8月31日
新潮文庫から「郵便配達は二度ベルを鳴らす」の新訳が出ました。真ん中まで読みましたがなにかダメで、光文社新訳文庫のほうをもう一度頭から読んでみたら今度はしっくりきて最後まで読めました。新訳文庫のほうが田中西二郎の名訳の雰囲気に近いと思いました。
新潮訳は、村上春樹の影響なのか「したのだけれど…」などの言い回しが目につき、フランクの印象がダッフルコートを着た70年代の大学生のようになってしまい(もちろん読み手によって違うのでしょうが)あまりいいとは思えませんでした。作者ケインはこの作品の語り手を、文学などとは無縁の、(一般的には)知性的とは言えない男として設定しているはずで、その思考過程や内面の声の出し方は村上春樹の主人公とはまるで違うはずです。日本の、現代の一人称小説といえば、語り手が周囲の誰よりも頭がよく、傷つきやすく、周りの世界は愚鈍でどうしようもないものとして描かれることが圧倒的に多く、読者は読者で「語り手対世間」と簡単に分けられた構図(高校の文芸部の作品によく見る手法)の語り手側に共感して、「私はこの人と同じで誰よりも頭がいいし、感性も鋭い。わかる、わかる」と、いわば心のせんずりをするのが読書だと考えている人が多いように思います。しかし、創作の意味も読書の意味も当然それだけではないでしょう。一人称ならどんな作品でも村上春樹的言い回しを使えば今風になると考えるのはばかばかしいし、作者の意図を無視することだと思います(つまりそれは「翻訳」になっていないということです)。ただし、会話文は、女性の「だわ」が避けてあり、とてもリアルだと感じました。
久しぶりに読み、至上の作品だと改めて思いました。少し値段が高いですが、新訳文庫を推薦したいと思います。
新潮文庫からはマーク・トウェインの短編集「ジム・スマイリーの跳び蛙」も出ました。ひとつひとつ読んでいるところですが(ほとんどの作品はすでに別の訳で読んでいます)、これはとてもいいです。ぜひ見てみてください。
どの訳が決定訳として残っていくのかわかりませんが、いずれにしても古典の新訳ブームでいろいろ読めるのはうれしいです。
ケインについては、新潮文庫から遺作の「カクテル・ウェイトレス」も出ました。買っただけでまだ読んでいませんがとても楽しみです。「殺人保険」(新潮文庫・絶版)とあわせて、ケインの作品が三冊書棚に並ぶなんてぜいたくな感じです。
新潮文庫から「郵便配達は二度ベルを鳴らす」の新訳が出ました。真ん中まで読みましたがなにかダメで、光文社新訳文庫のほうをもう一度頭から読んでみたら今度はしっくりきて最後まで読めました。新訳文庫のほうが田中西二郎の名訳の雰囲気に近いと思いました。
新潮訳は、村上春樹の影響なのか「したのだけれど…」などの言い回しが目につき、フランクの印象がダッフルコートを着た70年代の大学生のようになってしまい(もちろん読み手によって違うのでしょうが)あまりいいとは思えませんでした。作者ケインはこの作品の語り手を、文学などとは無縁の、(一般的には)知性的とは言えない男として設定しているはずで、その思考過程や内面の声の出し方は村上春樹の主人公とはまるで違うはずです。日本の、現代の一人称小説といえば、語り手が周囲の誰よりも頭がよく、傷つきやすく、周りの世界は愚鈍でどうしようもないものとして描かれることが圧倒的に多く、読者は読者で「語り手対世間」と簡単に分けられた構図(高校の文芸部の作品によく見る手法)の語り手側に共感して、「私はこの人と同じで誰よりも頭がいいし、感性も鋭い。わかる、わかる」と、いわば心のせんずりをするのが読書だと考えている人が多いように思います。しかし、創作の意味も読書の意味も当然それだけではないでしょう。一人称ならどんな作品でも村上春樹的言い回しを使えば今風になると考えるのはばかばかしいし、作者の意図を無視することだと思います(つまりそれは「翻訳」になっていないということです)。ただし、会話文は、女性の「だわ」が避けてあり、とてもリアルだと感じました。
久しぶりに読み、至上の作品だと改めて思いました。少し値段が高いですが、新訳文庫を推薦したいと思います。
新潮文庫からはマーク・トウェインの短編集「ジム・スマイリーの跳び蛙」も出ました。ひとつひとつ読んでいるところですが(ほとんどの作品はすでに別の訳で読んでいます)、これはとてもいいです。ぜひ見てみてください。
どの訳が決定訳として残っていくのかわかりませんが、いずれにしても古典の新訳ブームでいろいろ読めるのはうれしいです。
ケインについては、新潮文庫から遺作の「カクテル・ウェイトレス」も出ました。買っただけでまだ読んでいませんがとても楽しみです。「殺人保険」(新潮文庫・絶版)とあわせて、ケインの作品が三冊書棚に並ぶなんてぜいたくな感じです。