7月31日
立ち寄ってくださって、ありがとうございます。
なんとなく「天人五衰」を読みました。
4回目か5回目。「春の雪」が文庫になったのが高校3年の夏のはず。その前から図書館で単行本を読み始めていたのですが、旧漢字旧仮名遣い(全てがそうではないと思いますが)がむずかしくて一度挫折しました。文庫「春の雪」はすぐに読みました。感動しました。続いて「天人五衰」まで出ましたが、そのときは「奔馬」はとばして「暁の寺」「天人五衰」と読みました。「奔馬」は、当時右翼的なものがすべてだめだったので、概要を知り興味を失ったのだと思います。
もともと三島由紀夫のいい読者ではなく、「金閣寺」はいまだに読んでいません(いつも最初の2~3ページで興味がなくなってしまう)。「午後の曳航」と「鏡子の家」が好きです。「仮面の告白」は、高校時代に読みましたがよくわからなくて退屈でした。周囲の、私よりもっと早熟の友人たちは「おもしろい」といっていましたが、私が「仮面~」を心底いいと思えたのは、プルーストを読んだあと、30歳を超えてからです。
大学時代は三島由紀夫を一冊も読まなかったと思います。30歳を過ぎて、一度「豊饒の海」を通読しました。このときは「奔馬」もおもしろく読めました。生意気にも「暁の寺」は失敗作だと感じました。簡単に言って、ジン・ジャンにリアリティを感じられなかったからです。以降、「奔馬」以外は、それぞれ何回か読み返しました。「暁の寺」を読む動機はいつも「こんな天才が失敗作を書くわけがない。俺がアホだからよくわからないのに違いない。確かめよう」ということで、でも読んでみるとやはり毎回あまりおもしろくないのです。「春の雪」は、最高に好きです。これは説明不要ですよね。
そうして、「天人五衰」は、いつも「なにか不思議な小説だ」と感じてきました。高校時代に読んだときは、ラストシーンに感動して、もうただ、すごいと思ったのですが、その後いろいろ感じ方は変わってきました(いつか書きたくなったらそれも書きます)。今回は初めて、ラストシーンは本多の夢なのではないか、と思いました。そう考えるのがもともと普通なのかもしれませんが、いままでは、最後の最後で前の3編を否定し、全部嘘にしてしまうというその復讐的な終わりが現実の作者の最期と重なって、そこにメタ的な納得の仕方をしていたように思います(それも作者が望んだ解釈のひとつでしょう)。が、今回はただ物語を普通に追う読者としてそう感じました。というのも、本多が月修寺に向かうハイヤーに乗り込む日は、天気予報では時雨れるという予報がされているのに、それ以降、最後まで雨は一滴も降った様子がなく、むしろラストの「日ざかりの日」をはじめとして、晴れているという描写ばかりがわざとのように目に付くからです。どの時点からかわからないけれども、物語は本多の夢の中に入り込んでいて、現実ではなくなっている。そういう気がしました。ひょっとしたら時雨の中を走るハイヤーのシートで老人は夢を見ており、やがて現実の寺に着いて聡子と再会を果たすが、そこは描かれない……。そういう、永遠に未完の物語なのではないか。今回はそんな感想を持ち、そのほうがよりせつないような気がしました。ただの「感じ」ですが。くたばるまでにはもう一度全巻を通読してみたいと思います。
☆
では、また来週。
立ち寄ってくださって、ありがとうございます。
なんとなく「天人五衰」を読みました。
4回目か5回目。「春の雪」が文庫になったのが高校3年の夏のはず。その前から図書館で単行本を読み始めていたのですが、旧漢字旧仮名遣い(全てがそうではないと思いますが)がむずかしくて一度挫折しました。文庫「春の雪」はすぐに読みました。感動しました。続いて「天人五衰」まで出ましたが、そのときは「奔馬」はとばして「暁の寺」「天人五衰」と読みました。「奔馬」は、当時右翼的なものがすべてだめだったので、概要を知り興味を失ったのだと思います。
もともと三島由紀夫のいい読者ではなく、「金閣寺」はいまだに読んでいません(いつも最初の2~3ページで興味がなくなってしまう)。「午後の曳航」と「鏡子の家」が好きです。「仮面の告白」は、高校時代に読みましたがよくわからなくて退屈でした。周囲の、私よりもっと早熟の友人たちは「おもしろい」といっていましたが、私が「仮面~」を心底いいと思えたのは、プルーストを読んだあと、30歳を超えてからです。
大学時代は三島由紀夫を一冊も読まなかったと思います。30歳を過ぎて、一度「豊饒の海」を通読しました。このときは「奔馬」もおもしろく読めました。生意気にも「暁の寺」は失敗作だと感じました。簡単に言って、ジン・ジャンにリアリティを感じられなかったからです。以降、「奔馬」以外は、それぞれ何回か読み返しました。「暁の寺」を読む動機はいつも「こんな天才が失敗作を書くわけがない。俺がアホだからよくわからないのに違いない。確かめよう」ということで、でも読んでみるとやはり毎回あまりおもしろくないのです。「春の雪」は、最高に好きです。これは説明不要ですよね。
そうして、「天人五衰」は、いつも「なにか不思議な小説だ」と感じてきました。高校時代に読んだときは、ラストシーンに感動して、もうただ、すごいと思ったのですが、その後いろいろ感じ方は変わってきました(いつか書きたくなったらそれも書きます)。今回は初めて、ラストシーンは本多の夢なのではないか、と思いました。そう考えるのがもともと普通なのかもしれませんが、いままでは、最後の最後で前の3編を否定し、全部嘘にしてしまうというその復讐的な終わりが現実の作者の最期と重なって、そこにメタ的な納得の仕方をしていたように思います(それも作者が望んだ解釈のひとつでしょう)。が、今回はただ物語を普通に追う読者としてそう感じました。というのも、本多が月修寺に向かうハイヤーに乗り込む日は、天気予報では時雨れるという予報がされているのに、それ以降、最後まで雨は一滴も降った様子がなく、むしろラストの「日ざかりの日」をはじめとして、晴れているという描写ばかりがわざとのように目に付くからです。どの時点からかわからないけれども、物語は本多の夢の中に入り込んでいて、現実ではなくなっている。そういう気がしました。ひょっとしたら時雨の中を走るハイヤーのシートで老人は夢を見ており、やがて現実の寺に着いて聡子と再会を果たすが、そこは描かれない……。そういう、永遠に未完の物語なのではないか。今回はそんな感想を持ち、そのほうがよりせつないような気がしました。ただの「感じ」ですが。くたばるまでにはもう一度全巻を通読してみたいと思います。
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では、また来週。