麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第157回)

2009-02-08 01:02:19 | Weblog
2月8日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

この年齢になってみれば、人間ひとり生まれてくることなんて、大したことでもないと思います。誰にでもできるアホみたいな行為(そのときの自分の姿を思い出せば、とても『知的生活』などという単語は口に出せない気がする行為)の結果として、10カ月過ぎれば、植物の実がなるようにただ生まれてくる。以前にも引用した深沢七郎の言葉で言えば、屁と同じ作用で母親から排泄されるといってもいいでしょう。

ただ、これは、唯物論的な気分のときにそういうふうに感じるということで、いつもではありません。
逆に、幻想的な気分になっているときは、この世界は、まるで誰か(ダンセイニによれば、マアナ=ユウド=スゥシャイ)の夢のように、どこまでも深い奥行きがあり、生まれてきたことは神秘的なことのような気がする。
また、同じ唯物論でも、史的唯物論的気分のときには、先祖から続いて自分がいるというだけでなんとなく自分が意味のあるもののように感じられる。
キリストが強く意識される日には、自分の悲惨さが身にしみて憂うつになり、生まれたときに原罪を負っているのは本当だという気がする。
今は少なくなったけど、この世界が、人間がやがて超人になっていくための修業の場だと感じ、自分は超人へと進化するために生まれてきたと感じることもある。
スッタニパータや中論に説かれるように、「生まれた」とか、「生きている」と考えていることが、ただの先入観だという唯心論的な気分になる日もある。

その日の気分で、唯物論者にも、観念論者にも、唯心論者にも、キリスト者にも、その入門すれすれのところまで近づき、入門できない。
といって、手近な宗教、つまりいつも正しいことしか言わない女という実用物に帰依する気分には、もうとてもなれない。やりたいさかりのころなら、まあそれでもよかったのですが。
今はもう、正しさなどうんざりです。ヘドが出る。子どものころ、母親にうんざりしたのと同じように。

私にはっきりわかるのは、自分が口ごもらずになにかを言えたときには(それが心の中であっても)、信じてもいないなにかの主義者の気分になっていて、その主義を足場にして言っている、つまり演技をしているということだけです。
「あやしいぞ、あやしいぞ。そんなに話の筋が通っているなんて、この自分はあやしいぞ」。そう感じながら自分を見ているのが、本当の自分だと思います。そうして、その自分だけを私は信じています。心の中で発言するときでさえ、いつもしどろもどろの自分を。



では、また来週。
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4 コメント

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お久しぶりです (ねも)
2009-02-10 01:43:02
この前のコメントに真摯なご意見ありがとうございます。
もちろん私は否定的な意見を予想していたので、アダルト出版社の編集者であるという点”だけ”(あとは全然違う)と、「だけ」という言葉を入れていたのです。
私もあの話をすっと読んですっと忘れてしまうイメージだったので、麻里布さまならどのような批判的な内容をお書きになるか興味がありました。麻里布の感情を掘り起こしたかった意図があったのかもしれません。
大変感動いたしました。

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Unknown (ねも)
2009-02-10 01:44:51
後半で呼び捨てになってしまって麻里布さまと書いてなくて済みません。
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自分も生まれた世界も真正面から見て肯定しましょうや (一般法則論者)
2009-02-10 23:05:03
  ご自身の存在も、生まれたこの世界も、母上も、真正面からみて、大肯定しましょうや・・・。
 一般法則論 
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どうもすみません。 (麻里布)
2009-02-11 00:40:54
ねもさん、
どうもすみません。
たしかに、そういうニュアンスで書いてくださっていましたね。

「さま」にこめられた気持ちも受け取りました。

不快な気持ちにして申し訳ありません。

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