麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第121回)

2008-05-25 22:50:35 | Weblog
5月25日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

『与謝野晶子の源氏物語』を読み終わりました。
宇治十帖をはじめてまともに読みました。
すごい。という感じです。いつかもう少し具体的になにか言えるかもしれませんが、とりあえず、今回は結末まで読むのが目標だったので(これまでどうしても光源氏が死んだところで気が抜けて、あとはほんの抄訳でしか読んでいなかったので)、没入して読み、いまだ没入からさめず客観的になれません。ただ、宇治十帖が、その前までの物語とは根本的に違う、というのは、はっきりわかりました。とにかくすごいですね。おもしろかった。

『謎解きシェイクスピア』(新潮選書)を読みました。著者は、このブログで、前にその翻訳について書いた河合祥一郎さんです。シェイクスピアは、昔から「本当はウィリアム・シェイクスピアなんて劇作家は実在しない」だの「シェイクスピアはベーコンだ」などいろいろな説があって、謎の多い人とされていますが、河合さんは過去の諸説にすべて当たり、その盲点を指摘し、実在したウィリアム・シェイクスピアという人物の等身大の姿にせまっていきます。そのていねいな話の進め方には誠実さと情熱が感じられます。「なんとか伯」とか「なんとか候」などの名前はかなりええかげんに読み飛ばしましたが、推理小説を読むように、一気に読め、読み終わるとあらためてシェイクスピア作品を読み返したくなりました。この本では、カバーの裏に著者の写真が入っているのもなかなか見所です。東京大学英文科卒文学博士。たしかにそのような秀才の表情も見えますが、先日引用した訳文でもわかるように、きっとくだらないことにも造詣のありそうな顔。誠実さと下らなさ(もちろんそれは相反するものではありません)の両方を持ち、英語を自在に操れる秀才。そのような選ばれた人以外、シェイクスピアを日本語にするのは無理なこと。そうして、まさに河合さんこそその選ばれた人だと思わずにいられません。

来週からしばらく読書の時間を作ることはできなくなりそうなので、集中して読んでみました。



村上春樹訳ではないですが(「ないけれど」と書いたほうが村上春樹的ですが)、とうとう『夜はやさし』の新訳が出ました。読んでみたいけど、値段が高いし、読み始めたら一気に読みたいので、いつか時間の取れそうなときに読もうと思い買わずに済ませました。驚いたのは、この本を書店で見つけたとき、村上訳ではないことを知ってがっかりした自分がいたこと。そんなにがっかりすると思っていなかったから驚いたのです。どうやら、やはり待っていたみたいですね。

今回の新訳は、オリジナル版(章の並びが最初に出版されたときのもの)で、それ自体、はじめて見ました。現在唯一の角川文庫版とは書き出しがぜんぜん違うので新鮮です。



では、また来週。
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生活と意見 (第120回}

2008-05-18 22:59:19 | Weblog
5月18日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

先日、地下鉄の改札のところで、小学1年生くらいの男の子が4人、改札の外と中に分かれてふざけていました。制服からしても、いい家の子どもだとすぐにわかる(つまり私の子ども時代とはぜんぜん違う)、4人とも同じくらいの背格好の少年たちでした。いじめというようなふんいきはまったくありません。

彼らは2人ずつ改札の中と外に分かれているのでしたが、中にいた2人のうちの1人が、突然、外の子どもに向けて制帽をフリスビーのように投げました。どうやら外の2人は、その、取られた帽子を追いかけて改札まで来ていたらしいのです。

そういう事情を知らないで改札を出ようと通りかかった私には、そのとき飛んでいく帽子が一大スペクタクルのように感じられました。受け取ろうと手を伸ばした男の子の横では、改札をくぐろうとしていた青年が迷惑そうな顔をしていましたが、私は声を立てて笑ってしまいました。

ひとつには、子どものころ、しょっちゅう帽子をぶん投げていたことをなつかしく思い出したからですが、それよりも、なんというか、ひさしぶりに「意味」を無視した光景を見たような気がしたからです。

