麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第65回)

2007-04-29 18:34:18 | Weblog
4月29日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。


 このところ、私の対人許容量を超える生活を強いられていたので、昨日と今日まったくひとりでいることで、ようやく少しほっとしています。

「ひとりでいてお休みはなにをするの?」
 よく聞かれます。
 まるで、
「あなたには、家族も恋人もいない。だから休日などあっても、どこへ行くでもなく、なにを楽しむということもない。そんなあなたに生きている意味があるのか?」
 と、問われているような感じです。
 
 もちろん、毎日必死で創作している「私についてのおとぎ話」以外、私に生きている意味はありません。でも、まあほっとけよ。
 
「麻里布くんは、大きくなったら、どうやってご飯食べるの?」
 中学生のころ、いつもそう聞いてくる同級生がいました。私がマンガを描いたり、ふざけたり、ギターを弾いたりしているのを見ると、です。
 私は、その言葉を聞くたびに、ミミズが背中を這い回るような気持ちがしたものです。
 私には表ヅラへいこらしてみせるが、ちょっと成績の悪い人間にはいばりまくる、そのくせ自分は75点平均程度の、無趣味な男。

 いけない。こんな復讐的な文が出てくるようでは、まだ疲れがとれていないんですね。

 角川文庫の「ビギナーズクラシックス」から「古今和歌集」と「更級日記」が出ました。以前にも書いたと思いますが、もとは「ミニクラシックス」として出されていたものが発展したシリーズで、とても楽しい本です。
 しかも、今回のカバーの折り返しには、これから刊行されるシリーズの告知があって、「方丈記」や「和泉式部日記」、「伊勢物語」、「大鏡」、先日触れた「南総里見八犬伝」などもこれから出るようです。

このシリーズは、なんといっても「現代語訳を読むための古典文庫」であるのがいいところです。まだ読んだことがない方は、だまされたと思って読んでみてください。家族がいなくても恋人がいなくても、遊びに行くところがなくても、けっこう楽しいですよ。

では、また来週。

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生活と意見 (第64回)

2007-04-22 16:13:39 | Weblog
4月22日


 立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

 最近読んでまだ報告していなかったものに、ヘンリック・イプセンの戯曲「ペール・ギュント」があります。論創社という出版社から去年の11月に出たばかりの新訳です。

 ペール・ギュントといえば、なんといっても、小学校の音楽の時間に習う「ペール・ギュント組曲」ですよね。
最初聞いたときは、「山の魔王の宮殿で」とかが、手塚治虫の「リボンの騎士」のシーンなどを思い浮かばせておもしろかったし、「オーゼの死」とかは、すごく悲しい曲だなあ、と思ってつらくなったのをおぼえています。

 実は、私が生まれて初めて買ったレコードは、「ペール・ギュント組曲」のLPです。当時の廉価版(たぶん東芝)シリーズで、1000円でした。小学校5年のときだと思います。
 教科書にも、レコードジャケットの裏にも(廉価版なのでジャケットが開かなかったのです)ペール・ギュントの原作について、ほんのちょっとだけ触れてありましたが、あまりよくわからず、ある男が世界中を冒険して歩いているのだ、といったような漠然としたイメージしかもてませんでした。

 それもそのはずです。ペールは、いわゆる「放蕩息子」であり、母の言うことなどなにも聞かず、一攫千金を夢見ているが仕事をしない怠け者で、スケベで、一時的な欲望から他人の花嫁を奪って逃走し、飽きたら捨てるは、何度もそんなことを繰り返すはで、とても子どもにちゃんとストーリーを説明することはできません。

 ――このことは、いま、ぱっと思い出しましたが、「失われた時を求めて」のコンブレの章で、語り手の母親が、ジョルジュ・サンドの「水車小屋の娘」(だったと思いますが)(正しくは「フランソワ・ル・シャンピ」。長い間、訂正せずにすみません。しかし、いちおう言い訳をすれば、「フランソワ・ル・シャンピ」は水車小屋の女と、彼女が子供として育てる「捨て子のフランソワ」の恋愛を描いたもので、私の記憶は、その内容にそったものです。ご存知のように、この擬似近親相姦的設定が、「失われた~」のひとつのテーマを表しています)を息子のベッドの横で朗読する場面の事情と似ています。その場面で、母親は、小説の登場人物の恋愛に関する描写をとばして朗読するので、語り手には登場人物たちの関係がよくわからなくなってしまうのです。――「失われた~」では、このシーンに近親相姦的なテーマも含まれているのですが、そういう部分を除いても、子どものころ、こういうことはよくありますよね。

