麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第539回)

2016-10-29 19:42:59 | Weblog
10月29日


主人公は大学生。時代は81年か82年。82年でいいか。この主人公は、東西線早稲田駅にある、架空の私立大学の文学部に通っている。79年入学だから、今年は4年生のはずだが、彼はまだ2年生。というのも、教養課程は1年だけで2年から専門にあがる、当時としてはめずらしいシステムの、その進級時に2回、取得単位不足でひっかかってしまったから。というのも(というのも2回目)、彼はほとんど学校に行かなかったから。なぜ行かなかったのかはたぶん、そのうちわかるはずだ。わからないかもしれないが。学校に行かない。ではアルバイトをしていたのか。違う。なにもしていなかった。昼は街をぶらついて、喫茶店でタバコを吸いながら本を読み、夜は高校時代の同級生の部屋を泊まり歩いた。自分の部屋が狭すぎて居心地が悪いということも理由の一つだったが、古本の買いすぎで、彼はいつも金に不自由していたのだ。同級生のところに行けば手持ちがなくても食事にありつけた。でも、違う。82年には、彼はそういう生活から抜け出して、毎日きちんと学校に通い、どの勉強もちゃんとやっていた。心底楽しんで。だから、やはり、この話は81年だ。あるいは80年。そのころ泊まり歩いていた同級生の一人は中野に住んでいた。サンプラザを左手に見ながら早稲田通りを進み、つけ麺屋を過ぎてほとんど野方の駅の手前。いまはなくなったボロアパートという概念がぴったりのアパート。2階。階段が堅固なのに右に傾いていて、上がるたびに、めまいが起きたのかと思う。そのアパートに住む中田修が中野の飲み屋でバイトしていたのだ。つながってきたぞ。話が。主人公は酒を飲まない。というより飲めない。疎遠になっている、やはり高校の同級生で彼より先に同じ大学の別の学部に入った、高校時代から鯨飲していた男に誘われて、2度だけ飲んだことがあるが、コップ一杯のビールで二度とも吐いた。大学のコンパには一度も参加したことがない。中田もまた酒には強い。飲み屋のバイトができるほどだから。その飲み屋というのは、たぶん、スナックというようなものだと思う。わからないが。暗い雰囲気で、とくに音楽がかかっているわけでもない。カラオケはまだ一般的ではない。中田は蝶ネクタイをして、黒のベストを着て、ボーイという役職名だった。長身で足の長い彼にそのかっこうは似合っていた。その飲み屋に、中島みゆきファンの女も勤めていた。つながった。完全に。次回はその店がどこにあったか、その店のママと呼ばれた人がどんな人だったかを書く。かもしれない。違うことを書くかもしれないが。次回はないかもしれないが。



口譯萬葉集、最高です。折口信夫の解釈が岩波文庫のものと違うところがあって、そこもまた簡単に調べてみると、おもしろかったりします。だけどまあ、本当にちょっとした言葉の使い方で、体臭すら感じられるような、しかも下卑たりしない訳文ってできるものなんですね。天才を感じますね。すごい。それに比べて岩波の訳文などは、秀才の中学生が作ったような感じがします。「人間って、むなしいものじゃないか。そのむなしさがよく出ていると思わないか。別れは悲しい。その悲しみもこの言葉で痛いほどわかるじゃないか」と、むなしさも悲しみも経験したことのない童貞が嬉々として訳しているような――言いすぎですが――そんな感じ。折口訳は、むなしさも、悲しみも経験した人の手によるものだと一読誰もが感じ取れる。天才を感じますね。くどいけど。
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生活と意見 (第538回)

