麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

天文学の発達としての人生

2006-04-15 22:17:24 | Weblog
初めは誰もが唯一無二の天体である。
「父」「母」「兄弟」などという小衛星を抱えているにしても、この天体は宇宙の中心にすえられ、自分では動かない。
 やがて「交通」という望遠鏡により、彼は無数の天体が存在していることを知る。
 しかし、あいかわらず、彼は宇宙の中心にいるという感覚を失わない。
「これほど多くの天体がある中で、私が宇宙の中心であるこの不思議」を神に感謝したりして。
 彼の中では、他の天体がどのような軌道で活動するのかは自明のことだ。彼はそれを研究してみたし、そのことについて自分で見つけた「法則」を持っているから。
 しかし、やがて、どうしてもこの「法則」から外れてしまう天体の存在に彼は気づかずにいない。
 どうも、おかしい。「法則」が間違っているのだろうか? 
 彼の中で葛藤が始まる。
「法則」を捨てることは、自分が宇宙の中心にあるという安心感を捨てることであり、それはつまり、自分を失うことだ。
 彼はなかなかこれを認められない。
「法則」には「例外」としての註記が付け加えられていき、やがては「注記」の分量が「法則」の本文を超えてしまう。
 彼は「法則」を捨てなくてすむように、自分の「法則」を信奉してくれそうな人間を「友だち」と呼び、それ以外の人々を「馬鹿」と呼び、そうすることで「法則」を死守しようとする。
「馬鹿」を魔女裁判にかけ、ときには焼き払うことさえする。
 だが、そんな努力も、真実には勝てない。
 彼は自分と友だちの天体が、宇宙の、どこでもいい、どうでもいい場所に、ただ放り投げられて在るのを知る。
 若さの減退とともに「友だち」もつつましくなり、すべてを謎のまま放り出し、子どもを作ることに向かう。
 せめて子どもにとって自分が恒星であろうとして。

 彼はひとりで「辺境」の意識に身をゆだねる。
 ここは、宇宙の中心でもなければ、選ばれた太陽系でもない。
 無数の銀河の、無数の太陽系の「外れ」なのだ。
 
 自分を特別な星だと思ったころの自信も喜びもすべて消え失せた。
 選ばれていると思えばこそ時々感じられた、神の善意も、運命というドラマも、もう何もない。
 どこに行ってもどこでもない以上、彼はもう立ち上がることさえできない……立ち上がる動機も、幼児のころの天体図と一緒に失ってしまったので……。

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