 ヘンリック・イプセンといえば、「人形の家」などの作者として、どちらかというと進歩的な(この言葉自体がちょっと古い感じがしますが)現代女性を描いた作家というイメージが強いですが、「人形の家」よりかなり前に書いた「ペール・ギュント」では、「男は外で遊びまくり、女はじっとそれを待つ」といった、あまりのあまりに古典的な考えが、土台になっています(もちろん、そういう男のむなしさも描かれているわけですが)。
ひょっとすると、「ペール~」を書いたあとで、女の趣味が変わったんでしょうか。

 調べてみるほど、イプセンに興味を感じませんが(ジョイスの師匠として、とくに「亡命者たち」への影響には興味がありますが)、「ペール・ギュント」は、おもしろいです。
 音楽のイメージとは、正直、ちょっと違う感じですが。

 では、また来週。
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生活と意見 (第63回)

2007-04-15 18:16:14 | Weblog
4月15日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

いま、ヘンリー・ミラーの新訳コレクションが、水声社というところから出ていて、全10巻のうち、4冊か5冊が既刊になっていると思います。「北回帰線」は、出た年に(たぶん3年位前)に、ひさしぶりに読みました。「南回帰線」も続いて出て、買いましたが、こちらは、まだ読みきっていません。
20~21歳ころ、「南回帰線」を、どこに行くときにも持ち歩いて読んでいた時期があります。いまは出ていない、大久保康雄訳の新潮文庫版です。ちなみに、私が読み始めたころは、ヘンリー・ミラーはまだ生きていました。

当時は、「南回帰線」のほうが「北~」より断然いい、と感じました。おそらく、それは、「南~」のほうが、少年時代の話が多く、まだ10代を抜け出たばかりの私には、そのエピソードのほうが、よく理解できたからでしょう。
しかし、ひさしぶりに読むと、「南~」は、なんだかくどすぎるような気がしました。とくに、以前は大好きだった電報会社の人事の話などは、退屈で、作者がそこをおもしろがって書いているのはわかるけれども、職場なんて、これくらいの修羅場があるのはまあめずらしいことではないだろう、という気がしてしまいました。
それに比べて「北~」は、ライブ感が伝わってきて、ユーモアもあり、その体裁が新しく、無駄なく刈り込まれている、と感じました。
 
いまは、予告どおりなら、2年前に出ていなければならないはずの「セクサス」の新訳を待っている状態です。「セクサス」「プレクサス」「ネクサス」の「薔薇色の十字架」三部作は、一度だけ通読しました。「セクサス」もいいですが、私がとくに好きなのは「プレクサス」でした。この巻は、それほどのセックス描写もなく、なにか、ある男の、生きるための必死の冒険談といった内容だったと思います(新潮版ヘンリー・ミラー全集は、以前金のないときに売ったのでいま、「プレクサス」が手元にないのです)。どこか知り合いのところに金を借りに行ったときかなにかに、主人公・ヘンリーは、突然体の調子が悪くなり、本当に死にそうになる、といった場面があります。周囲の人たちも「ああ、これはダメだな」とわかるほどの衰弱ぶりなのです。原因は不明で、しばらくすると元気になるのですが、このときヘンリーは「ああ死ぬんだな」といった気分で自分をながめていて、ジタバタしたりはしないのです。

 そこは、深沢七郎がたしか「人間滅亡の唄」で書いた、失明しそうだったときの話と似ていると感じました。深沢七郎は、ある日(片目は以前からほとんど見えないのだと思いますが)、両目が、視力を失っていくのを感じます。ふつうの人間なら、すぐにおそろしくなって医者に駆け込むでしょう。しかし、深沢七郎は、布団に横になって「このまま目が見えなくなるのかなあ」と、考えているだけなのです。こちらも、放っておいたら、自然また見えるようになったという結末でした。

 いまでもこうして本が出るのを待っているのだから、ヘンリー・ミラーは好きですが、やはり、若いころほど熱狂的に読むということはありません。
 ミラーに熱中したあと、セリーヌを読み、ジョイスを読み、プルーストを読むと、ミラーの作品は、この三者の影響を強く受けていて、その三つのものの接着剤として、ダダとシュールリアリズムを使っている、という感じがします。そうして三人を彼の師匠だとすれば、私は徐々に、そのお師匠さんのほうが、好きになっていきました。とくに、ジョイスとプルーストは、ドストエフスキーとともに、死ぬまで好物として読み返すと思われます。

 なぜ、ヘンリー・ミラーのことを書く気になったかというと、彼の弟子ともいえる、ロレンス・ダレルの「アレクサンドリア四重奏」の第一巻が先日、発売になっているのを見たからです。数年前から、この本は、河出文庫のモダンクラシック枠で出ると告知されていましたが、単行本に変更になったようです。手にとってみましたが、値段が高いので、また元に戻しました。

