麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第234回)

2010-07-31 22:44:22 | Weblog
7月31日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

なんとなく「天人五衰」を読みました。
4回目か5回目。「春の雪」が文庫になったのが高校3年の夏のはず。その前から図書館で単行本を読み始めていたのですが、旧漢字旧仮名遣い(全てがそうではないと思いますが)がむずかしくて一度挫折しました。文庫「春の雪」はすぐに読みました。感動しました。続いて「天人五衰」まで出ましたが、そのときは「奔馬」はとばして「暁の寺」「天人五衰」と読みました。「奔馬」は、当時右翼的なものがすべてだめだったので、概要を知り興味を失ったのだと思います。

もともと三島由紀夫のいい読者ではなく、「金閣寺」はいまだに読んでいません(いつも最初の2~3ページで興味がなくなってしまう)。「午後の曳航」と「鏡子の家」が好きです。「仮面の告白」は、高校時代に読みましたがよくわからなくて退屈でした。周囲の、私よりもっと早熟の友人たちは「おもしろい」といっていましたが、私が「仮面~」を心底いいと思えたのは、プルーストを読んだあと、30歳を超えてからです。

大学時代は三島由紀夫を一冊も読まなかったと思います。30歳を過ぎて、一度「豊饒の海」を通読しました。このときは「奔馬」もおもしろく読めました。生意気にも「暁の寺」は失敗作だと感じました。簡単に言って、ジン・ジャンにリアリティを感じられなかったからです。以降、「奔馬」以外は、それぞれ何回か読み返しました。「暁の寺」を読む動機はいつも「こんな天才が失敗作を書くわけがない。俺がアホだからよくわからないのに違いない。確かめよう」ということで、でも読んでみるとやはり毎回あまりおもしろくないのです。「春の雪」は、最高に好きです。これは説明不要ですよね。

そうして、「天人五衰」は、いつも「なにか不思議な小説だ」と感じてきました。高校時代に読んだときは、ラストシーンに感動して、もうただ、すごいと思ったのですが、その後いろいろ感じ方は変わってきました(いつか書きたくなったらそれも書きます)。今回は初めて、ラストシーンは本多の夢なのではないか、と思いました。そう考えるのがもともと普通なのかもしれませんが、いままでは、最後の最後で前の3編を否定し、全部嘘にしてしまうというその復讐的な終わりが現実の作者の最期と重なって、そこにメタ的な納得の仕方をしていたように思います(それも作者が望んだ解釈のひとつでしょう)。が、今回はただ物語を普通に追う読者としてそう感じました。というのも、本多が月修寺に向かうハイヤーに乗り込む日は、天気予報では時雨れるという予報がされているのに、それ以降、最後まで雨は一滴も降った様子がなく、むしろラストの「日ざかりの日」をはじめとして、晴れているという描写ばかりがわざとのように目に付くからです。どの時点からかわからないけれども、物語は本多の夢の中に入り込んでいて、現実ではなくなっている。そういう気がしました。ひょっとしたら時雨の中を走るハイヤーのシートで老人は夢を見ており、やがて現実の寺に着いて聡子と再会を果たすが、そこは描かれない……。そういう、永遠に未完の物語なのではないか。今回はそんな感想を持ち、そのほうがよりせつないような気がしました。ただの「感じ」ですが。くたばるまでにはもう一度全巻を通読してみたいと思います。



では、また来週。
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生活と意見 (第233回)

2010-07-25 00:35:27 | Weblog
7月25日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

少しだけ「ブリキの太鼓」を読み進めました。
いま500ページあたり。オスカルが部屋を借りるところで、また新しいキャラクターが出てきたので挫折しました。そういう展開で続けられるとちょっとついていけない。全体で600ページの本。あと100ページなのに、新しいキャラについて覚えなければいけないなんて。活力のなくなった連載漫画を新キャラで少しもたせるような感じ。ヘンリー・ミラーのように「無意識的」を装った登場の仕方でもなく、プルーストやドストエフスキーのように、全編に対して有機的に作用するよう配置された人物とも違う。退屈です。



機会があって、太宰治の小説をいくつか読みました。高校1年のころ、「これが天才というものだな」と感じ、文庫で読めるものはほとんど読みました。でも、今はあまりそう感じなくなったようです。「トカトントン」「走れメロス」「ロマネスク」の印象は全く変わりませんが、私小説的体裁のものは、「よくわからない」という感じがしました。「完璧だ」と思ったリズムもそれほどいいと感じなくなりました(それは本当に自分でも意外でした)。たぶんこの人は音楽をあまりわからないのではないか、と感じました。もちろん、そう感じるのは、私にもともと才能がないからでしょう。感受性も磨滅して、ますますくだらない人間になった証拠でしょう。が、もう死ぬまでに全編を読み返すというようなことはしないことでしょう。

日本の作家で、今も、これからも何百回となく読み返し続けるのは、たぶん内田百ひとりでしょう。どんな短編も、絵であると同時に音楽そのもの。言葉のひとつひとつが音符になっているように感じます。描かれる世界が現実からずれ、あいまいになっていくときの和音のベース音の下り方や上り方の操作が完璧で、作者の頭の中にある音楽が毎回間違いなくこちらの頭の中で再現される。まさに天才だと思います。冥途に行く直前にも「冥途」を読み返してせつない気持ちになったりするに違いありません。



では、また来週。

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生活と意見 (第232回)

2010-07-18 01:02:02 | Weblog
7月18日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

