まれた方もたくさんいると思いますが)。
とても、おもしろかったです。
だけど、以前にも書きましたが、やはり中国小説の登場人物の「義」は、どうもころころ意味が変わるように見えて、納得できないところが多々あります。なぜ馬琴が、「水滸伝」の翻訳をしただけでは飽き足らず、「南総里見八犬伝」を書きたくなったのかがわかるような気がします。
同時に、平凡社ライブラリーの「捜神記」を読みました。こちらは、受験生のころに漢文の参考書でいくつかの話を読んでから、さまざまなアンソロジーで部分を読んでいましたが、通読したのは初めてです。「聊斎志異」のご先祖様みたいな短い物語集で、むりやり結び付けてよければ、私の短編集もその影響を受けています。牛が人間の言葉をしゃべり始めたり(そのまま百の「件」ですが)、母親が亀に変わったり、自分のことを皇帝だという狂人が現れたり、火星人の子供が出てきたり……。なかでも、受験生のころから最も好きなのは「首の仇討ち」という話で、父の復讐を誓った息子が、その仇である王からおたずねものにされ、隠れ住んでいると、たまたま通りかかった人が「代わりに復讐してやるぞ」というので、息子は自分の首を切り落とし、手にもってそれを旅人に預け、旅人はそのおたずねものの首を持って王に会い、隙を見て王を殺します。なるほど、その旅人がどういう人であれ、とりあえずあっぱれ、と思うのですが、物語の結末はそこではなく、なぜか理由はまったくわからないのですが、息子と王の首がゆでられている甕(かめ)の中に、旅人も自分の首を切り落としてしまい、三つの首が煮えて、どれがどれだかわからなくなった。(終わり)というのが結末なのです。なんというけったいな終わり方でしょう。中国小説の伝奇ものには、こういう結末が多いです。
そういえば「水滸伝」も、初め高大尉に嫌われた王進という役人は途中から結局物語のどこにも出てこなくなって、108人の頭領の一人にもなりません。なにか尻切れトンボみたいな話の流れです。
☆
また、今回不思議に思ったのは、「水滸伝」の中に「金瓶梅」の主役が登場することです。いわずと知れた金蓮(夫を毒殺して浮気相手とくっつく女)、その相手の西門慶、殺される夫の武大、その弟の武松らです。「金瓶梅」では、金蓮と西門慶は、やりすぎで死ぬまで生きていて、それが「金瓶梅」のおもな話なのですが、同じ人物が「水滸伝」では、武松に殺されて、武松は梁山泊の頭領のひとりになります。これは、どういうことなのでしょうか。そのうち調べてみようと思います。
☆
「カラマーゾフ」新訳は25万部とか売れたそうですね。
すごい話ですね。まあ、私は、同じ訳者の「悪霊」の新訳が出るのを心待ちにしています。
☆
短編集「画用紙の夜・絵本」をよろしくお願いします。
では、また来週。
立ち寄ってくださって、ありがとうございます。
なんとなく、自分の中で、にわかに中国ブームが起きていて、岩波少年文庫で「水滸伝」を読みました。以前、金聖嘆の逐語訳(つまり70回本)で挫折しましたが、今度はこの120回本の抄訳を読み終わりました。
挫折したときは、まだ主人公の宋江が登場しませんでした。「須磨源氏」的に何度も同じところで挫折したので、魯智深や林沖(正しくは「さんずい」ではなく「にすい」)についてはとても身近に感じていたのですが、彼らは実は脇役で、おもだった人物は中盤から出始めるのです(もちろん読まれた方もたくさんいると思いますが)。
とても、おもしろかったです。
だけど、以前にも書きましたが、やはり中国小説の登場人物の「義」は、どうもころころ意味が変わるように見えて、納得できないところが多々あります。なぜ馬琴が、「水滸伝」の翻訳をしただけでは飽き足らず、「南総里見八犬伝」を書きたくなったのかがわかるような気がします。
同時に、平凡社ライブラリーの「捜神記」を読みました。こちらは、受験生のころに漢文の参考書でいくつかの話を読んでから、さまざまなアンソロジーで部分を読んでいましたが、通読したのは初めてです。「聊斎志異」のご先祖様みたいな短い物語集で、むりやり結び付けてよければ、私の短編集もその影響を受けています。牛が人間の言葉をしゃべり始めたり(そのまま百の「件」ですが)、母親が亀に変わったり、自分のことを皇帝だという狂人が現れたり、火星人の子供が出てきたり……。なかでも、受験生のころから最も好きなのは「首の仇討ち」という話で、父の復讐を誓った息子が、その仇である王からおたずねものにされ、隠れ住んでいると、たまたま通りかかった人が「代わりに復讐してやるぞ」というので、息子は自分の首を切り落とし、手にもってそれを旅人に預け、旅人はそのおたずねものの首を持って王に会い、隙を見て王を殺します。なるほど、その旅人がどういう人であれ、とりあえずあっぱれ、と思うのですが、物語の結末はそこではなく、なぜか理由はまったくわからないのですが、息子と王の首がゆでられている甕(かめ)の中に、旅人も自分の首を切り落としてしまい、三つの首が煮えて、どれがどれだかわからなくなった。(終わり)というのが結末なのです。なんというけったいな終わり方でしょう。中国小説の伝奇ものには、こういう結末が多いです。
そういえば「水滸伝」も、初め高大尉に嫌われた王進という役人は途中から結局物語のどこにも出てこなくなって、108人の頭領の一人にもなりません。なにか尻切れトンボみたいな話の流れです。
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また、今回不思議に思ったのは、「水滸伝」の中に「金瓶梅」の主役が登場することです。いわずと知れた金蓮(夫を毒殺して浮気相手とくっつく女)、その相手の西門慶、殺される夫の武大、その弟の武松らです。「金瓶梅」では、金蓮と西門慶は、やりすぎで死ぬまで生きていて、それが「金瓶梅」のおもな話なのですが、同じ人物が「水滸伝」では、武松に殺されて、武松は梁山泊の頭領のひとりになります。これは、どういうことなのでしょうか。そのうち調べてみようと思います。
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「カラマーゾフ」新訳は25万部とか売れたそうですね。
すごい話ですね。まあ、私は、同じ訳者の「悪霊」の新訳が出るのを心待ちにしています。
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短編集「画用紙の夜・絵本」をよろしくお願いします。
では、また来週。