帽子はかぶるもの。ふだんの生活では、帽子を、ただそれだけの意味でしか見ていません。しかし、当然のことですが、帽子自身は、自分が帽子であることなど知らない。あそこを飛んでいるのは、「頭にかぶらせる」という概念を思い描いた人間によって縫い合わされた布のかたまりであり、われわれが見ているものも、帽子という概念にすぎません。だから、その概念にさえとらわれなければ、その布のかたまりを投げようが、それで鼻をかんで捨てようがかまわないわけです。

子どものころは、その定型の概念を大人に押し付けられて、それをたくさん持つことが頭のいいこととされます。教育はまさにそういう行為で、なぜそれが必要かといえば、子どもは、動物と同じで、概念にとらわれにくいからです。概念の中で生きる大人には、概念を無視して生きている人間がいると自分という固体の存続に危害を加えられるかもしれないので、都合が悪いのです。たとえば、ナイフやフォークを見て、「これで親父を刺してみたらどうだろう?」と子どもが考えては困るので、マナーなどというものを作り出して、それに沿った概念しか見えないようにしようとするわけです。

子どもが「下らないいたずら」をやらずにいられないのは、たぶん、生えてきた歯がかゆくて指でさわってみたくなるのと同じで、少しずつ概念に固められて決まりきったもののように見えてきた世界が歯がゆく、もっと小さかったころに感じていた自由がまだあるのだと試してみたくなるのにちがいありません。「帽子は投げるもんじゃありません!」と、いくら母親が怒鳴ろうと、投げてしまえば、投げるものであってもいいということがたちまち証明できるわけですから。

……しかし、やがて彼らにも、帽子を投げることのどこがあんなにおもしろかったのかわからなくなる日がやってくることでしょう。そうして「性欲過剰」という病気の時期にさしかかると、その不安定さにつけこんで、「帽子はかぶるもの」式のかわり映えのしない概念を、まるで自分オリジナルの新しい思想のように香水に混ぜて吐く女になにか堅固なものを感じ、突き進んでいく。が、しばらくして振り返ってみれば、そこにはただ母親よりは少し若いもう一人の母親がいて、「帽子は投げるもんじゃありません!」と1000年前と同じ言葉で子どもをしかりつける……。

ふぁーっ。

なんて退屈なんだ。(サミュエル・ベケット『マロウンは死ぬ』より)



では、また来週。
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生活と意見 (第119回}

2008-05-11 21:28:21 | Weblog
5月11日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

なぜか気が向いて、旺文社文庫の「縮訳版 レ・ミゼラブル全二巻(特製版)」を読み始めたら、昨日と今日で読み終わりました。全訳のちょうど半分くらいですが、この作品には有名な「余談」(ユゴーの、革命や社会問題に対する考察を述べた部分)も多く、旺文社文庫版ではそこがほぼカットされているぶん短くなっているのです。それはまたいつかそこだけ読もうと思います。とてもおもしろかったです。物語の材料の原料(体験)が透けて見えるところがあって、ユゴーを少し身近に感じました。出版されたのは60歳のときだということですが、全編から作者の若い心がにおいたってきます。ドストエフスキーもそうですが、どう考えてもじじいとは思えない。おかしな人たちです。ドストエフスキーがこの本を愛読していたということはよく知られています。なんとなくですが、ジャベールの自殺のシーンが、「罪と罰」のスヴィドリガイロフの自殺のシーンに似ていると思いました。作られた順番はもちろん、「レ・ミゼラブル」が先だし、ジャベールとスヴィドリガイロフはまったく別種の人間ですが。ただ、二人とも絶望していることは共通しています。



寒いですね。
がまんできずにエアコンをつけました。
5月中旬とはとても思えない。夏がこの調子ならいいでしょうが。

92か93年ころ、冷夏がありましたね。8月に何日かだけ暑い日かあったと思ったらいきなり秋のにおいがしてきて。その年だけでしたが。そんな経験がなかったので、不思議な感じでした。