たぶん、生活周辺のことが全てうまくいかないからだと思いますが、「友だち」を書きすすめることができました。3時間ほど集中し、ほかのことを完全に忘れました。

今回は、やはり1人称で書くのがいいと感じました。というのも、当たり前のことですが、出来事は「誰かの系」に対してのみ起こるわけで、完全に客観的な系など世界に存在しないはずだからです。私がドストエフスキーの中でも「悪霊」や「虐げられた人々」が好きなのは、1人称で書かれている、ということがひとつの理由です(カラマーゾフも一応そうですが)。

前回3人称で書きすすめたところを読むと、一見いいのですが、二度目に読むとくどい。私にとって大事なのは「何度も読めること」なので、やはり、これはダメだと感じました。

テーマも文章もおよそ「大人げない」ものですが、なんとか仕上げようと思います。



「嘔吐」のような密度の高い作品を読むだけの余裕がありません。読むのはしばらく先になりそうです。



では、また来週。
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生活と意見 (第231回)

2010-07-11 22:29:15 | Weblog
7月11日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

なんと、河出文庫から、ドストエフスキーの「白痴」の新訳(第1巻。おそらく全3巻)が出ました。
情報を持っていなかったのでびっくりしました。
すでに読みました。意味がとりやすく、会話も古すぎず、とてもいい。
(昔の米川訳には、まだ「よござんすか?」というような会話文があったものです)
これで新潮文庫の「白痴」もその役割を終えたという気がします。
読んだことがないという方はぜひ見てみてください。

読んでいると、いろいろ思い出しました。
なにより、それは、「風景をまきとる人」が、私の書いた「白痴」だからです(たぶん、正面切ってそういうのは初めてだと思いますが)。プロットを考えたり、場面を思い浮かべたり、原稿を書いたりしながら1998~2004年まで、「白痴」については考えられるだけ考えました。今回読んでいて、自分の無謀な挑戦も、それはそれでいいことだったと思いました。「世界で最も才能がない」という言葉をくっつけてのことですが、やはり、私はドストエフスキーの弟子なのです。それは間違いありません。
「白痴」を読んだあと、続けて「風景~」を読んでもらえたら・・・・・・。



待ちに待った、サルトル「嘔吐」新訳、出ました。
「白痴」を読んでしまったので、まだほとんど読んでいません。
読み終わったらなにか書くつもりです。



光文社新訳文庫からようやく「悪霊」が出るようです。
「カラマーゾフ」より、こっちを先に出してほしかったのに。小沼訳と比べてどうか。決定訳になるのかどうか。楽しみです。今年は「未成年」を読むことで始まり「白痴」、「悪霊」と、ドストエフスキー年になりそうです。あ。ひさしぶりのヘンリー・ミラーもありましたが。そういえば、どこかでヘンリー・ミラーが「『白痴』は傑作だ。でも、僕ならもっと整理して刈り込み、ムダのないように書くと思う」というようなことを言っていました。それを読んだとき、思わず声を出して笑いました。ドストエフスキーなら、きっとひと晩で「南回帰線」を200枚くらいの中編に刈り込んでみせるに違いないでしょう。でもそういう「自分のことは棚に上げて」の発言がまたヘンリー・ミラーらしいと思いますが。



では、また来週。
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生活と意見 (第230回)

2010-07-04 01:07:08 | Weblog
7月3日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

「プロヴァンシアル」がとてもいい。ネタは神学論争で、およそ自分には関係ないことなのですが、読んでいくと、各派の対立がいかにくだらないことなのかが無関係の人間にもよくわかります。ドストエフスキー的なところもあるし、ディケンズふうのユーモアも感じられる。ほとんど小説といってもいいような作品です。「パンセ」だけ読んでいると、パスカルは古代ギリシャの哲学者たちと同じく遠い感じがするのに、「プロヴァンシアル」を読むと、「19世紀くらいの人?」と思うほど身近でリアルな感じがします。ときどき出てくる「たとえ話」もさすがで、たとえ話の王者・キリストといい勝負だと思います。本当に。「ライ麦」を参考にしたに違いない(あるいは庄司薫か)訳文の文体もこなれていて読みやすい。いつかどこかで手にとってみてください。



「ブリキの太鼓」、完全に挫折しました。よほどなにか起爆剤がないと、第3部を読み進めることは不可能です。「ネクサス」も休止中。こちらは時間ができたらすぐにでもまたとりかかるつもりですが。



近所の商店街に作られた「たなばたコーナー」の短冊に、つぎのような言葉を見つけ、笑いました。

あだちのおしりを
さわれますように。

たぶん、女子中学生か高校生だと思います。きれいな字で、尻のイラストが添えられています。想像したのは2パターン。仲のいい友だちと2人で書いていて、その友だちが「あだち」さん。狙いはもちろんその場の笑い。もうひとつは、「あだち」くんというスポーツマンがいて、本当にちょっとそのおしりにさわってみたい。なんにしてもとても具体的な願いですね。

それを見て、思い出したのが、大学時代の便所の落書きです。

女はいいなあ
スカートがはけて。

笑わせようという書き方でないことはひと目でわかりました。といっても、どこまでせつないのかはよくわかりません。本部キャンパスの便所の壁には学部間闘争(?)のようなことが書いてあったり、学生運動の名残りみたいな檄文があったりして、なにか「サバイバルゲームはもう始まっている」みたいな感じがしました。上の落書きを見るたびに「文学部でよかったな」と思ったものです。そのままきてしまってどうしようもない結果となりはててしまいましたが。



では、また来週。
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