 老婆心ながら、新潮文庫の「北回帰線」は、あまりいい訳ではありません(意味がとれないところが多すぎます)。水声社の全集版で読むか、あるいは、20年くらい前にTBSブリタニカから出た「天才と肉欲」という本で読むのがいいと思います(古本屋でよく見かけます)。この本は、もともとノーマン・メイラーがヘンリー・ミラーの一巻本選集を作ったものの全訳で、さまざまな作品の抜粋が載せてあります。野島秀勝さんという方の訳なのですが、とてもいいと思います。「南回帰線」は、河野一郎訳で、講談社文芸文庫からいまも発売中です。

では、また来週。
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生活と意見 (第62回)

2007-04-08 21:56:07 | Weblog
4月8日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。


何十回めでも、春は春ですね。

新学期前の、暗い気持ち。
ざわついているけど、なにをしたいわけでもない落ち着かない感じ。
ゲームセンターに行って一晩中ギャラクシアンをやるしかない感じ。
大学をやめるのかどうか、答を迫られている感じ。
そのまま死にたいような感じ。
世界が気の遠くなるほど何億回も同じことを繰り返しているという感じが、自分をおしつぶしそうな感じ。
街角で女たちに、「もう悲しみを産むのはやめてくれ」と叫びたい感じ。

また、べつのとき。
女を待つ間に、それほど人通りのない、あかりのきれいな店の外の席で、本を読んでいる。「いい気なもんだ」と思いながら。まだそれほどやりなれていないが、緊張感は取れたくらいの関係で。具体的には、どんな場面も想像しないけど、快感が、あかりといっしょに空気の中にちらばっている。それを、「春はいい」と恥ずかしげもなく言葉にして、少なくとも今夜はそれだけでいいのだ、と考えている、いい気な感じ。

また、べつのとき。
病院のベッドの上。
電気も消えて、看護婦さんたちの動きもあまりなくなったころ。
「ここはどこだ?」と考えながら、大部屋の天井を見上げる。
のどがかわいてたまらない。そのことを、暗い中でノートに書く。
「いま、ファンタグレープをきゅーっと飲んで下痢腹になれたら、死んでもいい」と。
「入院しろ」のひと言が、見たこともない場所に自分を連れてきている不思議さ。
「生きさせる」のが仕事の人たちの、迷いのない生活。
「生きさせる価値があるかどうか」については、判断をしないで、平等。
 とうとうがまんできずに、看護婦さんに、氷水をつくってもらった。午前2時。
 
 ――更新が遅くなって申し訳ありません。
 
 では、また来週。
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生活と意見 (第61回)

2007-04-01 20:13:07 | Weblog
4月1日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

今日は、東京は、すでに暑いという感じでしたね。

「また夏が来る」、という感覚を思い出させる、今年最初の日だったような気がします。

先週は、プルーストを読むことを薦める文章を書くと言いながら、どこがそうなのかよくわからない感じでいつのまにか終わってしまいました。

 あまり、脳が働いていないんだと思います。すみません。
 
 以前読書中だと報告した、「罪と罰」の新・江川卓訳(岩波文庫)は、しばらく前に読み終わりまして、読了後、「謎解き『罪と罰』」を再読しました。江川氏によると、ラスコーリニコフが、冒頭、7月のある日に、酷暑の中を出かけていく町は、ゴーゴリの「狂人日記」にも登場する、ロシア文学ではすでに「狂人横丁」として定番となっている町ということになるらしい。なるほど、と思います。しかし、江川氏は、このシーンに、ユーモアがあることを認めながらも、それをただ、「ご存知狂人横丁を歩き始めた頭のおかしな若者」というイメージだけのせいにしているようです。
 もちろん、専門の偉大な研究者に、それこそ狂人横丁に住むボンクラ自費出版作家がたてつくつもりもありませんが、私はこのシーンは、実はドン・キホーテのパロデイになっているのではないかと以前から思っています。ラスコーリニコフが、形のおかしな帽子をかぶっているせいで、ヤジを飛ばされるところは、ドン・キホーテが、厚紙でかぶとの頬あてを作り、自分の槍で突いてみてすぐこわしてしまうエピソードを思い出させます。ドン・キホーテはもう一度厚紙で頬あてを作り、こんどはもう強度を試すのはやめて、甲冑とともにそれを身につけ、冒険の旅に出かけていくのです。7月のある日に……。
 
 しかし、ラスコーリニコフは、ドン・キホーテのように純粋な男ではありません。自分の狂気を、狂気だと認識する不純な自分がいる。だから、破滅していかなければならない。ある意味、「罪と罰」は、「中途半端なドン・キホーテ」の末路について書かれた本で、その分析と描写は完璧だと思います。

では、また来週。
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