2016-10-24 00:32:48 | Weblog
10月23日

中島みゆきの歌を愛する女は、美人でもブスでもない。容姿偏差値55から58ぐらいの女。頭はもう少し上で60から62ぐらい。彼女は自分の容姿のランクを知っている。そうして、つねに自分より上のランクの男を好きになる。自分に不足しているものをおぎなうために。もちろん、そういう男には、ひとり、もしくは複数の女がいる。彼女はそれに勘づいてはいるが、わざとはっきりさせない。そうして、彼に対しガードを甘くし、やらせる。と、すぐに彼女は、彼を「やつ」と呼びはじめ、「彼の女」になったことを周囲に宣言する。そこから彼女はとても活動的になる。あいまいにしておいた事実の確認をしらみつぶしに実行する。やはり女は何人かいる。みんな自分よりきれいだ。頭は悪そうだが。フン。彼はなんとなくやっただけの女のことを、ほとんど「彼女」とは思っていない。だからそれほどたびたび女と会おうとはしない。ただ自然に避けている。女は泣く。友だちを呼び出し、「やつ」の女ぐせの悪さ(ほとんど知っていてやらせたのだが)、ひどいしうちについて泣きながら語る。それはとても気持ちがいい。うんざりしている友だちを前に、しゃべればしゃべるほど快感は肥大する。美人でない以上、恋愛において、彼女にはプラス方向の「本当に満足できる幸せ」を手に入れることはできない。自分をごまかすには中途半端に頭の偏差値が高い。しかし、容姿のランクが高い男を物語に絡めることで、マイナス方向の「本当に満足できる幸せ」を手に入れることはできる。「その男の女」として泣き、彼の女として不幸であることで、彼女は自分のランクでは本来手に入れることのできない「派手さ」を身にまとうことができるのだ。中島みゆきの歌は、その快感をあおり、肥大させる力を持つ。その才能は誰もが知る通りだ。だが、その歌をほめそやす男たち(インテリが多いのだが)の多くは、自分が、歌の中に出てくる「やつ」や「彼氏」にはカウントされない、ランク外の男だということに気づいていない。

――ある長編(中編?)の、脇のエピソードとしてなんとなく考えていたのですが、(主人公の大学生がこういう女(中野の飲み屋でバイトしている)を好きになり、一生懸命心配しながら話を聞き、彼女を「救おう」と考えるのですが、当然のように滑稽な結末を迎える)それを書き始めることはないだろうと思い、エキスだけむき出しのまま書きました。なぜそれを今日書きたくなったのかはわかりません。
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生活と意見 (第537回)