せめて休みの日に晴れてもらえないものか……。

ぼやいてもしかたありませんね……。

では、また来週。
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生活と意見 (第118回}

2008-05-06 16:35:42 | Weblog
5月6日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

更新が遅くなって申し訳ありません。

昨日まで、すごくじめじめしていて、頭の中にもカビが生えたような気分で、どうしてもコンピュータを立ち上げられませんでした。

湿度計を見ると、いまは40%を切っています。
これくらいがちょうどいい湿度ですよね。

3日間、誰とも会わず、話もしていないので、自分の自然なバランスが戻ってきていて、これもちょうどいい感じです。



前に、創作のテーマについて書きました。
そのとき書いたように、私には、多くのメジャー作家が選び、また多くの方がそれに共感するようなテーマが、自分にとって切実ではない場合が多いのですが、もちろん、では、自分がテーマとしているもの、たとえば「風景を~」のテーマのひとつである、「愛情だけで勃起すること」に、多くの人の共感が得られるとは思っていません。

むしろ、笑われて終わりという場合がほとんどだろうと、書いているときにも思っていました。「こんなもの、まじめなテーマになるわけないだろう。マンガか」と。

しかし、このテーマは、子どものころから、私にとって、これ以上ない切実なテーマでした。

なぜなら、私はこれまで一度も、愛情で勃起したことがないからです。

いやらしいことをしたいな、とか、いやらしいことをしているな、という観念で勃起してきましたが、それは愛情ではありません。ひとかけらも。

愛情という概念そのものもよくわかりませんが、私にわかるそれに近い概念とは「愛着」です。愛着とはつまり「回数」です。回数が多いと習慣になり、愛着になる。

ひげ面のまま満員電車に乗って、お母さんが抱いている赤ん坊と目が合う。赤ん坊は、私のつらが恐ろしいので、おびえたような顔になり「泣いてみようか」といった動作をします。私は目をそらし、人の陰に入る。電車が動き出す。と、なにげなく見てみると、赤ん坊は、私を探していたらしく、今度は目が合うと笑顔になりました。なぜでしょうか。そう、彼にとって、私を見たのは二回目だからです。いやでおそろしいつらだったから、最初は泣きそうになったのですが、私が身をかくしたことで、彼は「知っているものが見えなくなった」という喪失感にとらわれ、その少しあとでまた私が見えたときには、「知っているものにまた会えた」のでうれしかったのでしょう。

このように「回数」は自然、愛着を生みます。

愛着を愛情と呼ぶのなら、私にもわかります。ただし、それは「習慣」と同じ性質のものであり、安心感はともなっても、非日常的な「いやらしさ」(これはちょっとあっさりいいすぎですが、いまは「いやらしさ」がテーマではないので展開しません)を生み出すものではありません。

だから当然、肉体関係を持った一人の女を愛し始めれば、勃起する回数は減っていきます。それは当然のことでしょう。愛している者に対していやらしい気持ちなど抱けるはずがありません。なのに、そうなると女はいうのです。

「私を愛していないの?」と。

まさに、その女を愛し始め、愛し始めたからこそ勃起ができなくなったのに、そういわれるのです。

まあ、これは私だけがそうなのかもしれない、とも思います。なぜなら、よく、小説には、「彼は〇〇を深く愛していた」と書いてあって、そのあとで、ちゃんと普通にセックスをする場面が書いてありますから。でも、私の場合は、もしその女を、肉体関係のないままに深く愛したのならセックスを求めるということはないし、肉体関係を持った女を深く愛し始めたらもうセックスはできないのです。

おそらく、多くの方は、「愛しているから君がほしい」と言っても嘘をついたという感じもなく、矛盾も感じないまま人生を送られてきたのかもしれません。しかし、精神的不具者である私には、そういうことは死ぬまでできそうにない芸当です。それどころか、「愛情で勃起すること」を目指す油尾を多くの方が笑うのと同様、私は最後まで、映画や小説で「愛しているから君がほしい」というようなセリフを見かけたら、腹の皮がよじれるくらい笑って、そこで鑑賞するのをやめるに違いありません。これまでずっとそうだったように。



では、また来週。
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