2016-10-16 21:47:34 | Weblog
10月16日


 三省堂古書部で「折口信夫全集四、五、六巻」(中公文庫)を750円で買いました。「口譯萬葉集 上・下」と「萬葉集辞典(「辞」は旧漢字)」です。この場所でも万葉集に対していろいろなアプローチをしていることを書いてきましたが、結局、どれもいまひとつで、半分以上、読むことは読んだのですが、高市黒人の2~3の歌と山上憶良の貧窮問答歌以外は自分の心にぼんやりした印象しか残してきませんでした。
 国文学者・折口信夫の口語訳万葉集が河出書房新社の日本古典文庫に収められていることは以前から知っていました。しかし、このシリーズはなかなか古本屋に出回っておらず(あまり売れなかったのでしょうか。私は新刊本として学生時代に「西鶴名作集」だけ買いました)、あっても、全巻セットで2万円はするので、読みたかったのですが、あきらめていました。一方では、折口信夫全集が中公文庫で出ているのを知ってはいましたが、歌や小説の創作もする、高名な国文学者(同性愛者としても高名ですが)の論文集というイメージしかなく、手に取ったこともありませんでした。――日本古典文庫の口語訳万葉集。中公文庫の折口信夫全集。二つが頭の中で結びつくことはなかったわけです。まるでスワン家に行く道とゲルマントのほうへ続く道のように……などと大げさな。
 少し考えてみれば、「全集なんだからその人の仕事のすべてが入っている」、「だから万葉集も入っている」、とわかったはずですが、先週、具体的に現物が目の前にあらわれて、ようやくその当たり前のことに気づきました。そうしてすごくうれしくなりました。ざっと立ち読みして、すぐにレジに持っていきました。
 予想通り、とにかく、すばらしい訳文です。いまは、岩波文庫の五冊本が世間的には決定訳になっているといっていいでしょう。しかし、逐語訳で簡潔なのはいいのですが、訳文だけでは歌われている状況がわかりづらく、前後の説明的な記述を同時に読まなければいけません。そうしているうちに心は冷えていき、歌に対してすごく客観的な気持ちになってしまう。それは、ほかの口語訳つきの本にも共通する大きな欠点です。ところが折口訳は、訳文を読んだだけで状況が推測され、感情は一読ダイレクトに伝わってきます。たしかに原文と比べると、使われていない言葉も補ってあり、意訳になっていることはわかるのですが――これは外国文学の翻訳でも同じですが――学者が誠実と考えている逐語訳は必ずしも翻訳と呼べるものになっていないことも多い。私は、万葉集の研究者になりたいわけではありません。違う時代の、でも同じ人間の考えたこと、感じたことを知りたいだけです。しかし私は万葉集が編まれたころの生活習慣も、言葉も知りません。この場合、学者は自分の知識を使って、学術的にではなく、文学的に言葉を置き換えていってこそ現代語訳をした、といえるのではないでしょうか。まあ、それができるためには、たんなる学者ではなく、自身が創作家である必要があるでしょう。そう考えてみると、いまのところ、万葉集の現代語訳(全訳)は折口信夫訳しかないのではないか、と思います。
 造本についてもひとつ言いたい。岩波文庫にしても、「現代語訳付き」という立場から、見開きの右ページが大きい活字で原文、左ページが二段組みの解説と訳文になっていますが、再読以降、原文を鑑賞できるようになる人がいったいどれだけいるのでしょうか。旺文社文庫と講談社文庫は昔ながらの脚注になっていて、その中に訳文があります。字が小さくてとても読みにくいです。これも、再読以降、上に大きく印刷されている原文(まあ万葉集の場合、本当の原文は漢字のみなのでしょうが)を必要とすることになる人がどれだけいるのでしょうか。これに気づいた角川文庫は最近、古典のリニューアルの際、散文なら現代語訳を前にして原文をあとに置くという昔と反対の編集をしています。万葉集も伊藤博訳をかなり大きい活字で読めるようにしています。しかし、まだ原文尊重です。中公文庫の折口訳は、ページをシンプルに上下に分けて、上が原文で下が訳文。でも、四対六くらいで訳文のほうが広いスペースになっていて、活字も大きくなっています。多くの、古典現代語訳付き本がやっていることは、たとえばゲーテのファウストを、ドイツ語原文を大きく、訳文を小さく印刷しているようなものです。味読できるのは、自分の慣れ親しんだ言葉であって、学者を目指しているわけではない以上、現代語訳こそが、私にとってその作品そのもののわけです。
 結局、旺文社文庫、岩波文庫、国民の文学の土屋訳万葉集を全部参考としながら再び折口訳で「こもよ」から読み始めました。いま三巻まで読み返しました。これまでと違うのは、これ以降再読するときは、訳文だけを読めばいい、そういう普通の読書が、ようやくこの本で可能になったということです(全二冊なのもすばらしい)。つまり、今度こそ、私は万葉集を愛読書といえるものにすることができそうなのです。とてもうれしいです。
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生活と意見 (第536回)

2016-10-02 23:52:02 | Weblog
10月2日

新潮文庫から、いまさらのように「銀の匙」が新刊で出ています。百閒の「阿房列車」も、庄司薫の4部作も、突然出て、なんとなく姿を消していく。最近の新潮文庫は挙動不審ですね。そうだ。新潮文庫といえば、しばらく前、村上春樹、柴田元幸選による翻訳小説の新刊・復刊フェアもありました。若いころ読んだ(映画(B級)も見た)「宇宙ヴァンパイアー」を買おうかどうしようか迷って、結局買いませんでした。復刊本も、改版されて活字が大きくなっていたので、この大きさで大久保訳「南回帰線」なんかが読めたらよかったのに、と思いました。まあ、選者二人がヘンリー・ミラーを好きとは思えないのでしかたありませんが。

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